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2014/04/24

ファッション、ブルーノート、aiko

服、というかファッションについて話をしていて、何かぼくはずいぶんと勘違いをしていたんだな、と感じました。

ファッションというのは、雑誌や広告代理店によって作られたコードを消費するための手段だと思っていた。でも、そういうことじゃないんですね。そのときその次代に人が感じてるいろんなことが反映されまとわれる装いの"感じ"のことであり、それを構築するデザイナーの時代感をつかもうとする尽力のかたまりなんだなということでした。

例えば今現代において80'sファッションを参照してる人は、今この時代にそれをやってる意味とかがなんかしらあるわけで、それを掘り下げると、以外に2014年が見えてくる、とかそういうことなんですね。

ファッションとは時代の空気感である、というとあまりにも陳腐であるし、今この時代にそれを着ていることのリアリティなんです、というと???という感じだが、具体的につくった人の苦労や過程が見えると、そのリアリティというのがいろんな微細で無数の情報でできてんだなと感じる。現代はとくにそのリアリティ/人々の美学が見えづらい、ということもあって、デザイナーもパタンナーも縫製工場も、苦労しているそうです。

でもとにかくそれでもファッションデザイナーは、今街をゆく人たちのリアリティを敏感に考えながら、服をつくっている。

なんかわかんないけど、ぼくはこのエピソードを聴いて唐突にaikoの歌が聞きたくなった。あの、変な音を外す感じ(菊地成孔さんは某番組で「ブルーノート・スケールをまともにできるのは、久保田和伸かこの人ぐらいでしょ」と評していました。)と、それがなんか感じさせる男とか女とかを超えた人間の感情の複雑のあちこちいく感じを味わわせてくれるな〜と思った。

aikoのカバーするスピッツの『チェリー』が、びっくりするぐらい複数のアイデンティティでできてて、すごくよかったので、ぜひ聴いてみてください。


2014/04/16

非常識、新しい現実、おれがいうんだからおまえはおまえ

「非常識なことが大切だって言っているんです。常識っていうのはしようがないから無理してつくってるんだからと、こう言っとるんです。

常識っていうのは全部学習でできてるんです。国家も、友情も、恋も、セックスも、全部学習。逆に学習しなくていいものっていうのは、呼吸とかね、屁とかね。

そういうんじゃないものは、全部おぼえるんですよね。おぼえるってのはどっかに無理があるんだなこりゃぁ。落語っていうのはそういう無理を解放してあげるって考えてるのは私だけですけどね。」

という話のまくらで始まる、立川談志の「粗忽長屋」。これをなんとなく聞き流しながら作業をしていたんだけど、ぐーっと引き込まれてすっかり感動してしまった。この噺、人の生き死にだけじゃなく、自分と他人との区別という常識的なことを、ぐるんぐるんぶん回して行くと、ふっと新しい事実が浮かびあがってくるすげえ噺だ。


浅草観音のまえで人だかりができていて、主人公の八がそこをかき分けていくと、隣の長屋に住む親友の熊公が行き倒れて死んでる。死体の引き取り手がないっていうんで、それを「当人に確認させよう」と、長屋にクマ公を呼びにいくと、戸口にいる。クマをつれて八は観音様の前で言う。

「いつも言ってるだろう?自分の生き死にぐらいはっきりしといておくれよ!おれはいつも顔洗うときは鏡の前で自分の顔を見てんだよ。おめぇはそれやってねぇだろ?おれは俺のことを知ってるし、おまえのことも知ってる。そのおれがいうんだから、ここで死んでるおまえはおまえだよ!」

自分の死体を抱きかかえながら、これはおれだ!と叫ぶクマ。「いやぁだけど変な気持ちになっちゃったな・・・」と少し間をおいて、

「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」

というサゲがどしーーんとキマる。

最近、アートってなんだろう、っていう話を真剣にしていて、アートというのはこのサゲのような体験なんじゃないかなぁと思ったわけです。おぼえてきたものの全部がまぜこぜになって外れていったさきで、突拍子もない新しい現実が浮かびあがる。今まで常識だと思っていたことが、全然違うかもしんない、ということに突き当たる。なんどもわからなくなるから、アートは魅力的なんだろうなぁと思う。

