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2017/08/20

私Aと私A’、自由、存在の肯定 ーいわき総合高校卒業公演『1999』を観た

野上絹代さん作・演出いわき総合高校芸術表現系列の学生出演の舞台作品『1999』を観に、福島県いわき市に行ってきた。片道3時間半のちょっとした旅だが、今回は自宅から劇場までを直線でつなぐような旅で、寄り道をせず、ストイックに観劇に行った感じだ。その道中、一緒に行った妻と友人と他愛もない話をしながらのんびりすごした。



野上作品はこれまでも、作・演出をした俳優板橋駿谷さんの一人芝居『俺の歴史』、野田秀樹作品の演出をした『カノン』、ソロプロジェクト三月企画の『GIFTED』『ニンプトカベ』を観てきている。(結構見てるな)『GIFTED』と『カノン』はブログに感想を書いた。これまでの作品には、卑近な日常と宇宙の大河がつながってしまう縦横無尽なスケールや、役者自身の実際のエピソードが演劇として仕立てられていくこと、観客が自分を舞台上の役者たちに重ねていく仕掛けの散りばめなどなど、野上作品の特徴が積み重ねられている。今回はそういうことをいわきの女子高校生たちと一緒に作るというのだから、これは必見と思い、足を運んだ。

==以下、若干ネタバレを含む==

この公演はいわき総合高校の授業の一環として行われている。芸術表現系列(演劇)というコースを専攻している学生と、招聘されたプロの演出家が一緒に作品を制作することでコミュニケーションする力を育むことを目指しているという前提で行われたものだ。けどまぁ演劇なのか教育なのか、そんな区別はどうだっていいぐらい面白かった。



今回の10人の出演者のほとんどは1999年に生まれた女子高校生だ。1999年はノストラダムスの大予言で、七の月に恐怖の大王が舞い降りるとかどうとかという予言で世間がざわついていた時期だということで、演者たちは「わたしたちは、恐怖の大王だ!」といって顔をがっつり塗ったKISS的なデスメイクで登場する。「おまえたちに恐怖をあたえてやる!」的なことを言うものの、多くは「出落ちという恐怖」とか「このメンツで80分やるとおもったら怖い」とか、そういう卑近な恐怖のことを言ってて笑える。

10人の自己紹介があり、その後、どうやって「恐怖の大王」を演じるか、ということを話しはじめ「悪い事をしよう!」と言って、これまでにしたほどほどに悪いことをポップに歌ったあと、ポイ捨てとかオレオレ詐欺とかを提案していくが、ことごとくなんか微妙な感じで終わる。このとき「はーい!オレオレ詐欺やりたい!」「いいねぇ!」って言った次の瞬間には「もしもし~」といってオレオレ詐欺のコントが始まる。このショートコントの連打が笑いをつくっていく。

ノストラダムスの大予言は嘘だった、ということもあるのか、その後は大嘘をついてみよう、という話になっていくが、これもありえないっしょみたいな話になったとき、そのうちの2人が嘘にしたい本当の経験の話をしはじめる。これもさっきのショートコントの入りと同じように話が始まるのだが、これまた微妙な空気になり、ムカツクぜ!!!となる。みんなそれぞれが自分への苛立ちをぶつけたラップがここから始まるのだが短い時間で10人それぞれバリエーションのあるフローで最高だった。このむかつきがピークに達したあと、ぐだぐだしてみんなバイトにいってしまう。

バイトに行くと今度はバイト先で、みんなそれぞれが「終わり」とか「死」について考え始める。演劇部の練習にみんなが参加して、基礎体力の稽古をしながら、こんな終わり方は嫌だ、という思いを吐露し始める。そして・・・

という感じでここから怒涛のクライマックスへ向かうのだが、このクライマックスの最高さは2月にも東京公演があるとのことなので伏せておく!

