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2017/02/16

他者と撚り合う物語、エンドロール ー『この世界の片隅に』を観た

2016年のキネマ旬報ベスト1に選ばれるなどの超・超・話題作である『この世界の片隅に』をやっと観に行った。そして、すごくすごく最高だったので、ぼくは漫画も未読だし、映画も一回しか観ていないが、ちょっと感想を書きなぐってみる。



注:ネタバレを多分に含みます。



この映画、「たまたま戦争という時代を生きた人たちの日常」という視座の置き方への賞賛をテレビの特集などでよく見る。しかし、それだけではない。物語にちりばめられた点の素晴らしさがあった。

まず第一に、アニメーションとして、アニメーションにしかできない物語方法で、ファンタジーを忍ばせていたこと。冒頭の、毛むくじゃらの男によって、カゴの中に入れられて運ばれるシーンがあり、それが実は将来の旦那さんとの出会いのシーンでもある。のちに結婚する相手との出会いを、淡い、昼間見た夢のような表現で、まるでそっと忍ばせるような品の良さで、観客の心にも、ほんのりとした酔いを残すだけで、また素朴な日常へと戻していく。

この日常とファンタジーのフェードイン・フェードアウトは、アニメーションにしかできない!そして、日常の中に入ってくる戦争、戦争の中の日常、という物語主題ともマッチしている。ほかにも、座敷童子の女の子が、じつはりんさんだったんじゃないか、みたいなこととか、そういうほんのりさが、とても難しい抑圧の効いたバランスで成り立っていて、美しかった。

次に、主人公すず役ののんさんの声。冒頭の子ども時代の語りから「うちはぼぉっとしとるけぇ」というやわらかいトーンが、映像のふんわりしたトーン、そしてこれからのことを予言するようなコトリンゴの「悲しくてやりきれない」とが見事に合わさっていて、鳥肌が立つ。

その淡々としたやわらかさのなかに少しずつ少しずつ爆撃が映し出されることが増えていく。それに呼応するかのように、のんさんの声が憤り、慟哭する場面が幾つか出てくる。このやわらかさのなかの激情が、映画全体の物語と合わさって、観客の心を震わせたと思う。

そして、なによりぼくがそれまで我慢していたのに落とさなかった涙を決壊させたのはエンドロールだった。物語の重要な核とも言える内容を、あわよくばもう1作かけて描くような内容を、最後のあのエンドロールのなかに持ってくるなんて!!!

原爆で右手を負傷し子どもを守りながら母親が死んでいくのを隣で見ていた子どもが、別の理由で右手を失ったすずのところにやってきて、擦り寄っていく。その子と一緒に家に帰る、というところで本編が終わる(かのように見える)。

その前に、すずさんが子どもを授かったことが描かれるが、劇中でその子が生まれることがなかった。ぼくはぼーっとしていて気づかなかったが、生まれなかったのだ。子どもが。その代わり、最後に出会う子どもを、すずさんも我が子のように思っていこうとしたのか、それで家に連れて帰ることにしたのか…。エンドロールでは、その子と共に暮らすことになり、成長し、失った姪子の服を着せたりして成長していく様が描かれていく。

そもそも他者であったはずの人の家に嫁ぎ、家族として暮らすことの艶やかさと違和感が物語の端々で描かれていったが、夫も、子どもも、血の繋がっていない人たちと生きることを選んだすずさんのその後の人生の物語は、丈夫でたおやかな布地のように美しくて、エンドロールという短い時間のなかに圧縮されていたため、その情報が体の中を駆け巡る速度が強かった。で、涙決壊。

自分も半年ほど前に結婚をして、妻と一緒に暮らしはじめたばかりだったので、こうして血の繋がっていない他者と糸を撚り合うように生きていくことの物語に悲しみと希望をもらった気がするし、一方でぼくたちの世界にも少しずつ戦争が臭ってきている時代にあって、この世界の片隅でぼくらがどう生きていくか、何を選び、何を捨てるのか、誰と生きるか、ということを静かに自分たちに問いたくなった。




そんなこの映画を小学生の子どもをつれて家族で観に来ているひとも多くて、ぼくらが最後に劇場をあとにするときに座席にバッグが忘れられていて、「これ、誰か忘れてませんか?」と声をかけると「あ、」と言って駆け寄ってくる子にそのバッグを手渡したんだけど、そんなことにも意味を見いだしたくなる感覚に、体が変わっていた。(こういう感覚のことを、どう言葉にしたらいいんだろう。クオリア?)

