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2016/03/28

劇中劇中劇、お遊戯、事実 ー三月企画『GIFTED』を観た

劇団「ファイファイ」の野上絹代さんが、新しく「三月企画」というプロジェクトをはじめた。その旗揚げ公演である『GIFTED』を観てきた。http://www.kinuyo-marchproject.info/



絹代さんとは2012年にアーティスト・イン・児童館でファイファイを呼んで『Y時のはなし』の公演をやってもらった時からの付き合いがあって、2014年には水戸芸術館「拡張するファッション」やアーツ前橋「服の記憶」といった展覧会でFORM ON WORDSのファッションショーの構成・振り付けをしてもらった。いまのココイクの仕事でもお世話になった。尊敬する姉のような人だと思っている。今回の公演『GIFTED』では、ファッションショーの音楽を作ってもらったmother terecoが音楽を担当していたし、彼らの仕事と「ビッグバン」っぷりが見事だった。

演劇は普段なかなか見に行けないけど、見るのが好きだ。目の前の生身の人間が、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりして次々とイリュージョンさせて別の世界を立ち上げちゃうんだけど、触れようと思ったら触れられる身体や声はやっぱり目の前にある。目の前で巻き起こる言葉や声や歌や音がグルーヴして、観客のきもちがごちゃ混ぜになっていく。そういう感じの演劇を見るのが好きだ。

『GIFTED』は「時間はちょっとしたことで操れちゃう」という話から始まり、序盤では、絹代さん自身や役者の方々のプライベートな経験なのかもなと思われることがポツリポツリと語られる。小さな男の子を育てていて、同時に親の介護に週に一回行っていること。3人の子どもは家を出ていて、夫は7年前に先立ったこと。

子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。

本人と思われる語りからはじまって、保育士、子ども、母親、ママ友、おばあさん、介護士と役者はめまぐるしく役を入れ替えて演じていく。はじめは役を着ていない個人として語り、子どもの役をやり、親の役をやり、高齢者の役をやり、子どもの役の中で魚や動物の役をやり、その切り替わりのドタバタ感が可笑しくて可愛い。とくに子どもと母親のやり取りは、役者自身の経験の再現だろうなーと感じるし、それをプロの役者がやるものだから描写が細かくて楽しい。

お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。

クライマックス。子どもたちの卒園式のお遊戯会の演目を決めきれずにいた保育園の先生が、げっそりした顔で「浦島太郎はやらず、宇宙のはじまり、ビッグバンをやります」と言いはじめる。「今あるものが全部ないのがビッグバン以前です。そのために、みんなのことをなくしてみせます!」みたいなことを言って、子どものお絵かきのような絵を使ってタイムスリップが描かれ、戦争から江戸時代、原始時代から恐竜の時代へと遡っていく。その中で漂う女の子が、声や、音の裂け目を発見して、ないものからあるものが見つけられていく。

ありったけのエネルギーを使い、絶妙に微妙な手作り小道具を使い、これまた絶妙にダサいダンスがあり(これが最高すぎた)、大人が全力で大声を張り上げながらビッグバンをお遊戯していて、それがはじけた後、それはみんなそれぞれに事情や生活をもった個人なんだってところに還っていく。

過去の経験や記憶、お遊戯が媒介になって、嘘と本当とがごちゃ混ぜになって、今この時代を生きてるっていう事実が、今目の前で演劇になっているんだなぁと感じた。

そうそう、『GIFTED』を見て感じたのは、演者が観客に向けてなにかを物語る手法として演劇があるというよりは、演者も観客も含めてそこに集う人々の経験をごちゃ混ぜにして今ある事実とか生を肯定するものとして演劇がある。みたいなことだった。こういうの、なんていう概念なんだろう。

こんなふうに役者の個人的な経験が反映されまくるものって、好みは分かれるかもしれないけれど、この作品の世界への肯定感がぼくは大好きだったしずっと笑ってたし、ラストのラストでみんながある言葉を慟哭する場面は泣いた。

そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!

*関連する記事はこれ




2012/12/06

乗り物のこと

『Y時のはなし』の公演が無事に終わりました。おわってみて考えているのは、乗り物のことです。

昔から『天空の城ラピュタ』に出てくる巨大なゴリアテに憧れてて、あれに乗ってる人たちはなんだかんだみんな楽しそうだし、あんな巨大な鉄の塊が宙に浮くなんて、なんて自由なんだろうと思っていた。

子どもたちの遊びのノリ/快快のグルーヴは重なりあって、まるで建物ごと宙に浮かすかと思うほど。物語は航路。グルーヴは動力。そして劇場は乗り物。操縦室は、どこだろうね。児童館がゴリアテのように、宙に浮いていろんなところに行けたらいいのに。