いやあしかしいい噺だ、「粗忽長屋」





2014/04/03

わからない重さ、わかる軽さ

ことの終わりが、いくつも、同時に、目の前に現れた3月から4月。2014年度が始まって3日経つけれど、終わりを整理しきれずにいる。

新しい時間を前に、ほとんど白紙の未来が茫々と広がっていて、こんなにも白紙は人をたじろがせるのかと思うほど白紙。

いや、やるべきことはたくさんあるのだ。石神井、中村橋、光が丘、雑司が谷、水戸、丸亀、前橋、奈良・・・いろいろある。ただ、お金のこととか、人と楽しく働いていくためのやり方を学ぶこととか、そういう見通しが立っていないまま再出発をしてしまっていいのか、悩んでいる。

ここ1、2年の、無自覚な空回りと横暴さと、人への無神経さが、招いてしまったいくつもの終わり。さて、やるべきことをやろう、と身体を動かそうにも、驚く程に元気が出ない。

やってしまったことを悔いていて、このさきのことも不安で、たじろいでいて、お金のことも仕事のことも、これまでの経験を活かしてうまく回していける、という自信もなくて、こんなに失敗をしてしまって自分にはもう何もできないんじゃないか、という絶望というほどカッコよくない、みっともなく、いじけたようなモサモサが、元気が湧いてくるところにドサッと重たく蓋をしている。

ということなのだと思う。ということが、わかるだけで、少し気持ちが整理される。蓋になっているモサモサが、少し軽くなる。

わかる

わからない

わからないということがわかる

わからないということがわからない

わからないということがわからないということがわかる

といういくつかの段階があって、何かがわからないときには、何がわかっていないのかがわかっていないんだなぁ、ということを確かめてから始めるといいのかもしれない。そのことに気づくために、いろんな人と話をして、モサモサを軽くし、ついには消し、元気を取り戻していかなくては。















2014/03/30

人力、ミニマル、グルーヴ

音楽は別に詳しくはないし、そんなCDやレコード買いあさったり、クラブに入り浸ったりするようなこともしないんだけど、一個だけ好きで好きで仕方ないジャンルがあるとするとそれは「人力ミニマルテクノ」です。

2012年3月31日に、ドイツのミニマル・テクノユニット「Brandt Brauer Frick」という人たちが来日してたときに、なんとなくかっこよさそーと思ってYouTube見たらおや?これは?と思ってライブに行ったらめっちゃ踊らされてびっくりした。



ミニマル・ミュージックの代表者の一人にテリー・ライリーという人がいるらしくて、その人の「in C」という曲を蓮沼執太さんが演奏していたので、原曲も聞いてみたらすごくよくて、あぁこういうのがミニマルなんだ〜と思っていた矢先のコレだったので、こんなに踊れるミニマルあるの〜!!!!と驚いた。



人力ミニマルテクノはジャンルとして確立されてるわけじゃない。ただ、人の力で繰り返されたり、気付かないうちに変容していったり、予期せぬ音が入っていてそれが新しいグルーヴになっていったりする感じが気持ちいい。たとえば日本のにせんねんもんだいも、おなじ感覚で好きなわけです。



で、更に調べてみるとアフリカにもあったみたいですね!人力ミニマルテクノが。無表情でぽんぽこやってる感じがたまらないし、ちゃんとエレクトリックなんだよな〜。親指ピアノっていうんですか。
(00:02:07あたりでおもわずツッコミを入れるはず。)



とまぁこんなかんじで、なんとなく好きな音楽映像をまとめたくてブログに埋め込んだッて感じです。一見バラバラで予定されている和音とは別のかみあわせで生まれちゃうグルーヴ、みたいなのが最高にアガる。不協和音とかいって和音って誰かに決められたもんだし、おもしれー!とかあーこんなんしちゃおかなーとかそういうのが重なってくればヘンチクリンなグルーヴは生まれるのだということを見せてくれている。

