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2013/09/09

「社会参加」という言葉について

ずっと前から、この言葉には魅力を感じつつも違和感を禁じ得ない。「居場所づくり」という言葉もそう。子どもをはじめ、社会的弱者を孤独にせず、社会における”自己有用性”みたいなものを感じさせてあげようじゃないか、という大人の妙な恣意を感じるからだ。パターナリズム(温情主義)に基づいちゃったら、自発的な参加はありえないだろう。だからといって、これに代わる概念を思いつくわけでもないから、ぼくなりにこの言葉と向き合ってみる。


「社会参加」のフェーズ

「社会参加」…とりわけ「子どもの社会参加」「中高生の社会参加」について、仕事を通してぼくは考えている。児童館は彼らの放課後、つまりプライベートの時間のための場所なわけだが、公共施設であるからにはパブリックな場所でもある。この公私混同した状況が児童館の魅力であり難しさである。

「安心して遊べる場所を提供する」。これは児童館の一義的な役割である。このことが目的なのであれば、大人の見守りのもと、怪我や事故や事件を防ぎ、子どもは私的な欲求(ドッジボールしたい、ただだらだらゲームをしたい)を満たす場を提供することで児童館や放課後の遊び場の役目は終わる。

もう一段階高い次元に、「遊びを通した社会参加の経験を提供する」という目的がある。例えば、子どもがお店やさんを運営する「えんにち」やお化け役や小道具係になって客を驚かす「おばけやしき」などがこれにあたる。これは大人のファシリテーションのもと、子どもたちがある活動を通して普段そんなに仲良くない友達や知らない子と関わる機会、あるいは地域の大人という知らなかった他者と関わる機会を提供する。このとき、子どもは私的な欲求を越えて、多様な人々が交じり合う”社会”を構成する一員となる。

音楽の「バンド」を例にとって考えると、バンドメンバーと練習をしたりおしゃべりをしたりして過ごす時間はフェーズ1。ライブイベントへの出演を通して他のバンドと共演する場がフェーズ2だ。フェーズ2までいけば、音楽という共通項を通して、普段関わらない別の学校の子、あるいは年齢の異なる大人と場を共有することができる。仲間内でだらだらやることを越えて、他者に向けた表現を展開すること。これがある種の”社会参加”だとする。


「趣味の環」の限界

で、これこそが”社会参加”だ!とすると何が悲しくなっちゃうかというと、「音楽」という文化はハマればハマるほど、その文化の円環に埋没しちゃうと考えるからだ。いわゆる「音楽っぽいもの」の域を越えない。趣味の環に閉じる。すでにつくられてしまった円環のなかでの”社会参加”は、かりそめのものでしかないんじゃないか、というのがぼくの違和感だ。

本当は音楽って演劇とか美術とか文学とかにもつながる通路を持ってるし(というか芸術はなんだってそうだし)、それを通して人間の生きることを考え、あるいは新しくつくりかえることもできなくはない。もちろんそういうガチな表現活動へと展開することもアリだ。

「唐突につながってしまう」という社会参加のあり方

ぼくが考えてみたいのは、唐突で(最初は)無責任な社会参加のあり方だ。それはたとえばこんなかんじだ。

“ある日偶然、ミュージシャンを名乗る男に出会う。ボイスレコーダーを渡され、いくつかの声を録音する。楽しくなって遊んでいると「今日撮った声を、ぼくの曲に使ってもいい?」と聞いてくる。「いいよ」と言ってしばらく経ったある日、ラジオから自分の声が音楽にのって流れてきた…。”

これはあくまでたとえ話だが、ただ遊んでいただけ(日常)だけど、その行為は別の文脈に乗った瞬間に別の価値(芸術)に転換し、見知らぬ他者のもと(社会)に届けられていく。このミュージシャンの男が使う「芸術」というワープホールが、子どもの日常とその外側だと思っていた社会を裏側からぐるんと接続する。(アーティスト・イン・児童館はこんなようなことを考えたいと思って始めたプロジェクトで、その今子どもたちと職員の力でアーティストを召喚し、ワープホールを開けるための方法を考えているところだ。)