かわいい子には旅をさせろというけれど、乗り物はメディアだし、メディアは乗り物なわけで、子どもたちがメディアを使いこなせる環境は、あらためて必要だなぁと思う。メディアというのは、言葉であれ、演劇であれ、映像であれ、紙であれ。

旅というのは素敵なもので、身体を多面化するし、想像力を拡張する。

重要だと思うのは想像力で、地球上のどこへでもいけてしまうし、どの地域のようすも見れてしまう今だから。例えば来年、サハラ砂漠で暮らしているかもしれないし、アラスカに行くこともあるかも知れない。ロマンチシズムじゃなくて、このことを皮膚が想像できるかどうか。

例えば、風船に手紙をつけて飛ばしたら、見知らぬ誰かから返事が来たとする。見知らぬ他者とのやりとりが身体に残る。見知らぬ他者ともつながりうるという可能性が実感を帯びて身体に落ちてくる。旅することはそういう感覚を身体に蓄積させていくことでもあって、それはつまり、多様な他者と自分の関わりを想像できるようになっていくことだったりする。

乗り物は、身体そのものを別の場所に運んでいく。手紙は、自分の身体の内側を紙に憑依させて別の場所に運んでいく。メディア/乗り物にのって旅をする体験の蓄積は、想像力を拡張させたり充実させたりする。そうすると、予想だにしない事態にもしなやかに応答していけるようになる気がする。

子どもたちを「乗り物」に乗せること。子どもたちと「乗り物」をつくって動かすこと。なんかこれは企画のヒントになりそうな気がする。




2012/11/25

Y時制作日記(3)

今日は集中稽古でした。

光が丘なかよし児童館の子たちと、中村児童館の子たちの合同練習。ドッジボール大会のときみたいにディスり合うかと思ったけど、互いのパフォーマンスを認め合っていた。そして仲良くなっていった。

子どもたちと快快が1つのカンパニーになってY時のはなしを作り上げている。

放課後の、特別なY時。子どもたちが登場すると、舞台袖にいる快快メンバーがやんややんやとはやしたてる。こーじさんとゴリラの対決の白熱っぷりに押されて高まる子どもたち。このグルーヴ。

子にんぎょたちの、一人ひとり考えたきらきらの魔法。

ロボたちの、恥ずかしがりながらの努力。

楓馬センパイのカエルの暴走。

「カエルー!この剣を見ろー!」「うるせぇ!」

大爆笑。

お祝いダンサーズの決死のステップ。

あー、本番2日間、たった2日、だけど2日。どんな奇跡が起きてもそれは単なる奇跡じゃなくて、物語はずぅっと変わり続けるんだなぁ。



2012/11/22

Y時制作日記(2)

今日は中村児童館の第一学童で稽古。ひとしきり昨日のカエルの話題で笑う笑う。
ぼくは昼過ぎまで結局「しおり」の制作。しおりを渡したことによって、世界観が広がる広がる。

そのご、文美さんの車で光が丘へ移動。6時間授業のあとでくたくたに疲れた男子たちは集中力を欠くが、なんとかやり通した。絹代さんもつかれ気味だったけど、すごいなぁあのひとタフネスの人だわ。そして、ここでも「しおり」はモチベーションになっていた。

そのあとデコの準備を淡々とやっていた梨乃さんの手伝いをしてた中1男子から恋を告げられて悶絶したりして。

そういえば昨日面白かったのは、稽古場として使わせてもらっていた学童クラブの子どもたちに篠田さんが「誰ー?」と問いただされていたときのこと。

「誰〜?」
「今度劇やる人だよ」
「え〜?おばさん?」
「そうだよ」
「きゃはは、ほんとはおじさんなんじゃないの?」
「おじさん、でもある」

えー!!と思って。「おじさんでもあり、おばさんでもあり…」アイデンティティが複数で複雑すぎる。さすが練馬の一角獣、バンコクの蜃気楼こと篠田千明。この話ときどき思い出し笑いします。

Y時制作日記(1)

快快『Y時のはなし』の制作が全部で11日間のリハーサルのうち、3日が終わった。快快の集団制作のグルーヴが高まって、子どもたちにも波紋し、すごいことになっている。

今日、ずっと習い事があって参加できない、と言っていた子が申し込み用紙を持ってきた。これは、①11月24日(土)・25日(日)の集中稽古および12月1日(土)・2日(日)の本公演に参加できること、②肖像および著作を快快の作品として使うこと の2点を承諾してもらうための手紙でアー児が用意したものなのだけど、この子はこの手紙を見せながら、お母さんに習い事を休ませてもらえるように交渉したのだとか。この手紙は単なる手続きだけじゃなくて、子どもたちが自分でスケジュールを選択するための交渉材料にもなっていることが想像できる。だから子どもにもわかる内容でレイアウトしたり、イラストくわえたりして一手間することが重要になるだろうな〜と思う。

