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2016/03/04

ハンズオン、SF、NY ーエクスプロラトリアム(1)



このあいだの210日から16日にかけて、アメリカはサンフランシスコとニューヨークを旅行してきた。なぜアメリカに行こうと思ったかというと、ひとつは今の仕事についてから初めてもらった休暇だったから。もうひとつは20代最後の一人旅になりそう~っていう予感がしたから。みっつめは、以前から自分の企画の参考にしまくっていたエクスプロラトリアムという科学博物館があって、たまたま11月にそこに行った同僚から「うっすんは(そこに行って見てくるの)マストでしょ」と背中を押してもらったからだ。


アメリカにいって感じたことはたくさんある。英語圏の国にいったのは初めてだったので外国で言葉がわかる!というのが不思議な感覚だったということ。あと、エクスプロラトリアムにしてもNYで見たMOMAにしても、視覚文化の国なんだな~ということ。日本の焼き物とか茶道とか禅とか、見えないものに美を見出す文化っていいもんなんだな~と翻って思った。なによりアメリカでの食事は胃もたれするものがおおくて、「出汁」には改めて感謝した。他にも、サンフランシスコはみんなジョギングしてるしヘルシーだなぁとか、マンハッタンは映画のシーンで見たものがたくさんあるな~!とか。


エクスプロラトリアムについて


さて、目的のひとつだったエクスプロラトリアムについてである。まず概要はウィキペディアから引用。(太字部分はぼくの編集です)

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エクスプロラトリアム: the Exploratoriumは、子供と家族向けの科学博物館。名称は「探検、探究する」(explorer)と「ホール、講義室」(auditorum)からの合成語。
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコのパレス・オブ・ファインアート(美術宮殿)の港湾地区にある。当初、倉庫を改造してつくられた。2008年現在では、サンフランシスコでは最も人気のある博物館の一つで、年間50万人以上の入館者がある。同館は1969に物理学者で教育者でもあったフランク・オッペンハイマー(en:Frank Oppenheimer)のアイディアと尽力により作られた。彼が初代の館長に就任し、1985に亡くなるまでその地位にあった。運営団体は、NGO組織で運営されている。

エクスプロラトリアムは、観客が触って体感できるハンズオン展示、体験型の科学と芸術の展示によって、科学を知識だけでなく体験によって理解することを重視した最初期のサイエンスミュージアムの1つである。観客が参加・体験できる展示には、ドイツ博物館の先例があるが、科学に重点を絞った展示では同館とカナダのオンタリオ・サイエンスセンターが最初である。同館の展示には、科学者や教育者だけでなくビジュアルアーティストやメディアアーティスト、パフォーミングアーティストも加わっている。芸術家が半年以上滞在して展示物を制作・発表する「アーティスト・イン・レジデンス」の制度も整っている(日本人では岩井俊雄などが参加)。こうした同館の姿勢は、開館以来一貫して掲げられてきた標語「科学、芸術、そして人間の知覚のミュージアム」(Museum of science,art and human perception)に示されている。その意味で、サイエンスミュージアムであり、同時に体験型アート、メディアアートのミュージアムとしての特徴も併せ持っている。

こうしたエクスプロラトリアムで生み出された展示デザインのノウハウは、世界中の科学博物館でもそのまま再現して製作、展示できるように、ノウハウのすべてを『クックブック』(Cookbook、調理本)という名前のマニュアルにまとめて3巻まで刊行されている。子供向けのこの博物館を利用しながら楽しく科学を学ぶためのシリーズ本は『スナックブック』(おやつの本、Snackbook)という名のシリーズで刊行されており、いずれも博物館のミュージアムショップで購入することが出来る。一般の書店でも購入は可能である。

展示について、他では再現出来ないもの、たとえば「ウェーブ・オルガン」のようなもの、サンフランシスコ湾のこの特定の場所でのみ可能な展示というものもある。エクスプラトリアムは、多数のオンラインの科学展示や実験を盛り込んだウェブサイトも1993から運営している。このサイトは、1997年最優秀の科学サイトの表彰が始まって以来既に5度ウェビー賞(Webby Award)を受賞している。

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実際行ってみると、校外学習できた小学生から高校生ぐらいまでの子たちがたくさんいて、「What's this!?」「Wow‼︎I love this‼︎」「Hey hey hey!!!Try this!」という言葉が飛び交い、ハンズオンのたびに「Hooooooo!」という感じだ。会場はこんなかんじ。⬇️


