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2016/05/23

汚さ、祈り、物語のグルーヴ ー絲山秋子『ダーティ・ワーク』を読んだ

このあいだMother Terecoのスタジオに遊びに行ったとき、厚木までの小田急線で読もうと思って絲山秋子さんの『ダーティ・ワーク (集英社文庫) 』を買った。絲山さんの作品は学生の頃に『沖で待つ 』を読んで衝撃を受けて、ゼミ旅行で高崎に行ったときにご本人に一度だけお目にかかったことがある。そのとき、佇まいの背景にすっと通った筋と柔らかさみたいなものを感じて、言葉を扱い、物語を綴る人の佇まいのただならぬ感じに驚いた。


さて、この『ダーティ・ワーク』は、20代後半~30代の若者たちの人生がささやかに語られた群像劇なのだが、ん~!まずなにより前提知識なしで100%まっさらな状態で読んでほしい。なんのことだかわからないで読み始めたほうが、のめりこめると思うし、確実に面白いのでまずもって間違いなしです。面白くておもわず連続で3回読んで、それぞれ別々のシーンで鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。

で、ここからはネタバレしながら書いていきます。

まず、あらすじ。『ダーティ・ワーク』文庫のリードを引用。

ギタリストの熊井望は、自分をもてあましながら28年間生きてきた。音楽以外に興味はなく、唯一思いを寄せるのは昔の友人。自分の分身のようにかけがえのない存在だったが、今はもう会えない。彼女が取り返しのつかないことをしてしまったから。様々に繋がる人間関係から見えてくる、ささやかな希望。ローリング・ストーンズにのせておくる、不器用な若者たちのもどかしくも胸に迫る物語。

ってこの文章!「様々に繋がる人間関係」とかネタバレだし、熊井が「昔の友人に取り返しのつかないことをした、、、」みたいなのだけが物語の骨子じゃないから!と思わずつっこみたくなった。こんな、現代の若者を描いたありがちな小説とかじゃないから!って言いたいんだけど、じゃあなんなのかというと言葉が見つからない

全部で7つの章からなるこの小説は、第1~3章までは、それぞれ独立した短編小説なのかな?って感じなのだが、第4章以降にだんだんとつながっていく。え、この人物とこの人物は過去に接点があったのか、とか、あ!この人ってこの人だったのか!とか。いや、冷静に考えたら、「オムニバスに見えて実は全部繋がってました系」の物語って、もはやそういうジャンルもので、この世にはごまんとある。しかし、『ダーティ・ワーク』の場合この構成があまりにも緻密で、多分このジャンルの中でもずば抜けて最高なのだと思う。もうこの緻密さの美しさだけで泣ける。

この物語を読んでいてしみじみといいなぁと思うのは、人称の変化だ。最初は「熊井はをした」という感じで三人称でひたすら語られていく。しかし章が進むにつれて、ほとんど前触れもなく会話の応酬のなかで一人称になったり、いきなり三人称にぐいっと戻ったりするし、かと思えばラストの章は「ですます調」の慎ましやかな一人称の語りで結ばれる。絲山さんの文体の特徴なのかもしれないけれど、状況描写からするりと会話のシーンには入るとき鉤括弧が使われないことがある。語り部と登場人物が同じグルーヴを共有しながら語ったり語られたりしてて、なんとも軽やかでここちいい文体だ。ローリングストーンズの曲のタイトルが各章のタイトルになっているし登場人物が音楽に関心を寄せているのも、納得がいく。

そして、何よりぼくが好きだったのは、この小説に散りばめられた、あっと驚くような突き抜けた表現のうまさだ。いくつか好きなシーンを引用させてください。

牛遊びしない?
なんですか、それ。
形容詞プラス牛。
えー、楽しい牛とかですか。
そうそう、いかがわしい牛。
悩ましい牛。
おびただしい牛。
小汚い牛。
おどろおどろしい牛。
輝かしい牛。
せちがらい牛。
思ったよりずっとその遊びは楽しくて、長く続いた。単調だけど、シーソーをしているみたい。いろんな牛が私の心に遊びに来て、いろんな顔をして去っていく。想像できない顔の牛が面白い。
(p.63~64 sympathy for the devil

「だってよう」
美雪は視線をそらした。
「だって何だよ」
「恥ずかしいもの」
そう言うと、床に正座した。自分のペースを失って、どうしていいかわからない彼女の様子がいじらしく思えた。
(p.79 moonlight mile)

母親は牛というよりも鹿に似ていた。父親は色白で、顔の表情がどことなくシュウマイに似ていた。しかしここでお父さんはシュウマイに似ていますね、などと言ったらどうなることだろう。
遠井が見舞いの言葉を選ぼうとしているうちに、彼女が話し始めた。最近の調子のこと。毎日違う症状が出て不安なこと。疼痛。骨盤の中を微生物が走るような感触、嘔吐、発熱、そして入院してから片時も離れない血管痛。
(p.80~81 moonlight mile)

「わざとらしくなかったか?」
「あんなに苦しんでるのにわざとらしいなんて思わないよ」
色っぽかったなんて言ったらまたティッシュの箱が飛んで来るだろう。
(p.95 moonlight mile)

もっと治れ、もっと根本的に治れ、彼は思う。彼女の腫瘍と一緒に自分の心配が消えうせるように、と彼は念じる。眠る牛にむかって念を送る。
(p.103 moonlight mile)

「辻森さんてさ」
「なんだよ」
「妖怪に似てるよね」
やっと笑った。
にゅいーんと笑った。
「なに妖怪だよ」
「レイキャビクマン」
「なんだよそりゃあ」
また笑った。
「すごく冷たいの。人を凍死させちゃう」
あと、花を食べて生きるの。
「ばーか、あったかいんだよ」
いきなり、ほっぺたが変形するほどべたーっと手を押し付けられた。
あったかい。
それに、がさがさしてる。
全然見た目と違った。
間違いを知るのがこんなに甘やかだなんて。
(p.144~p.145 miss you)

それは初秋の、一番美しい時間でした。傾いた日が、全ての色を少しずつ変えて行く、光に照らされたものだけが残り、見たくないものがだんだんに色を失っていく瞬間でした。
(p.196 beast of burden)

これを書いている間にまた読み返して鳥肌が立ってしまった・・・。引用だけではもちろん伝わらなくて、前後の文脈があってはじめてこの表現が強烈に輝くんだけど、素朴な言葉でありながらえぐってくる。

そうそう、この小説に出てくる登場人物は、誰も完璧じゃなくて、不謹慎なことを考えたり、あさましかったり、不健康だったり、嘘つきだったりする。そんなスレた感情を抱えた人間、つまりどこにでもいる人間に、物語のグルーヴがささやかに何かを祈ったり、美しい瞬間を見つけて驚いたりするシーンを運んできて、ぼくら読者は物語を読みながらその祈りや美に出会っていく。しかもその祈りとか美しさは、それを抱いた人が抱える不謹慎さや浅ましさと混然一体だからこそ独特だ。読み終わった瞬間にApple Musicでローリングストーンズの「Beast of Burden」を検索してかけて、それを聞きながら、『ダーティ・ワーク』という題の意味とは、人間のどこにでもある汚さと祈りのことなのかもなとぼんやり思ったら20~30分ぐらい鳥肌が止まらなかった。