あと今日印象に残ったのは光が丘なかよし児童館でのやりとりで、ツイッターでも言ったけど、これ。



今日光ヶ丘なかよし児童館で出演する小6男子とその友達の女子のやりとりで、「そうた君も出るの?」「そうだよ」「誰にやれって言われたの?」「やれって言われたっていうか、やるって言った」って言っててグッときたよ。



自分の意志でここにいることちゃんとわかってるし、多少恥ずかしい思いをするかもしれないことを、人のせいにしてない。こんなにもすぐ人のせいにする大人が多いのに、おまえ!と思ったらもうぐーっとくる。



あとは、100%夏休みのころからカエル役をやりたがっていた楓馬が、ついにそのカエル役のために生まれてきた自身のカエル性を爆発させたことです。もうこれは見てもらわないとわかんないなぁ。

どうにかして見たい風景があって、そこに何とか辿り着けそうだという希望が見えていて、全力で向かっているんだけど、その風景に出会い触れることができたとしてもたったの2日間で終わってしまう。見たい風景とは結局日常からすこしだけ浮遊するための場であって、2日間の限られた時間の幻で、それに魅了されたからまたそれを追いかけるんだろうな。


2012/11/10

不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。


今日はこーじさんの中村小劇場。Y時のはなしの夢のシーンの稽古をする、ってことになったんだけど、1人途中でやりたくなくなっちゃった子がいた。最後は結局やってたけど、彼らの意志のありようを、もう少し作りこんでいきたいなぁと思う。

アーティスト・イン・児童館の企画に参加する子どもたちは、何かを予感して唐突に決意をする。面白そうという予感とか、やってみたいという希望の根拠は整理ないくらいいろいろある。裏を返せば、あんまりない。



しかし、そのあとに、予感したこととは違っていたり、不安になることもあったりとかして、彼らの気分はこれまた唐突に重たくなったりする。子どもたちにとっての「気分」とは、自分では制御できない自分の外側からところから訪れるものだと思う。何かを楽しみにしているときはグルーヴに流され、何かに不満をもっているときは得体の知れない重さに沈められていく。大人は、経験を参照したり、言葉を駆使したりして、「これが原因で落ち込んでいるから、こういうふうに考えよう」とか、「こういうことが自分にとって楽しみなんだな」と感情を言葉を使って整理することができたりする。子どもはそれができないからダメというわけではなく、そういう言葉の使い方じゃない生き方を体現しているという意味で。


彼らの身体に流れたりのしかかったりする、なんだかわからない気分だか気運だかに翻弄されながら、快快のメンバーは彼らの意志を信じて、一緒に舞台に立つ場面を想像しながら、制作をすすめている。子どもたちが舞台に立たないことを選択するかもしれないし、環境が彼らの意志に関係なく可能性を断つ場合もある。風邪をひいちゃったりとか、家族の用事とか、どうしてもやりたくなくなっちゃうとか。一度決意したらもう出演する以外の未来はない!というわけではなくて、そこは環境や本人の意志に委ねられる。ここに義務はなく、あるのは彼らの意志と、それを叶える/叶えないを決める環境であり、それを運命と呼んだりもするわけで。


その先に何があるのかといえば、舞台に立ち人に観られるという経験が待っている。もちろん、その経験が至上のものだ!というわけではなく、もしそれがかなわなかったとしても、今回はできなかったけど次回は、とか、観客として楽しむとか、彼らの人生に多様な可能性と経験を与えていることにほかならない。次回はやりたい!という雪辱にも似た気持ちを持つことは希望だし、自分は観客のほうがいいやという気持ちは見る目を養うし、演劇なんて大嫌いだ!という感情はそれを抱えて生きる人にしか見えない風景をもたらす。どれも、どうなっても、いいことだ。


舞台に立ちたいという意志をもち、環境に選ばれた子どもたちは、ホールに現れた百何十人の観客のまえで自分の身体をつかって表現をする。これは彼らにとって日常の遊びからのワープの体験であり、それはいつもの教室や家や遊び場とは違う、いったいなんだかわからない価値体系の中に居ることになる。面白おかしいコスチュームを着て大きな声でヘンテコなセリフをいうことは、日常では奇妙で忌避されることであっても、舞台ではそれが賞賛される。遊びの中でウケ狙いで芝居めいたことをやることはあったとしても、舞台ではそれをガチンコでやらなきゃいけない。舞台でもウケを狙うが、それはオフザケではなくガチ。