ぼくが仕事でやっているワークショップの設計は、人の経験をデザインしている(この言い方はちょっとおこがましくて使うのに少し迷っている)のだけど、そのことと比べてみると『この世界の片隅に』は、素晴らしい経験だった。それについては次に譲る。


2016/08/30

身体つき、言葉の停止、言葉の決壊 ー『100円の恋』を観た

安藤サクラを好きな友達が、安藤サクラがどうしても好きなんだという話を聞いてから、安藤サクラのことが気になっていて、なんか不意に時間ができたので『100円の恋』をネットフリックスで観てみた。ジャンルが前後半でガラリと変わる、最高の映画だった。

なんかもうトレイラーとか見ると全部ネタバレしちまってんじゃねえか!って感じがして、とにかく予告もあらすじも見ないで観ることを勧めるけど、映画の宣伝って難しいんだよな~といつも思う。

以下、ネタバレ。



==あらすじ==

32歳の一子(安藤サクラ)は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていた。
ある日離婚し、子連れで実家に帰ってきた妹の二三子と同居をはじめるが折り合いが悪くなり、しょうがなく家を出て一人暮らしを始める。夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありつくが、そこは底辺の人間たちの巣窟だった。
心に問題を抱えた店員たちとの生活を送る一子は、帰り道にあるボクシングジムで、一人でストイックに練習するボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することが唯一の楽しみとなっていた。
ある夜、そのボクサー・狩野が百円ショップに客としてやってくる。狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに2人の距離は縮めていく。なんとなく一緒に住み始め、体を重ねるうちに、一子の中で何かが変わり始める―――。


=======

前半、「自堕落な生活」というときの安藤サクラの体型の半端ないルーズさ、猫背、二重あご、無気力で思考停止寸前の目つき。妹の二三子にいわれる「あんた親の年金狙ってんだろ、おめえみてぇなやつが平気で死体を埋めたりすんだよ!」というセリフにも、あ、確かにそういう感じかも、と思わせるような危うさ。この場合、親を殺すみたいな話じゃなくて、親が死んでしまった時にどうしていいかわからなくて埋めちゃう、みたいな話だなと僕は思った。

他人と共に生きることを諦めまくって、言葉を使って人に何かを伝えることをしていなさすぎて言葉が出てこない。親の死のような局面で他人がどうしているかを見たことがないから、考えることも工夫することもできない。猫背で、腰から落ちたような歩き方で、わがままで無気力。それでいていつも何かに怯えて肩に力が入っているような狭窄感。安藤サクラの演技っていうか身体つき自体をそうしちゃってる感じがすごい。

一子が働き始めた100円ショップの定員たちも、その狭窄感に拍車をかける。うつ病の店長の、なりたくてそうなったわけじゃない息苦しい真面目さ。働かないでしゃべってばかりいる粘着質な野間というおっさんのそれこそ思考停止したバカさ。

そんな中でも、一人暮らしを始め、働くことを続けていくと生活が回り始め、服や下着やテレビを少しずつ買い揃えていく様子が、明確にシーンとしては表現されないけれど画面の中にポツポツと現れ始める。その事に希望というか、明るさが見える。

新井浩文演じるボクサー・狩野の引退試合を見たこと、そしてその夜に野間に強姦されること(この強姦のシーンが、残酷で暴力的というより、とにかくセコすぎて軽がるしすぎて、もう最低だった)、別の日に酔いつぶれて100円ショップにきた狩野を介抱したこと、狩野が別の女のところに行ってしまうことなどが重なっていき、複雑になっていく生活とは裏腹に、一子はシンプルに、ボクシングにのめり込んでいく。

働き始めたばかりのときにレジ打ちをおぼえようとする様子と、ボクシングを習い始めたばかりのころにジャブをおぼえようとする様子のたどたどしさが同じな感じとかも、よかったな~。ジャブって、脇を締めたり腰を入れたり鋭くまっすぐ打ち込む意識をしながら、同時にガードも意識しなきゃいけなくて、単純に見えていろんなことを同時にこなさなければならない。ちょっと前まで思考停止寸前だった一子には、それは複雑で難しい。だが狩野とのことや野間とのことなど、生活の中で複雑でわからないことを食らううちに、ステップ、ジャブ、ダッキング、ボディ、フックがシンプルにつながっていく。

この、中盤の、映画自体のジャンルが変わっちゃう怒涛のギアチェンジに痺れた。その感じ、予想してませんでした。ボテボテの体つきから次第に切れ味の増していく安藤サクラのシャドーボクシングの加速感はもう最高でビリビリくる。