内容をざっとふりかえってみるとこんな感じだったと思う。(間違っていたらごめんなさい・・・)

「悪いことをしよう」も「嘘をつこう」も微妙な空気になっちゃう、その過程の、高校生特有の否定と肯定を同時に含んだ言い回しで、ノリと勢いだけでどうにもならない感じのむずがゆさが、切なさにも面白にも、悲しみにも愛おしさにもなって観客としてみているぼくも心がぐるぐるする。

そして、「これでもか!」「これでもか~~~!!!!」と畳み掛けてくるクライマックスのビッグバンに巻き込まれながら、もっともっと見ていたい、終わらないで~!!!という想いで目と心を熱くしながら観たわけだけど、もう一回観たいという気持ちが高まりすぎて、昼の公演の後、当日券で夜の公演も観ることにした。

そんな感じで興奮しながら、帰りの電車で、妻と友人と、作品としての最高さを話しながら「10人のなかで誰推し?」とか「自分の子どもだったら誰が一番近いと思う?」とか、結構キショい話をして、最終的には「今回の制作と公演の体験って、教育として何をもたらすんだろうね」というような話になった。

1999』のことをふりかえりながら、ぼくは『夢の教室』というドキュメンタリー映画を思い出した。これはピナ・バウシュの代表作品『コンタクト・ホーフ』という演目を、ダンス経験のない十代の少年少女が10ヶ月の特訓を積み、舞台の上で踊るまでの過程を記録した映画だ。


『コンタクト・ホーフ』は、一人一人の身体の検閲のような場面から始まり、触れ合える近さにいながら触れられないこと、遠くにいながらまるで触れ合うように戯れることを踊りながら、踊り手が自らの身体の醜さも可愛らしさも受け入れていく過程を見るような作品だ。自らの身体の醜さも可愛らしさも受け入れていくことは、10代の少年少女には最も酷なことだろう。背伸びをし、世間が思い描くような美しさや格好良さに近づこうと自分の身体を加工していこうとする過程にあって、その憧れから遠い自分自身のありのままを直視しなければならないからだ。そしてそれを直視し、振付家とともに受け入れた彼・彼女らの姿が美しすぎて涙が出る。

アフタートークで、演出の絹代さんが「人の短所の方が絵になる」というようなことを言っていて、生徒たちが短所を発表するところから『1999』の制作は始まったらしい。なるべくなら直視したくない自分の身体的・性格的なコンプレックスをみんなのまえで言って、果てはデスメイクをして舞台に立ちそのことを大声で言うだなんて、過酷だ。でもそれを面白さとして、ありのままで何が悪いんだ的な感じで、吹っ切った状態で演者たちは演じきっていた感じがある。

ほぼ妄想で、稽古のプロセスを考えてみる。

10人の演者は、演出家に向かって自分の短所を語り、自分が思う私(=私A)を見せる。演出家は、それを語る彼女たちが生きているだけで面白いしキラキラしてて最高って思っている。その短所もまた魅力だ!と思って、演出家の世界観/言語で彼女たちの像(=私A’)ができあがっていく。「恐怖の大王」というメタファーを着せつつ、彼女たち自身のコンプレックスを聞き取ったままに、台本・演出・振付を手渡していく。私Aが、演出家への信頼のもとに、私A’を受け入れて、それを舞台上で見せていく。そうすることで、それまでと大きくは変わっていないが確かに新しい私になっていくんじゃないか。

ぼくも高校生のころ、座高が高い(=足が短い)のを気にして腰を曲げた座り方をしていて腰痛になったり、ガリガリの身体を筋肉質に見せたいがために腹筋と大胸筋ばかりを鍛えて背筋が弱くなったりしてたなぁ、とか。あのころに自分の身体と心を受け入れろ、とコーチしてもらえていたらその後の人生違ったと思う。

例えば、占いとか、あとはデザインとか、カウンセリングとか、「クライアント」がいて、その人の言葉を聞きながら進めていく仕事ってたくさんある。多くの場合、クライアントは問題解決を求めてくる。それに対して「こうすべきだ」と解決案を提示するような答え方もある。でもそれって「こうしなさい」という強制になりかねないんじゃないか、とも思う。この手の仕事の大前提って、クライアントが問題だと思っていることが何かとか、どうしたいという願望が何かとか、そういうことをひっくるめて、存在それ自体を肯定するような仕事なんじゃないかと思う。その上で問題が解決することがあればそれでもいいし、そもそも問題じゃなかったってこともありえたりする。

教育の目的の1つには、「人が自由に生きられるようになる」ということがあると思っている。特に芸術教育の場合。「自由」の対義を仮に「強制」だとする。でも、完全なる自由はなくて、必ず制約や要求があって、その制約や要求にただただ従っていると「強制」されていることになるが、制約や要求のことをよく知り、受け入れることは「自由」に近づいていくことなのだと思う。そして、自分にかかる制約として最も卑近なものは、自分の身体と心だ。そのありのままを受容することには、「強さ」が必要だ。その強さは個人から発生してくることは滅多にないだろう。自由になるための強さって、最初は誰かが包み込むような優しさで「そのままで大丈夫」と安心させたり、力強く励ましたりすることで、他者から与えられるものなんじゃないだろうか。


