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2017/09/12

消費と浪費と格闘技 ー異種格闘技イベント「巌流島」に行った

92日は異種格闘技イベント「巌流島」をたっぷり楽しんだので、ちょっとそれについて思考してみる。

まず、最初にちょっとわけのわからないことを書くが、この格闘技観戦で興奮したことはぼくにとって尽きる事のない消費の一環なのか、それとも人生を豊かにする贅沢の一つなのか、ということについて。2011年に出版された『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著/朝日出版社)を読んで以来、この消費なのかそうでないのかについては、ずっと考えている。

この本『暇と退屈の倫理学』では「暇と浪費はよいが、退屈と消費はダメだ!」という。「暇」とは客観的な時間のことであり、「退屈」とは主観的な状態である。「浪費」とはものを楽しむことであり、満足があるが、「消費」とは記号と観念を求めることであり、満足がない。

私たちはどうしても退屈への不安にとらわれてしまう。だからそこから逃げるために気晴らしを探す。気晴らしは楽しみでなくて興奮であればよい。そのために消費社会はあらゆるサービスを用意している。いろんなレイヤーで世界が分かれているので、洋服も欲しい、音楽も聴きたい、ゲームもやりたい、となる。衝撃的な事件のニュースを追いかけることも、あるいは退屈しのぎの気晴らしなのかもしれない。気晴らしは本当に気を晴らす事にはならず、記号や観念を消費していくだけなので、どれだけ消費しても満足することはできない。

では、退屈してしまう人間の生と向き合うためにはどうすればいいか。この本の結論としては〈人間であること〉を楽しみ、〈動物になること〉を待ち構えよ、というものだった。どういうことか。人間は何かを楽しみながら、「楽しむとはどういうことか」を考えることができる。それは思考する事を楽しむことである。一方で「楽しむ」とは、なにかに〈とりさらわれる〉ことである。まるで動物になるように、ある世界に没入すること。その両方を往復することで、むやみやたらと消費を追い求めるのではなく、日常的実践のなかにある様々なものごとに「楽しみ」を見出すことができるようになる。退屈の問題は「自分」の問題であるが、この問題に「楽しむ」ことをもって向き合えた時、関心は他者へと移っていくだろう、と希望を示して文が結ばれる。

というわけで、ぼくは2日は〈動物〉になってガンガン夢中になってきたわけだが、ちょっとその楽しかったことについて思考してみる。

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92日 異種格闘技イベント「巌流島」

子どもの頃からプロレスやらジャッキーチェンやらが好きで、ボクシングの飯田覚士選手の世界戦も見に行ったことがあって、格闘技的なものが大好きだった。これまで生きてきて何度もボクシングジムに通おうか迷ったことがあるが結局行っていない。中学~高校の頃はPRIDEK-1も超盛り上がっていたこともあって、大晦日は紅白歌合戦そっちのけで格闘技に夢中になっていた。まぁ、よくいる男子だ。

そんで大人になってみるとPRIDEもなくなりK-1も地上波で見なくなって、あー総合格闘技はUFCしかなくなっちゃったか~テレビで見れないしな~などと思っていると、妻から「巌流島っていう格闘技のイベントがあるみたいだよ」と聞く。え?巌流島知らないなぁ、と思ってYoutubeで調べてみると、「柵なしの円形の土俵で、3回転落させたら勝ち」「関節技は無し。寝技(パウンド)は15秒まで」などなどルールが面白い。さらには菊野克紀選手や小見川道大選手など、かつてHERO’Sで活躍してた選手がメインを張る。菊野選手の三日月蹴り大好きだったので、ライブで見られるのかよ!と興奮した。よし、なんだかわかんないけど、格闘技好きだし、応援行こうぜ!となって、56日に見に行ってみた。当日券を買ったら運が良かったのかSRS席の前から3列目が空いていて、目の前でファイターたちを見られることになって、ウヒョ~!!という感じだった。