最後、プロテストに合格した一子は、幸運もあって4回戦の試合に出る。試合前に短く切った髪の毛をかきあげるとき、切れ長の目がすごくカッコよくて美しくてハッとする。切れ味最高のシャドーボクシングをいっぱい見せられたぼくは「これはいけるんじゃないか」と思ってしまったが、試合の相手は強そうで、一子のパンチは全然当たらない。冷静さの欠片もなく相手の事もまっすぐに見つめられず、ただただ呼吸を荒げて闇雲にバタバタし、コーナーに帰ってきたときには白目をむいてまともに言葉もでてこないグロテスクな一子の表情。そのなかに、ときどきめちゃくちゃ美しい表情が帰ってくる瞬間があって、これまたハッとする。3ラウンドめの、一矢報いるあのボディからの左フック、からの相手のブーメランフック、、、あ~!!!っていう。

試合が終わって、着替えて、ボロボロの顔を鏡で見て、階段をおりたところに試合を見に来ていた狩野がいて、呼吸を荒げて泣きながら何かを必死で言うんだけど、何を言ってるのかもうわからなくて、たぶんそれが「一度ぐらい勝ちたかった」なんだろうなというぐらいの感じで、狩野に手を引かれて泣きながら歩いていく。体つきもだるだるで言葉もまともにでてこないくらい思考も感情も停止しかかっていた一子は最後、シャープに仕上がった体で、好きな人に会って感情も思考も追いつかないぐらいグルグル回って言葉もまともに出てこなくなる。前後半の対比がめちゃくちゃ美しい映画だった。

安藤サクラが出ている映画ってまともにみたことなかったけど、目つき、身体つき、仕草が、見ている観客の気持ちをのりうつらせるような魅力のある人だと思った。卑近なルーズさを持っているのだけど、同時に遠くて追いつけないような美しさを見せる感じ。映画も小説も、主人公に憑依するような感覚で見られるのが最高だと思うんだけど、それを実現している役者安藤サクラすごかった。


ボクシング映画として『クリード』のような試合の臨場感だったし、女性がギリギリの闘いに挑みながらもギリギリで敗れるという点でマリオン・コティヤールの『サンドラの週末』を思い出した。

2015/12/09

飲み込めない想い、ワークショップ、笑い ー映画『恋人たち』

もう二週間前になるが、橋口亮輔監督の『恋人たち』を観に行った。トレイラーも見ず、職場近くのテアトルの看板だけで、下のコメント

"飲み込めない想いを飲み込みながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして"人間の感情"を、ちゃんと描きたい。"
ー橋口亮輔

これを見て、あ、必見と思って仕事終わりに駆け込んだ。そして、その予感は的中した。ぼくはこの映画を観てよかったあーーーー!!!と思った。その理由は、ワークショップから生まれた作品であること、そこに自分がいると思えること、聞こえない相手へのモノローグの3つ。



映画を作るワークショップを、プロアマ問わず様々な役者の人たちと一緒に実践した、という話は荻上チキさんの「session 22」で知った。橋口監督にはそれ以前にプライベートでとても辛いことがあって、社会的に立ち直れないかもしれないとどん底だった時期に、人に誘われて始めたワークショップがカムバックのきっかけだったという。その内容の一部は、 橋口亮輔の「まっすぐ」というエッセイに詳しい。

ぼくも子ども向けのワークショップをつくる仕事をさせてもらっているけれど、このエッセイに書かれているような、他人の人生をえぐるエチュードをするようなものはまだできていない。本当は他人の人生を変えてしまうほどの磁力を持った場がワークショップなのだろうと思いながら、自分にはまだまだだと思うし、そんな責任も取れていない。

そんなみみっちいぼく自身と比較するまでもなく、橋口監督はその「他者の人生をえぐるようなワークショップ」に身を乗り出し、自分自身の人生をえぐりながら恢復し、映画に向かったのだろうと思う。そうしてえぐられ、恢復していった監督や参加者の人生が映画というバゲットにレバーペーストのように塗りたくられ、観客は苦味とともに希望を味わう。そのためのメディアとしてワークショップがあったのだ。ああ。

※以下、ネタバレ注意

そんなたくさんの人の人生が塗りたくられた映画のなかに、ああ、自分がいるなぁと、我々は感じざるを得ない。愛する妻を亡くした若い男、旦那と姑との生活を送る主婦、やり手のゲイの弁護士の3人が主人公なのだけど、彼らが他人に対して耳を閉ざすこと、情けなとわかりながら行動できない悔しさ、幻に救いを求める滑稽な姿・・・役者のえぐられた人生は、観客の人生も、えぐっていく。

そしてクライマックスの一連のシークエンスは、3人の主人公が、耳を閉ざしてしまった恋人たちへのモノローグへとつながっていく。「飲み込めない想いを飲み込んでる人たちの"人間の感情"」が、やりきれない状況のなかで、そしてそれぞれに聞こえない他者に向かって吐露するシーンは涙なしに観られなかった。

