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2015/05/01

なんかよくわからない感じ、戯れの中で見つかるカタチ

タイにいる友だちとスカイプで話し込んだ。1時間くらいで要件だけ済ませることになるかと思ったら、最近の仕事のことを話したり、恋人とどうだ、とか、これからどうやって働くか、とか、そんな話をしてたら0時を回っていた。

その友だちは、なんかよくわからない「感じ」を共有できる貴重な人だ。言葉が意味通りに伝わりあってるわけでもなく、録音して書き起こしたらこれなに言ってるか全然わかんないよな、っていうような、そうやって言葉をまばらに配置して、互いの頭の中で星座を描くみたいに点と点を結んだり解いたりして遊ぶ。遊ぶ中で、あ、これで大丈夫だ、やっぱそうだ、という何かよくわからない「感じ」を確かめていける。


モノゴトを作ろうとするとき、目標を決めて、狙いを定めて、戦略を作っていく仕事の仕方と、なんかよくわかんない「感じ」をふわふわした言葉や身の回りのものを触って確かめながら作っていく仕事の仕方と、大きく2つある気がしてる。

人との付き合い方も、上司や同僚と戦略を作って競合と戦うようなやり方と、仲間とともによくわからない「感じ」をシェアリングしながら生み落していくようなやり方と、分けられる。

もちろん、それはスペクトラムで、仕事となれば極端にどちらかに偏るとしたらそれはそれで問題がある気がする。

「感じ」の共有から生み落とされるものを仕事にするのは容易じゃない。ぼくにはまだまだそれでご飯を食べられるほど美しく生きていない。でも、面白くて興奮することはその「感じ」からしかやっぱり生まれないし、それはなにもないところから突然現れるものじゃなくて、地下水脈が通ったところに湧き上がるんだと思う。それが人との言葉とイメージの戯れの中で、カタチをもち、物語になるのだと思う。そうだと思ってやっていけるかどうか。わからないけど希望はある。

2015/04/21

ワンピースづくり、きかない見通し、ふりしぼる勇気

伊勢丹で働きながら、ちょこちょこ他の仕事もやっていきたい!ということで2015年度第1弾は、中山晴奈さんがディレクターを務める食とものづくりスタジオ「FERMENT」にて、ワンピースをつくるワークショップでした。FORM ON WORDSで一緒の竹内大悟さんとつくったものです。

これは見本です。


ほぼ一日がかりで、生地を選び、竹内さんがつくったパターンに添って裁断し、縫製する。そのなかで、幅や丈、アクセントになっている切り返しのギャザーもしくはタックのかたち、襟の仕上げ方など、いくつかの選択肢の中から、自分に合ったシルエットのワンピースをつくっていく。

参加者の皆さんの中には、中学校のときの家庭科の課題でズボンやエプロンをつくったときにうまくいかなかった想い出が残っている方も多く、そのトラウマと向き合いながら制作を進めていっていました。ぼくは昨年の夏のワークショップでやっとミシンと仲良くなれて、今ではだいぶ仲良しです。

いつも子ども向けにやっている企画だと「失敗してもいい」「トライアンドエラーが大事」ということを考えているけれど、服作りとなるとそうはいかないところが面白い。雑になってしまったぶん、その文字通りのしわ寄せが、服の雰囲気全体にあらわれてしまう。真剣で丁寧な作業が細部に宿ることで、はじめて服に美しさが現れるのだということを、いつも思い知ります。



真剣にならざるをえない、自分が身にまとうための服。当たり前だけど、服はたいてい買ったものを着る。デザイナーがデザインし、パタンナーがパターンを引き、工場で縫製されたものを着る。それを着る人の姿が不格好にならないように、こだわりをもって作られたものを着ているのだと思います。

その服のはじまりをつくるデザイナーは、人々の服や身体への意識を敏感に察知して、着崩されてしまうことや、およそモデル体型とは異なる体型の人が着ることも含めて、それでも人がかわいさや楽しさやエレガンスを感じられるように、服をつくる。そのこだわりや誠意にあやかってぼくたちは服を着ている。

もちろんそうでない服の作られ方もたくさんあって、かわいい、素敵なモデルへの憧れをあらゆる方法で煽り、それと同質化させるほうに促す、ファッションのファシリテーションのあり方のほうがむしろ主流だと思います。それによって「モテ」「非モテ」の分類が生まれ、自分を「非モテ」に分類してしまう特に男子たちの気持ちとかよくわかるし、その劣情はまた新しいエネルギーになると信じてなんかしたいと思っています。がまぁその話はまた別のところで。