シンプルな「いま・ここ」における、力強い存在の肯定。音楽も最高だったし、きめ細やかな演出のあれこれとか、10人それぞれの輝きについてとか、しゃべりたいことはまだたくさんある。あー一個言いたいのは、高校の校長先生が始まる前に挨拶するときにさりげなくしていたデスメイクの素敵さと、そのときのBGMがキリンジの『悪玉』でそれが作品の内容をなぞるようで、めちゃめちゃよかった。

2月の東京公演を、楽しみにしている。



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2016/05/23

汚さ、祈り、物語のグルーヴ ー絲山秋子『ダーティ・ワーク』を読んだ

このあいだMother Terecoのスタジオに遊びに行ったとき、厚木までの小田急線で読もうと思って絲山秋子さんの『ダーティ・ワーク (集英社文庫) 』を買った。絲山さんの作品は学生の頃に『沖で待つ 』を読んで衝撃を受けて、ゼミ旅行で高崎に行ったときにご本人に一度だけお目にかかったことがある。そのとき、佇まいの背景にすっと通った筋と柔らかさみたいなものを感じて、言葉を扱い、物語を綴る人の佇まいのただならぬ感じに驚いた。


さて、この『ダーティ・ワーク』は、20代後半~30代の若者たちの人生がささやかに語られた群像劇なのだが、ん~!まずなにより前提知識なしで100%まっさらな状態で読んでほしい。なんのことだかわからないで読み始めたほうが、のめりこめると思うし、確実に面白いのでまずもって間違いなしです。面白くておもわず連続で3回読んで、それぞれ別々のシーンで鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。

で、ここからはネタバレしながら書いていきます。

まず、あらすじ。『ダーティ・ワーク』文庫のリードを引用。

ギタリストの熊井望は、自分をもてあましながら28年間生きてきた。音楽以外に興味はなく、唯一思いを寄せるのは昔の友人。自分の分身のようにかけがえのない存在だったが、今はもう会えない。彼女が取り返しのつかないことをしてしまったから。様々に繋がる人間関係から見えてくる、ささやかな希望。ローリング・ストーンズにのせておくる、不器用な若者たちのもどかしくも胸に迫る物語。

ってこの文章!「様々に繋がる人間関係」とかネタバレだし、熊井が「昔の友人に取り返しのつかないことをした、、、」みたいなのだけが物語の骨子じゃないから!と思わずつっこみたくなった。こんな、現代の若者を描いたありがちな小説とかじゃないから!って言いたいんだけど、じゃあなんなのかというと言葉が見つからない

全部で7つの章からなるこの小説は、第1~3章までは、それぞれ独立した短編小説なのかな?って感じなのだが、第4章以降にだんだんとつながっていく。え、この人物とこの人物は過去に接点があったのか、とか、あ!この人ってこの人だったのか!とか。いや、冷静に考えたら、「オムニバスに見えて実は全部繋がってました系」の物語って、もはやそういうジャンルもので、この世にはごまんとある。しかし、『ダーティ・ワーク』の場合この構成があまりにも緻密で、多分このジャンルの中でもずば抜けて最高なのだと思う。もうこの緻密さの美しさだけで泣ける。

この物語を読んでいてしみじみといいなぁと思うのは、人称の変化だ。最初は「熊井はをした」という感じで三人称でひたすら語られていく。しかし章が進むにつれて、ほとんど前触れもなく会話の応酬のなかで一人称になったり、いきなり三人称にぐいっと戻ったりするし、かと思えばラストの章は「ですます調」の慎ましやかな一人称の語りで結ばれる。絲山さんの文体の特徴なのかもしれないけれど、状況描写からするりと会話のシーンには入るとき鉤括弧が使われないことがある。語り部と登場人物が同じグルーヴを共有しながら語ったり語られたりしてて、なんとも軽やかでここちいい文体だ。ローリングストーンズの曲のタイトルが各章のタイトルになっているし登場人物が音楽に関心を寄せているのも、納得がいく。