それに加え快快というチームの面白さは木村覚さんの言うように(※)、"役者が「役者」であることから半分降りて当人として舞台上に上がっているようにも見える"ところにある。児童館では快快のメンバーは(個々人が強烈な個性を持つことは間違いないが)子ども向けにキャラづくりも特にしていないし、稽古をするときでも、役になりきっているというよりは、その役を演じている本人、として演劇をしている。児童館の子どもたちは、役者として舞台に立っている山崎皓司や野上絹代や竹田靖ではなく、友だちなのか先生なのかよくわからない大人として出会っていて、そういう不思議な間柄で仲良くなっている。そういう大人たちが舞台にたって演劇をしているものだから、たぶんそこが舞台なのか児童館で遊んでいるのの延長なのか、明確な分別がないままに公演を終えることになるだろう。


舞台というよくわからない価値体系の場所と、日常の遊び場が入り交じっていき、そしてそれが作品として見知らぬ他者に見られたり批評されたりするという不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。またひょんなきっかけで彼らの前に旅路が開かれることがあるかも知れないし、もう無いかも知れないし、旅がしたくなったら自分で旅に出るかもしれない。

いま、快快プロジェクト『Y時のはなし』は本番3週間前を迎え、軽いも重たいも楽しいも不安も、うねりながら12月1日の初日に向かっている。気がする。

臼井隆志



※快快『りんご』:artscapeレビュー/プレビュー

2012/11/05

終わるということはとてもいいこと。


11月2日。アサヒ・アートスクエアで撤収作業をした。みんなで作業をすると、終わるから気持ちがいい。なんか009のキャッチコピーが「終わらせなければ、始まらない」なんだけど、プロジェクトもそうで、終わるということはとてもいいこと。その後浅草でハマくんと餃子をたべて、そのながれでシオリと新宿でグラタンをつつきながらビールを飲んで、夜行バスで仙台へ。


11月3日。文部科学省主催のフォーラムでポスター展示。3.11以降の復興に向けた教育活動が多く、東北の、未だ揺れ動くそしてますます窮屈になる空気のなかで、活動する人たちの意気込みを感じた。

11月4日。まちづくりセンターの助成金の中間報告。《放課後メディアラボ》についてのいろんなプランが浮かぶ。


11月5日。絹代さんの「FAIFAIの親子DEダンス」の二回目。進化した親子ダンスで、10数組の親子が参加した。とっても良い風景でした。そしてそのあとは池袋のファミレスで3時間ミーティング。色々決まってきたよー。

『Y時のはなし』快快×アーティスト・イン・児童館
チケット予約はじまってます。

2012/11/01

終わったあと何にどうつながっていくかまで想像して



《Form on Words: ネクスト・マーケット「ジャングルジム市場」》がなんとか無事に終わって、ほっとしてたら今日は朝起き上がれなくなった。

イベント一個かたちにしたからって喜んでるようじゃだめで、そのイベントが終わったあと何にどうつながっていくかまで想像して、備えておけるぐらいの仕事っぷりが、マネジメントとしては理想なわけで。

そんなわけで、続く《Y時のはなし・イン・児童館》はそのあたりも意識したいと思っているんだけど、広報のこととか児童館行事との兼ね合いのこととか、わりとあらが出てきてる。もっとシンプルに、目標を設定して軽やかな頑張り方できるように、思考をきりかえにゃなー、と思う一ヶ月前。

でも、やりきってみると必ず次に繋がる、というのは経験的に知ってるから、その経験と感触をたよりに、やりきるための神経を高めていくしかないわな。久しぶりに400mハードルやってたころの、中盤の切り替えみたいな気持ちになってる。

ナイロビやパリとスカイプで話したりして、今週はなんだかインターナショナル。自分の仕事も、ヨーロッパにもっていったら面白がってくれる人けっこういるんじゃないかな〜と最近イメージしてて、実際にヨーロッパで仕事したいなと思い始めた近頃。

まぁまだまだ未熟だけども、再来年ぐらいには一回ヨーロッパで仕事したいな〜。

2012/10/20

コミュニケーションの連鎖に、小さな変革が


今日は快快DAYで、こーじさんの「中村小劇場」。中村児童館で出演する予定の子どもたち+αと、ゼロから演劇をつくる。こーじさんはあんどーなつのインタビューを読んで、彼らがどこまでできるのかを知りたいということと、快快が指示を出すんじゃなくて彼らが考えたアイデアを作りこんでいく方法を試してみたいということで、こんな企画に。すごく良かったし希望がみえた。