同じ文脈で紹介していいかわからないけれど、Open Reel Ensembleもまた、人力で、時にはその場で録音/再生/編集(回転したり止めたり)して演奏してしまう、超クールなグループ。


こうやって並べてみると、こういった質感のグルーヴを出すための身体性って、何なんだろうと考えてしまう。こうしたらおもろいだろ、とか、こんなんしちゃおっかなー、とか、ここにあえてこう!みたいなやりとりが生む集合知、これは楽しそうだなぁと思う。ぼくもぜひ嗜みたい。




2014/03/14

終わりを遊ぶ、仕事、その後

ぼくが苦手なことの一つに「片付け」がある。あるアイデアを思いついて、ばーっと出して、とっちらかすのは得意なのだけど、そこから組み立てて綺麗に整理したり、片付けをしてもとの状態に戻したり、っていうのが下手だ。それでいつも人に迷惑をかけてしまう。

仕事というのは整理して他人の目に触れられるようにすることや、片付けをして終わらせていくことなのだと思う。アウトプットというのは物事が整理された状態であるものだし、何をいくつ終わらせ、区切っていったのか、という数えられる目安に対してお金がしはらわれるのだなぁとも。

そんな当たり前のことなのだけど、とにかく苦手なので克服しなければと思っているのか、先週、友達の家に遊びに行って、一緒にがーーっと片付けをし、押入れにうまい具合にスペースをつくり、新しい本棚をつくった。我ながら小洒落た本棚ができたとおもう。



終わらせること、については他にもいろいろ考える。たとえば今年の「放課後アートプラン」ではポストンというキャラクターをつくって子どもたちにいろんなアイデアをポストしてもらったんだけど、その役目を終えたポストンが解体されることになった。子どもたちに壊していいよ、というと、喜々としてボコボコにした。ヱヴァ破の弐号機みたいになって、最後は粉々になっていた。



壊す様子が楽しそうだったし、壊すことの意味合いが大人と全くことなっていて、これはあれだ、死体をハゲタカに捧げる鳥葬と一緒だ。人の肉が鳥に啄ばまれて空に散って行く、と考えるのと同じように、モノが子どもに遊ばれて彼らのエネルギーになっていく、と考えれば納得・・・

納得はいかない。子どもにも、慈しみとか感謝とか寂しさとかそういうものを感じてほしいと思ってしまう。が、同時に、人や物事の終わりを受け入れるときに、何かしらの儀式が必要だし、そこにはある種の「遊び」があるんだなぁという発見もあった。



世の中には子どもの工作から公共施設まで、作ることを目的につくられ、終わり方や片付け方がないままに生み出されたモノがたくさんあるみたいだ。終わりをポジティブに捉え、それが終わり、なくなった後の世界を考えるのは、想像力を必要とする。「リノベーション」も「リユース」も、一度終わりを迎えたものを新しくつかうわけだし。その終わりを面白く迎えることは創造的だ。

これまで、とにかく生み出すこと、つくることに血眼になっていたように思う。20代も後半にさしかかって思うことは、丁寧で面白い「終わり」をつくること、片付けることを仕事として据えて、これからをがんばっていこうということだ。



2014/03/05

ファッション、物語、戯れ ―拡張するファッション展

2月28日〜3月2日、水戸芸術館へ。「拡張するファッション」展に参加しているFORM ON WORDSとして、その最初のワークショップをするために。んだけど、まずこの展覧会が素晴らしくて大好きになってしまったので、そのことをかく。



ぼくは正直、この展覧会を見くびっていた。ファッションという思考の枠組みは強固なもので、それを崩せるのかな?「好きな人はすきだよね〜」という感じに終始してしまわないかな?と、心のどこかで思っていた。でも、それはぼくが間違えていた。

服を着たり着させたり、つくったりもらったりすることの間には物語があるし、その物語を自分の感覚で面白いほうに変えていける「そういうツールなんですファッションは!」みたいな強い波動を感じたし食らった。それは、この展覧会のもとになった本の著者である林央子さんがしなやかに手繰り寄せてきた文脈、林さんと並走して展覧会をつくりあげた高橋瑞木さんのタフネスなのだと思った。