そして、何よりぼくが好きだったのは、この小説に散りばめられた、あっと驚くような突き抜けた表現のうまさだ。いくつか好きなシーンを引用させてください。

牛遊びしない?
なんですか、それ。
形容詞プラス牛。
えー、楽しい牛とかですか。
そうそう、いかがわしい牛。
悩ましい牛。
おびただしい牛。
小汚い牛。
おどろおどろしい牛。
輝かしい牛。
せちがらい牛。
思ったよりずっとその遊びは楽しくて、長く続いた。単調だけど、シーソーをしているみたい。いろんな牛が私の心に遊びに来て、いろんな顔をして去っていく。想像できない顔の牛が面白い。
(p.63~64 sympathy for the devil

「だってよう」
美雪は視線をそらした。
「だって何だよ」
「恥ずかしいもの」
そう言うと、床に正座した。自分のペースを失って、どうしていいかわからない彼女の様子がいじらしく思えた。
(p.79 moonlight mile)

母親は牛というよりも鹿に似ていた。父親は色白で、顔の表情がどことなくシュウマイに似ていた。しかしここでお父さんはシュウマイに似ていますね、などと言ったらどうなることだろう。
遠井が見舞いの言葉を選ぼうとしているうちに、彼女が話し始めた。最近の調子のこと。毎日違う症状が出て不安なこと。疼痛。骨盤の中を微生物が走るような感触、嘔吐、発熱、そして入院してから片時も離れない血管痛。
(p.80~81 moonlight mile)

「わざとらしくなかったか?」
「あんなに苦しんでるのにわざとらしいなんて思わないよ」
色っぽかったなんて言ったらまたティッシュの箱が飛んで来るだろう。
(p.95 moonlight mile)

もっと治れ、もっと根本的に治れ、彼は思う。彼女の腫瘍と一緒に自分の心配が消えうせるように、と彼は念じる。眠る牛にむかって念を送る。
(p.103 moonlight mile)

「辻森さんてさ」
「なんだよ」
「妖怪に似てるよね」
やっと笑った。
にゅいーんと笑った。
「なに妖怪だよ」
「レイキャビクマン」
「なんだよそりゃあ」
また笑った。
「すごく冷たいの。人を凍死させちゃう」
あと、花を食べて生きるの。
「ばーか、あったかいんだよ」
いきなり、ほっぺたが変形するほどべたーっと手を押し付けられた。
あったかい。
それに、がさがさしてる。
全然見た目と違った。
間違いを知るのがこんなに甘やかだなんて。
(p.144~p.145 miss you)

それは初秋の、一番美しい時間でした。傾いた日が、全ての色を少しずつ変えて行く、光に照らされたものだけが残り、見たくないものがだんだんに色を失っていく瞬間でした。
(p.196 beast of burden)

これを書いている間にまた読み返して鳥肌が立ってしまった・・・。引用だけではもちろん伝わらなくて、前後の文脈があってはじめてこの表現が強烈に輝くんだけど、素朴な言葉でありながらえぐってくる。

そうそう、この小説に出てくる登場人物は、誰も完璧じゃなくて、不謹慎なことを考えたり、あさましかったり、不健康だったり、嘘つきだったりする。そんなスレた感情を抱えた人間、つまりどこにでもいる人間に、物語のグルーヴがささやかに何かを祈ったり、美しい瞬間を見つけて驚いたりするシーンを運んできて、ぼくら読者は物語を読みながらその祈りや美に出会っていく。しかもその祈りとか美しさは、それを抱いた人が抱える不謹慎さや浅ましさと混然一体だからこそ独特だ。読み終わった瞬間にApple Musicでローリングストーンズの「Beast of Burden」を検索してかけて、それを聞きながら、『ダーティ・ワーク』という題の意味とは、人間のどこにでもある汚さと祈りのことなのかもなとぼんやり思ったら20~30分ぐらい鳥肌が止まらなかった。



はい、とにかく絲山秋子『ダーティ・ワーク』最高でした、という内容を、これから引越しをする本八幡に向かう電車の中で、つらつらと書き連ねていたのでした。

2015/07/09

物語の穴、乗り物、大げさな身振り―『きみはいい子』『マッドマックス』『ポンヌフの恋人』

先週、珍しく3本も映画を観たのだけど、どれも色味が違う映画であったし、どれも超絶よかった、、、!