面白かったハンズオンをいくつかご紹介。


まずは定番の触覚の錯覚。触ったコイルの温度が違って感じる、というもの。こんな風に感覚を使って、注意深くさわらなきゃいけないので、普段よりも感覚を鋭敏にしなければならない。


砂鉄の仕組みも、これも定番。


これも定番。今やっている触覚の研究企画でも参考にさせてもらった「タクタイルシアター(触覚の劇場)」。


光の三原色。

植物や微生物に関する研究・展示をしているバイオラボ。ビデオの最初で説明している説明員の人がボランティアなどで集まってくる。来た人を楽しませるプレゼンテーション能力、そしてハンズオンを集中してできるようにするファシリテーション能力が問われる。鍛えられそう。

ほかにも新しく移転してからできた社会心理学の体験コーナーなどもある。会場内には600近くのハンズオンがあるそうだが、続けて体験していくと「世界って不思議に満ちてるよね!」というメッセージを体感する。

ぼくは普段仕事をしていて、サイエンスとかアートを身近に感じて何の意味があるんだろう、ということをよく考えている。それはぼくたちがよりよく生きることができるようになるためだろう、と思う。思考停止しちゃうより、何かを探求し続けたほうが面白いと思うし、世界が鮮やかに見えて楽しくなると思うし、悲しくなって死ぬっていうことがなくて済むと思う。探求は大小さまざまなスケールで可能だし、自分にフィットするスケールややり方に出会えるかどうかって全然違うよな~と思う。エクスプロラトリアムから生み出される様々なハンズオンは、触れて、いじって、世界をその手で探求する面白さを味わわせてくれる。

そんなわけでエクスプロラトリウムは「世界って探求しがいがあるでしょ~」というメッセージに満ちていたし、エクスプローラー(探求)とオーディトリウム(会場)を合わせた場所の名前が表すとおりの空間だった。

エクスプロラトリアムの運営の面白さ

ここに来る前からこの場所に惹かれていた理由は3つある。


ひとつは「ハンズオン展示」。物理の仕組みを本で読むのではなく、実際に見て、触って、聞いて、体験することで理解していく。なんといってもその展示品の手作り感、アナログ感がかわいいし、それがよりサイエンスを身近に感じさせてくれる。


ふたつめに「アーティスト・イン・レジデンス」。なんとこのミュージアムには巨大な工房があって、木工だけでなく金属の溶接とかガラスの加工とかもできてしまう。会場から観客も作業の様子を見えるようになっている。そこにアーティストが来て、科学者と職人と影響しあい、プロトタイプを作りながらハンズオン展示が生まれていくのだ。ぼくは滞在中のアーティストに会うことはできなかったが、ハンズオンに書かれているクレジットから、科学者と職人とアーティストが楽しそうに切磋琢磨している様子が思い浮かんだ。


みっつめは「オープンソース」。上記の通り『クックブック』(amazonで買うとやばい値段になっているが実際は100ドル)や『スナックブック』、そしてなんとウェブサイトで「Science Snack」というページでも公開されている。クリエイティブ・コモンズのムーブメントが盛り上がる前の1993年からこういうことをしていたというのだから、オープンソースの古典であり先駆けだ。

The Tinkering Studio


だが何より僕をひきつけたのはThe Tinkering Studioの存在。紀伊国屋でネタ探しをしていたときに見つけて、速攻で使いまくった本がこちらですが、その現場を実際に見てきた。


ティンカリングスタジオは観客のハンズオンのための場所であり、アーティストと影響し合う場所であり、そしてオープンソースである。エクスプロラトリアムでプロフェッショナルの人たちがやっていることをミニチュア化して、一般の人たちも超手軽に体験でき、実際にいじくりまわして失敗しまくってもよくて、物事の仕組みを学ぶことにのめり込むことができる場所になっている。

今回幸運にも、そこで働かれている松本亮子さんにお話を聞くことができた。

(続く)





2016/01/19

大人と子ども、クロスフェード 

久しぶりに中村児童館にいって子どもたちと戯れた。普段の仕事では3~4歳と多く関わっているので、久しぶりに遊ぶ小学生がだいぶ大人に見えた。

一方で、今朝の朝日新聞のこの記事 (18歳って大人?精神科医・斎藤環さん:朝日新聞デジタル )には「25歳からが大人では?」という意見が書かれていた。

読んでみて思うことは、子どもと社会をつなぐ枠組みとルートのなさへの嘆きがこの記事の問題提起の核なんだろうなということ。だから、ここでの提案は大学を卒業して働くことを通して社会と自分との接点をヒリヒリするなかで経験した25歳以上にすべきだと言わざるを得ない、といういささかネガティブな提案になっているのだと思う。