「演劇をやろう!」っていう呼びかけと、なんだかんだで考えてたのが死に方だったりして、なんだか『りんご』と重なるところがたくさんあった。館内放送で「これから、中村小劇場はじまります。やりたい人は工作室へ〜」って言って、わーっと工作室に集まってくる。途中からよしくんとけんじろうも来て、悪役がまとまっていく。しょうえい、さえ、ちっひーにまいまい、そしてひなたは確実にやるき。そこにいたタクミとユウは一年生で、なんだかもちもちしてたけど本当に最後までやるんだろか、と思っていたけど、やりきったし王子役の死に方は見事だったなー。タクミはどこでやる気になったのかわからないけど、怖い話を読んであげたりして、「うっすん読むのうまいね」って言ってきたり、すごく頭のよさそうな顔してて「よーじ」のモデルになった子はこんな感じなのかなぁとか想像する。「よーじ」はもうちょっとやんちゃかなぁ。そういえば、100%夏休みが終わって児童館に行って、なんとなくキャッチボールしてたのがあの子だったな。

子ども一人ひとりのやり方とかモチベーションとかあって、しょうえいなんかはとにかく戦いたいというか自分の強さ誇示したがるし、けんじろうはどんどん変なことやってくるし、ちっひー、まいまい、さえにいたっては、私たちはY時に出る!っていう自覚だけははっきりしてるくせにいざ芝居してっていうともっちもちでもう立ってらんないくらい照れる。ひなたには強い誇りと自信があって、演技らしい演技をやはり確実にこなしていく。よしくんは安定のパフォーマンス力で、気の利いたセリフをアドリブで言ったりする。タクミは甘えん坊だけど、文美さんと舞台装置をぬりぬりし、しかも剣をもって唐突に舞台に立ち、そのままなぜか王子役になって最後までやってのけた。


15時から説明とアイデア出し。
「はい、やりたいこと言ってくださーい」
「はい!殺し合いがやりたい!」
「はい!森があって、お城があってそのなかに・・・」
「さえはなんかやりたいことないの?」
「えー、妖精、妖精」
「えー、カイトがピストルやりたいってー!」
「そ、そんな事言ってねぇよ!もうやらねぇよ!」
「そういう話なら、姫がいるでしょ」
「宝がいるんじゃない?」


とかいって思い思いのことをいい、次にグループ分けをして、泥棒チーム、姫チーム、妖精チームにわかれて小道具をつくる。剣、王冠、羽。んでこれをつくってるときにオルガとブランカが現れて、みんなヨーロッパ人の赤ちゃん初めて見た!かわゆー!ってなって、とにかく小道具をバタバタと作る。それをつくったら、今度は稽古。

「はい、じゃあみんなは妖精だから、宝守って。なんか言って。」って言ってこーじさんの丸投げすごい。妖精たちはパタパタしながらてれってれで「恥ずかしい!どうしていいかわかんない!」とか言う。はいはいってなって、「はい、じゃあここで泥棒出てきて」っていったら男子たちが調子にのって出てくるが、とにかく罵声を飛ばして自分で笑ったりとかして全然進まない。照れるわやりすぎるわ途中から入ってくるわでバッタバタ。お前らもっと後ろに下がれよ!とか、この線からそっちに出てくるな!とか、距離が近いよ!とかこーじさんがいろいろ指示を出すけど、お客さんだったら「別にお前が面白いのであってこっちは面白くねーよ」的な気分に簡単になっちゃう感じの雰囲気。そうこうしてるうちにもうすぐ五時になってしまって、学童クラブの子たちは帰らなきゃいけない!となると、早く本番をしなければ。

というわけで暗転して、スポットライトで照らして、劇が始まる。

出来上がったのは、
「一人の王さまがお城に暮らしていて、宝物を守る妖精がいて、そこに泥棒が現われ、宝物が奪われてしまう。
剣士と一緒に王様が森の中にいくと、泥棒たちが酒盛りをしていて、お宝を帰して欲しければおまえらの城にいる2人の姫を連れてこいという。
翌朝、王様と剣士が姫を連れて森へいくと、泥棒が泥酔して寝ていて、目が覚めたら喧嘩を売られる。
姫をよこせばお宝をやってもいいが、その前に剣士と対決させろ!と言われ、剣士と泥棒のボスが戦う。
ボスも子分も何とか倒すんだけど、闘いで傷ついた剣士も死んでしまう。
姫たちが実は剣士の事好きだったのに、って言って泣く。
そしたら妖精たちが剣士を生き返らせて、かわいそうだからっていって泥棒たちも生き返らせる。
助けてくれたのはあなたたちですか?とかいって泥棒は王様に仕えることになる。
おしまい」
みたいな話。