観たのはテアトル新宿で『きみはいい子』、TOHOシネマ新宿で『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、Bunkamuraル・シネマで『ポンヌフの恋人』。(未見の方はネタバレあるかもなのでご注意ください)
まずは水曜日に観た『きみはいい子』。テアトルでやってて職場近いし、伊勢丹でコラボ企画やってることもあって、同僚に誘ってもらって観に行った。(予告編に重要なシーンぶちこみすぎなので、予告見ないで本編みてほしいかも・・・)

呉美保監督の新作で、ポプラ社から出てる小説『きみはいい子』が原作。一つの小学校とその街を舞台に、いじめや虐待や発達障害、自閉症など、重たく感じる題材だけど、ぼくたちも暮らしていて出会う事柄で、もしかしたら当事者になるかもしれない事柄を、普通にそこここにあるものとして扱う。

ハイライトはいくつもあるけど、ひとつは劇中に出てくるある「宿題」の感想を子どもたちが答えるシーン。唐突に出されたへんちくりんな「宿題」の感想を、やってきた子どもたちが口々に答える。普通ならこの手の泣かせ系って現実味がなくて白けちゃうんだけど、この映画は違った。

子どもたちが感想を答えた始めた瞬間にカメラが手持ちに切り替わるんだけど、あれ、、?これ、よくみたらこの映画に出てる子って、素人の子達なのかな、、、?おお、この子のきょどった感じとか、照れ隠しのやり方とか、小4男子そのもの、、あれ、、これ、もしかしてこのシーンだけドキュメンタリーなの、!!!?ってなる。子どもたちの反応や声のトーンが、奇妙なほどに落ちていて、元気さを押し付けられている子どもとは異なる小さく変な生き物で、愛されてる子どもたちの振る舞いだった。「現実味」とかじゃなくて、映画をつくる中で「事実」が生まれていて、それを記録している!!!ってなって泣くよね。

よく考えると、子どもに音読をさせるシーンで、一生懸命、やりすぎな抑揚をつけて読む子どもの姿とか、呉美保監督は子どもの演技性とそうでない照れや緊張にあるリアリティを分けて描いてる気がする。

物語としても、男女平等に名前に「さん」をつけて呼ぶところとか、ママ友コミュニティの歪さとか、観てるものの身体をゆるやかに狭窄させる感じと、「にゃんばっへ、、、、(がんばって)」とか、「絶対やってきます!!!」とか、名台詞連発で、池脇千鶴のとっさのあれとか、ハッとする場面の連打連打で、ラストの高良健吾が駆け出すシーンと第9が流れるところもドラマ的にふわあああああああお見事、、、って感じの重さと軽やかさの対比も素晴らしかった。泣かすよね〜って感じで。

とりわけよかったのは、物語に空いた「穴」になんだと思う。さっき書いた「宿題」によって、崩壊気味だった教室のムードは変わり、別の場所でもパラレルに起きる同じ行動が重さのある映画の雰囲気を少しずつ軽くし、晴らしていく。映画はハッピーエンドに向かって駆け出していく。だけど、物語は「穴」の空いたまま、輝きのかたわらにぽっかり空いた「穴」から闇がこっちを見ている感じがする。その闇が待つ扉の前で、キラキラした汗をかいた主人公が息を整え、ゴンゴンゴンとノックをする場面とその中断!!!穴の存在をはっきり示してる感。

日々の暮らしの中のムードに違和感や苦しさを感じているなら、この映画必見かもしれない、、、。


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はもちろんアドレナリンをどるるるるん!注入注入!って感じでずーーーっと映画的に走り続けてるんだけど、情動をゆさぶるメタファーの連打連打が楽しくて仕方なかった。名前、ハンドル、手、種、乳、スプレー、油、、、もうあげればキリがないや。邦題の「怒りのデス・ロード」っていう語感とか、劇中で「insane」って言ってんのに字幕がわざわざふりがな付きで「狂気(マッド)」って入れちゃってるところとか、日本の配給会社のひとや字幕手掛けた人も、この祭りに乗りに乗っちゃってちょっとバカになってる感じがたまらない。

しょっぱなからわけわかんないところに巻き込まれた主人公のフラッシュバックを使って観客が彼に憑依せざるを得なくする感じとか、物語の中と外の両方を鼓舞する太鼓と変態ギター男を積んだ音楽車が伴走してるとことか、観客を客席ごと巻き込むような構造があって、最高のライド感だった。映画ってやっぱ人を異次元に運ぶ乗り物だよな!乗り物感さいっこう!!!!