「拡張するファッション」展は、90年代の写真の広まりや、雑誌やZINEなどのD.I.Yムーブメントから、生産者/消費者という二項対立を超えた、服を着ること、服を通して他者と関わることへの情念をかたちにした人たちの記録と現在を見せる展示だと思う。

ぼく自身とファッションのことを考えると、まず、ぼくはファッションを自分の生きるうえでの大事なものだと思っていなかった。そして、この展覧会が見せる90年代の熱量をリアルタイムでは感じてきていない。大学生になってから知ったスーザン・チャンチオロをコロコロしたかわいい名前の人だなぁぐらいにしか思ってなかったし、ミランダ・ジュライをソフィア・コッポラと混同してたし、コズミックワンダーを好きな人はすきだよね〜ぐらいにしか思ってなかった。


服を着ることへの自我が芽生えた中学生や高校生の頃はもういわゆるゼロ年代半ばで、原宿にいってラグタグに行って、フラボアやズッカやツモリチサト、リバースやバウンティハンターを買うの?買えないでしょ…といって古着屋に行く、という時代だった。コズミックワンダーやヒステリックグラマーの台頭してきた時代は、ぼーっとした小学生でしかなかった。

なにより「ファッション」というものを遠ざける感覚が自分にはあった。あるモノを持っている、まとっている、あるコトを知っている、というステータス消費のサイクルにハマっているだけじゃん!呪われてるだけじゃん!ていうかお金かかりすぎるじゃん!というような感覚をもって、ファッションのことを見ていた気がする。

しかし、この「拡張するファッション」展を観て、ぼくはここに参加する作家たちが、ひたすらに、誰かのために服をつくることや、誰かが服を装って、生きて、変わっていく姿を見ること、それを丁寧に、それでいてセンス全開にして楽しみ、慈しんでいることを知った。

この展示の始まりにあるホンマタカシさんの部屋は、ファッションというものが「コレクション」のような制度によって発信されていくものだけでなく、人々による服の着方/遊び方によってつくられていくものとして、ファッションの民主化の始まりとして位置づけられている。

「こういうの楽しいと思うし素晴らしいと思うんだよね」と発信していく人々が、大きな制度に依存するのではなく、日常的実践からカルチャーを創造していくたくましさとかろやかさが、ホンマさんの写真や、その後につづく「Purple」や「Nieves」「Here and There」といった無数のZINEから感じられる。

スーザン・チャンチオロの部屋には、彼女の日頃のスケッチとそれを映像化したものが溢れるように貼りだされている。メモ、スケッチという日常の手癖のなかに、他者に装いを与えること、その物語への詩情を感じる。

横尾香央留さんは、他人から預かった服の"お直し"をするのだけど、柄に合わせたり合わせなかったりしながら、ちょっとした遊びとしてきのこを生やしたりしている。服やそれを着る人の物語の、終わらない戯れの予感がある。

ここに参加している作家たちは、ファッションの魅力をよく知っている。ある意味では半分呪われていることを自覚していながら、そうじゃない、自分の感覚を信じて生きることを可能にする手立てとしてファッションがあることを、強く願っているんだなぁと。

個人的にここ1年ぐらい、ぼくはあらゆる場面で「まぁそんなもんでいっか」とか「誰かやってくれるっしょ」みたいな怠惰な態度で生きていたと思うし、「こういうことをしたらドキドキする」とか「このワクワクは他人にも共有できるはずだ!」みたいな感覚を閉ざして、最低限のタスクだけをこなそうとするような、そういう生き方をしてきていた。だからこそ、この展覧会のなかにあるモノゴトの熱量には食らったんだろうなと思う。




FORM ON WORDSもまたその名の由来の通り服にまつわる「ことば」を集め、それを「かたち」にしていくプロセスのなかに「遊び」を取り入れることで、物語の読み方を複数化することに腐心している。


今回のメイン展示「ファッションの図書館」は、ファッション誌やファッション史の陳列ではもちろんない。個人の装いにまつわる物語=ことばの蓄積をつくりだしている。手前味噌だけど、強烈なリアリティだった。例えば亡くなった人の服とそれにまつわることば、かつて子どもだった誰かの服やその思い出など、目前にその服があると、そうした物語が自分たちの身の回りに無数にあることを、がっと思い出させられる。そういえばぼくの今日着ている服も、あの人から選んでもらったやつだったわ。その服を着ていることに、別の意味があることを思い出す。