とはいえ、ぼくもこの意見には概ね賛成で、なぜならぼく自身も大人の自覚みたいなのが芽生えてきたのが25歳ぐらいだったなぁと思うからだ。社会は自分基準で動いていないのに、自分本位で動いているように考え、振舞うことでたくさん失敗をした。子どものうちにこういうことを楽しみながら学ぶことができたらなあと思う。

その話でいうと、2014年の夏に参加したシンポジウム《ミュンヘン市の「こどもと家族にやさしいまち」-こどもによるまちづくり提案事業から学ぶ-での衝撃は、子どもと社会をつなぐ枠組みやルートの設計次第で小学生でも子どもにはできることがたくさんある、ということだった。その具体的な内容についてはこちらの記事(「ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み」)にまとめている。

こちらの記事はより本格的な取材に基づいてまとまっている。→「ドイツの「子どもにやさしいまちづくり」が本気すぎて学べる 」

ぼくの失敗の経験から子どもたちに学びの場を提供したいなんておこがましいが、それはさておいても子どもと社会をつなぐ場がもっとあっていい。この事例のように、遊びの仕組みと政治の仕組みがクロスフェードするような場を、小さくてもいいから作っていくことだろうと思う。これにインターネットが絡んでくると、さらに面白くなりそうだな〜と予感する。何はともあれ、楽しくて興奮できるものでなければ子どもの気持ちは動かないし、それは大人だってそうなんだと思う。

*関連する記事はこれ

2016/01/12

観光、キャンプ、経験値 ー『弱いつながり』と『キャンプ論』

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を今更ながら読んだ。ネットは絆を強くし、リアルは弱い絆でつながっている。特定のコミュニティ(
=「村」)に固執するのではなく、複数のコミュニティをあるていど無責任に渡り歩き、偶然性に身を委ねながら「観光客」としてできることを実践していくべし、という現代の人生論。

ぼくはこの本の内容に素直に共感した。ぼくは責任感というより自己顕示欲が強いからか「村」みたいなものに固執する癖がある。それが悪いことだとも思わないけど、その一方で「あるていど無責任」ということが可能な社会だというのもなんとなく知っている。

例えば飲み会もそうだろうなと思う。計画的に設計された飲み会はあまりにも退屈で、なんとなくいい加減に集まった飲み会がやたらと楽しかったりする。呼んだり呼ばれたり、みんなあるていど無責任に適当に集まってきて、コミュニティが横断されていくのはいいことだと思う。「せねばらなない」な〜んてこたないのだ、という気になってとても楽だ。

ただ、飲み会ではなく仕事だとしたらそう簡単にはいかない。「観光客としての生き方で働く」って例えばフリーランスのライターや編集者、デザイナーの人を思い浮かべる。フリーランスで生きていけるのはやっぱり強い個人で、ぼくはそういう人たちをとても尊敬している。観光客的フリーランスで働いて生きていくには、安定した技術と、新しい場所や取り組みを恐れない勇気がいる。

『弱いつながり』では、観光は「表層を撫でるだけ」だけど、その場所についての本を何十冊読むよりも強い体験になる、ということが書かれている。観光に期待しすぎてはならず、その場所にいって表層を撫でることの感度をあげていく、みたいな話。この話にやたら共感できたのには理由があった。

思い返せば大学時代に所属していた加藤文俊研究室が実践していたこともそういうことだった。この本よりも以前から『キャンプ論 あたらしいフィールドワーク』というかたちで提案している、旅のかたちがある。


加藤先生のいう「キャンプ」は、東さんのいう「観光客」よりももう一歩踏み込んで、ゼミ生たちがその土地に暮らす人たちへのインタビューをし、ポスターやマップにして返還する、という、観光客とコミュニティの間に贈与関係を成り立たせている。その意味で「責任」は「観光」よりも重い。偶然性の範囲がデザインされているので、出会った人の話が聞けたりして深まりもある。「観光」のほうが自由だが、経験の深度は「キャンプ」のほうが深い。この「キャンプ」をいくつか経験しているおかげで、ぼくが旅行に行った時に、無責任にぶらぶらしつつも、裏路地にいったり人に話しかけたりするのを躊躇しない姿勢ができたんだろう。