こうして、はじめは唐突な出会いからはじまった、ごくごく周辺的な社会参加の経験だが、次第にレコーディングから編集、楽器をつかった演奏、演奏会へとだんだんと踏み込んでいくことになればいい。(必ずしもそうしなければいけないわけではない)そして、演奏会の観客には子どもの親や友達もいれば、ミュージシャンのファンや巷で興味をもった見知らぬ他者も訪れる。

つまり、「社会参加」というからには、「予期せぬ他者」(ミュージシャンだったり、それまで関わったことのない観客だったり)との何らかの出会いが必要だろう、と思っているんだと思う。もちろん、セキュリティの問題があることは充分承知のうえで、それでもなお社会参加には必要だ。見知らぬ他者の存在が。さもなくばこのグローバリゼーションのなかで、子どもたちは大人が用意した”かりそめの社会”に埋没しちゃうんじゃないか、という危機感を覚える。


(おまけ)オリンピックと子ども

話は変わるけど、2020年に東京でのオリンピックの開催が決まった。もちろん、世界最大の祭典が生きているうちに自分が住んでいる街で観られることは、とても嬉しい。ぜひ新しくなった国立競技場に足を運んで、400メートルハードルを生観戦したい。


ただぼくが不安なのは、世界に向けて東京がいい顔するための、大人が考える”元気”の象徴として、子どもが使われるんじゃないか、ということ。(現に招致のためのプロモーションビデオには、悲しくなるほど”笑わされた”子どもたちがたくさん映っていた。)いやいや、元気とか文化とかってそういうんじゃないから。かりそめの元気の中に子どもを閉じ込めないでよ。私的な欲求がつもりつもったところに、一人ひとりの子どもの元気とか狂気とかがあって、そういうものが噴出されるのが表現だし、それはときに芸術だったり変なことだったりするわけで、そういうぞっとするものを回避して、何が元気だ、何が夢だ。オリンピックとパラリンピックが、多様な、見知らぬ他者への想像力を培うための祭典であるように。ぼくも微力ながらその当事者として関わっていきたいと思っている。関わることができれば、だけど。

2013/08/26

「東京で子どもと暮らそう」アサヒ・アートスクエア(2013.8.24)

8月24日(土)に行われたアサヒ・アートスクエアでのロングパーティー「フラムドールのある家」にて、パフォーミングアーツの制作をされているNPO法人alfalfaさんの山口さん、辻さんと一緒に「東京で子どもと暮らそう」というテーマでトークをしてきました。みなさん、貴重な機会をありがとうございました。

山口さんが先日出産をされ、辻さんが現在妊娠中ということで、「これから子育てがはじまっていくけど、アートマネジメントは子育て環境をつくるために何ができるんだろう」という問題意識から立ち上がったこのトーク。「ベルリンやライプチヒの事例の話をぜひ」ということでいただいた機会だったのですが、いろいろ話していくうちに「東京で、アートNPOがどう子育て環境をつくっていくか、そのためにドイツの事例をどう参照するか」という、ぼくにとっても本質的なお題へと深まっていきました。

で、結構印象にのこったので、メモ的に話したことや思ったことを書き起こしてみます。

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「東京で子どもと暮らそう」臼井隆志/NPO法人アーティスト・イン・児童館 from Takashi Usui


まず、東京の状況を考えてみる。

最近さらっと読んでみた『データでわかる2030年の日本』という本から、人口減少時代にあって、東京の人口はほとんど減らない(2010年1300万人→2030年1270万人)。しかし、子どもはまぁそれなりに減る(18歳以下221万人→177万人)。

一方で、非正規雇用者の割合は年々増えている。現在では25歳から34歳の男性の20%、女性の40%が非正規雇用ということで、経済成長!みたいな時代の気運でもないので、この数値は上がることこそあれ、減ることはないだろうと。