そのなかでもちょっとした知り合いのつながりもあった選手を応援に行った。それが193cm100kg越えという大器、シビサイ頌真選手。ボビー・オロゴンからの刺客でアフリカの伝統格闘技のファイターとの対戦だったのだけど、実力差がありまくりだったのか、1ラウンドであっという間に転落3回で決まってしまった。おおお、なんだかすごい強そうじゃん。もっと強い相手との試合がみたいぞ!と興奮。

他にも、精神保健福祉士という職種を生業とする実戦空手の原翔大選手は「ひきこもりの陰キャラファイター」という帯付きで、めっちゃ応援したくなる。ご自身で経営されている法人「ささえる手」の名前が出てきて、わ!格闘技界の福祉の星だ!と思った。そしてバックハンドブローやハイキック、集中しまくったあ試合運びなど、陰キャラというふれこみとは真逆の華のあるファイトで、夫婦でファンになった。

で、92日には2回目。さすがにA席だったので後ろのほうだったのだけど、巌流島は金網もリングロープもないのでめっちゃくちゃ見やすい。シビサイ選手も原選手も前回の大会でファンがついたようで、若手の最注目株となっていた。


どの試合も、めちゃんこ面白かったから、13日の大会は友達も誘っていこうと思う。

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格闘技とボディイメージ

で、前置きが長くなったんだけどここからがこの格闘技を見てて色々考えたこと。現場で試合を観戦する醍醐味はなんといってもその臨場感である。目の前でファイターたちが試合に臨む。その場にぼくらも臨む。「シュッシュ、バン!ススス・・・バン!バン!」(選手のフットワークやの音)、「スパーーーーン!」(弾けるローキックの音)、「ズドン!」(投げ技で身体が落ちる音)、「ゴッ、ゴッ、ゴッ」(叩き込まれるパウンドの音)など、音がスゲェ。あんなんと対峙したら、まして技食らったらシヌゥ~!みたいな感じで、見ている側はヒヤヒヤしながら、勝敗が決まる瞬間にはドッと盛り上がる。

で、推しの選手がいたりするとこれまた大変だ。選手の身体に憑依するように、殴られたら痛いように感じるし、技が決まったら嬉しくなる。推しの選手の身体感覚を自分の中でイメージしながら見る。

脳の中には身体のイメージ図(=ボディ・イメージ)があって、そのボディ・イメージは他者に感情移入すると相手の身体をトレースする。もちろん選手とぼくでは全く身体の仕様が違うのでトレースの精度は超低いはずなのだが、目の前で繰り広げられる闘いの熱量と響く技の音の臨場感が自分を興奮に誘い、選手の身体のように強くなったと錯覚する。その錯覚のなかでぼくたちは試合を見るので、なんだか強くなったような気分になる。この「強くなったような気分」にはちょっと注意が必要だなと思った。

当然だが実際に試合しない自分のボディ・イメージは感覚をともなわない。しかし、選手たちは、ヒットした顔やボディ、ガードした腕や殴った拳の痛み、加速した心拍や過熱した体温を感じる。痛みや過熱は苦しみであって、それを味わうことは恐怖でもある。菊野選手が試合後に「格闘家は相手と対峙する恐怖を、勇気で克服する。その勇気を見せることで、元気をもらってくれたら嬉しい」と素敵なコメントをされていた。ぼくたち観客は、この恐怖には直接は対峙せず、脳内のイメージだけで、技が決まる快感を錯覚する。錯覚しているということを自覚し、現実との溝を埋められるよう努めながら試合を見るか、無自覚に錯覚に没入するかってだいぶ違うな~と思った。