他にこの映画の良かったところは、懸命に生きる人の滑稽さが、どうしようもなく笑えてしまうところだ。水曜日の映画デーで、男女ともに1100円で見られるテアトルには仕事終わりのいろんな年齢の人が集まっていて、随所で笑いが起きていた。温かみのある劇場の雰囲気も、最高だった。

以下、笑えたセリフ集
「ほら、静電気ないんだよ」
「そりゃそうだ」
「ほんとやだ〜」
「いいものいっぱい入ってる。そうだね。自然ってすごいね」
「あれ、回んないなこれ」
「それが今の旦那なんだけど」
「先生、泣いてくれてるんですか〜?」

そう、裏切りや理不尽さ、やりきれなさのなかで傷付いた重たい人生は、ふとした笑いで軽やかになってしまうのだ。ぼくが一番笑ってそして泣いた黒田の言葉「笑うことは大事だよ」に、そうだよね、と思うのだ。

今の時代感とか、黒田の名ゼリフ集とか、語り口はいくらでもあると思う。未見の方はぜひ。観た方は一緒に飲みましょう。

2015/11/09

いい遊び、トラストミー ー映画『わたしの名前は…』

ファッションブランド「アニエスベー」で知られるアニエス・トゥルブレが本名で発表した監督作品『わたしの名前は・・・』を、渋谷アップリンクで観てきた。


家を飛び出した少女と、トラック運転手。奇妙なふたりのロードムービー。
映画は、あっと驚く結末へ向かって進んでいく。主人公の12歳の少女は父親から虐待を受けていた。ある日、学校の遠足で出かけた海辺で偶然停まっていたトラックに乗り込んだ彼女は、スコットランド人のトラック運転手と共に逃避行に出る。フランス語と英語、言葉が通じない2人は、次第に心を通わせていくが…。10年以上前に新聞で読んだとある事件の記事をきっかけに、アニエスべー自身が脚本を書いた、瑞々しいロードムービー。(映画公式サイトより)

なんでこの映画を観たいと思ったかというと、ファッションに関わる仕事をしている手前、アニエスベーのような有名なブランドをつくった人がなぜこんな映画を撮りたいとおもったのか、そもそもアニエスベーってどんな人なのか、知っとくべきかなとかそういうお勉強的な興味だった。しかし想像を超えて映画は素晴らしかった。様々な映像技法を試していること、即興性、そして色や形の作り込みは、映画が初めてとはいえ、ファッションの現場で場数を踏んでいるだけでなく、『マルホランド・ドライブ』や『パルプ・フィクション』の衣装に参加していたり映画制作を支援していたりする、さすがの熟達っぷりで、あのシーンもこのシーンも素晴らしいシーンの枚挙にいとまがない。

あらすじにもあるとおりこの映画は少女とトラック運転手のロードムービーなのだが、それはこの2人が、世界中のどこにでもある郊外の、他者への情愛も尽きそうなほどストレスフルで気怠い生活のなかで傷を負って生きている日々から逃れる、つかの間の旅だ。その旅は唐突に始まり、静かな予兆を携えながら終わりに近づき、そしてやはり唐突に終わる。その終わりを2人がいかに引き受けたか、ということがこの映画の見どころだ。

とりわけぼくが素晴らしく思ったのは、現代美術家のダグラス・ゴードンが演じるトラック運転手ピーターの存在とその描かれ方だった。彼は少女がトラックに乗り込んでいることを発見しても、ほぼ何も言わずに隣に座らせ、「どこから乗ってきたんだ!」とか「こんなことをしたら、大変だ!誘拐になってしまう!」みたいな野暮なことは言わない。その日の夜は何も言わずに寝て、次の日の朝に「おはよう」という。そして、終わりもまた静かに迎える。

このピーターが「いい遊びを思いついた、俺を信用して。」といって肩車した少女を逆さまにするシーンがある。その状態でぐるぐる回る様はあぶなっかしいのだけど、少女は嬉しそうに振り回されていて、彼は息を切らせながらも笑いながらぐるぐる回る。

キレキレな演出のなかで、ほんの些細なワンシーンなのだけど、この映画全体のことがこのシーンに詰まっていた。少女がトラックに乗り込んでいるのに気づいたとき、ピーターは「いい遊びを思いついた」のであり、そしてフランスパンをナイフで半分に切ってピーナツバターを塗ったものをあげたり、次の日の朝におはようのあいさつをしたりして、「Trust me」と無言で伝え、数日間の旅路を少女と一緒にぐるぐる回るのだ。その遊びの終わりをもまた、彼は引き受けるのである。

かっこいいい!!!!!かっこよすぎるっていうか、うおー!!!