はい、とにかく絲山秋子『ダーティ・ワーク』最高でした、という内容を、これから引越しをする本八幡に向かう電車の中で、つらつらと書き連ねていたのでした。

2016/05/02

幸せ、日陰、闘い ー酒井順子『子の無い人生』を読んだ。

TBSラジオの『荻上チキ・session-22』をPodcastで聞きながら電車で通勤するのが僕の日課なのだけど、4月5日の「session袋とじ」のコーナーで、酒井順子さんの『子の無い人生 』という本が紹介されていた。ラジオを聞いて、「子どもがいない私は誰に看取られる?」という痛烈な問いとか、「子育て右翼」という興味深い見立てとかを聞いているうちに、この本をなんだか読まなければいけない気がして、amazonで注文した。


"酒井順子、はたと気づく。独身で子供がいない私は、誰に看取られる?『負け犬の遠吠え』から12年、未婚未産の酒井順子の今とこれから。30代は既婚女性と未婚女性の間に大きな壁がありました。結婚していなければ単なる「負け犬」と思っていた酒井順子は、40代になり悟ります。人生を左右するのは「結婚しているか、いないか」ではない、「子供がいるか、いないか」なんだと。期せずして子の無い人生を歩む著者が、ママ社会、世間の目、自身の老後から沖縄の墓事情まで、子がいないことで生じるあれこれを真正面から斬る!" (amazon内容紹介より) 


この本のトピックはなんだかとてもデリケートに感じられて、ヒリヒリしながら読み進めた。ホームパーティーでの専業主婦の人たちの、子どもがいない人たちへの無自覚な哀れみがにじみ出た言葉を聞いたことや、子どもがそんなに好きじゃないという酒井さんの気持ちの吐露から始まり、子育てと政治、子どもがいない女性が死んだ時にどうなるかについてのフィールドワークなど、話題は多岐に及ぶ。とりわけ、子育てと政治の話と、沖縄のトートーメーについての話、そして「1人で死ぬこと」についての話などは興味深く読んだ。

トートーメーとは、沖縄の位牌で、個人や夫婦の戒名ではなく、先祖代々の戒名が位牌札というものに記されて収められているものだそうで、いわば「集合住宅のような感じ」とのこと。本の中では、このトートーメーには、バツゼロ独身の人は入れないとか。

タイトルを一見した時は、子どもがいないことに対する個人の気持ちを吐露するエッセイなのかなと思ったのだが、そうではなく、子どもがいないと死んだ時にどうなるのかという文化人類学的なアプローチでのリサーチだとか、子育てと政治の関係だとか、社会学的な内容も多くて面白い。さらには、そこに乗せられた酒井さんの実感が、この本を読んでいるときのヒリヒリしたりグサリと刺さる感じだったりを作り出しているんだと思う。

ぼくも日々facebookやinstagramを見ていて、知人友人の子どもの写真や映像を見ていて、元気が出たりほっこりしたりすることももちろんある。この溢れる子どもの映像には「子どもがいることこそが最上の幸せで、わたし(たち)は今その最高の幸せのなかにいます」ということが現れている気がするし、ぼくはその幸せに感染したがるように日々映像を吸っている。もちろん、その裏に尋常じゃない苦労があることも、精一杯想像しながら。ただ、その一方で、それが最上の幸せなんだというイメージが滲んでくると、そうではない人生は不幸なんだという機運も滲んできている気がする。それは別に今に始まったことじゃないかもしれないけれど、SNSは幸せを可視化してその幸せへの憧れを増強する仕組みをもっていて、そうではない人生をゆるやかに、やわらかく日陰にしていくような感じがある。

酒井さんはその日陰に生きる人を「負け犬」といい、自らを「負け犬」と定義して、その日陰から物語る。「結婚して子育てをするのが幸せ」という考え方だけが正しいわけじゃない、というのは頭ではよくわかっているが、その幸せの道を歩みたいと思っている人はたくさんいるわけで、ぼくもそうだ。それが幸せだというのはよくわかる。だがこの本からは、そうではない結果になっている人たち(結婚していない、子どもがいない)が不幸かというとそうではないだろう!と静かに闘う姿勢を感じた。今を生きる人々が多くの選択肢のなかで生きられるように、闘っている本だと思った。






2015/10/05

仕事、生活、読書、運動


mac book proを新調して初投稿。画面はきれいだし、キーボードは壊れてないし、サクサク動くし、最高だ。んで、ただ新しいパソコンで何かしたかっただけで特に書くこともないのだけど、最近考えていることをメモしておく。



1. 仕事のこと。
3年ぐらいかけて、ひとつのリサーチをまとめたいと思っている。子どもの社会参加と今つくっているようなワークショップとこれまでの児童館の活動と、自分のなかでマッピングしたものを外在化できるようにしたいということ。自分の考えの地図と方位磁石をつくりたいと思っている。



2. 生活のこと。
本八幡あたりに引っ越したいってことで昨日リサーチに行ったら街の雰囲気はなんだか素敵だし、葛飾八幡宮はきれいだし、和多屋っていういい居酒屋見つけちゃうしで最高。ホームセンターが近くにあるらしいので、いい本棚とサイドテーブルを自分でつくりたいと思っている。


3. 読書のこと。
小説を読むのは趣味だけど、仕事のリサーチのために読まなきゃと思う本もたくさんある。はてさてどちらを優先させるべきなのか。そもそもなぜ小説を読むのかを考えてみると、結局は「自分自身の物語」を描く方法を知りたいというエゴイスティックな欲求があるからだと思う。「自分自身の物語」には現実や事実じゃなくて思想や空想も含まれるわけで、あらゆる小説が「自分自身の物語」のリファレンスなのだとしたら、ぼくはどの小説を参考にしているのだろう。そのことを知るのはきっと楽しい。

4. 映画のこと。
フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』がまた名画座で上映される。今度こそいかなくちゃ。




5. ジョギングとプールのこと。
運動をすることで体調が落ち着く。運動をしないと、疲れているのに暴れたいような気分になって落ち着かない。たった20分でよい。走るにしても、泳ぐにしても、一つのキックもしくは腕かきで、体がぐーっと前に進む感覚があって、ストン、グー、ストン、グーというミニマルなリズムの繰り返しが体を躍らせ同時に落ち着かせる。フロイトの「快楽原則」もそういえば「不快は興奮量の増大で、快は興奮量の減少だ」って話だ。


6. 仕事のことその2。
何をやるにしてもやり方が雑になりがちなのはぼくの欠点なのだが、10月から下半期に入ったということで、運営の計画を運営しながらつくっていかなきゃいけなくて、それはみんなで出てきてる情報を整理して共有するということの繰り返しになっていく。情報の整理には時間がかかる。少ない時間でいかに冷静に情報を整理するかってことだから、問われる力量。駄馬でも走るし考えるのだ。









2015/06/19

痛み、身体の違い、時代のムード

昨日は、午前中は練馬のママ友たちとデニーズでお茶をしながら、いろんな子育て事情の話や、彼女たちの活動のことをいろいろ聞いて、地域コミュニティの面倒さや家族を営んでいくことの日々いろんな闘いがあることを聞いてきた。1時間半だったけど、とにかく面白くてゲラゲラ笑った。



そして午後は高野萌さんの展示を見に行った。一緒に仕事をしていたころよりも格段に自分のやりたいことにむかっている感じが研ぎ澄まされていて、そのなかでつくられた作品たちは事物の魂を刺すような迫力があった。かっこよかった。そして息子のうな君にも初めて少しだけ遊んだ。お母さんがつくった日傘を遊び道具にして笑う姿に、なんだか澄んだものが肺のあたりに広がっていくのを感じた。