あとぼくがいいなぁ〜と思ったのはあの最後のほうのシーンでトム・ハーディーのマックスが「ぉっとっとっと、、、これを高く上げて、、、」とかってぶつぶついいながら輸血の準備するところだよな〜。あの朴訥とした色気と優しさすげーかっけー・・・と。なんか全体的に女性を強く大切なものとして描くところとか、それを支えるマックスやニュークスなど男子勢っていう物語の構造もよく考えたら超好みだし、それはラストシーンの優しさが映えるわけだわ。


『ポンヌフの恋人』



現在Bunkamura LE CINEMAで開催中の「ヌーヴェルヴァーグの恋人たち」。以前に『ホーリー・モーターズ』を観て以来ずっと劇場で観たかった『ポンヌフの恋人』をついに。初回だったこともあってか、ものすごく混んでいましたよ。

レオス・カラックス監督のいわずと知れた伝説の映画で、制作に時間がかかりすぎてポンヌフ橋での使用許可期間がおわっちゃって、しょうがないからっていって実寸台のセットをつくったらめっちゃお金かかった・・・という作品で、ラストシーンのショットは『タイタニック』のあのシーンのモチーフになってるんだとか。

予告編でも観られるようなこの橋の上での花火のシーンは圧巻だったし、ドニ・ラヴァン演じるアレックスは運命の操作人で、ミシェルに話しかけるきっかけをつくるために絵を挟んだ包みのヒモを解いておいたり、お金の入った缶を橋のヘリから落ちるように少し位置をずらしたり、そのあとに起こるハプニングを予想してそうなるように仕掛けていく。それでも、ハプニングを起こしたあとの感情のやりとりは想定できるものではなくて、嘆いたりスネたりしながら、ここに留まりたいと願うアレックスと、どこかへ行きたいと願うミシェルの衝突と抱擁は美しくてぽーっと見入ってしまった。

もうすぐ目が見えなくなってしまうミシェルが、アレックスに支えられながら駅の地下道を歩くシーン。「どんなことでも大げさにやって。私にわかるように…」といったあとに、おもむろにミシェルの前に躍り出て、回り、走り、壁を蹴り、宙返りをし、大きく動くアレックスのあの身のこなしがきれいだった。

子どもも嬉しいとピョンピョン飛ぶ。聞いたことがあるのは、人間の脳は大人になるとエネルギーの放出を60%ぐらいに抑制することができるようになる、というか無意識にしてしまうらしい。子どもはまだその調整ができなくて、なにか嬉しい事があったり興奮のスイッチが入ると100%に振りきって、脳ミソからの喜びの指令を身体のなかにとどめきれなくてぴょんぴょん飛んでしまうんだとか。

不安なミシェルに向けて、60%で抑圧することなくハラハラするほど振り切った様を見せるあの大げさな身振り、ああぼくも好きな人に対してこういうことできるかなぁとか。

ゴダールの『はなればなれに』とかトリュフォーの『大人は判ってくれない』とか、観たい映画たくさんあるこの特集。

いい映画を3つも見ることができて多幸感がありました。


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彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3
仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』


2015/06/12

物語、事実、魂 ー快快『再生』と、ままごと『わが星』

今日は劇団ままごとの『わが星』を観てきた。先週の今日は、舞城王太郎の『淵の王』を読み終わり、先々週の今日は快快の『再生』を観た。



言葉とか物語とか人間の身体とか動きとか魂みたいなものとか命みたいなものとか、そういうものを単線的な時間じゃなくて行ったり来たり方々に散らばったりする、日々生きてる時間感覚とは全然違う時間の中で体験させてくれるのが演劇や小説の力だなと思ったけど、いや、違うよなと。

こういう作品を全身全霊で作っている人たちがいて、人々の自己顕示欲とか、浅はかな甘えとか、思慮のなさとか、そういうものがあると同時に、人間の肉体は生きてて生き生きできたり死んだふりができたりするのだ、ってことを『再生』では目の当たりにした。ただ肉体があって、動いたり叫んだりするという事実だけでなく、それを何かに見立てたり不意に感情を動かされたりするわれわれ観客の存在があることも、事実として浮彫りになるんだけど、その事実を目の当たりにしたことがなんだかやたらとグサグサきて、あの迫り来る何かは全く言葉になる気がしない。



『わが星』の最後のセリフ、「あなたには私がどんな風に見えているの?」という問いに対して「光ってる」と答えたそれは、メタファーじゃなくて、光っているというか、光を反射してそれを目が認識してるから見えている、というただただ事実で、そうであること、をただ肯定しているだけだった。