みたいな気持ちになった。

以前にツイッターで、こんなことをつぶやいたことがある。

最近考えてることだけど、ここ数年、あらゆる理不尽さをゆったりと許容し、声に出さないけど他者が求められるであろうことをしなやかに行動して解決に導いていく「キャパシティ男子」というのが増えている、気がする。

ピーターは孤高のキャパシティ男子だったのだなぁ、とか思うと映画が一気に陳腐に見えてしまうけれど、そう感じた。



そしてぼくは見終わったあと、パンフレットを買った。パンフレットがただ可愛かったのもある。だがなにより映画を観てパンフレットを買い、一緒に観た人と飲みながら映画の話をして、帰りの電車でパンフレットを読む、という体験を久しぶりにやってみたくなった。映画館の中では気づかなかった細やかな設定や、俳優の背景、監督の思い、観た人のレビューなどなど、パンフレットで映画のことが語られているのを読んで、映画を観た余韻が言葉になっていくのが嬉しい。

そういえば昔『千と千尋の神隠し』のパンフレットを買って、穴があくほど観ていた。細部までこだわってつくられた映画の細部を知ると、その映画をもう一度観たときの味わいが変わる。何度も繰り返し観たくなる。観るたびにその時々の自分の人生とリンクして、映画が自分の血となり肉となる。

わかりやすいお土産のない体験型ワークショップにも、こういうパンフレットがあるといいんだろうなと思う。


関連する記事はこれ
「読み語りき、書く語りき」

2015/07/09

物語の穴、乗り物、大げさな身振り―『きみはいい子』『マッドマックス』『ポンヌフの恋人』

先週、珍しく3本も映画を観たのだけど、どれも色味が違う映画であったし、どれも超絶よかった、、、!

観たのはテアトル新宿で『きみはいい子』、TOHOシネマ新宿で『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、Bunkamuraル・シネマで『ポンヌフの恋人』。(未見の方はネタバレあるかもなのでご注意ください)
まずは水曜日に観た『きみはいい子』。テアトルでやってて職場近いし、伊勢丹でコラボ企画やってることもあって、同僚に誘ってもらって観に行った。(予告編に重要なシーンぶちこみすぎなので、予告見ないで本編みてほしいかも・・・)

呉美保監督の新作で、ポプラ社から出てる小説『きみはいい子』が原作。一つの小学校とその街を舞台に、いじめや虐待や発達障害、自閉症など、重たく感じる題材だけど、ぼくたちも暮らしていて出会う事柄で、もしかしたら当事者になるかもしれない事柄を、普通にそこここにあるものとして扱う。

ハイライトはいくつもあるけど、ひとつは劇中に出てくるある「宿題」の感想を子どもたちが答えるシーン。唐突に出されたへんちくりんな「宿題」の感想を、やってきた子どもたちが口々に答える。普通ならこの手の泣かせ系って現実味がなくて白けちゃうんだけど、この映画は違った。

子どもたちが感想を答えた始めた瞬間にカメラが手持ちに切り替わるんだけど、あれ、、?これ、よくみたらこの映画に出てる子って、素人の子達なのかな、、、?おお、この子のきょどった感じとか、照れ隠しのやり方とか、小4男子そのもの、、あれ、、これ、もしかしてこのシーンだけドキュメンタリーなの、!!!?ってなる。子どもたちの反応や声のトーンが、奇妙なほどに落ちていて、元気さを押し付けられている子どもとは異なる小さく変な生き物で、愛されてる子どもたちの振る舞いだった。「現実味」とかじゃなくて、映画をつくる中で「事実」が生まれていて、それを記録している!!!ってなって泣くよね。

よく考えると、子どもに音読をさせるシーンで、一生懸命、やりすぎな抑揚をつけて読む子どもの姿とか、呉美保監督は子どもの演技性とそうでない照れや緊張にあるリアリティを分けて描いてる気がする。

物語としても、男女平等に名前に「さん」をつけて呼ぶところとか、ママ友コミュニティの歪さとか、観てるものの身体をゆるやかに狭窄させる感じと、「にゃんばっへ、、、、(がんばって)」とか、「絶対やってきます!!!」とか、名台詞連発で、池脇千鶴のとっさのあれとか、ハッとする場面の連打連打で、ラストの高良健吾が駆け出すシーンと第9が流れるところもドラマ的にふわあああああああお見事、、、って感じの重さと軽やかさの対比も素晴らしかった。泣かすよね〜って感じで。