じゃあどうすれば錯覚と現実の溝を埋められるか。そんなときに今はやりのVRは効果があるんじゃないかなぁと思った。例えば、ヘッドマウントディスプレイで、対戦相手との距離感やパンチやキックの速度を一人称視点で観ることができたらば、選手の恐怖心への共感が変わる気がする。試合前にロビーでこれを体験できるサービスあったら、観客の体験の質はぐぐっと上がるだろうし、選手へのリスペクトが増すだろうと思う。VRじゃなくてリアルで、試合後とかに選手とリング上で対峙できる体験とかあったら、ぜひやってみたい。菊野選手のいう恐怖とそれを克服する勇気を想像する力を、それらの体験は向上させると思う。格闘技をテーマにワークショップをつくる機会があったら、そういうのをやってみたい。


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「巌流島」を観に行くことは、消費なのか浪費なのか

ぼくは前から予定を入れておいて仕事を空けて巌流島を観に行き、楽しんで、その楽しみ方についてさらに考えたので、これは消費ではなく贅沢をしたと言える。ただ、あの試合の面白さは中毒性があり、もっと見たくなる(満足できなくなる)感じがあるのも確か。まぁそれがエンターテイメントというものなので、それはいい。


格闘技の観戦を通して、ぼくとしては仕事に関係することを学べる事も少なくないし、今後もフォローしていきたいと思いましたという話。

2017/06/04

ピアジェの「感覚運動期」と触感の遊び

子どもの頃の「触感の記憶」として、想起するものはなんだろう。


ぼくがめちゃくちゃ覚えているのは、いつも遊んでいた名古屋市千種区にある「弁天公園」という公園の小高くもりあがったところに粘土質の土があって、その土をほじくり返して、水を加えて、縄文式土器をつくっていたときの触感だ。粘土質の土が綺麗ならいいんだけど、砂利とか松の葉とかが入っているとちくっとして嫌だ。それを丁寧に取り出して、粘土をよくこねて、底板をつくって、細くのばした粘土をドーナツ状にして積み上げて、段差を均して、器の形にしていった。公園のトイレのトイレットペーパー置き場の脇に隠して陰干しして、焼き芋大会の日に焼こうとして、見事に割れた。あの時のパサついた土の塊の触感とか、われたあとにそれなりに陶器?っぽくなっていたこととかをよく憶えている。

それぐらい触感というのは記憶に深く焼きついているものでもある。(ちなみに今それは、もしその触感の現場が残っていたとしたら、google earthで見ることができる。視覚情報から触感を強く想起することができるはずだ)

ところでぼくは0~6歳の子どもたちに向けて「触感遊び」のワークショップを作り続けているが、触感というものが彼らの発達にとってどんな意味を持つものなのか、改めて少し整理してみた。人間は受精して7週後には触覚器の構造が成立し、11週後には触覚器として機能し始める。相当早い時期からぼくたちは触覚を持っているし、それは単細胞生物のころから触覚があると言われる。

出産の瞬間のことを考えても、ぼくたちは生まれた直後に優しいおくるみに包まれ、そっと抱いてもらう。そのあともしばらく抱っこされて育つ。低体重児のケアには、カンガルーケアといって、密着して抱っこしている時間が長い方が体重の増加が早い、という実験結果もある。包まれ、抱かれる、という経験は、私たちの触感の記憶の深いところに根ざしているはずだ。だがそれらは大抵「抱かれる」「触られる」という受動的な経験だ。手を伸ばし、ものをつかめるようになるのは、生後4ヶ月頃からだと言われている。そこから、「触感の遊び」が始まっていく。
乳幼児は、寝るし、泣くし、食べるし、排泄する。そして、遊ぶ。この遊ぶという行為は、彼らにとって学習そのものだ。


こうした「触感の遊び」のなかで彼らは握ったら縮んだ、引っ張ったら破れた!くしゃくしゃと鳴った!という物事の因果関係を次第に理解していく。ピアジェの発達理論をベースにし、触感と認知の発達の関係を少しひもといてみたい。


ピアジェは、子どもの発達の段階を大きく4つに分けている。0~2歳は「感覚運動期」2~7歳が「前操作期」、7~11歳が「具体的操作期」、12歳以降が「形式的操作期」。「あかちゃん」と言われている時期はこの中で当然「感覚運動期」に該当する。