Coci la elle 本店企画展示『よくみる夢が日傘にくっついている』展 6月24日まで。おすすめです。



とにかく母である女性たちはみんな別々の人生を歩んでいるけど、かっこよくて美しかった。ぼくにはおよそ彼女たちの母としてのリアリティを自分のものとして感じることはできないし、ああなりたいって憧れることも、自分は男だから違うって切り離すこともできないし、わからないからただ想像することしかできない。いや、想像することさえまともにできていないだろうなぁと思う。

母性本能とか、男性の闘争的な本能とか、そういうのあんまり信じてないけど、ただカラダの仕組みが違うというのは、信じるとか信じないとかじゃなくて事実だ。男性は自分のカラダの中に他者の命と身体を宿すことはできないし、その人を生み出すことの痛みもない。女性はその準備をずっとしていて日々痛みとか体調の内側からの変化と闘いながら暮らしている。(風邪だの飲み過ぎだのでグダグダ言ってる男子とは全く違う)だから女性はか弱いから守らなきゃだめだ、なんていい加減な嘘で、むしろか弱いのは男子のほうだよなぁと思う。

「経済」がぐんぐん「成長」していた時代には、男子も元気で、おれについてこいスタイルでなんとかなったけど、先行き不透明で大きな企業でもいつ潰れるかわからなくて、どうしたらいいかわかんない社会で、時代はなんとなく争いの雰囲気に向かっている日本で、男子のナイーヴさは内にこもって震えはじめているような感じがある。おれについてこいってなんか勢いとしてに言えない、っていうのが男子のリアリティで、つまりそういう男子の姿勢というのはその人個人の気持ちというより時代のムードだったんだろう。

こんな時代に、男子には「自分には痛みがない、あるいは鈍い」ということの無意識的なコンプレックスさえ出てきているはずで、「生理痛・陣痛コンプレックス」みたいなのがある気がしている。さてじゃあそのコンプレックスをかかえてどうやって生きていくのか、というかどんなのがつぎの時代のムードなのか、みたいな話はまた今後。







2015/05/14

泳ぎ方、カラダの姿勢、仕上がり

よどみなく、ゆったりとした心の状態、動きの流れ、というのがある気がしていて、それはカラダの動きのムダのなさ、やわらかさもさることながら、自分を疑い、自省することができて、何か無意識に間違った態度をとっている他者がいれば愛をもって指摘できるような心の状態。そういうふうに仕上がっている人がプロっぽい感じがする。



先週と今週と、平日休みの日の夜に泳ぎにいった。以前からちょこちょこプールに行って泳いではいるけれど、続けていったのは久しぶり。いつもとにかく力を抜いて泳ごうとするのだけど、何往復かするとクッタクタになってしまうから、これはちょっと泳ぎ方が間違っているんじゃないかと思って少し調べてから実践してみた。

ある説によればクロールの基礎は「伏し浮き」というのにあって、これは文字通りうつ伏せになって浮かぶ技術なのだけど、これがなかなか難しい。参考にしたのはこのページ。http://www.page.sannet.ne.jp/yamato99/tech_fusiuki/fusiuki_6.html

人間が水に浮かぶとき、肺に空気をたっぷりふくんで浮袋にするらしい。だから浮かぶときの中心は「肺」にある。一方で重心は「へその下」にある。さらにぼくの下半身は陸上部時代のへたなトレーニングのせいで無駄な筋肉がたくさんついているので、重い。肺を浮袋にしても、重心はへそだし、足の筋肉は重いし、下半身が沈んでしまって「伏し浮き」なんてできやしない。

このとき、重心を肺に近づけるイメージ、というのをどうつかむかがカギになる。とにかく力を抜いて、それでいて腹筋を駆使して重心を肺の方にぐいっと近づけるようにして、腰を軽く、首を重たく感じるようにしてやってみると、ちょっと浮けた。これは大きな進歩だった。

その状態で「蹴伸び」をすること、そして「ズン・チャ・チャ」の6ビートでキックをすることの練習をしていくと、浮かび、軽めのキックを推進力にして進めることがわかる。これに水を掻く手を加えると、驚くほどススムススム!

ランニングをするときも、上半身を少しだけ前傾させて重心を前に出し、頭をナナメ上に釣り上げるようにして走るようにすると力まず進めるという節がある。そう考えると泳ぐことと走ることって一緒なんじゃん。と、これまで長いこと走ったり泳いだりしてきて初めてつながった。そしてそれは冒頭の心の状態とカラダの姿勢にも通ずるような、そんな気がする。

半年ほど前だが、以前の職場の研修で不審者が襲ってきたときに子どもをどうやって守るか、というのの、抜き打ちの実演研修をやったことがある。施設内に立ち入って刃物を振り回してきた場合、サスマタなどをつかって押さえつけ、モノを投げつけ、バランスを崩し、戦意を喪失させ、無力な状態にするしかない、と教わった。もちろん、子どもを守らなければならない、とはいえ、そんな暴力の状態に自分を切り替えることができるか?そんなに仕上がってるか?と、かなりその時はショックだった。そんな心とカラダの状態って、異常なのか、それとも、ゆったりとしたよどみない動きを生む姿勢は、突発的な暴力状態にも切り替えることができるようになるんだろうか。

走るのも泳ぐのも、あとはなにかに取り組むにも、暴力状態に切り替えるにも、「身体を楽に動かすための姿勢」というのがあって、それはいつでも重心を動きたい方向に傾けるための準備された姿勢なのだろうということ。それは先日教えてもらったヨガについてのテキスト(「形、中身、神」)で書いていることにもつながる。

文脈をよみ、流れるような身のこなしができるような「仕上がった状態」みたいなのって憧れる。












2015/04/11

言い方、快不快、時すでに遅し



「いや、別にいいんだけど、「言い方」ってあるじゃん」

という言葉はよく聞くけれど、そのとおりで、言い方によって相手を快にも不快にもする。ぼくは無自覚に相手を不快にするような言い方をしてきた20代前半までを過ごしてきたと思うので、気をつけるようにはしているけれど、なかなかにその悪い癖は抜けない。

「言い方」によって相手を心地よくする、というのは、参加する人を創造的な気分に変えるワークショップのファシリテーションの基本の一つで、それを日常生活でもできるようにしておかないと、悪い癖が本番で出てはこまる。まして、相手が子どもならなおさら。

普段から人を見下したような言い方をしていると、たとえ仕事がキレッキレだったとしても、次第に信頼を失ってしまうし、自分が何か決定的なミスをしたときに、誰も味方がいなくなってしまう、というのはよくある話で、これを実感していないひとが説教されたとしても「いやでもぼくは失敗しないしなぁ」としか思っていなかったとして、それはそれでやばいというか学びのなさが貧しいなぁと思う。

ぼくには幸いにも、「言い方」について注意してくれた人たちがたくさんいた。でもその当時はよくわかっていなかった。今ならわかるのだけど、時すでに遅し、ってやつで、せめて当時注意をしてくれた人たちに報いたいという想いで仕事をがんばろうと思う。

2015/03/23

あ、また「理不尽」か。

「社会にでたら理不尽なことをたくさん経験しなきゃいけないんだと思うと、怖くて足がすくむ・・・」みたいなことを大学生の友人が言っていて、そりゃあそうだよね、と思う。ぼくも何度か理不尽なことを経験したし、よもや信頼していたものが理不尽さに姿をかえることもしばしばあった。