とりわけよかったのは、物語に空いた「穴」になんだと思う。さっき書いた「宿題」によって、崩壊気味だった教室のムードは変わり、別の場所でもパラレルに起きる同じ行動が重さのある映画の雰囲気を少しずつ軽くし、晴らしていく。映画はハッピーエンドに向かって駆け出していく。だけど、物語は「穴」の空いたまま、輝きのかたわらにぽっかり空いた「穴」から闇がこっちを見ている感じがする。その闇が待つ扉の前で、キラキラした汗をかいた主人公が息を整え、ゴンゴンゴンとノックをする場面とその中断!!!穴の存在をはっきり示してる感。

日々の暮らしの中のムードに違和感や苦しさを感じているなら、この映画必見かもしれない、、、。


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はもちろんアドレナリンをどるるるるん!注入注入!って感じでずーーーっと映画的に走り続けてるんだけど、情動をゆさぶるメタファーの連打連打が楽しくて仕方なかった。名前、ハンドル、手、種、乳、スプレー、油、、、もうあげればキリがないや。邦題の「怒りのデス・ロード」っていう語感とか、劇中で「insane」って言ってんのに字幕がわざわざふりがな付きで「狂気(マッド)」って入れちゃってるところとか、日本の配給会社のひとや字幕手掛けた人も、この祭りに乗りに乗っちゃってちょっとバカになってる感じがたまらない。

しょっぱなからわけわかんないところに巻き込まれた主人公のフラッシュバックを使って観客が彼に憑依せざるを得なくする感じとか、物語の中と外の両方を鼓舞する太鼓と変態ギター男を積んだ音楽車が伴走してるとことか、観客を客席ごと巻き込むような構造があって、最高のライド感だった。映画ってやっぱ人を異次元に運ぶ乗り物だよな!乗り物感さいっこう!!!!

あとぼくがいいなぁ〜と思ったのはあの最後のほうのシーンでトム・ハーディーのマックスが「ぉっとっとっと、、、これを高く上げて、、、」とかってぶつぶついいながら輸血の準備するところだよな〜。あの朴訥とした色気と優しさすげーかっけー・・・と。なんか全体的に女性を強く大切なものとして描くところとか、それを支えるマックスやニュークスなど男子勢っていう物語の構造もよく考えたら超好みだし、それはラストシーンの優しさが映えるわけだわ。


『ポンヌフの恋人』



現在Bunkamura LE CINEMAで開催中の「ヌーヴェルヴァーグの恋人たち」。以前に『ホーリー・モーターズ』を観て以来ずっと劇場で観たかった『ポンヌフの恋人』をついに。初回だったこともあってか、ものすごく混んでいましたよ。

レオス・カラックス監督のいわずと知れた伝説の映画で、制作に時間がかかりすぎてポンヌフ橋での使用許可期間がおわっちゃって、しょうがないからっていって実寸台のセットをつくったらめっちゃお金かかった・・・という作品で、ラストシーンのショットは『タイタニック』のあのシーンのモチーフになってるんだとか。

予告編でも観られるようなこの橋の上での花火のシーンは圧巻だったし、ドニ・ラヴァン演じるアレックスは運命の操作人で、ミシェルに話しかけるきっかけをつくるために絵を挟んだ包みのヒモを解いておいたり、お金の入った缶を橋のヘリから落ちるように少し位置をずらしたり、そのあとに起こるハプニングを予想してそうなるように仕掛けていく。それでも、ハプニングを起こしたあとの感情のやりとりは想定できるものではなくて、嘆いたりスネたりしながら、ここに留まりたいと願うアレックスと、どこかへ行きたいと願うミシェルの衝突と抱擁は美しくてぽーっと見入ってしまった。

もうすぐ目が見えなくなってしまうミシェルが、アレックスに支えられながら駅の地下道を歩くシーン。「どんなことでも大げさにやって。私にわかるように…」といったあとに、おもむろにミシェルの前に躍り出て、回り、走り、壁を蹴り、宙返りをし、大きく動くアレックスのあの身のこなしがきれいだった。

子どもも嬉しいとピョンピョン飛ぶ。聞いたことがあるのは、人間の脳は大人になるとエネルギーの放出を60%ぐらいに抑制することができるようになる、というか無意識にしてしまうらしい。子どもはまだその調整ができなくて、なにか嬉しい事があったり興奮のスイッチが入ると100%に振りきって、脳ミソからの喜びの指令を身体のなかにとどめきれなくてぴょんぴょん飛んでしまうんだとか。

不安なミシェルに向けて、60%で抑圧することなくハラハラするほど振り切った様を見せるあの大げさな身振り、ああぼくも好きな人に対してこういうことできるかなぁとか。

ゴダールの『はなればなれに』とかトリュフォーの『大人は判ってくれない』とか、観たい映画たくさんあるこの特集。

いい映画を3つも見ることができて多幸感がありました。


*関連する記事はこれ
「彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3」
「仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』」