さらにこの「感覚運動期」というのを六つに分けている。
まず、第一段階は「反射」。誕生から1ヶ月頃までと言われています。唇の近くに何かを充てると吸おうとする「吸啜反射」。手にものをあてると握ろうとする「把握反射」、驚くと抱きつく様な動作をする「モロー反射」など、いろいろある。母親への庇護を求める動作や、母乳を求める動作が生得的にプログラムされている、と言える。

次の段階が「第一次循環反応」。1ヶ月から4ヶ月と言われている。自分の身体に限って、興味ある活動を繰り返し生み出すのです。拳を発見してしゃぶり始める、とかそういうことですね。それまではしゃぶるとか吸うとかいうことが、生物学的な反射だったわけですが、ここらへんからは意図してできるようになっていきます。
次が「第二次循環反応」。4~8ヶ月と言われている。ものを持てるようになったら、触感の遊びの始まりです。ガラガラを振って音を鳴らしたり、上の映像のように袋を握ってくしゃくしゃさせたりできるようになる。
その次に「第二次循環反応同士の協応」。これは、8ヶ月~12ヶ月。物を容器に入れたりすることや、棒で太鼓をたたいたりすることが、このカテゴリーに入ると思われる。ただ、太鼓とペットボトルで叩いたときに音が違うことなどはまだわかっていない。
さらにその次に行くと「第三次循環反応」に到達する。この段階は、12ヶ月~18ヶ月ごろに見られ、モノの新しい特性を自分で発見しようと探求をするようになっていく。例えば、物を積み上げたり、力加減をかえてボールを投げて、その飛び方を考える、というような感じです。
そして、感覚運動期の最後が「心的表象」。18ヶ月から24ヶ月、つまり2歳ぐらい。このころには、自分の行為を心の中で表象することができるようになる。たとえば、おもちゃのフライパンに、石ころをいれて、炒める動作をしたあとに、その石ころを食べるふりをして「おいしい」とか、「どーぞ」って言ったりする。それは食事というシーンを表象している。
さぁここまでは基本の説明だが、感覚運動期の発達段階というのは、まさに私たちの「触感」の楽しみ方そのものではないか、と思う。例えば、自分の手を触ってみる。ああ手だなぁと思う。これが第一次循環反応。そして、次に手で、目の前の机を叩いてみる。お、音がなる。これ第二次循環反応。ボールペンでこすってみる。第二次循環反応同士の協応。叩き方を変えて音の違いを確かめる。これが第三次循環反応。ちょっと演奏っぽくしてみる。音楽というイメージを持って叩く。これはが心的表象。という感じ。
よく批判されることだが、ピアジェ関連の本を読んでいてもあんまり情動のことが出てこない。だが、触感と気持ちは結びつきが深い。触感の遊びはチクセントミハイの「フロー理論」ともつながりがあると思われる。たとえば、初めて出会うものというのは好奇心をそそると同時に、不安な気持ちを生み出す。この不快(不安)に好奇心が勝り、手を伸ばして触った先に「お!面白い!」とか「お!きもちいい!」とか、快の感情が芽生える。やってるうちに「おおおおおおおもしれえええ」というようにのめり込んでいく。「こうしたらああなるかな、ああしたらこうなるかな」と試行錯誤をする。この段階でもうフローに入ってる。

そう考えると、例えば洋服をつくるということにハマっていくプロセスを考えてみる。はじめは、消費者として感覚的にいい、かっこいい、って思っていたり、もしくはファッションに対して何か考えを持っていて、服作りに関心があったとする。で、いざ自分で服を作ってみると、まずは生地の触り心地にどきどきする(第一次循環反応)。なれないミシンにそわそわする(第二次循環反応)。形式を真似て、なんとか服を作ってみた(第二次循環反応同士の協応)。その次は生地とミシンの組み合わせを変えて、ああしようこうしようと試行錯誤する(第三次循環反応)。そして、ついには服を通して何か世界観や思想を表現できるようになる(心的表象)。ぼくたちが何か創造的な活動に「ハマる」プロセスが、めちゃめちゃ凝縮されてるのが触感遊びなんだと思う。