「未知のものやわからないことを前に、どう見通しを立て、行動するか」ということが大事、みたいなのはよく言われることだけど、「未知」とか「わからないこと」ってどことなくロマンチックで魅力的なものだ。たとえばこれを「理不尽さを前に、どう見通しを立て、行動するか」と言い換えたら、とたんに現実味が出てこないだろうか。

「理不尽さ」って、責任をなすりつけられることとか、根拠もわからないまま無視されることとか、いろいろだと思う。それってやっぱ超怖いし、嫌なものだ。でも同時に、何か新しいことをしようと思ったら付きまとうものでもある。なくていいものでもあり、ある種の条件でもある。理不尽さ。

どんな姿をとって現れるかも予想できないし、こんな感じかなと思ってたらそれを裏切ってくる。理不尽さは姿が見えないし、理性的だと思っていたものが理不尽さだったりするからさらにやだ。

でも、幾度となくそういうものに出会っていると、なんとなく、あ、またか。と、思えてくるのだろう。そうなれるまでが大変で、だから20代という時代は苦渋の時代なのだと思う。

がんばれ若造、というキャッチコピーがかつてあった。理不尽さを前に、ふんばれ若造、と、自分に向かって言いたい。


2015/03/16

形、中身、神

「形だけ真似してて、中身がないね」

みたいな、枠と中身の話はよく聞くけれど、中身というか、もっと言えば筋とか骨だと思う。

例えば皮膚だけあってもラブドールみたいにしかならないわけで、骨とか筋とかそれを働かせようとする思考の自由とかがあって初めて身体が動くように、たとえ形を真似たとしても、筋や思考を通せるか、というのがキモなわけだ。ようは真似たものを自分のものにできるかって話。

最近、同僚にヨガマスターがいるので、ヨガを教わっている。太陽礼拝っていう基本の流れがあって、幾つかのポーズの組み合わせを教わった。

※絵は内容と関係なく、彼女の姪っ子4歳の絵で、これこそ形と詳細の面白さの絵だなと思って載せました


わりと毎朝ヨガの、その太陽礼拝を実践してるのだけど、例えばダウンドッグとか、コブラのポーズとか、やってはいるけどなんだか腑抜けた感じになるので、同僚に見てもらった。「掌の4点を地面にしっかり押し付けて」とか「無理に顎をあげるんじゃなくて、胸を開いた結果、顎があがるくらいがちょうどいい」とか、ディテールの指摘をもらっただけで、俄然効果が上がったのだ。

ヨガのポーズは作用反作用の法則でできていて、ポーズがカチッとキマると、使う筋肉とその反対も作用し始める。しまりのなかった筋肉にスッと筋が通るのを感じ、身体が熱くなり、それでいて無理のないリラックスを感じるのだ。

こういうのって、ヨガだけじゃなく何にでも言えることで、例えば服のデザインも、襟の仕上げ方ひとつで、全体の雰囲気が崩れたり締まったりする。ワークショップも、ある一言で参加者の振る舞いが変わる。それによって面白くもなるし、活動に火がついたり鎮火したりもする。

全体の中の極小の一点。散りばめられた点たちそれぞれに全体が集約される。

形を真似るというときの「形」のなかにはこのような無数の極小の「細部」があるわけで、形の中の細部が全てスススッとつながり、統一されつつ自由であるような状態を目指すと。禅のような話である。

「神は細部に宿る」とミース・ファン・デル・ローエは言った。細かいところにこだわろう、ということだけでなくて、細かいところ同士のリンク、筋の通る瞬間にこそ神は宿るのかもしれない。

そして、学ぶということは、この「筋の通る瞬間の感覚」を培い、あらゆる場面で味わうことなのだろう。


2015/02/22

自分の物語を誰がどうやって編集するの? ー飲み会に行く楽しみとして

飲み会に意味なんてあるのかな?と、ふいに思ったりすることもあるし、昔はよく無駄な飲み会なんて行きたくないね、とクール気どりの嫌なことを言っていた。



最近飲み会をわざわざ企画してご飯を食べに行くことが増えたような気がするんだけど、それは何か飲み会に楽しみを見出したからなのかもしれない。

飲み会のなにが面白いって、友達の人生の話を聞けることだし、自分の話と影響しあってぽこぽこと湧いてくる友人や同僚たちのものごとのやり方や好き嫌いやどうしようもなくやってしまうことの集積みたいなのが見えてくることだ。小説を読むよりもグルーブがあって、演劇を見るよりも参加できて、映画を観るよりも自由だ。



飲み会の場の、仕事につながるわけでも、何かの問題解決になるわけでもない言葉のやりとりは、人生の中で起こる出来事の見方というか見立て方を変えるかもしれないし、語りながら見つかる自分の考えとか感覚とかがあるかもしれない。

いい飲み会での会話はふとした時に自分の人生の物語を編集してくれるかもしれない。

悪い飲み会というものは、あたりさわりのない会話だけがかわされたり、ひとりの人の聞きたくもない演説で終わってしまったり、発見も驚きもないし、ツッコミも入れづらいようなのは超スーパー退屈なのですぐ帰ろうと思う。



複数人でビールを飲んで牡蠣やあん肝をたべて刺身を食べてレモンハイを飲みながら、お互いの癖や考えやくだ巻きやオススメや悩みや自慢が言葉になって混ぜ合わさっていくと、占いやカウンセリングみたいに形式にはならないけれど、話しているうちに自分の物語の輪郭や筋が見えてきたりして、あーなるほどそうかもしれない、と妙な納得をして帰れたら、それはいい飲み会だったんだと思う。

自分のことじゃなかったとしても、ああこの人はこんな風に変わっていくかもなぁ〜とかその後を想像できる感じのも、好きな感じだ。

そんなわけで年度末のファッキン忙しいのが終わったら、またいろんな人と飲みにいきたい。みなさんぜひお誘いください。そして誘わせてください。

2015/02/03

自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて

「男の子を意のままに操るビッチから弟を救わなきゃ!」舞城王太郎の新たなる代表作。


すべてを分かち合う仲が良すぎ? な香緒里と友徳の姉弟。夫の浮気と家出のせいで、沈み込みがちな母・由起子。その張本人である父・和志は愛人・佐々木花とのんびり暮らしている。葛藤や矛盾を抱えながらもバランスを保っていた彼らの世界を、友徳のガールフレンド・三輪あかりが揺さぶりはじめて――。あなた自身の「物語」っていったい何? 優しくて逞しい、ネオ青春×家族小説。

http://www.shinchosha.co.jp/book/118637/

舞城王太郎の『ビッチマグネット』を読んで思ったことは、いろんなことが起こる自分の物語を誰がどうやって編集するの?ということだった。カウンセラーの診断テストの4つの選択肢に全部⑤をつけて自分で返すシーンは白眉だった。

この世界には物語の類型がたくさんあって、ただ自分はそのどれに当てはまるんだろう、っていう不安があるとする。その不安をかき消すために、人は他人に自分を編集してもらい物語化してもらうことを求めるのだとする。

そういう意味での編集業はこの世にあまねくある。占星術師は星と星座の関係で、医者は身体と症状の、スタイリストは服と身体の関係で、「こうなってるとこう」っていう型をちょっとずつつなげてその人が安心する物語に編集するサービスなのかもしんない。そしてそれぞれには占星術、医学、流行という形が違うオーソリティーがある。権威とその翻訳者によって自分がある類型に編集される快楽みたいなのが昔からあってそれは宗教もそういうたぐいのものかもしれない。