2014/12/28

彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3

今年観た映画で、今年日本で公開された作品でもっともよかった3つをあげるならこの3作だな、という遊びをしたいと思います。

▶『her/世界でひとつの彼女』



まずは夏のはじめに有楽町で観た『her/世界でひとつの彼女』。スパイク・ジョーンズが監督脚本を手がけ、アカデミー賞脚本賞を受賞したこの作品は、人工知能をもったOS「サマンサ」と、妻と別れた孤独な中年男セオドアとの恋を描く。主演のセオドア役にホアキン・フェニックス、OSの声の出演にスカーレット・ヨハンソン、元妻役にルーニー・マーラ。

とにかく良かったのは、元妻とのデートシーンのフラッシュバックと、OSサマンサの「身体」であるスマートフォンを胸ポケットに入れてめぐるデートのシーン。その2つの対比。恋のはじまりに誰もが感じるあの擦り切れるようなスピード感で、何もかもが面白くて、お腹の底から身体が動いてしまうあの感じが、手持ちのカメラと素早いカット割で構成されている。ぼくのベストカットは、セオドアと元妻が出会った頃に、深夜の路上で、パイロンを二人でかぶってその先端でつつきあうあのカット。ほんの2秒なんだけど、それ見て泣けた。

手紙の代筆士であるというセオドアの設定にはアイデンティティの複数性が描かれ、声だけでのセックスシーンでは肉体を離れた肉感が表れてる。画面が真っ暗になって、声だけで交わす性愛の切迫感のすごさ。アーケイドファイアの曲も、Karen Oの主題歌を歌うところも、衣装も、川内倫子にインスパイアされたという画面の淡い光も、とにかく最高だった。

そして、「私もあなたも誰にでもなれちゃうから誰でもない」という現代的な孤独と「それでも誰かを好きになった過去のことは自分しか知らないじゃん!それって自分だけの歴史だしそれを肯定していいじゃん!」という切々としたラストの、元妻への「手紙」。

今年FORM ON WORDSで音声ガイドによる演出のショーというのをつくったこともあるし、付き合う前の今の彼女と観に行ったというのもあって、今年の夏を印象づける思い出の作品になった。


▶『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』




続いて9月に新宿武蔵野館でみた『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』。フランスアルプス山脈に建つ伝説的な修道院の、ドキュメンタリー。1984年の申請時には「いまはまだはやい」と断られ、16年後に「準備がととのった」という返信があった。撮影の条件は、照明なし、ナレーションなし、撮影には監督のみ、というもの。さらに撮影と編集に5年を費やした。かかった時間の途方もない重み。

この映画の感想は以前にブログで書いたので割愛するけど、この「沈黙」というのは単なる無音のことではなく、普段聞こえない音を聞くということ、生きる仕草の音を聞け!ということなのだという衝撃を受けた作品。3時間の切実な生と祈りの仕草の音は、荘厳でありながらあまりにも日常で、隣合わせで、聞こえてこない呼吸に耳を傾けろ、という素晴らしい作品だった。



▶『6歳のボクが、大人になるまで』

そして今年の文句なしベストになってしまったのは先日日比谷シャンテで観た『6歳のボクが、大人になるまで』。『ビフォア・サンライズ』『スクール・オブ・ロック』などのリチャード・リンクレイター監督が、12年かけて6歳の少年が18歳になるまでの物語を4人の家族を同じ役者で演じ続けたというすさまじい作品である。超派手展開があるわけではない、ささやかで、どうにもこうにもうまくいかなくて、なんとなく幸せってこういうのなのかなあみたいな、無数の事柄が通り過ぎて行く12年。

正直、この予告編を観ずに今やってる劇場に直行するのをオススメします。

すげえ!と思ったのが3つある。

ひとつは、主人公メイソンの6歳から18歳までのシナリオと、それを演じるエラー・コルトレーンの実人生が相互に影響しあってるんだろうなぁ、、、というリアリテイ。人の人生を描くとき、役者は演技をするけれど、演技を超えた彼の実人生の変化が、如実に画面に現れている!!!