感覚運動期は、素朴にものづくりを楽しむプロセスでもある。その出来栄えや結果にはあまりこだわらず、ものがどうすればかたちになるかを、触っているうちに明らかになっていく。ぼくが遊んでいた土器作りも、創作における感覚運動期だといえる。

だが、この話は共感性の話抜きには考えることはできない。触感遊びを1人で楽しむのではなく、他者からの影響を考慮しなければならない。このあたりの話は、次に譲る。

2016/08/18

空間を読む、作る、身体知 ー『TOKYOインテリアツアー』

前回のブログで「トラブルを抱える建築と向き合う」みたいなことについて考えていて、まぁそれを実践できているかはわからないのだけど、空間の手入れをすることで体も空間も生きてくる、みたいな話かなぁと思う。部屋が乱れてくると空間が帯びる雑味が身体に憑依してきて、体つきがルーズになることって、ある。 

自分の部屋は美しくも汚くもなくて、まだ食器棚や本棚も満足にそろえていないようなスカスカな感じなのだけど、ぼくはなぜか昔から空間の話をしたり聞いたりしていると元気がでてくる。それはきっと幼稚園の頃、ウレタンと木のブロックで壁をつくり、天板を渡して二階建ての建物をつくるのが大好きだったという経験に由来しているような気がする。それは自分で作った空間でゴロゴロしたり上り下りしたりすることができて、たいそう自由な気持ちだった。今でも空間のレイアウトをどうしようかと人と話し合うときや、配置を変えてバシッと決まった感があるときはすごく元気になる。 

『TOKYOインテリアツアー』刊行記念イベント「建築とインテリアの邂逅」


幸いにも、最近インテリアデザイナーの安藤僚子さんとお仕事をさせてもらっていて空間のプロフェッショナルからたくさん話を聞ける。そして、そのつながりもあって先月末に『TOKYOインテリアツアー』という書籍の刊行記念イベントに行ってきた。安藤さんと、共著者の浅子佳英さん、ゲストに建築家の中山英之さんを交えたトークは、あらゆるものを引用してつくる「編集型インテリアデザイン」の話から、原宿の東急プラザの話になって、外と内が緩やかに交わる建築とインテリアの邂逅の話になり、基準階型の建築(学校みたいにグリットで区切られた建築)は人の自由を奪うから、基準階型の建築をインテリアがハックして自由をつくりだしていくのが面白い、みたいな話の流れだった(要約雑)。最後のインテリアによって貧しい空間をハックして自由にする、という話は賛同!賛同!と思いながら聞いていた。

ぼくもインテリアツアーをしてみた。最初に東急プラザへ。
 とにかくお三方とも素材の名前から建築家やデザイナーの名前がポンポン出てきて、素材から配置の仕方、その歴史性など、空間のプロフェッショナルからしたら当たり前のことなのだろうけど、空間についてなんと多角的に思考しているんだとあっけにとられた。

入り口の鏡は、えげつないデザインだなぁと思っていたけれど、入ってみると風景のコラージュが面白い。
なにより(これも建築家やインテリアデザイナーからしたら当たり前だと思うのだが)、彼らは「空間は作ることができる」と思って世界を眼差している。多くの人はきっとそんなふうには思っていない。スーモを見たり不動産屋に行ったりして部屋を選んだりはするものの、空間を作るというアイデアを持っている人は、多くはないだろう。