あるいは自分を愛してくれる人もまた編集者だとする。でも、私の物語を編集するのは、身近な他者か、あるいは縁遠い権力か、という話かといえばそうでもなくて、予想外のことを引き受けながら自分の物語をたえず構築しながら生きていかなきゃいけなくて、そんな強い意志なんてどこから芽生えるのかといえば、何かに支えられるしかなくて、その何かというのがオーソリティーなのかパートナーなのか、という話にまたぐるりと戻ってくる。
類型化されてパッケージになった仮初めの安心/物語を買うことに対して、いやだいやだいやだーと抵抗することもできて、じゃあでもそういう人はバラバラになって物語化できない自分を生きていく分裂症疾患みたいに扱われるしかないのか?そんなの辛くて耐えられない。私は私の物語を生きるんだ!と言っても、それは偶然と意志の相互作用によってできるもの(『ディスコ探偵水曜日』)だから、コントロールなんてできない。コントロールできると思ってるとしたら、それはどうにもこうにも他者を傷つけ、潰しているだろうし、ある種のオーソリティーになるしかない。組織のお偉なのか、DV親父なのか、その形も規模も様々だろうけど。


「時間というのは田畑のように四角く区切られたものではなく、本来は草むらのように前後左右の感覚のないものなのだ」

というのは過去に誰かが言ったことばで、ベンヤミンだったかクロフォードだったか二人とも言っていたかもしれないけど正確な引用じゃない。ただ面白いのは、時間に方向やカタチを与えるのは決まっていたことじゃなくて人間の意志なのだということだ。時間割というのは決まっているものじゃなくて誰かが決めたものだし、いろんな都合でそうなったりしているのだ。

現代美術のキュレーティングはいつだって芸術の歴史と社会の歴史のなかにぼうぼうと広がるいろんな作品や事柄の読み替え/作り替えだし、この流れがあってこう!っていう提案でもある。そう考えると、自分の物語を編集するときの拠り所は実は他者や権力だけでなく歴史の中にあって、あるいは自分でもできるんじゃないの〜と思う。でもそれでもまた、他者と歴史と権力とその3つのものに取り囲まれながら、愛されたり従わせられたり、自分で選んで孤独になったり誰かと一緒にいる中で勝手に見えてきた感じになったり、そういうのがいろいろあって物語のつぎの展開がぼんやりと見えてくるんだろうなと思う。

人は自分の人生の占い師でありスタイリストであり医者なのかも知れないから、占いやスタイリングはしてもらうんじゃなくてその手法を学ぶほうがよくて、それでもどうやったって自分の人生のことはわからなくて不安になるから、人や歴史や時にはパワーを借りて物語の大筋を一緒に考えてもらうのがいいんじゃないかなとか思ったり思わなかったり。

2014/07/23

どうしようもなくやってしまうこと、魅力、自分のかたち

「がんばろうという意志をもって成し遂げたこと」のつみかさねを「実績」と呼ぶとすると、「どうしようもなくやってしまうこと」のつみかさねはなんだろうか。

それなしでは生きられないほど本人に必要なクセとか、習性とか、仕草とか、そういうたぐいのもの。どうしてか選んでしまっている服たち、どうしてか好きになってしまうこれまでの恋人たち、身体の芯をふるわせた映画たち、話すときにしてしまいがちな顔の角度、口の形、手の動き、などなど。

習性・傾向・クセなど、一見するととるにたらないものから、その個人の生きていくセンスが見えてくる。そしてそれは往々にして、他者に発見されながらかたちづくられていく。そしてそれが魅力であるとされればされるほど、その人間のかたちが美しく良いものになっていく。

他者は、どちらかというと、「意志をもって成し遂げたこと」よりも、「どうしようもなくやってしまうこと」に信頼をおき、また魅力を感じる。(同時にドン引きしたり、嫌悪したりもする)

でも、我々はどちらかというと「意志をもって成し遂げたこと」を美談とし、「どうしようもなくやってしまうこと」には恥を感じたり、無自覚だったりする。

「どうしようもなくやってしまうこと」に対する他者のまなざしを活用し、うまく自分をかたちづくっていくことの、なんとしなやかなことか。


2014/01/07

思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開

ぼくが生涯一度しか読んでなくて、でも大好きな小説に舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』がある。


アメリカ人探偵ディスコ・ウェンズデイは孤児として生まれ、迷子専門の探偵として東京の調布に住んでいる。またの名を踊場水太郎(本名:ウィリアム・イーディ)。依頼人に頼まれて見つけたけど引き取りてがいなかった梢(6歳)と住んでいるんだけど、あるとき急に17歳の梢(?)が、6歳の梢の中に入り込んで、未来からきたとかどうとかで、ひょんなことから福井県にある「パインハウス」にふっとんでしまった梢を救うために、名探偵たちの連続自殺事件という難解事件の解決に挑む・・・

みたいな話なんだけど、中巻ぐらいからとにかく情報過多で、なんのことかよくわからないことが次々と起こっていく。ただ、ディスコがひたすらに梢のことを救おうとしていて、わけのわからない出来事の洪水を泳ぎきろうとする意志の力だけがはっきりと感じられる。2000ページぐらいの超超長編なのだが、後半そのスピードは加速し、ディスコは時空をしっちゃかめっちゃかに行き来して、なんとか梢に辿り着こうとする。

そしてその素晴らしい書評が載ってるブログを見つけた。

イワンの末裔 ――『ディスコ探偵水曜日』と舞城王太郎

ここで引用されている一文。

「作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。――物を作るとか創造することって全てが経験で得た知識を組み合わせてるだけじゃなくて、どこかで、ゼロから何かを生み出してるんですよ」

"思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開"

なんというか小さな小さな奇跡が、ここにあるんだと思う。子どもに絵を描いてもらっているときに、ときおりこの「思っても見ないもの」が現れる。その瞬間の、ある子に対して貼っていたラヴェルを思い切り引きちぎられ、立ち現れたものが理解できなくて戸惑い、ゆさぶられ、ときめいてしまうあの感じをつかまえたいといつもどこかで思っているんだなぁと、今この文章を読んでいて思った。










2013/11/29

ティーンエイジ、過酷な夜、夜のツアー

最近考えてるアイデアなんだけど、実現できるかわからないけど書いてみる。


まず企画の背景。

児童館で小学校高学年〜中高生を中心に話を聞いていると、けっこう彼らの夜は過酷なんだなぁということを考えざるをえない。「お母さんが働いていて11時まで帰ってこなくて、そこからモスバーガーを食べに行くんだぁ」とか「もう5日連続モスバーガーなんだけど」とか。児童館の閉館時間が終わったあとも家に帰らずに公園でたむろしてたりとか、ゲーセンに直行したりとか、そんな光景も目にする。

家が居づらい、とか、ちゃんとご飯をつくってくれてないとか、家庭環境の難しさに出会うのだ。聞いた話では、給食を食べに学校に行っている子もいるらしい。1日に1食、給食だけを食べている。その食べ方が異常だから保健室の先生が対応したら、その事実がわかったそうだ。

こんな話はもしかしたら見えていないだけで巷にあふれているのかもしれない。映画『誰も知らない』は20年以上前の実際の事件をモチーフにしているけれど、ああいうことはそれから至る所で起きているのだろう。程度の軽いものも含めて。