あと、離婚した実父がポテトを食べながら性の話を高校生の娘とするときに、ふいに現れる女性。その人は父がちょっと気になってる感のある人で、その様子をみて、親父を小馬鹿にしたように、それでいて安心したように、他者として父を眼差しているメイソン(主人公)の表情を見て、「なんだその顔は!」と慌てていう父。そのワンシーンにぼくは泣いた。他者としての家族、役割を演じ合う家族。恋人を持つ父が、ふいに父という役割を脱いだ、一人の男に見えた瞬間にぼくはたまらなく愛おしくなって、涙が出た。

そして、ネタバレになるから言えないけど、ラストのお母さんのあのセリフ。12年、演じ続けた。映画の中でも外でも、母親役をやった、、、というこの事実がドンとくる。

ぼくはこのラストはもちろん、その余韻をひくようにエンドクレジットでも、ああこれだけの人が12年の月日を過ごしたのか、映画/フィクションの中で、あるいは撮影や制作の現場/リアルの中で…と思ったらまた涙が出た。ようは3回泣いた。

児童館に関わって8年。小学校1年生だった子が、もうすぐ高校生だ。ぼくもまだ大人になったといえんのか、いえないだろう、という感じだけど、自分の姿と、児童館で出会った子どもたちの姿も重ねていたのは言うまでもない。





あとなんだろう、『リアリティのダンス』もすごくよかったし、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』も超絶楽しかった。あと『バルフィ 人生に歌えば』も『her』にならぶ恋のフラッシュバック/カット割りでかなりよかった。

それから今年公開じゃないけど8月に目黒シネマで観た『この空の花 長岡花火物語』は、生涯で一番泣いた映画だった。『この空の花』『長岡映画』と、いくつものタイトルがスクリーンに写されただけで、この映画の持つ複層性を感じて涙腺が開き、そのあとはもう終始涙流しっぱなしで、思わずそのあと長岡に旅行に行ったほどだった。なんだろう、映画を観て泣くっていうのがクセなのかな…。

今年は、去年よりもたくさんいい映画に出会った気がする。また来年出会う映画も、楽しみだ。






2014/09/16

仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』



新宿シネマカリテにて、ずっと観たかった『大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院』を観る。

監督が最初に撮影を依頼してから16年後に「準備は整った」と許諾を得、撮影は6ヶ月修道士として迎え入れられて、ともに生活しながら撮ったという。とはいえ、1日に1時間程度しか撮ることができず、6ヶ月間でおよそ120時間。そのまま上映したいぐらいだっただろうに、その映像を169分に編集した。2006年公開の本作は、日本公開までにさらに8年かかった。

「沈黙」とは完全な無音ではない。この映画は終始、聞いたことのあるようでない音への驚きに満ちていた。そして仕草の美しさ。というか仕草の美しさとは、仕草の「音」の美しさなのかと、こんなにも思ったことはない。

例えば、コップを机に置くときのムード。コトリと静かにおくか、ゴンと思いやりのない音をたてるか。日々の仕草のムードを演出してるのは実は音なんだなと。

修道士たちの仕草は、幾度と無く繰り返され、無駄を省き、丁寧さを練り込んだ仕草。たとえば、青い服をきた老修道士が畑の土をぶあつく覆う雪をスコップですくう場面。土の表面を削らないように、雪だけをすくうように、丁寧にスコップを雪に差し込んでいくんだけど、うっかりほんの少しだけ土をすくってしまったとき、またスコップでその土だけをすくって畑に放ったのだ。また、靴を修理するとき、靴底と革を貼り付けるボンドを塗り、息を吹いて少し乾かすのだが、その息を吹きかけるリズムと長さ、丁寧さ!

ていうか、そもそもなんで修道院はあるのか、修道院のもろもろの行為の目的はなんなのかって考えたとき、最近読んだ本の一節を思い出した。

行動する者は勝利したいと欲する者だ。勝利する者は他者に苦しみをもたらす。行動を断念することだけが、幸福と平穏への唯一の方途なのだという憂愁。

でも、行動しないで生きるなんて無理だよなぁ。呼吸するし、のどが渇いたら水飲むし、お腹すいたら食べる。家がほしい、恋人がほしい、とか欲求は高まる。もしかしたら修道士という人たちは、すべての行動とそれによってもたらされる勝利を(可能な限り)断念しようとしているのだろうか。そしてそれらの仕草に祈りを練り込んで生きていこうとしている人たちなのかもしれない。

そしてそこには希望が漂う。神に近づける、慈愛に満ちた人間として生を終える。その希望に悲哀を見てしまうのはぼくが俗世の人間だからだろうなとか。映画をみるぼくらとは別の生き方を選んでいる人たちの姿は、人間が他者を苦しめることなく共に慈しみ、あわよくば楽しみ生きるには、人間の魂はどうあるべきかを静かに問いかけてくる。

ちなみに、ボンドで修理した靴は、週に一度だけ遊びにでかけるときに雪山で履く。スキーのように滑って遊ぶ修道士達の様に、遊びとはこんなにも瞬間の喜びなのか、と。他者とともにいかに生きるかという魂への問いから、一瞬だけ解き放たれる瞬間が遊びの美しさなのか、と。

まーとにかく約三時間、耳を澄ますべき映画。日々の自分の仕草の音をもう一度聞いてみようと思う。