なんか思ったのは、稽古のとき、他の子がやってるのをみてあーだこーだと口出しする子がたくさんいることや、なぜか客席に座ってたのに悪役のことを殴り始める子とか、けんじろうはなぜかダンボールの鎧?を着てたのでみんな殴りやすかったんだろーな、とにかく口や手がでる。もっとこうやってセリフ言うんだよ!みたいに上から目線でやじを飛ばす。「おい、そんな事言うならおまえあとで見せてみろよ!」とこーじさんがショウエイに言うんだけど、ショウエイはやってやんよ、みたいな感じでこれまた喧嘩腰。でも実際舞台に経つとまたぜんぜん違うダメな所が出てくるんだけど。とにかく、演じてる子に対して、じれったいのか歯がゆいのかなんだかわからないけど、自分のことを憑依させてしまうらしい。身を乗り出してやじを飛ばしてたもんなぁ。人がやってるのを観る、次に自分でもやる。その繰り返しなんだと思う。

彼らは今日、シナリオ、小道具や衣装、舞台装置、そして稽古をたったの2時間でやり、最後にはお客さんも入れてスポットライトを浴びながら演じきった。演劇のプロセスを2時間に濃縮したものを経験した。この積み重ねなんだろ~なーきっと。今は未だ、シナリオに関して言えばなんか見たこと在るような話を真似してつくっただけだけど、そのうち《Y時のはなし》がこうやって子どもたちとふれあう中で生まれた物語なのだということを、実感したり想像したりしてもらえたらいいなぁと思う。とにかく、あとに2回ぐらいは中村小劇場で稽古かな?2回やったらかなりレベル上がりそう。

お客さんとして発表を観る子もいるし、職員も観る。みんなやりたくなってしまうかもしれない。そうやって演劇をつくるという空気が館内に充満すると、表現すること、演劇することに抵抗がなくなってよりクオリティの高い表現をしたいとみんな思い始めるはず。小さい劇場のハコができたことで、児童館のコミュニケーションの連鎖に、小さな変革が起きた気がする。変革の積み重ねで、演劇をつくる空気に変質していくはず。

けんじろうに「今日の反省点は?」と聞いたら、「えーと、剣士と戦うところの場面が長すぎる。もっと死に方を工夫しなきゃ」とかいってまともなことを言う。よしくんしょううえいはなんて言ってたかなぁ。快快リーダーよんちゃんは、「まだまだ全然だめ!」とおもいっきり駄目出し。「どうしたらうまくできますかー!」ってけんじろうふざけて聞いてたけどまんざらではない様子。演技って恥ずかしいけど、普通に自分もやるってなったら恥ずかしいけど、どうやったら恥ずかしくなくなるんだろう。毎回反省会したらおもしろそうだな。あーなるほどね、リフレクションなんだね自分がやることも、他の子がやることも、あるいは大人がやることも。

絹代さんがなかよし児童館で「ウルトラバトル」を、こーじさんが中村で「中村小劇場」を、そしてゆいさんが東大泉で小道具作りをはじめる。東大泉もなんかそういう設定作ってあげれるといいな。各地で起きてる小さいイベントが12月1日2日でつながっていく。サードプレイスのプロデュース、にふさわしい感じになってきた。楽しみだなぁ。

2012/10/19

サワースウィートで微炭酸

今日は、Y時のはなしのフライヤーの入稿が終わって、天野さんお疲れ様でした。
午後一で中村児童館にスケジュール調整に行き、ちえちゃんとのミーティングは楽しく、りきって子のことを話したりした。

その後チャリンコのパンクを直しにいって、その待ち時間にマックで本読みながら待ってた。『ディスコ探偵水曜日』は運命と意志と時間と空間と子どもと未来と過去をめぐる謎の話で、読んでて励まされることこのうえない。

自転車に乗ってすすすっと光が丘に向かい、こちらでも日程調整。職員の小林さんといろいろ話してて、彼女が6年間で培ってきた関係性のなかで、Y時のはなしの企画に一押ししたい高校生に連絡をとってくれた。高校生にはっきり物を伝える姿勢とか、「来なさいね」ってお母さんみたいに言う感じとか、すごくリスペクト。


来週実施する企画。ポスターは快快の野上絹代さん。

演劇部で演劇をやっているという高1のゆうさちゃんと話をする。ウェブで快快のこといろいろ調べてくれたみたいで、かなり興味を持ってた。「学校で薬物乱用防止のキャンペーンの劇をしなきゃいけないんだけど、なんとかこっちに参加できるようにします!」って言ってくれたり、まわりのこに「ねぇねぇ!演劇やろうよ!」って誘ってくれたり、なんか高校生の集まりの企画つくったりしてるらしい。ムードメーカー。