寂しいし、お腹も空いているし、親とうまくいってなくて家にはあんまりいたくないし、でもずっと友達と遊ぶわけにもいかないし・・・。家にいることが我慢することになっちゃってるのかもしれないなぁと思う。


で、課題。

この微妙な夜の過ごし方を変えていくことができたらいいのにと考える。退屈しない。夜出歩いていい。人と関われる。あわよくば一緒に御飯が食べられる。


ここで企画の参考例。

ぼくが敬愛しているアーティストグループ「Mammarian Diving Reflex」がとてもおもしろいプロジェクトをやっているのを思い出した。『Nightwalk With Teenagers』というシンプルなタイトルのプロジェクト。夜の散歩をしよう、というこれ。(詳しくは、MDRのプロジェクトを経験して育ち、自らプロジェクトをつくるようになったYoung Mammalsの1グループ「The Trontonians」が主催しているみたい。詳細はこのブログに。http://www.thetorontonians.blogspot.ca/p/nightwalks-with-teenagers.html

10代中頃の少年少女たちが、ある街の夜の散歩ツアーを企画する。地元の子達が組んだツアーを、他の街のティーンエイジャーたちや一般の人たちに参加してもらう、というプログラム。

この内容を読む限り想像できるのは、若者の目線を知るのは大切ですね、みたいな教訓めいたもの。でもこのプログラムが提供しているのは多分その視座に限らない。コンセプト文にも書いてあるが、10代の少年少女たちと大人との間にあるバリアをぶっこわすことがねらいになっている。

(プロフィールに「dance on the street, start fights with drunk guys, take photographs, draw penises, ・・・」などと書かれていて、この「The Trontonians」がワークショップ時代のストリートカルチャー/ヒップホップを担ってる感がすごい。)

そもそも10代の少年少女たちが微妙に社会の「ヨソモノ」として扱われていること。そして夜の街を出歩くというネガティブに見える行為をツアーで体験することで、その奇妙な魅力と高揚感を味わえることなど、いろんな演劇的な仕掛けがしてあるだろうな〜と思われる。参加してみたすぎる。



で、提案。

この『Nightwalk With Teenagers』に「夜警」「防犯」みたいな意味をつけて、東京でもできないか、ということ。練馬にも夜出歩いてる少年少女たちはちらほらいる。彼らをオーガナイズしてこのプロジェクトのメンバーになってもらって、企画をつくることで夜の時間がひとつの枠組みに変わる。一緒にご飯食べるのも企画の途中に入れる。さらに地元の人にそのツアーに参加してもらえれば交流のきっかけにもなる。コンビニで出会った時に、わけわかんなくて怖い他者じゃなくなる。

もちろん夜の世界は不思議なので、予想だにしないリスクにあふれているんだろう。でも、なんかできないかなぁ…。

ひとまずの目標はトロントにいってこのプロジェクトを体験したいということだ。(というか彼らのプロジェクトのことを聞きに、ぼくはこの6月にドイツに行ったのだ。まるでおっかけだ。)

2013/11/27

記号消費、ショッピングモール、ネオ公民館

今日知り合った地元密着系カフェの経営者の方から聞いた、お客さんでくる若いママたちの態度がすごい話。

お弁当持ち込んで何も注文しないわ、子どもがキッチンに入り込んでも叱らないわ、他のお客さんの迷惑になっても謝らないわで、やりたいほうだいなんだとか。

「そういうの注意しないんですか?」と聞くと
「怒らせると集団でつぶしにかかってくるからねぇ…」との答えが。

「え!?なんで!?」と理由をきくと、どうやらツイッターやフェイスブックでやたらめったらひどく書くらしい。たぶん「あのカフェは子どもをもつ母親に優しくない」みたいな感じなのかなぁ。そこに「私もそうでした」とビンジョウされて「それはひどい!」と共感を集めちゃったときにはもう炎上。お客さんが近寄らなくなっちゃう、ということがあるそう。共感マーケティングのダークサイド、といったところなのかな。

で、さらにおもしろいのが、そういうお母さんほど有名人の子育てに関する講演会や、「情操教育」を謳ったコンサートなどにせっせと足を運ぶとか。きっと"知育玩具"とかも買いまくってるんだろうなぁと想像する。(でも、造形ワークショップとかやってもあんまり興味を示さないのだとか)

「正しい子育て」という記号を追いかけ、それを子どもに体験させることでちょっとした安心感を得る、終わらない記号消費なのかもしれない。そういう記号消費の体験が子どもを育てているのが実態なのかもしれない。

でも、子育てってうんちにまみれたりげろ吐いたり、人間のプリミティブな部分と向き合うことに必然的になるんじゃないのかなぁ?そういう記号消費の裏には、子育てのしんどさとか、ある種の"ファッション化"した子育てのあり方とか、あるんだと思う。考えさせられる。

結局、ショッピングモール的な匿名文化がそれを育んでるんだろうなぁと感じる。とここまで書いたところで、突然『思想地図β』のショッピングモール特集のことを思い出したので、さっそくamazonでポチった。

歯止めの効かない「消費」の敷衍、世界のフラット化に抗うことはきっとできない。そんな郊外で必要なのは、ショッピングモールの仮面をかぶった複合的な「ネオ公民館」なのかなぁと思う。

それは例えば、1階がカフェ、地下がパーティーホール、2階に保育所・学童保育・高齢者のデイケアセンター、3階がワークショップスタジオみたいな感じの。

SHIBAURA HOUSE」のコンセプトはそれに近いものを感じる。民間企業がこんなかっちょよくて近未来的な空間をつくるのが容易でないことはわかっているつもりだけれど、可能性を信じてみたい。




2013/11/18

遊び、メディア、自治 ―YCAMコロガルパビリオンにて


YCAM10周年記念祭で設置された「コロガルパビリオン」。これは、ナナメに伸びる床やミニマルな山やジャングルジムでできた抜群のアスレチック感に加え、マイク、カメラ、LEDなどさまざまなデジタル機能が埋め込まれた公園型パビリオン。

遊び方を「習う」のではなく、子どもが身体をフルに使って遊ぶことで「生み出していく」というのがコンセプト。「子どもあそびばミーティング」というワークショップを通して、子どもによる新しい装置や使い方の提案、YCAMのテクニカルチームによる実装がなされ、子どもの意見によってアップデートされていく。

この映像をごらんいただければ、コロガルパビリオンがどんな場所か、一目瞭然。


Korogaru Pavilion from YCAM on Vimeo.
「コロガルパビリオン」
山口情報芸術センターに隣接する中央公園に設置された仮設の半屋外型メディア公園。斜面や飛び降り台といった身体的な要素と、照明や音響といったメディア的な要素が分け隔てなく存在し、相互に影響しあって子供たちが新しい遊びを創出するための基礎となります。遊具の使い方を習うのではなく、自ら考え創造しながら遊ぶという公園です。
http://10th.ycam.jp
http://www.facebook.com/YCAM10th


空間としては、去年の「コロガル公園」の検証と建築ユニットassistantが設計に加わったことで格段にパワーアップしていた。建築の特徴としては、二つの円形の空間があり、走り回る「速い遊び」とよじのぼる「ゆっくりな遊び」といった遊びの速さ、光の入り方、ウチとソトなどが対比された構造になっている。



面白かったのは「子どもあそびばミーティング」を通して、2つに分かれた空間をつなぐアイデアがいろいろ生み出されていたこと。片方でスイッチを押すともう片方から突風が噴き出る仕掛けや、それをモニタリングできる仕掛けなど、見えない2つをつなぐデジタルなメディアとフィジカルな遊びがリンクする。