そう考えると、「非正規雇用で共働きの夫婦が子どもを育てる」というのが夫婦のモデルとしてデフォルトというぐらいの考え方でいかないと、幸せな子育て環境なんてつくれない。共働き夫婦にとって学校が終わったあとの放課後の保育施設/遊び場の存在は安心という意味でとても大きく、需要はますます高まっていく。少子化にもかかわらず。

というのが前提としてある。

で、保育/福祉厚生施設をみてみると、児童館、公民館、学童保育、子ども家庭支援センター、児童相談所…いろんな施設がありますが、ぱっと見どれも似たような雰囲気というか、かわりばえがしないし、あんまりオープンな雰囲気でもないから初めて行くのはちょっと億劫、、というところがある。

この辺りは、上野千鶴子さんの言う「コミュニティ/アソシエーション」の区別を援用して考えると、「この地域のヒトはこの施設に行ってください」というのが現状で、これは地域のコミュニティベースの考え方。でも、現代では「コミュニティ」よりも「アソシエーション」(地域ではなく、趣味や関心を共有する人の集まり)によって社会が構成されていると言える。アートとかパフォーマンスが好きな人が、アサヒ・アートスクエアに集まる、みたいな。

そう考えると、施設ごとにテーマ性や活動の特色を出して、アソシエーションによる人の集まりを促進したほうがよいのではないかと考えてしまう。人間は多少遠くても、自分が行きたい場所には足を運ぶ。小学生まではコミュニティベースだけど、実際、中学生は別の地域の児童館に自分で電車や自転車に乗って移動するような、アソシエーションベースの放課後活動がもう始まっている。

と、そんなふうに考えてみると、ベルリンのユースセンターや、ライプチヒの「子どもレストラン」「子ども絵本工房」などは、放課後の保育施設的な機能と同時に、子どもたちに創造的な社会参加活動をさせる機能を持ち合わせている。それぞれ「音楽」「料理」「絵本」といった具合に。まさに子どもや若者たちは自分の関心に合わせて施設を選び、活動を選ぶことができる地域環境ができている。

しかも、ドイツでは、こうした施設は指定管理ではなく、市民団体がつくりたい施設の計画を考え、行政や企業や財団にアプライして運営資金を助成・寄付してもらうことで運営を成り立たせている。ボトムアップで多様な施設が生まれている。

日本では、多様な業者が運営を担う指定管理者制度の導入がつぎつぎと広がっている。行政がつくる均質な施設から、多様化していく気運がある。そんなとき、アートNPOがつくる児童館、学童保育、公民館などがあっていいはずだ。そしてそこにはいろんな創造的なアクティビティが生まれるだろう。

実際、指定管理者の入札にはたくさんのハードルがあって、そう簡単にはいかない。また、テーマと特色といったところで、美術館や劇場では、遠方から来る人は多いけど、地元の人は全然集まらない、という例もあるし、地元の人と、ちょっと遠くからくる人のバランスを整えるのはとても難しい。移動時間をどう考えるか。いろいろ課題もある。

でも、「もっと施設が面白くなればいいのに」というのは、今児童館や公民館を運営している人たちも、そして子育てをする人たちや子どもたちも、多くが思っていることだと思う。この非正規雇用/フリーの時代に、市民活動的に立ち上がる芸術団体が児童館の運営を受託する、という可能性も、全然無いわけじゃないのだ。




























2013/08/11

文化と福祉が隔てられてるのなんでなの

ドイツにいって驚いたのは、福祉的な役割をもつ「ユースセンター」は正確には「ユースカルチャーセンター」で、文化の施設だったということ。文化とは福祉である。多様な人が表現しあい、自己と社会を形成することを支援していく。これが文化事業であり、福祉事業である…という大きな前提がある。

翻って思うのは、日本ではなぜ文化と福祉にはこんな大きな隔たりがあるんだろう、ということ。「文化」とひとことでいっても伝統芸能から大衆音楽、オタクカルチャーから現代美術までいろんな領域があるけど、タコツボ化してる印象だし、その中でゴニョゴニョとやりあってる感じ。一方で「福祉」はというと、子どもや高齢者をケアするというのは必要なことなんだけど、取り囲んで甘やかすみたいになっちゃってない?と疑問を感じる。