このワークショップでは、服の作り手になって、その立場を体験する。服を着る人の気持と、作る人の気持ち、今の社会では分離してしまったこの2つの気持ちを一時に経験することになる。プロがつくった服はゆがんでいるわけがないのだけど、服はやわらかい布でできているし、裁断のやりかたや縫い方次第でゆがんでしまうし、不格好になってしまう。繊細な布は失敗するたびにくずれていく。失敗はなるべくならしないほうがいい。

さらに言えば、初心者には、パターンからできあがりを想像することが難しい。ぬいしろ、できあがり線、ステッチの線など、いろんな線が重なっている。裁断は縫製を見越してやらなければならないし、縫製はできあがりを見越してやらなければならない。小さな1つの失敗がつぎのゆがみを生む。見通しの効かないまったくはじめてのことで、それでも自分が着るものがかわいくて素敵なものであったらいいなという希望をもって、ひとつひとつ丁寧にやっていくしかない。

失敗が怖くなってしまい、怖気づいてしまうところをどうにか乗り越えてつくっていく参加者の方々の勇気を振り絞る姿を応援するのがぼくの仕事で、完成したときの、ほっとして、嬉しそうな表情には、しびれるような感動がありました。



こちらのワークショップは来月も再来月も開催を予定しております。夏に向けてえいやっと制作されてみてはいかがでしょうか〜?





2015/04/11

言い方、快不快、時すでに遅し



「いや、別にいいんだけど、「言い方」ってあるじゃん」

という言葉はよく聞くけれど、そのとおりで、言い方によって相手を快にも不快にもする。ぼくは無自覚に相手を不快にするような言い方をしてきた20代前半までを過ごしてきたと思うので、気をつけるようにはしているけれど、なかなかにその悪い癖は抜けない。

「言い方」によって相手を心地よくする、というのは、参加する人を創造的な気分に変えるワークショップのファシリテーションの基本の一つで、それを日常生活でもできるようにしておかないと、悪い癖が本番で出てはこまる。まして、相手が子どもならなおさら。

普段から人を見下したような言い方をしていると、たとえ仕事がキレッキレだったとしても、次第に信頼を失ってしまうし、自分が何か決定的なミスをしたときに、誰も味方がいなくなってしまう、というのはよくある話で、これを実感していないひとが説教されたとしても「いやでもぼくは失敗しないしなぁ」としか思っていなかったとして、それはそれでやばいというか学びのなさが貧しいなぁと思う。

ぼくには幸いにも、「言い方」について注意してくれた人たちがたくさんいた。でもその当時はよくわかっていなかった。今ならわかるのだけど、時すでに遅し、ってやつで、せめて当時注意をしてくれた人たちに報いたいという想いで仕事をがんばろうと思う。

2015/03/23

あ、また「理不尽」か。

「社会にでたら理不尽なことをたくさん経験しなきゃいけないんだと思うと、怖くて足がすくむ・・・」みたいなことを大学生の友人が言っていて、そりゃあそうだよね、と思う。ぼくも何度か理不尽なことを経験したし、よもや信頼していたものが理不尽さに姿をかえることもしばしばあった。

「未知のものやわからないことを前に、どう見通しを立て、行動するか」ということが大事、みたいなのはよく言われることだけど、「未知」とか「わからないこと」ってどことなくロマンチックで魅力的なものだ。たとえばこれを「理不尽さを前に、どう見通しを立て、行動するか」と言い換えたら、とたんに現実味が出てこないだろうか。

「理不尽さ」って、責任をなすりつけられることとか、根拠もわからないまま無視されることとか、いろいろだと思う。それってやっぱ超怖いし、嫌なものだ。でも同時に、何か新しいことをしようと思ったら付きまとうものでもある。なくていいものでもあり、ある種の条件でもある。理不尽さ。

どんな姿をとって現れるかも予想できないし、こんな感じかなと思ってたらそれを裏切ってくる。理不尽さは姿が見えないし、理性的だと思っていたものが理不尽さだったりするからさらにやだ。

でも、幾度となくそういうものに出会っていると、なんとなく、あ、またか。と、思えてくるのだろう。そうなれるまでが大変で、だから20代という時代は苦渋の時代なのだと思う。