高校生たちのあのサワースウィートで微炭酸な感じ、あの感じのなかでまた企画ができることを、本当に嬉しく思う。これからの一ヶ月が本当に楽しみだ。


が、そのまえに!Form on Wordsの大一番、「ジャングルジム市場」がある。光が丘から外苑前に移動し、古田さん、みぃちゃんもえちゃんと打ち合わせ。アージによる演出がもろもろの鍵になりそうだ。アー児チーム、まさかのパフォーマンス体験ですね、楽しみです。



アサヒ・アートスクエアの巨大な空間を使って楽しめることを、これまた大変嬉しく思う。現場で、実際に物事が動いていく感じ、たしかに理想通りできなかったらどうしよう、っていう焦りもある。任意のチームだから、だいぶグズグズだったり、無責任だったりすることもある。60万円という予算規模で、最大限に力を発揮できたか?と言われればそうではないと思う。でも、確かにモノゴトは動いてきた。そしてここまできた。

来週あたま、いよいよジャングルジム市場の棟上げです。


2012/08/26

昂揚、会話


今日は中村小学校の芝生の校庭でキャンプ企画。館長とちえちゃんとイベントタイムだけ見学に行った。写真は「えだまめ王子」のライブ。

夏休みの最後を、校庭で、家族で、キャンプ。みんないるし、夜でも会えるし、こりゃァ楽しいだろう。みんなテンションが高まってた。中学生とかも、スカしてたけど、気持ちは昂揚してたはずだ。



《100%夏休み》で出演してたウィングらいまやシールドりょうすけ、泥のしょうたろうも来てて、お父さんお母さんとも話ができた。

小一男子がきゃっきゃ言って走り回ってる中で、りょうすけは

「ファイファイのさぁ、こーじとか、しんちゃんとか、しろーとか、みんな元気?今何してるの?」

しんみりと聞いてくるので、

「みんな新しい作品つくってて、稽古がんばってるんだよ」

と言うと、

「へー、新しいのなんだ。観に行きたいな。おれ、本番も絶対がんばるから、練習始まるとき言ってね」

と。なんか別にそんなたいしたことじゃないんだけど、こういう会話が嬉しくてやってんだなーと思う。「会話」ね、「会って話す」っていうことね。

完膚なきまでにいい企画にしてやろうと思った。12月の、Y時のはなし。



2012/05/17

バンコク旅行記(2)

バンコクの路上はいろんな音にあふれている。車の音、食事する人々の会話、部屋から漏れ聞こえる音楽。公共の場とは静かで慎重であるべき、というような考え方はなく、溢れだすプライベートが混淆のサウンドスケープをつくりだしている。

初日のSuper Normalでのパーティーでも、隣のマンションではクラシックをがんがんかけてて、こっちの庭ではギターとカフォーンをかき鳴らしていた。暑い国だから風通しを良くすることが当たり前で、外のものが中に入ってくることを受け入れる気質があるのかもしれない。


聞けば、自動車の運転のルールもめちゃくちゃで、2車線なのに4列になって車が走ってたり、飲酒運転しても罰金だけで済んだり。屋台の店舗だって椅子だって道路にはみ出している。

食事のタイミングは決まっていないと前回書いたけれど、一人暮らしの部屋にキッチンがないのはデフォルトらしい。自炊の文化はほとんどないという。屋台のおばちゃんはそっけないんだけど、それは人々の食事をつくっているカァちゃん的な役回りであるからかもしれない。路上にキッチンがあり、食卓があるのだ。


2日目に篠田さんの家探しに同行させてもらった。こっちではネットや不動産屋で物件を探す文化はほとんどなく、空き物件の前にぶらさがっている看板に電話をして家を見せてもらうそうだ。

不動産屋や路上の規制のように、一括して管理するシステムがほとんどない。人々の生活実践のうねりを上げるエネルギーは、誰か権力が規制したところで止まらない。自己増殖する都市の迫力を、わずか1週間で強烈に体験した。



バンコク旅行記(1)

5月8日から15日までの一週間、タイ・バンコクに行ってきた。



目的は、見に行けなかった快快《SHIBAHAMA》の残り香を匂いに行くことと、バンコクに移住した篠田千明さんがどんなことをしようとしているのかを見に行くこと。そんでもって、がばっと遊んでくること。《SHIBAHAMA》の経験は、それは驚くほどバンコクに食い込み、バンコクの人たちをエンゲージしてた。見られなくて本当に残念だったし、詳細も知らないのだけれど、その残り香をかぐことができた。



人口はだいたい800万人。気温は年間通じて30度以上。すごく暑くてぼくもばてた。路上には屋台がところせましと並び、豪勢なタイ料理がずらりとならぶ。パッタイ、カオソーイ、ガパオ、カオトン、そして色とりどりのフルーツが40バーツ(100円ぐらい)で買うことができる。自炊の文化はほとんどなくて、食事の時間(シャワーの時間も!)決まっていないそうだ。お腹が空いたら食べて、シャワーは浴びれるときに浴びる。