いろんな人が多様に表現して自己と社会を形成していくのは「文化」でも「福祉」でも全然変わらなくて、相互に溶け合っているべきと思う。

もちろん、面白くてカッコイイ福祉/文化の実践はたくさんある。大泉学園にある「つくりっ子の家」はまちぐるみで精神障害者と生活し働く環境をつくっているし、浜松の「アルスノヴァ」は重度の知的・精神障害者の生活から生み出される表現を、アートとして鑑賞し楽しめるものに転換している。

こうしたカッコイイ事例に共通するのは、本来ならケアすべき対象になってしまう人の創造力を信じ抜いていることだ。彼らはケアされなければ何もできない存在である…という諦めは皆無。障害というレッテルを貼らずに、彼らが社会に提示する新しい問い、新しい価値がある、ということを信じ抜き、そして実践していると思う。

残念なのは文化の方で、そういうのを障がい者系アートプロジェクトね、はいはい、みたいに眼指している感があるし、かくいうぼく自身にもそういうきらいがあることだ。残念すぎる。

福祉と文化が交じり合っていることが「普通だよねー」みたいにしていくには、福祉に従事する人が感じる創造力を諦めた感/違和感を集め、文化に従事している人が感じてるタコツボ化に対する違和感を集め、織り合わせていくことから。

事業としてやろうと思ったら超大変なので、自分の周りだけでも今のこの福祉と文化の断絶が滑らかに交じり合うようになったらいいな〜と思う。

違和感を集め、織り合わせる作業はリサーチ。




2013/07/22

子どもの文化環境、風穴、空気の入れ替え

自分が考えていることを、ばーーーーっと吐露したくなることがあって、このブログはそういうときのためにあります。考えがまとまらないとき、仕事のやり方に迷っているとき、どばーーーーっと言葉にすると、ふっと突き抜けるときがあったり、なかったり。

まず、いまやってるNPOの仕事で「子どもの放課後の文化環境をつくる」と言っているのだけど、具体的には何をどうやって!?という話。児童館にアーティストを呼んで、そこから作品が生まれるようにする、というのはこれまでやってきた活動だけど、この活動をインストールするだけの、合理的な仕組みがまだない。ぶっちゃけていうと文プロのプロジェクトとその予算と児童館職員のみなさんの良心におんぶにだっこで企画をやらせてもらってただけなのだ。これまでの恩を返すためにも、よりよい児童館運営に貢献したいし、文プロの「NPOを育成する」というミッションに叶うように自立したい、と思ってる。でも、どうやって?というところであがいてあがいて、という今。迷いもあるし、失敗ばっかりで、自分でも大丈夫かなと心配になる、ということは周りにも不安を蔓延させているのかもしれない。

大局を考えると、昨日の参院選の結果を見ても、自民党の改憲案を見ても、国の教育方針が右寄りになって、教育はますます学校偏重になっていきそうな気がする。このあいだドイツに行ったけど、ドイツは学校が昼前で終わるから、放課後の教育環境の充実は必須。いわゆる生涯学習とか社会教育とか言われるような場所や施設がたくさある。もちろん児童館も劇場もその一つ。日本は授業時間がどんどん延びていて、習い事に通う割合も増えている。学校が終わっても「時間割」は続く。塀に囲われて、やることなすこと指定されていく。そうなったら、放課後ののびのびした遊びと異質なものと出会う自由の時間はどこへいくのか。児童館は、塀と塀の間にある、習い事と学校と家の、ごくごくわずかなスキマになりつつある。そのスキマからどこに導けるか。子どもを囲う塀に風穴を開けられんのか。

が、児童館以外にも放課後の行政サービスはたくさんあって、学童保育や授業後の教室や校庭を開放する「放課後子ども教室」、ほかにも区民館や図書館も、「放課後の居場所」だ。この中で、通う義務がなく、なおかつ「子どもの放課後の居場所」に目的が特化しているのは児童館だけだ。図書館は通常の図書貸出業務+子どもの居場所。放課後子ども教室は通常の授業+放課後の居場所、というように「+放課後」というのが施設の基本。そのなかで児童館が何を担えるのか~というのも気になるところ。