がんばれ若造、というキャッチコピーがかつてあった。理不尽さを前に、ふんばれ若造、と、自分に向かって言いたい。


2015/03/16

形、中身、神

「形だけ真似してて、中身がないね」

みたいな、枠と中身の話はよく聞くけれど、中身というか、もっと言えば筋とか骨だと思う。

例えば皮膚だけあってもラブドールみたいにしかならないわけで、骨とか筋とかそれを働かせようとする思考の自由とかがあって初めて身体が動くように、たとえ形を真似たとしても、筋や思考を通せるか、というのがキモなわけだ。ようは真似たものを自分のものにできるかって話。

最近、同僚にヨガマスターがいるので、ヨガを教わっている。太陽礼拝っていう基本の流れがあって、幾つかのポーズの組み合わせを教わった。

※絵は内容と関係なく、彼女の姪っ子4歳の絵で、これこそ形と詳細の面白さの絵だなと思って載せました


わりと毎朝ヨガの、その太陽礼拝を実践してるのだけど、例えばダウンドッグとか、コブラのポーズとか、やってはいるけどなんだか腑抜けた感じになるので、同僚に見てもらった。「掌の4点を地面にしっかり押し付けて」とか「無理に顎をあげるんじゃなくて、胸を開いた結果、顎があがるくらいがちょうどいい」とか、ディテールの指摘をもらっただけで、俄然効果が上がったのだ。

ヨガのポーズは作用反作用の法則でできていて、ポーズがカチッとキマると、使う筋肉とその反対も作用し始める。しまりのなかった筋肉にスッと筋が通るのを感じ、身体が熱くなり、それでいて無理のないリラックスを感じるのだ。

こういうのって、ヨガだけじゃなく何にでも言えることで、例えば服のデザインも、襟の仕上げ方ひとつで、全体の雰囲気が崩れたり締まったりする。ワークショップも、ある一言で参加者の振る舞いが変わる。それによって面白くもなるし、活動に火がついたり鎮火したりもする。

全体の中の極小の一点。散りばめられた点たちそれぞれに全体が集約される。

形を真似るというときの「形」のなかにはこのような無数の極小の「細部」があるわけで、形の中の細部が全てスススッとつながり、統一されつつ自由であるような状態を目指すと。禅のような話である。

「神は細部に宿る」とミース・ファン・デル・ローエは言った。細かいところにこだわろう、ということだけでなくて、細かいところ同士のリンク、筋の通る瞬間にこそ神は宿るのかもしれない。

そして、学ぶということは、この「筋の通る瞬間の感覚」を培い、あらゆる場面で味わうことなのだろう。


2015/02/22

自分の物語を誰がどうやって編集するの? ー飲み会に行く楽しみとして

飲み会に意味なんてあるのかな?と、ふいに思ったりすることもあるし、昔はよく無駄な飲み会なんて行きたくないね、とクール気どりの嫌なことを言っていた。



最近飲み会をわざわざ企画してご飯を食べに行くことが増えたような気がするんだけど、それは何か飲み会に楽しみを見出したからなのかもしれない。

飲み会のなにが面白いって、友達の人生の話を聞けることだし、自分の話と影響しあってぽこぽこと湧いてくる友人や同僚たちのものごとのやり方や好き嫌いやどうしようもなくやってしまうことの集積みたいなのが見えてくることだ。小説を読むよりもグルーブがあって、演劇を見るよりも参加できて、映画を観るよりも自由だ。



飲み会の場の、仕事につながるわけでも、何かの問題解決になるわけでもない言葉のやりとりは、人生の中で起こる出来事の見方というか見立て方を変えるかもしれないし、語りながら見つかる自分の考えとか感覚とかがあるかもしれない。

いい飲み会での会話はふとした時に自分の人生の物語を編集してくれるかもしれない。

悪い飲み会というものは、あたりさわりのない会話だけがかわされたり、ひとりの人の聞きたくもない演説で終わってしまったり、発見も驚きもないし、ツッコミも入れづらいようなのは超スーパー退屈なのですぐ帰ろうと思う。



複数人でビールを飲んで牡蠣やあん肝をたべて刺身を食べてレモンハイを飲みながら、お互いの癖や考えやくだ巻きやオススメや悩みや自慢が言葉になって混ぜ合わさっていくと、占いやカウンセリングみたいに形式にはならないけれど、話しているうちに自分の物語の輪郭や筋が見えてきたりして、あーなるほどそうかもしれない、と妙な納得をして帰れたら、それはいい飲み会だったんだと思う。