物語を通して、真実でも現実でもなく、事実と出会い直す感じって、なんだろうなーわかんないなー。

ここ数週間で出会ったどんな作品も、人の力が結集して、惰性や甘えがなく、キレッキレの仕事がなされていた。魂を捧げた仕事があって、そうでなくては物語は人の心を震わせない。そういう仕事を僕もしなきゃと思って、部屋に帰ってまず片付けをした。

2015/06/04

気持ち、影響、小説の憑依 ー舞城王太郎『淵の王』

休みの日の夜にブログを書けるのは、のんびりしてていいなぁとか思いながら、今日は怖くてワクワクして最高だった舞城王太郎の新作『淵の王』のことを書く。Twitterにも書いたけど、『ビッチマグネット』以降のネオ青春感と、舞城ならではの文体に硬質さが加わって、さらにスリップストリームにチャラさが消えて怖さ!興奮!!!(以下、ネタバレある)


俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ――。

魔に立ち向かい、往還する愛と祈り!

友達の部屋に現れた黒い影。屋根裏に広がる闇の穴。正体不明の真っ暗坊主。そして私は、存在しない存在。“魔” に立ち向かうあなたを、ずっと見つめていることしかできない。最愛の人がこんなに近くにいたことに気づいたのは、すべてが無くなるほんの一瞬前だった……。集大成にして新たな幕開けを告げる舞城史上最強長篇!

話題になっているのはこの小説の語られ方で、「1.5人称」とか「3人称」とか言われるんだけど、要は、各章の主人公(中島さおり、堀江果歩、中村悟堂)の背後霊が、主人公に向かって語りかけるように進んでいく。いろいろ書きたいけど今日はこの仕掛けのところを書きたい。

「何となくだけど、俺はずっと君と同い年だと思ってた。俺は君のことしかしらないし、君とずっと小さい頃から育っていて、と言うよりふと気付くと気見といて、俺は君のいる世界から、君の見るもの聴くもの触るもの、そして君と話した人から全てを同時に学んできたのだ。」
(第二章「堀江果歩」の冒頭より)

↑こんな感じだ。登場人物の行動に同意したり、驚いたり、慌てたりするこの語り手が優しくて、かわいくて、そして勇敢で、たぶんきっと神様なのかもしれない。主人公の行動に決して手出しをしない(というかできない)この語り手(神様)が、最後の最後に決死の介入をしようとするシーンがもう最高に最高なのだ。この語り手の言葉のグルーヴ感が、もちろん舞城ならではのグルーヴィーな文体になっているんだけど、今回は抑圧の効いた、硬質で優しさに満ちた質感になっていて、それでいて次々と恐ろしいことが起こっていく。音楽的なライド感がすごい。

それで、この仕掛けが面白いなぁと思うのは、小説を読むってある種の「憑依」とか「幽体離脱」の体験で、他人のカラダに入り込んだような、あるいは幽霊になって世界を俯瞰しながら見るような、そういう経験なんだってことを、物語の中と、物語を読む人の経験の両方で味わえるようになっているということ。『九十九十九』でメタレベルで遊びまくった舞城は、ここでまた本気出してきた・・・・って感じになっている。



『淵の王』は、怖い想像が悪い影響を持つ、ということを、「怖い話」と「他者への呪い」が次第に影響していくことを描いている。

でもこういうことってぼくらの現実でもよくある感じだ。昔、ぼくが九州に向かって鈍行列車で一人旅をしていたとき、岡山の公園で野宿しようと思ったら霊媒師でホームレスのおじさんに出会って、一晩その人の話を聞いていたということがあった。

そのときに霊媒の話を色々聞いているうちに背中がぞくぞくしてきて怖いな〜怖いな〜って思っていたら、おじさんが突然指をパチンパチンと鳴らしはじめて、「こうすると気持ちが明るくなるし、空気も変わるでしょ?あいつら(霊とか)はこういう明るい気分が嫌いなんだよ。人が怖いと思ってる気持ちが好きで、そこに集まってくるからね」ということを言っていた。まさに、怖い想像が悪い影響を持つ、その感じだ。

「怖い気持ち」は怖いものを引き寄せるメディウムになる。高校生の頃にクラスのみんなでハマった『新耳袋 ー現代百物語』は、怪談が99話掲載されていて、最後の1話はあんたの身に訪れちゃうぞ、という、「怖い気持ち」を媒介にして、話を読む経験と日常の暮らしを地続きにしてしまうシリーズだった。今回、舞城は「背後霊の語り」っていう、語り手が読み手に憑依しつつちょっと浮いてる感じの小説の仕掛けによって、「怖い話」とそれを読んだときに起こる気持ちを、層を重ねるように現実への影響作用を強めている。