でも、これは小学生に限定した話で、児童館の対象年齢は0~18歳なので、「未就学児とその母親(0~5歳)」と、「中高生(13歳~18歳)」という対象もある。というか、今後はこの2極がメインになろうとしている。

普通に考えたら、この幼児と中高生対象の施設って、おかしなことになる。中高生が全力でバスケで大暴れしている横で、ヨチヨチたちが遊んでいるってこと…!?なんてカオス。幼児向け、中高生向け、と時間を区切って運営するならわかるけど、それを同じ職員が企画をつくって運営する、っていうのも大変だ。

オランダも日本と同じように、学校が夕方までガッツリ。でも、中身がぜんぜん違う。誕生月で学年が変わるからたえずクラスの人が入れ替わるし、授業も時間割にしばられないプロジェクトベースなものばかり。ぼくが会った子は今、みんなで演劇をつくるプロジェクトの最中らしい。学校が解放区的にうまく機能している印象。もちろん、オランダの教育システムにも、保護者がたくさん協力しなきゃいけない、とか、学校の先生が忙しすぎて鬱になりがち、とか、いろいろ大変だという噂も聞く。

日本でも三鷹市などが「コミュニティ・スクール」を推奨して、地域住民が学校運営に参加するシステムをつくりだしているみたいだ。NPO法人アフタースクールは、放課後子ども教室のなかで「市民先生」として住民による授業を実現した。大工さんが秘密基地つくったり、生花の先生がめちゃかっこいい花の生け方教えたり。学校が地域コミュニティをつくり、地域コミュニティが学校をつくる。この理念は素晴らしいし、ぜひもっとよい実践をつくりまくってほしい。

しかし、「学校」という枠組みとそのオルタナだけでは、子どもたちのほとばしる欲求は満足されない気がする。図書館でも、放課後子ども教室にしても、大人が子どもに何かを教える/見守るという構造は変わらない。ぼくが子どもの頃に嬉しかったのは、大人として扱ってもらえるふとした瞬間であり、子ども向けに用意されたものでない文化に触れたときだった。例えば、ゴジラ映画の制作の裏側を知ったときで、近所の大学生にエロのことを教えてもらったときで、ミシェル・ゴンドリーのPVに震えたときだった。ぼくを「子ども」として閉じ込める塀に裂け目をつくり、そこから吹き込む風に触れ、その向こうに広がる別の景色を見た時だった。

「子ども向け」のあらゆるサービスは、時に彼らを「子ども」の枠組みに閉じ込める。子どもに向かうのではなく、子どもが向かう先を目指すような、そういう時間をどうやったらつくれんのかねえ。と、このことをうまく言えずに、ここまで来てる。というか、本当に面白いものは、子どもも大人も震えるのだ。 エロとか、ミシェル・ゴンドリーとか。「対象」を定めて、そのカテゴリーの人だけが楽しめばいいのか、いや、そうではないだろう。

とにかく、放課後という草原が、どんどん目的ごとに区画整備され、自由な余白を失っていく。空間的にも、時間的にも、そして空気的にも!!!!子どもが遊ぶ声が騒音になることや、アレルギー、食中毒、まちなかをうろつくナイフを持った若者、切りつけられたとウソをつく子ども、インターネット犯罪、個人情報の漏洩。あらゆるアラーム鳴りまくりの厳重警戒区域になってる。

そんななかに、ボスッと風穴を開けて、空気を入れ替えたいと思う。表裏をひっくり返すように、厳重警戒区域を一瞬だけでも虹色レインボーにしたいと思う。

最近ぼくは貧乏人のくせに子どもがほしいと思っていて、だけどこの空気の中で育てんのはなんかやだ、と思う。ほとばしる命のかたまりが、この空気の中でブスブスしてしまうのは耐え難い。


と、こう書くと「なんかやだ」がモチベーションってことになるんだけど、実際そう。でもそれじゃぁ共感してもらえないし、建設的じゃない。「こうしたらもっとよくなる」という理論の組み立てが必要なことはもちろん、なにより自分の気分が虹色レインボーを求めてなければそうはならないのだ。

あああ、なんかもっと楽しいことしたい!!!!がぼーーーん!!!!