自分のことじゃなかったとしても、ああこの人はこんな風に変わっていくかもなぁ〜とかその後を想像できる感じのも、好きな感じだ。

そんなわけで年度末のファッキン忙しいのが終わったら、またいろんな人と飲みにいきたい。みなさんぜひお誘いください。そして誘わせてください。

2015/02/03

自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて

「男の子を意のままに操るビッチから弟を救わなきゃ!」舞城王太郎の新たなる代表作。


すべてを分かち合う仲が良すぎ? な香緒里と友徳の姉弟。夫の浮気と家出のせいで、沈み込みがちな母・由起子。その張本人である父・和志は愛人・佐々木花とのんびり暮らしている。葛藤や矛盾を抱えながらもバランスを保っていた彼らの世界を、友徳のガールフレンド・三輪あかりが揺さぶりはじめて――。あなた自身の「物語」っていったい何? 優しくて逞しい、ネオ青春×家族小説。

http://www.shinchosha.co.jp/book/118637/

舞城王太郎の『ビッチマグネット』を読んで思ったことは、いろんなことが起こる自分の物語を誰がどうやって編集するの?ということだった。カウンセラーの診断テストの4つの選択肢に全部⑤をつけて自分で返すシーンは白眉だった。

この世界には物語の類型がたくさんあって、ただ自分はそのどれに当てはまるんだろう、っていう不安があるとする。その不安をかき消すために、人は他人に自分を編集してもらい物語化してもらうことを求めるのだとする。

そういう意味での編集業はこの世にあまねくある。占星術師は星と星座の関係で、医者は身体と症状の、スタイリストは服と身体の関係で、「こうなってるとこう」っていう型をちょっとずつつなげてその人が安心する物語に編集するサービスなのかもしんない。そしてそれぞれには占星術、医学、流行という形が違うオーソリティーがある。権威とその翻訳者によって自分がある類型に編集される快楽みたいなのが昔からあってそれは宗教もそういうたぐいのものかもしれない。

あるいは自分を愛してくれる人もまた編集者だとする。でも、私の物語を編集するのは、身近な他者か、あるいは縁遠い権力か、という話かといえばそうでもなくて、予想外のことを引き受けながら自分の物語をたえず構築しながら生きていかなきゃいけなくて、そんな強い意志なんてどこから芽生えるのかといえば、何かに支えられるしかなくて、その何かというのがオーソリティーなのかパートナーなのか、という話にまたぐるりと戻ってくる。
類型化されてパッケージになった仮初めの安心/物語を買うことに対して、いやだいやだいやだーと抵抗することもできて、じゃあでもそういう人はバラバラになって物語化できない自分を生きていく分裂症疾患みたいに扱われるしかないのか?そんなの辛くて耐えられない。私は私の物語を生きるんだ!と言っても、それは偶然と意志の相互作用によってできるもの(『ディスコ探偵水曜日』)だから、コントロールなんてできない。コントロールできると思ってるとしたら、それはどうにもこうにも他者を傷つけ、潰しているだろうし、ある種のオーソリティーになるしかない。組織のお偉なのか、DV親父なのか、その形も規模も様々だろうけど。


「時間というのは田畑のように四角く区切られたものではなく、本来は草むらのように前後左右の感覚のないものなのだ」

というのは過去に誰かが言ったことばで、ベンヤミンだったかクロフォードだったか二人とも言っていたかもしれないけど正確な引用じゃない。ただ面白いのは、時間に方向やカタチを与えるのは決まっていたことじゃなくて人間の意志なのだということだ。時間割というのは決まっているものじゃなくて誰かが決めたものだし、いろんな都合でそうなったりしているのだ。

現代美術のキュレーティングはいつだって芸術の歴史と社会の歴史のなかにぼうぼうと広がるいろんな作品や事柄の読み替え/作り替えだし、この流れがあってこう!っていう提案でもある。そう考えると、自分の物語を編集するときの拠り所は実は他者や権力だけでなく歴史の中にあって、あるいは自分でもできるんじゃないの〜と思う。でもそれでもまた、他者と歴史と権力とその3つのものに取り囲まれながら、愛されたり従わせられたり、自分で選んで孤独になったり誰かと一緒にいる中で勝手に見えてきた感じになったり、そういうのがいろいろあって物語のつぎの展開がぼんやりと見えてくるんだろうなと思う。

人は自分の人生の占い師でありスタイリストであり医者なのかも知れないから、占いやスタイリングはしてもらうんじゃなくてその手法を学ぶほうがよくて、それでもどうやったって自分の人生のことはわからなくて不安になるから、人や歴史や時にはパワーを借りて物語の大筋を一緒に考えてもらうのがいいんじゃないかなとか思ったり思わなかったり。