舞城作の怪談百物語をツイッター上で流すアカウント「深夜百太郎(@midnight100taro )」は、まさに百物語をツイッター上で実践するという文学的アクティビズムで、またしびれることをやってくれてる。

「感情や暴力はムードやトーンになって周囲に伝播する」っていうのは『スクールアタック・シンドローム』でも扱っていた主題だ。一方「意志が運命を変える」っていうのは、『ディスコ探偵水曜日』を貫いていた。ここでいう「意志」は、「そうしようと思ってすること」ではなく、「なんでだかわかんないけどそうしちゃうし、どうしていいかわかんないことをぐちゃぐちゃやってなんとかしようとしちゃう」みたいな、「衝動」に近い意味で使われている。衝動であると同時に信じる気持ちを持つ感じが「意志」、みたいな。

そもそも、ある感情が芽生える原因なんてハッキリしていなくて、唐突に、文脈なしに自分の心に巣食っちゃう「気持ち」が、行動を促したり周囲を変容させたりしてしまう、っていうのは舞城の世界観の独特さだよなと思っている。それが恋だったり呪いだったりするのかもしれない。そんな独特さの中で、責任とか約束とか信じる気持ちとか、そういうダサいけど切実な気持ちをもってダバダバと生きていく登場人物たちに、いつも陶然としてしまう。

いやぁ〜きっと『新耳袋』シリーズ読んでるんだろうな〜、とか、最後の「中村悟堂」はベケットの『ゴドーを待ちながら』とかけてんだろうな〜、とかアニメに挑んだ『龍の歯医者』や『バイオーグ・トリニティ』で漫画原作やってるのとかそういう経験が反映されてる感がすごくある「堀江果歩」の章のあのかんじとか、あのシーンの恐怖表現すげぇ!!!とか、いろいろ書きたいことあるけど次の機会にする。

とにかく激烈お勧め。

*関連する記事はこれ
自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて
思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開






2015/05/22

縦横無尽に跳ねまわる感情、Mommy

昨日、ずっと観たかった映画『Mommy』を観てきた。感情のうねりに乗ったまま2時間、映画ってこんなにもいろんなことできるんだと、ワクワクしたり緊張したりして物語に乗っていた。



多動性障害を持つ少年スティーヴとその母の物語。うれしいときは周囲をドン引きさせるほど過剰に動き、ふざけたいときは他者との親密さの垣根を容易に飛び越え、唐突に、ほとんどなんの前触れもなく激昂する、そんなスティーヴの感情の渦にぶつかりながら必死に彼を愛そうとする母親と、そのうねりのなかで自分を解き放っていく隣人カイラ。何が起こるか先を読めないこの関係性は、終始緊迫しているんだけど、生活の中の刹那に現れる幸福感は、長くは続かないことがわかっているから擦り切れるように美しかった。

この物語は、どうやったって「うまくいく」ということがありえないだろう世界での、希望と選択と行動の物語だった。そして、いまこの時代の物語とは、「うまくいかない」ということが根底にあって、そのなかにある刹那の喜びとか激しい苦難とか、そういう情緒の躍動自体なのかもしれない。

思いもよらないことが、準備なしに次々と巻き起こっていくなかで、登場人物たちは感情のおもむくままにあたり砕けるように行動を選択していくんだけど、どうやったって「うまくいく」なんてありえないんだけど、どうやったって信じているのは希望で、それは愚かでもろく、それでいてタフな人間の業であり業の賛歌なんだなぁと思いながら、何度も泣いた。

こういう物語を描くために、「うまくいくなんてありえない」ということを前提に据えることの困難さがあって、ともすれば不幸自慢みたいな陳腐な悲劇になるだろうし、「うまくいく」という方向に安易に逃げたくなってしまうかもしれない。うまくいくわけない現実の中で希望を信じるって、一体何で、どうやってやるのか、「なんとかする」ということをどうやって行動して形にして現実と関わっていくのか。シチュエーションを設定し、そのなかで出来事と情緒を縦横無尽に跳ねまわらせながら、希望のことを描くなんて。

ただ呆然とするばっかりだったけれど、1つ確かだと思ったのは、物語をつくるということは感情を扱うということで、人の感情を逆なでしたり快楽を与えたり怯えさせたり優しさでつつんだりすることなんだろうなと。そしてそれは、どうしようもなく切実な何かから言葉になっていくんだろうなということだった。

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