2013/07/10

ドイツの児童館のこと

ドイツの児童館のこと調べてみて面白かったのは、ドイツでは学校がたいてい昼過ぎで終わること。だから放課後の遊び場は子どもにとっても大人にとっても必須。遊び場をつくるNPOがたくさんある。

そういうNPOが行政や財団企業から補助金をもらって、児童館を運営していることほとんどみたい。日本の指定管理者制度とは違う。



で、10歳〜22歳ぐらいまでを対象としてるのが児童館というか児童館に「青少年センター」で、バンド、ダンス、DJ、グラフィティなど多様な表現を学ぶためのワークショップに参加できる。ワークショップを経験した子は、スタジオで自主練して、フェスやパーティーに出演したり、自分たちで企画したりする。

















青少年の自立支援が目的で、それを「バンドやダンスでステージに立つ」という形で体系化している。館ごとに「パンク系」「ヒップホップ系」など特色があるので、趣味に合わせて選べる。偏らないようにベルリン市内の館+公園で同時開催フェスをやったりしてる。



22歳ぐらいと上限がぼんやりしてるから、大人も利用できる。館内にカフェがあってビールも飲める。10代前半の子たちにとっては、カフェでジュース飲みながら20歳以上のバンドマンと知り合える空間て魅力的だ。


















このカフェがキモで、見に行った冒険遊び場にも、チルドレンズ・ミュージアムにも、青少年センターにも、カフェがあって近所の人が飲みにきてる。ビールを。子どもをケアする施設というより、子どもを中心としたゆるやかな公共圏を創出している。

※1 ぼくらが行った日はFETE DE LA MUSIQUEという国際市民音楽祭で、各地の遊び場でパフォーマンスが行われていた。http://www.fetedelamusique.de/berlin/

※2 写真は見学したユースセンター Jugend und Kulturzentrum spirale。現在ウェブサイト改装中なのかな?http://www.spirale-kulturzentrum.de/index.php/Home.html

※3 外観だけ見たユースセンター Naunyun Ritze。ここはヒップホップ系。http://www.naunynritze.de/

2013/05/18

解除するには「笑い」が必要


中村児童館でボランティア

今日は15時から18時まで、中村児童館でボランティア活動をした。ボランティア活動、っていう言葉自体がかなりへんてこりんっていうか、ほんと好きなように遊んでいただけだった。

今まで、なにかしら別の目的を持ち込んでいた自分にとって、児童館のボランティアという経験は意外としてなかったことに気づいたし、その視点で遊んでみるといろんなことに気がつく。

たとえば、

職員さんはコマやファイヤースティックなどの大道芸の練習を積んでいて、かなり上手い、

とか、

大人が率先してコマ回しとかやってると、子どもが真似したがって、みんながやる。で、最初にやってた大人はすっと抜けて、別の部屋で、別のことで何かを焚きつけて、また次にうつってる

とか、

いつもピーピーうるさい元気すぎる野鳥のようなあの子は、色彩感覚も抜群にいいが、ダンスも上手いし天使のように楽しそうに踊る

誰も大人がいない工作室では、5年生が3年生からカードゲームのカードを巻き上げようとしてる、

とか、

ぼくが隣にいても、気づいてないだろうとグイグイ攻撃する、

とか、

そういうナメた空気が醸成される要因は何かありそうだ、ふーむ

とか。

アージのスタッフとしては、「プログラム」とかいって理屈をこねることよりも、現場の「空気」をよくよく読み込むことを重視すべきだ。当然ながら。

あと、やっぱり快快の企画などで過去に一緒にイベントをやったことがある子とは、少し関係性が違う。共有しているモノが違う、っていうかそりゃそうだ。信頼関係や共通の思い出から、新しいなにかをつくろうよ!という空気が生まれる。そういう意味では、「祭り」はやはり必要だと思う。