もうすぐ30歳になるがまだまだまだまだいろんなことをもっと知りたいし深い経験値のためのあくなき観光をつづけたいと思うので、この2冊について考えたことをなんとなく整理した。

*関係する記事はこれ





2015/12/30

落ち着きと解像度 ー27 歳最後の投稿

28歳が足音をたてて近づいてくるところで、年末はカウントダウンが二つあるんだよな〜と思いながらキーボードを叩く。大晦日が誕生日で「慌ただしい日に生まれましたね〜」とよく言われるのだけど、そのせいかそそっかしい人間になったものだと思う。

何かまとめたいことがあるわけじゃないけれど、年末なのでぼーっと今年のことを振り返ると、仕事の仕方が大きく変わって、考え方もいろいろ変わった。来年は結婚もするし、引越しもする。年明けには独身最後ってことで一人アメリカ旅行もする。自分のことを大事にしなければ、と思ったのは2年ぐらい前で、正直つらい時期だった。とにかく大学生からそそっかしく生きてきて、その時期のことはまだ片付いていないのだけれど、ようやく落ち着いて考えられるようになってきた。

「落ち着く」ってどういうことかって、つまらなくなったり退屈になったりすることではないと思う。「落ち着く」とは、冷静に慌てずに判断ができるようになることと、偶然性を楽しめるようになることの2つだと思う。落ち着きがなくては冷静さはないし、「こうしなきゃ」みたいなことに縛られていると偶然の美に気付くことができない。例えば、道を歩いてていて珍しい植物や虫を見つけてその名前を呼んで喜べる人はとても落ち着いているなぁと思う。あとお茶が好きな人も。

前にフランク・ゲーリーの展覧会について「高圧力・高解像度」のことを書いたけれど、有限な時間のなかで世界を高解像度で眺め、高圧力で何かを生み出すには、落ち着きが欠かせない。今年は同僚に教わったヨガの太陽礼拝というのを毎朝地道に続けたり、運動をマメにやったりして、フィジカルに落ち着くことをコツコツやってきたつもりだ。そしてそれはまたしつこく続けて行こうと思う。

年をまたいで人が変わるわけではないけれど、落ち着きを纏うことと、そうして解像度が上がってきた視界が捉えるものを、ちょっとづつ圧力をあげて(一見余計な)提案をしていくのが目指すところです。来年もまたよろしくお願いします。

*関連する記事はこれ
執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫
形、中身、神



2015/12/10

執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫

今日は珍しく、展覧会巡りをした。「休日」というものを「とにかく休める日(何もしないでダラダラする日)」にするのではなく、「好きなことだけをする日」というのに

最初は森美術館《村上隆の五百羅漢図展》。話題になっているしツイッターやフェイスブックでCMがバンバンながれてくる力の入りよう。客層は年配の方も多く、仏教関係の方もちらほら見かけた。


メインの五百羅漢図に対して、おばちゃまたちが「一体何人いるのかしらねえ?」「あら〜これがやっぱり玄武なの、そぉ〜」とコメントを寄せているのを見ると、仏教美術の展覧会として、あるいは観光地でお寺にいくような感覚でここに来ているんだなぁ。ぼくは仏教美術はほとんど関心をもってこなかったし、「羅漢」の意味も会場で知ったほど無知なのだけど、とにかく感じたのは執念だった。

それは異様なデカさと手の混みようで、絵の具を塗りたくっているはずなのにつるっとしていて、コンピューターでつくったデジタル感がある。村上隆という執念に燃え、猛り狂うコンプレックスの炎が、「今この時代に必要な芸術」という大きな目標をもち、大きな組織を動かしながら生み出した五百羅漢図。その制作資料の展示を見ると「指示書通りやれ!ボケ!」と書かれたり「程度が低い!」という罵倒の言葉。「村上様からの指示書」というラベル。200人規模の管理生産体制は、絵師集団というか民主的とかそういうんじゃない厳つさがあった。そういう背景と、村上隆の執念と、絵の迫力とをあわせて、宗教と芸術がこの日本でまた新しく混在していっているんだなという、大きな力のうねりを体験した。

強い力を浴びてぷはぁと思いながら、ずいぶん前にFAIFAIの文美さんに教えてもらったFREY'Sのピザを食べて美味しいコーヒーを飲んで休憩。次に見に行ったのは21_21 DESIGN SIGHTの《建築家フランク・ゲーリー展》。