滞在させてもらっていたのはSuper Normalというオフィス。建築からグラフィックまでクリエイティブまでを引き受けるデザインチーム。この2階が快快のレジデンスになっていて、そこにお世話になった。快快は集団制作というスタイルをとっているけど、集団生活も慣れている感じで、すっごく居心地がよかった。


8日に到着すると、そこはパーティー会場。快快のメンバーや《SHIBAHAMA》のスタッフをしていたタイの人たち集い、氷水を入れた桶にシンハービールをたっぷり冷やしている。蓮沼執太さんやイトケンさんも来ていて、慣れない海外旅行の不安を終えて、ほっと一安心。チョリソーやスナックを食べながら話をしていると、「表彰式」がはじまった。プラスチックダンボールにデコレーションして寄せ書きした「表彰状」を、活躍した人たちに快快から手渡していく。

明け方までパーティーは続く。篠田さんは酔いつぶれて、こーじさんは犬と話をしていて、タイ人たちはギターとカフォーンを取り出してタイポップスを歌って踊って、これでもかってぐらいビールを飲み続ける。



つたない英語で話してみて、バンコクの人に《SHIBAHAMA》どうだったかを聞いていた。「SHIBAHAMA makes people "engage"、あんなに人を巻き込む演劇は見たことがない。前半はどうなることかと思ったけど、のめり込んだ」みたいなことを言っていた。"Join"でも"involve"でもなく"engage"という単語がぴったりだと思ったのは、ぼくも大阪でSHIBAHAMAを見た時に、背後から囲い込まれるような強烈な力を感じたからだ。会場に入った瞬間に、客席とステージがひっくりかえることはもう契約されていて、飲み込まれるような空間の力がそこにあった。バンコクでどんな"engage"が起こってたのか、体験できなかったけど、この日のパーティーにもその匂いは強くのこっていた。

2階のソファーで目が覚めた時はすっかり朝。バンコクの初日はこうして明けていきました。



2012/03/25

振る舞い、変革、I LOVE YOU

ずっと買ったまま観れていなかった、快快『My name is I LOVE YOU』のブダペスト版を観た。

言葉とお金と身体と、人と人とが関わるときに、間に入ってくるもののせいでズレて、ズレて、そして「I LOVE YOU」の名が言えなくなっていく。



なんだろう、演劇なんだけど、現実の再構築に見えてくる。ぼーっと見てると、ぼくらが生活している社会の仕組みそのもののように、役者はシンプルに振舞っているように見える。

じゃんけん大会をやったり女体盛りを食べさせたりして観客をステージにあげていく『SHIBAHAMA』や、高校生の甘酸っぱい経験自体を"売り物"にする『いわきの高校生インザ蚤の市』みたいに、観客の振る舞い自体を変えてしまう作品もある。こういうと月並みだけど、快快は文化人類学の言うところの"振る舞い"としての演劇に、かなりストイックに向き合ってるんだなぁーと思う。しかもポップで、ノレる。

人が集まる場所にドラマがあるし、つたのように絡まる時間があるし、その前提には、関係を操作する空間がある。絡まる時間はグルーヴを生むし、人々の集まりは人生を小さくでもたしかに変えていく。そういう小さな変革を生み出す空間を編むのが演劇なら、ぼくもノリたい。

しかし、そこでも「I LOVE YOU」の名は言えなくなっていくんだろうな。本当のことは、ズレてズレて、言えなくなっていくんだろうな、と思うと強烈に切ないのだけど、でもそれを受け入れながら、4月からの一年を頑張っていこう!と思ったわけです。


2012/03/20

地下通路、カンパニー

今日は快快の篠田さん、あにーさん、文美さんとミーティングだったんだけど、いやーノッたノッた。これは拡散した。アイデアがいろんなところから出てきて、泣くかと思った。

《全児童自動館》のアフタートークで司会をしてくれた篠田さん。あのとき、中高生から「次」を期待する声が生まれたのは大きかった。それを受けて、今日の広がり。嬉しい、嬉しい。

「アーティスト・イン・児童館」はアートスケープにも書いたけど、小説『夏の庭』的な、なんていうかな、異質なものとの邂逅を期待する世界観だった。今日のミーティングで、映画『アンダーグラウンド』みたいな、地下通路を堀り、張り巡らすような、世界の別のレイヤーをつくるイメージに変わった気がする。思いがけず「カンパニー」という言葉が僕の中でシンクロした。

これは一大プロジェクトだ。寝て、起きたら企画を整理しよう。