Y時のはなしには出演していなかったけど、Nadegata の映画に出てたTくんとはちょっと特殊な、2人だけの遊びがあって、

ぼくがTをつかまえて、両腕をつかみ、片足を胴に巻きつけて「ロック」をする。
「なんだよ!」とTがいうと、ぼくは質問をする。たとえば「今日一番うれしかったことは?」とか。でそれが面白いと「ピンポーン」といってロックを外し、つまらないと「ブブー」といってロックをきつくする。もうこの遊びを続けてかれこれ2年か…w 

会うとかならず「は?だれだよおまえ、さわんなよ」と減らず口を叩いてから、「ロックしてみろよ」と挑発してくる。変なやりとりだよな。



今日の「ロック」の質問。

う:「今一番ほしいものは?」

T:「えー、うんこ」

う:「は?なんでほしいものなんだよ。」

T:「え、友達になげたい」

う:「は?」

T:「友達に投げたいの!」

う:wwww 「ブブー!」

T:「まじかよ」

う:「はい、今一番ほしいものはなんですか」(ロックをキツくする)

T:「えー、ちんこ」

う:wwwwww「は!?ちんこ一個あるだろ!」

T:「え、だってもう一個ほしい」

う:wwwww「ピンポーーーーーン!」

はーうける。理由の一個一個に創造性が見受けられるから、この遊びは彼とやっていて楽しい。

2013/05/17

廃棄/モノづくり/コミュティ その2

東京芸大でのレクチャー「アートコミュニティの形成 ー廃棄/ものづくり/コミュニティ」の第1回目へ。東京都美術館「とびらプロジェクト」のオープニングレクチャーでもあり、ミルグラフから出版される『クリエイティブリユース ー循環するモノ・コト・ヒト』の収録講演でもあるこのイベント、午前の部に産業廃棄物を取り扱う株式会社ナカダイの中台澄之さん、午後の部に「ファブリケーション」の世界的なネットワークをつくるFabLab Japan代表の田中浩也さんの登壇でした。

その1では、ナカダイさんのレクチャーについて書いてて、そして後半は、午後1時から「リペア・デザイン」と題して、FabLabの田中浩也さん。ぼくが通っていた大学の先生でもあって、「626」というカフェをぼくが所属していた加藤文俊研究室と、田中浩也研究室で協働運営していたことがありました。ちょうどその2008年ころ、FabLabの活動を知ったそうです。

「WebからFabへ」というコンセプト。ブログやSNSを通じて「総表現者時代」と呼ばれて久しいが、言葉や情報だけでなく、モノづくりの領域まで民主化しているといいます。それは、PC上で設計したものを、3Dプリンターやレーザーカッターで切り出し、それを組み合わせることで、例えばiPhoneケースからイスや机まで、まるで工場でつくったようなクオリティで作り出せてしまう。


「ホモ・ファベル(=工作人)」という言葉にも使われている「Fab」は、「つくる・組み立てる」ということを意味しています。

で、田中さんが主宰している「FabLab」というのは「市民のためのデジタル工作室」ともいうべき場所で、世界各地にFabLabという名称の場所がたくさんある。先進国の都市だけでなく、インドの西側、道路も舗装されていないし電気もろくにまわっていないようなところにも、FabLabはあるといいます。http://fablabjapan.org/

そこで、小学生がインターネットの電波を受信するためにレーザーカッターと木片をつかって作った「Fab-Fi」は、その村の各家々で使われている、というエピソードが示唆的だったのは、必要な分だけつくりだすことができる、ということ。工場だと、1000とか10000とか生産して、それを全部使いきらなければなりません。

また、面白かったのはアムステルダムのFabLab(http://fablab.waag.org/)のことで、もともと古くなった邸宅をアーティストがスクウォット(不法占拠)してFabLab的活動をしていた場所を行政が認め、今では市民の仕事後の溜まり場になっている、という。「リペア・カフェ」と題して、家庭で不要なものを持ち寄って別のモノにつくりかえるワークショップなど、まるで部活のようにいろんな活動が展開しているみたいです。