原宿のエスパス・ルイヴィトン《フランク・ゲーリー/ Frank Gehry パリ - フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展》を先々週くらいに見ていたので、もっと大きな展示なら楽しみだ〜と思って行った。なにより今回の技術監修を、オランダに行った際にお世話になったLUFTZUGの遠藤豊さんがやっているというのだから期待は大きかった。そしてその期待をはるかに超える、もう最高に楽しい展覧会だった。

冒頭は、フランク・ゲーリーの建築を内側から撮影した映像がぐるりと観客を囲うプロジェクション。「私は建築を内側から考えるのだよ」とゲーリー本人がいうところの、その内側から始まる。ほあ〜と見てしまった。撮影はLUFTZUGだった。

次に、フランク・ゲーリーの自宅の模型と、彼のマニュフェスト。「それが厄介だ」でおわるあたりがとても可愛いマニュフェストだ。


メインの展示室には、これまで手がけたプロジェクトの模型が、段階別に展示され、キャプションが施されている。ここがもう本当に楽しかった。

ねちこく、幾つも模型をつくる。考えて作って考えてつくってを途方もないほど繰り返す。普通だったら諦めたり「もうこんでいいや」ってなるところ、ならない。自分のアイデアを気に入って、嫌いになってを繰り返し、施行されて現実のものになった建築が自分の予想を越えながら、「ああすればよかった」が幾度も出てきて嫌いになるそうだ。そんな感情の抑揚と、模型と、プロジェクトの進行過程がリンクする展示構成もう見事。

これだけだと「天才って努力しててすごいね」ってはなしで終わりそうなのだが、天才たる所以は独創性だけでなくその設計手法にあった。「ゲーリー・テクノロジー」に関する映像はぜひ最初から最後まで見てほしい。独創的な造形だけでなく、人々が空間を経験することへの敬意、そして設計手法の合理化とコラボレーションの上質さ、楽しすぎて泣きそうになった。

あと気になったのは、ゲーリーが支援して立ち上がったという「Turnaround Arts」というプロジェクト。アーティストが学校にいく、というのは世界中にあると思うけれど、行政と民間企業とがタイアップして、大掛かりに展開しているみたい。

村上隆もフランク・ゲーリーも、ものすごい圧力で物を作り、それでいて高解像度だ。圧力と解像度が高く、歴史や社会と符合させながら物を生み出すクリエイターには足元には及ばないことがわかっていながらも、ゲーリーの展覧会は「自分にもできるかもしれない」と希望を与える内容だった。


最後に行ったのは《赤塚不二夫のビチュツ展》。こちらは16日の木曜日で終わってしまうので、駆け込んだ。『天才バカボン』や『モーレツア太郎』『レッツらゴン』などはぼくも小学生の頃から大好きだったマンガで、穴があくほど読んだし今も大好きだ。そんな赤塚不二夫へのオマージュ作品が多数。なかでも祖父江慎さんのブラックライトの仏壇と、アラーキーによるポートレートは優しい気持ちになれたなぁ。

高圧力・高解像度のクリエイターというよりは、赤塚不二夫は軽やかさと徹底した遊び心なんだよなあと思いつつ、それをさささっと表現する絵の上手さなんだよな〜とか思いながら、「バカは死んでも治さないのだ」って至言が頭のなかに響いた。

今日見たどの展覧会も感情を動かされる内容だった。彼らのような大物には足元には及ばないとわかっていながら、奮い立つものがあった。妥協のない執念のようなものは、ぼくも持てるはずだ、とか。

なんか最近暗い話題ばっかりだし、きつい世の中だし非正規雇用だし年金もらえないだろうしいろんな心配事もたくさんある。だからこそこういうクリエイターの執念の炎が世界を照らすことを、考えていいんだと。










2015/12/09

飲み込めない想い、ワークショップ、笑い ー映画『恋人たち』

もう二週間前になるが、橋口亮輔監督の『恋人たち』を観に行った。トレイラーも見ず、職場近くのテアトルの看板だけで、下のコメント

"飲み込めない想いを飲み込みながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして"人間の感情"を、ちゃんと描きたい。"
ー橋口亮輔

これを見て、あ、必見と思って仕事終わりに駆け込んだ。そして、その予感は的中した。ぼくはこの映画を観てよかったあーーーー!!!と思った。その理由は、ワークショップから生まれた作品であること、そこに自分がいると思えること、聞こえない相手へのモノローグの3つ。



映画を作るワークショップを、プロアマ問わず様々な役者の人たちと一緒に実践した、という話は荻上チキさんの「session 22」で知った。橋口監督にはそれ以前にプライベートでとても辛いことがあって、社会的に立ち直れないかもしれないとどん底だった時期に、人に誘われて始めたワークショップがカムバックのきっかけだったという。その内容の一部は、 橋口亮輔の「まっすぐ」というエッセイに詳しい。