そもそもデジタル=メディアではなく、人と人、人とモノ・コトを媒介するモノ自体が「メディア」と捉えることができる。その意味で言えばお金とか法律とかもある種のメディアになる。(商店街で展開されていた「LIFE by MEDIA」のプロジェクトは服や特技といった貨幣以外のモノを交換することで場が成り立つものだった)

コロガルパビリオンでは、その「法律」すなわち「ルール」にまつわる部分がとても興味深い。この公園の大きな特徴として、プレーパークと同様の「自分の責任で遊ぶ」「それ以外は自由」というルールを採用し、それを承認した上で入場させている。この責任の所在が全面的にYCAM側になってしまうと、危機管理が厳しくなり、子どもの遊びの自由さ/創造性を制約することになる。うらをかえせば、個人の責任で行われる遊びは創造性と自由度が高い。

もちろん喧嘩は起こるし事故や怪我もある。そういう諸問題に対応しつつ、子どもの遊びの可能性を拡張していくために「プレーリーダー」の存在がある。彼らが媒介になって子どもの遊びづくりをサポートし、またそれが他の子にもシェアされ、ゆるやかに連帯していく。もちろん、遊びだけでなく、喧嘩が起きた時の仲裁や、トラブルが発生したときの対応など、子どもたちが自分で考えられるように促していく。プレーリーダーはそこで生み出された遊びやルールのデータベースとして機能しているようにも感じた。(毎週1回、鍋を囲みながら会議をしている彼らの影の努力があってのこの機能だけれど)

プレーリーダーがサポート役となって、さまざまな遊び・ルールが生み出されていく。そこに「子どもあそびばミーティング」を通した公園機能のアップデートがある。これによって、自分たちの遊び場を(大人の協力を得ながら)自分たちでつくる、という「自治」が展開されているらしい。自分たちがよりよく遊ぶために、装置や企画をつくり、法をつくり、仲裁の仕方/されかたを学んでいくこの場には、行政・立法・司法のプリミティブな芽生えがあるのかもしれない。




更に面白いことは、会期の終盤になって、本物の行政を動かすための「運動」が生まれ始めているということだ。コロガルパビリオンはYCAM10周年記念祭における仮設建築として施工しているため、12月1日の会期終了とともに無くなってしまう。それを「署名運動」によってコロガルパビリオンを存続してもらおうと運動を起こした女の子がいる。




小学3年生の彼女は、署名用紙をお父さんに作ってもらい、YCAMのコピー機で印刷し、公園に設置している。周りの友達や来場者に呼びかけ、署名を集めている。これまでコロガルパビリオンの内側/遊びの中で経験されてきた「自治」がその枠を飛び出し、ついには本物の行政を動かすかもしれない。

こんな風に、子どもたちが自分たちの遊び場を(大人の協力を得て)自分たちでつくりだす、というコンセプトは「冒険遊び場」から生まれ、歴史は長い。しかし、メディアセンターが教育普及の一環でこの取組を始めた、というところに新規性がある。公園の新しい価値を問いなおすと同時に、メディアセンターや美術館自体の公共性のあり方を問い直す実践になっていた。

ぼくらが取り組んでいる《放課後アートプラン》においても、この事例が参考になる部分は少なくない。ルールや使い方を子どもたちとともに決めること。子どもたちにとって、そのほうが楽しい遊びができる!という実感があること。子どもたちのこんなことやってみたい!という「意志」と、自分で考えてつくる!という「責任」が喚起され、それを大人のサポートによって実現させていくこと。"環境づくり"がポイントになっているぼくらのプロジェクトにおいて、このコロガルパビリオンはひとつの重要なモデルケースになる。


2012/11/11

公共文化施設のコミュニティ・プログラム


今日は世田谷パブリックシアターで「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」と題したシンポジウムへ。

考えたことは、「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」に関わる人たちの「必要」とはなんだろうか、ということ。

第1部のテーマは「(コミュニティ・プログラムの)目的・対象・方法」。

公共文化施設に対して、まず税金を払うという関わり方をしている市民、区民、都民の「(潜在的な)必要」というのがあって、それにエクスキューズすることが公共文化施設の仕事の一つとなる。会田さんが言っていたように、公共施設の事業は行政の政策と不可分なものであって、プログラムを作る人がただ単に自分の興味関心でつくっていていいわけではなくて、議会での審議を経て提示されている自治体の政策方針とか、政策内容とか、施設に求められるものや自らが掲げるミッションと、プログラムをかみ合わせていくという作業がいる。

プログラムに参加する人びとの「必要」というのは、「これに参加すればこういう効果が得られる」とか「こういう知識を学べる」とか「こういう快楽が味わえる」ということだけでなく、「あたらしいものに出会う」という好奇心を満たすことであると考えてみる。しかし、好奇心の強さやベクトルは人それぞれだし、いろんな好奇心の有り様に応答していくこともまた、プログラムを考える側の仕事になっていく。

わけのわからないものに出会ったときに、それをしりぞけ思考停止させるのではなく、それに対して取り組むことが創造力だ、という会田さんの話にはすごく共感したし、わたしたちはどうしていったらいいのか、ということを美術や科学や演劇やメディアアートを通して、議会とは違う在り方で考えることができる場がコミュニティ・プログラムだとする野村政之さんの考え方にも。人びとが文化を更新していく創造力をもって未来というわけのわからないものに向かっていくためのコミュニティ・プログラムなのであって、そのために人が集まる場をつくり、集まった人びとがモノゴトをつくることを楽しめるような工夫をする。

個人の好奇心からだけでなく、仕事に関わる「必要」もある。たとえば学校の先生達は、鑑賞教育が組み込まれたときから芸術作品を鑑賞する、ということを身をもって子どもたちに伝えることが必要になり、よりよい鑑賞教育の方法を模索しているという。東京都現代美術館の郷さんは、アーティストの訪問事業に加え、先生たちの研修会に美術館の一室を提供したり、先生が無料で展覧会を鑑賞できるプログラムを実施したりして、この先生たちの現状に積極的にコミットしている。

そして最後に、プログラムをつくる側の「必要」というのはなんだろう、ということ。自分もそうだから、自分の「必要」を語るとすると、まず前提として自分がいいと感じる芸術を信じているし愛していると思う。そしてそういう芸術が人びとにエフェクトしたり、人びとからエフェクトされて芸術が変容していく風景をみたい、という「必要」、というか欲望がある。とくにそれが子どもであり、子どもの遊びによって芸術が変容しより奥ゆきを増していくプロセスに興奮するし、その興奮は生きていく上でもはや「必要」だということ。

あらかじめ定まっている未来などなく、いま・ここにあるのは、すでに生まれた人やモノゴトと、これから何かが生まれるという予兆であって、できることはそれを予想すること。そして、それを形にするのはほかでもない人びとの意志や行為だし、その形の価値はどんな文脈におき、どんな言葉や数字を与えるかでいかようにも変化する。人びとの必要というより意志を知り、何を為しているかを知るために、プログラムをつくる人間はよく耳をそばだてておかなくてはなるまい。そうして集めた情報や感じた気運から、人びとと何を為したら面白いかを想像し、すでにそこにあるモノゴトや文脈とすりあわせながら、それが実現するための時間を組み立て、空間に人やモノをあつめ、出来事を生み出し、その後に言葉や数字をあたえていく。面白い仕事だなぁーと思う。手仕事やフットワークによるプログラミング。