中でも注目したのは、高齢者や障がい者の人たちから”使いにくい日用品”についての意見(というか不満)を聞き出し、その人が必要としている者をつくりだす、という活動。「リモコンにボタンが多すぎて困るのよ!チャンネルと音量の上下と、電源の3つだけでいいわ」という意見に対して、本当にそういうリモコンを3Dプリンターとaudinoでつくりだしてしまう、みたいな。

「クリエイティブリユース」に則した話では、「リペア」という言葉が使われていました。樹脂や木材から新しくつくりだすことだけではなく、すでにある役目を終えたものを、別の用途につくりかえる。紹介されたKevin Byrdのテーブル(http://blog.ponoko.com/2011/09/29/designing-for-exhibitions/)は、元の状態に戻すのではなく、別の面白さを付け加えるというFab的な文化を象徴していました。

面白いなぁ、と思うのは、この活動がまるで大人たちにとって「遊び」のようだ、ということ。みんなで集まってワクワクしながらものをつくって、自分の生活を面白くしていくこと。自分でつくったものを人に見せたり使ってもらったりするのは素朴な喜びに満ちてる。自分でつくった食べ物とかもそうだけど。

そうやって醸成されていくのは「文化」なわけで。人の溜まり場が生まれ、そこからモノゴトが生まれ、人の生活が少しづつかわっていく。遊びの欲動が集まると、文化になるんだ…。と感じ入ってしまいました。

で、田中さんがFab的な活動の一つの課題としてあげていたのが、日本の「製造物責任法(Product reliability)」。メーカーが製造した物は、解体をしてはいけない、という法律があることでした。

実際、インドネシアのFabLabで作られていた、「寝たきりのおばあちゃんに寝返りをさせるためのベッド」などは、日本の壊れた洗濯機から抜き取られた部品が多く使われていて、日本の製品はそういう部品の宝庫だそうです。そういう行為を、田中さんは「ハック」と呼んでいました。

PL法のロジックは、製品の解体の過程で人が怪我をしたり、万が一人命を落としたりした場合、メーカーが責任を取れないにも関わらず、メーカーのせいにされても困るから、ということ。

このことに対して田中さんの提案は、メーカーとユーザーというコミュニティの中で、責任を相互に承認し、解体したり改造したりする「自由」の領域を確保する、のがよいのでは?と言うことでした。

たしかに、子どもの怪我は、常にそこで遊ばせた親の責任でもあり、子どもの責任でもある。子どもと親とが相互に責任を承認しあっていれば、問題はない。まぁ子どもの問題の場合は、間に学校が入ってきて教師の責任を親が問い詰める、ということはよくある。だから難しいのだけど。

そう、ここでもう一度面白いなぁと思ったのは、「遊び」から「文化」へと発展していったものに対して、「制度(法)」が書き換えを迫られる、ということ。生活をよりよくしたい、という欲動が集まって文化が生まれ、活動が広がる。それを制度が抑圧するか、放ったらかしにするか、あるいは整理するか。

「遊び」から「文化」が生まれ、それに突き上げられるようで「制度」が書き変わっていく。抑えきれない楽しさや面白さへの欲求が躍動し、社会の空気はおろか、制度まで書き換えていく。これがムーブメントってやつか。

そしてこの草の根的な活動の繁殖が社会を変えていく構造は、最近の傾向でもある。人びとの欲求は集積し、ある種の文化の様相を成す。ここで考えたいのは、「制度」の応答力を高めていくことです。「行政はいろいろうるさいからだからもう民間で自由にやればよくね」ということでは、ヤバイ。

何がヤバイかというと、行政が嫉妬してそういう自由を刈り取りに来るから。そういうムーブメントの面白さを行政がよりよく理解し、よりよい市民社会のために応答し、制度を守るのではなく書き換えていく力こそ、この変化の時代に問われていると思いました。

次回、明後日の講演がたのしみです。