ぼくも子ども向けのワークショップをつくる仕事をさせてもらっているけれど、このエッセイに書かれているような、他人の人生をえぐるエチュードをするようなものはまだできていない。本当は他人の人生を変えてしまうほどの磁力を持った場がワークショップなのだろうと思いながら、自分にはまだまだだと思うし、そんな責任も取れていない。

そんなみみっちいぼく自身と比較するまでもなく、橋口監督はその「他者の人生をえぐるようなワークショップ」に身を乗り出し、自分自身の人生をえぐりながら恢復し、映画に向かったのだろうと思う。そうしてえぐられ、恢復していった監督や参加者の人生が映画というバゲットにレバーペーストのように塗りたくられ、観客は苦味とともに希望を味わう。そのためのメディアとしてワークショップがあったのだ。ああ。

※以下、ネタバレ注意

そんなたくさんの人の人生が塗りたくられた映画のなかに、ああ、自分がいるなぁと、我々は感じざるを得ない。愛する妻を亡くした若い男、旦那と姑との生活を送る主婦、やり手のゲイの弁護士の3人が主人公なのだけど、彼らが他人に対して耳を閉ざすこと、情けなとわかりながら行動できない悔しさ、幻に救いを求める滑稽な姿・・・役者のえぐられた人生は、観客の人生も、えぐっていく。

そしてクライマックスの一連のシークエンスは、3人の主人公が、耳を閉ざしてしまった恋人たちへのモノローグへとつながっていく。「飲み込めない想いを飲み込んでる人たちの"人間の感情"」が、やりきれない状況のなかで、そしてそれぞれに聞こえない他者に向かって吐露するシーンは涙なしに観られなかった。

他にこの映画の良かったところは、懸命に生きる人の滑稽さが、どうしようもなく笑えてしまうところだ。水曜日の映画デーで、男女ともに1100円で見られるテアトルには仕事終わりのいろんな年齢の人が集まっていて、随所で笑いが起きていた。温かみのある劇場の雰囲気も、最高だった。

以下、笑えたセリフ集
「ほら、静電気ないんだよ」
「そりゃそうだ」
「ほんとやだ〜」
「いいものいっぱい入ってる。そうだね。自然ってすごいね」
「あれ、回んないなこれ」
「それが今の旦那なんだけど」
「先生、泣いてくれてるんですか〜?」

そう、裏切りや理不尽さ、やりきれなさのなかで傷付いた重たい人生は、ふとした笑いで軽やかになってしまうのだ。ぼくが一番笑ってそして泣いた黒田の言葉「笑うことは大事だよ」に、そうだよね、と思うのだ。

今の時代感とか、黒田の名ゼリフ集とか、語り口はいくらでもあると思う。未見の方はぜひ。観た方は一緒に飲みましょう。

2015/11/24

物の語り、石の語り

子どもの遊び道具について日々考えている。道具も玩具も「物」であり、0~4歳ぐらいの小さい子どもの遊びを見ていると、物を投げたり鳴らしたり転がしたり並べたり、物を使った遊びのなかに、物と対話しているように感じるときがある。その対話が楽しくなるためには、物がより多くのことを子どもに語りかけ、また、子どもの話(行為)を良く聴く(受けとめ、リアクションする)、というのが重要なのだ、と思う。

「物語」っていう言葉って、もしかしたら「物が語る」というか「物の語りを聴く」ということなのかもしれないと思う。こんなことを考えていたら、一つ思い出すことがあった。

小学生のとき、猛烈に打製石器と磨製石器にハマった時期があって、学校から帰ってマンションの裏山に入り込んで石をコンクリートに打ち付けて割ったり、ガリガリ削ったりして、それで木を削って遊んでいた。

そのとき、同時に「堆積岩」と「火成岩」についても習っていた。火成岩はマグマが冷えて固まったもの。堆積岩は水などの流れによって運ばれたものが固まってできたもの。そういう知識があったから、石を拾い集めているときに、それらの石が辿ってきた時間に思いを馳せた。

これが、ぼくにとっての「物の語りを聴く」という原初体験だ。


ただ、「物の語りを聴く」ために別に知識は必要ないはずだ。触ったり、投げたり、いじくりまわすことを通して物と語り合う、とはどういうことか。さて、もう少し考えてみよう。