空間を作る人の身体知みたいなもの 

「楽器を演奏した経験がある人の方が、音楽を聴いたときに脳の聴覚野が活性化する」という話があって、空間についても、きっと同じことが言える。空間を自分で作ったことがある人のほうが作ったことのない人に比べて、空間を知覚し、言語化し、自分に最適化できるように編集する力が長けていると思う。空間にしても音楽にしても、「作る経験」はきっと「よい身体」をつくるのだろう。そんなわけで、「作る経験」を積み、「良い身体」に仕上がってきている建築家やデザイナーの身体知みたいなものに興味がある。

その身体知とはなにか。とりわけ空間をつくるための身体知について、ちょっと仮に考えてみる。 ひとつは空間の文脈の読み解き方。この空間がどんな物語を持った場所なのか、ということを感じ取り言語化もしくはデザインに落とし込む感覚というのはどういうものなのだろうか。

続いて、素材の選び方。先のトークのなかで様々なインテリアの事例が紹介されたが、それぞれそこで使われている素材には必然性というかドラマツルギーがあるように感じた。この空間はこういう物語をもった場所だから、この素材が合う、という勘はどう働くのか。

そして、空間の形の決め方。空間の持つ文脈を読み解きながら新しく作り変えるとき、どんなふうに空間のかたちをつくっていくのか。特に内装の場合、ラグジュアリーに飾り付けるだけでなく、機能性も兼ね備えなければならない。その決め手はどう見つけていくのか。

さらには素材の買い方、揃え方。建材屋や繊維メーカーとのコネクション、あるいは廃材など安価な材料などを集めるルートをどうやって開拓しているのか。一般の市場には出回らないような素材にどうやってアクセスしているのか。 

次に、素材の加工の仕方。木材から金属、化学繊維までそれぞれに加工のための道具があるのだと思うが、どんな道具でどんな加工をすれば、イメージするかたちに変わっていくのか。素材の硬さなど特性、道具の得意なこと不得意なことを良く知っていればいるほど、加工の幅が広がるのだろう。 

なんかこういうのを単に「デザイナーのノウハウ」とか「仕事術」って言っちゃうと大事なことを見落としてしまう気がしている。こういうノウハウをどうやって身体に染み込ませているのか、というところが気になる。それは、「仕事をしていくうちに身につけた」とか「現場で培った」と言われてしまえばそれまでだし、何よりそんなおいそれと簡単に、誰でも身につくモノではないと思う。ただ、その限界を知りながら、限界まで言語化し、共有することを務めるのが、ワークショップを考える人間の1つの役割なのではないかと、最近考えている。

2016/03/14

触覚覚書(1)

最近触覚についてやたらと考える機会がある。仕事で触覚をテーマにしたワークショップをつくっているからだ。なので、触覚についての自分の体験や考えたことをランダムにまとめておく。

・『姿勢の姿勢』
これまでほとんど考えたことがなかったけど、袖の通し心地のいい服は素晴らしい服、という革新的な体験をしたことがある。たしか、肘を曲げた状態で型をとってそれに合わせて立体裁断して作った服だったと思う。その服に袖を通した瞬間、びっくりした。まるで肌に吸い付くように、落ち着くのだった。ああ服というのは袖を通す楽しさで、それこそ触覚的なエンターテイメントなんだな、と思った。


・「耳ごこち」
大学時代のゼミの同期に、ノイズミュージックが好きな女の子がいて、なぜノイズが好きなの?って聞いたときに「耳ごこちがいいから」と言っていたのを覚えている。それまでメロディーや歌詞やビートだけで音楽を判断していた自分の概念を覆した言葉だった。たしかにコツコツと鼓膜を優しく叩いたり撫でたりするようなノイズは心地いい。音は内臓にも響く。それ以来音楽を耳だけじゃなくお腹や皮膚でも聴けるようになった気がしている。そのとき確か、evalaさんの話をしていた。