とはいえ、アーティスト・イン・児童館としては自治体の政策についてのリサーチも足らないし、ミッションももうすこしバージョンアップしたほうがいいし、文脈の整理も甘い。ドラマツルギーが要る。来年はいろんな情報を収集し、文脈をつくる作業に1年を充てて考えたい。

で、第2部は「地域と子ども」がテーマ。だったはずが、第1部とほとんど同じテーマになっていたような気がする。こういう場で質問するのは苦手というかあんまりやったことないのだけど、「ワークショップという言葉がたくさんでてきたけど、ワークショップはサービスと考えていますか?それともクリエーションだと考えていますか?」という質問と、「地域の子どもたちに施設をどのように活用してほしいと思っていますか?」と聞いた。

「ワークショップはサービス。そうでなければ市民に作品に奉仕してもらうかたちになる」と言い切った柴幸男さんは鮮やかで、なおかつ「ワークショップじゃなくても、地域のなかに作家の存在があって、創作の現場があるだけでいろんな影響や効果があると思う」という話には頷いた。どうやってその効果を測定すればいのか、また、どうやってその影響を効果的に生み出すことができるのかはまったくわからないけれど、アージにトライできる重大な部分な気がする。

大変刺激になった一日でした。明日からまた走る。

2012/03/27

円環、フィールドワーク

フィールドワーク、とか、客観、とか、そういう言葉と共に大学生活を過ごしてきたけど、2011年度のプロジェクトは、それらの言葉を疑うところからはじまったように思う。

いろんな人々の活動やコミュニティのことを「円環」と捉えるとすると、ある円環を一歩外側から見る、みたいなことって実はあり得なくて、客観的と思っていたポジションも実はその円環運動の中に組み込まれている、と考えることにしている。

フィールドワーカーは現場に影響を与える。現場を変える。その変化の当事者であるべきだー、ということは前もこのブログに書いた。

客観的、ということは全くあり得なくて、複数の主観があるのみ。フィールドワーカーも、主観のひとつ。それまでその場になかった新しい主観であり、それまでその場にあった役割と、新しい役割の間のステップワークでしか、フィールドワーク的な眼差し、記述はありえない。

円環は常にふくらんだりしぼんだりしている。外側も内側も、実は無いんじゃないか説。

2012/02/26

時間をつぶす。時間をつくる。

児童館は時間をつぶすための場になってほしくないなぁと思う。
アトラクションは、時間をつぶすための時間をわざわざつくっている。児童館がそうなってほしくないなぁと思う。

時間をつくる、というのは2つの意味があって、1つは予定をあける、という意味。
もう1つは出来事や状況をつくる、という意味。「時間をそだてる」とも言えるかもしれない。

前者は、時間がスケジュール帳のようにグリッドにわかれていて、その1マスを何かの目的のために空けておく、という考え方。これは、その1マスが塗りつぶされることを期待していて、その時間を塗りつぶす、片付ける、という思考につながっていく。ひとつひとつ消えていくタスク処理の快楽を味わうためにこのグリッドの時間の考え方は有効。

後者は、時間を蔦のように伸ばしていくイメージ。ある出来事が生まれ、つながり、派生していく。失敗すればその時間は枯れ、伸びない。出来事から別の出来事へと連鎖をつくり、未来も過去も縦横無尽に移動する思考を生む。こんなふうに方々に伸びていく時間のつくり方・そだて方を知っているのが演出家であったり、美術家であったりする。音楽家もそう。それぞれ別の方法だけど、芸術家は「つぶす」とは別の感覚をもって、他者との間にある時間を育て上げている。

なんか今日話していて、児童館を開いていく、今のこの《全児童自動館》は、児童館に観客をつけ、育てていく活動にもなっていくんじゃないかなと思った。ナデガタの方法は、普通の素人の仕事を面白く見立てる。今回は中高生がその見立てられる側、になるわけだけど、その見立ての技術をしっかり見ておいてほしい。そして大人のお客さんがたくさん来る(呼ぶ!)から、大人がどういうところを楽しんでいるのかをよーくチェックしておいてほしい。そして、これから大人を楽しませる/驚かせる/裏切るものをつくっていく方法を、実践してほしいと願う。第二回全児童自動館があるとしたらほんとみんながつくったらいいよ。ぼくも応援するし。

壁に守られた、時間をつぶすための場所は少なくなっていく。そこでの時間をつくり、そだてていく主体はだぁれ?という話になってくる。




2011/10/22

穴を掘れ、底を抜け

空間と、メタファーと、機能について。

名前からは、その機能や内容は伝わらない。例えば「原っぱ」。名前それ自体は「草が生えている場所」というだけである。「原っぱ」は、メタファーを与えることで機能がうまれる。「野球場」にも「サッカー場」にもなる。ある空間にメタファーを与えることで、機能を生みだす。公園、みちばた、壁。町の中には、メタファーをあたえたほうが面白くなる場所がたくさんあるわけだ。

穴を掘る遊びについて

"穴掘り"は夢中になる。穴を掘る、その行為自体がおもしろいのであって、それがどこにつながっていようと関係ない。が、掘っているときにもしかしたら、「どこかにつながっているかもしれない」「もし、どこかにつながっていたら」というようなことを想像しているかもしれない。"穴掘り"をメタファーとして、夢中になって穴を掘っていたら底が抜けて、ふと別の世界・時間につながってしまう。そういう"穴掘り"のための環境を現実にする。


2011/10/17

文脈化しにくい「思い出」

「子どもらしさ」を乗り越える方法を考えたいと思っている。

言葉、建物、プログラム。この3つがうまく合わさって、子どもは子どもらしさを、学生は学生らしさを、老人は老人らしさを手に入れていく。「らしさ」に基づいて自分を文脈化し、語ることができる。

人を言い表す「言葉」がある。「わたし」「あなた」「高齢者」「障碍者」「子ども」「学生」「社会人」などなど。それらの言葉を使ってアイデンティティを記述する。その言葉を補完する「建物」がある。「学校」「老人ホーム」「オフィス」とかそういうもの。これらにしたがって、所属・所在を記述する。こうして自分以外の人が、この人が誰だかわかるようにするための仕組みが出来上がっていく。そして、その枠組みの中で物語を生む「プログラム」がある。学校なら授業、オフィスならデスクワーク、老人ホームなら、お遊戯、という具合だ。ぼくは、ここでこんなことをしたよ、あんなことをして楽しかったよ、と語るネタになる部分だ。ネタを組み立てて文脈にしていく。

ここでの問題は、ネタが用意されている、ということである。そしてそれは、「楽しかった」「◯◯だった」と語られることを予定している。修学旅行の「思い出づくり」とかまさにそれ。「思い出」は「らしさ」をつくりだすシステムの重要な要素だ。

アー児を通してぼくは、参加した人のために、語るためのネタを用意している。それが「思い出」になるといいなと思っている。しかし、それは「子どもらしい思い出」との距離をとって、文脈化しにくい「思い出」になるよう仕掛けている。

子どもは、子どもらしくない自分の要素(文脈化できない要素)に気づいて、オシャレをしたり、音楽の趣味を変えたり、旅をしたりして「別の文脈」を引き寄せて、少しずつ大人になっていく。

アーティストの作品は、もちろん子どもらしくない。その中に自分の「思い出」の断片があるとしたら。その断片に、どんな文脈を引き寄せるのかは彼ら次第。面白い大人になってほしい。