・『触楽入門』『第三の脳』

最近出会いのあった触覚研究者の仲谷正史さんをはじめとするテクタイルチームによる『触楽入門』を読んだ。そして、傳田光洋さんの『第三の脳』を読んだ。皮膚というのはまだまだ未知なる領域で、脳よりも先に皮膚が考えていること(色、音、気配など)がたくさんあるという話は驚きだったし、触覚を遠くに伝えたり、人間の触覚を拡張したりする新しいテクノロジーが紹介されていたのは面白く読んだ。テクノロジーが発展していくにつれて生身の人間の知覚は衰えていくんじゃないかと思っていたけれど、テクノロジーをより良く使うには、人間の知覚的リテラシーを深めていくとよいこともよくわかった。

・触覚と触り方
『触楽入門』で面白かったものの一つは、前半のほうの「触探索行動」というのの代表例で、「テクスチャー(表面を撫でる)」「全体の形(両手で包み込むように触れる)」「こまかな形(輪郭をなぞる)」「硬さ(圧をかけて押し込む)」「重さ(手のひらで受ける)」「温度(手を置いて静かにする)」というもの。触るという一瞬のことだけで、こんなにたくさんの情報がわかっているなんて!触ることが楽しい理由は、情報過多感なんだろうと思った。わっ!っと情報が全身を駆け巡る感じの楽しさなのだろうと。触覚的なエンターテイメントの可能性はまだまだ身近にたくさんあると思うし、その情報を言語化することで触感力みたいなものがぐいぐい育まれていく予感がある。

・言葉、関係性の中の「触感」

で、触覚のこと考えていて思ったのは、文章にも読み心地があるし、会話にもやり取りの感触があるということだ。「ザラザラした気分だ」とか「逆撫でするような言い方」とか、不快感を言いあらわすときもあれば、「スルスルとほどけていく」とか「ふにゃふにゃした気分」とか、気持ち良さを言い表すときもある。実際に触れ合っていなくても、心で感じている触感はあって、だから心は脳じゃなくて皮膚とか内臓にもある、っていう説をぼくは支持し始めてる。小説家が人間の心のひだを表現するとき、温度や質感など、触覚的表現を使っていることが多いことにも改めて気がついた。真っ先に思い浮かんだのは、川上未映子さんの『乳と卵』だった。

・触感と心
ということは、実際に手や体でいろんなものに触れて、いろんな触感を知っていることは、触感のボキャブラリーを増やし、それがすなわち心の感じ方を多様にしていく、ということになるんじゃないか。触覚が敏感で、触感の記憶力が豊かであることは、すなわち感受性の豊かさなんじゃないか、という気がしてきている。

・触感と道具とプロトタイプ
あとは「暗黙知」みたいなことをよく考える。言葉よりも先に手や体が先に動いていて、とても難しいことをやってのける職人さんたちはたくさんいる。感触を通して学ぶコツ、みたいなものとか、予想外のものが出来上がったときの喜びの感じとかって、それはスポーツにもアートにも工芸にも共通する人間の英知だと思った。たとえばプロトタイプをつくることって、大きさとか質感とか空間的な体感の仕方とか、頭や言葉で考える何倍もの情報がわっと飛び込んでくる。プロトタイピングってとても触覚的な知性だよな~とか。

・砂場遊びの楽しさ
あとは、子どもの遊びのなかの触覚性。砂場遊びはその典型だけど、水の加減で砂の質感が変化することや、水の流れ方や砂へのしみこみ方、砂の削れ方、あとは道具の使い心地など、いろんな情報がぐわーっと入ってくる。こりゃいいや、という感じ。

・エスカレートする触覚
砂場あそびって、最初は恐る恐る触っていくのだけど、だんだんエスカレートして最後は服まで泥んこになる。全身の触感が気持ちいいのは、ぼくも記憶にある。今やっても楽しいだろうな。指先で感じた触覚情報の豊かさが全身を包み込むともっとハイになるんだろうなと思う。

・皮膚から身体、言葉、テクノロジーに至る、触覚的エデュケーションとは?
さて、これは一体何か。これからさらに深堀りしていきたいところである。