そんなふうにして物語を預かったFORM ON WORDSがどんな風に服/かたちをつくっていくのか。ワークショップの過程は後半に続く。







2014/01/21

スポッチャ、快楽、反復

1月17日(金)「スポッチャ」のリサーチということでラウンドワンスタジアム板橋店に行ってきました。

ボーリングにわざわざ行く…ということで思い出すのは、小学生の頃「みんなでボーリング行こうぜ!」と企画して、わくわくして前日寝られなくて、当日も朝早く起きちゃって、で、ヘトヘトになって帰ってくるあの感じでした。が、大人になってからいくアミューズメントは全然体験でした。

光が丘の児童館での子どもたちの様子を見ていて、大人が名目としてかかげている「子どものコミュニティづくり」とか「居場所づくり」とか「健全育成」とか、そういう活動よりも、設備があってそれを使って遊べるという機能のほうが当然重視されているわけです。高い天井があり、バスケができ、外ではフットサルもできる、みたいな。なぜ「スポッチャ」に行きたくなったかというと、その感覚で思い切り遊べる場所といえば「スポッチャ」なのでは?と思ったからです。

そして行ったことがなかったので、アージの企画コーディネーターであり、遊び魔人並木くんはじめ5人で行ってきました。



▶株式会社ラウンドワン


ウェブサイトによると、株式会社ラウンドワンは大阪に本社があって、ラウンドワンは全国に111店舗、北米に3店舗(山形、茨城、富山、福井、滋賀、鳥取、島根、長崎を除く)。全国どこに行ってもあるイメージだし、ボーリングといえばラウンドワンとさえ思うレベル。

会社の経営状況を調べてみると、一時は収益率が下がっていたみたいだけど最近では学生を中心に時間帯による料金プランの違いで「割安感」を打ち出すことで業績を回復しているみたいです。CMやチラシなどの広告量によって業績が左右される、ともありました。あ、それなら行こうかなと思わせる料金プランと広告で勝負してる。

ただ、メインはやっぱりボーリングで、サブとしてのスポッチャだそうです。料金はまた別途必要ですが、ボーリングがけっこう待ち時間が長いらしく、その間スポッチャで時間をつぶす、という使い方があるのだとか。



▶遊んでみる




ラウンドワンスタジアム板橋店に到着して、まずは受付。会員証をつくる。フリータイムで大人は2300円、学生はそのほぼ半額の1200円!!!やっぱり学生がメインのターゲットなんですね。

入るといろんなブースがあって、いろんな効果音が方方から鳴っているあのゲーセンの感じ。この感じか…と思いながら周りをみると結構中学生が多い。ダブルデート的な感じの。


ぼくら5人もまとまりなくランダムに遊んでいく。最初はガンシューティング、次にゴルフ、そんで「筋肉番付」のあのバスケのフープが動くフリースローのやつ、キックターゲット・・・・


まぁ普通だったらゲーセンで200円ぐらいいれてできるゲームが、空いていればやりたい放題。確かにいろんなスポーツを擬似体験できるし、振ったこともなかったゴルフクラブを振ったりもできて、いい機会。

で、卓球でひとしきり対決したあとはビリヤード。対決できるし、スリルあるし、まぁある程度楽しいは楽しい。


そして、やたらと喉が乾く。身体動かすし空間が乾燥しているのもあるし、ジュースが欲しくなる。で、自販機に行くとなんと200円…!なるほどね、と思いながらやむを得ずボトルのコーラを買う。炭酸と甘さが喉に広がって潤すので、うまい。



屋上階に行って、バスケやってるのを横目にバッティングコーナーへ。あらゆるコンテンツの中で最高はこのバッティングでした。なんてたって(空いていれば)やりたい放題!!!!! 80km~130kmの球をバカスカ空振りできまくれるわけです。


一緒にいった友達は、15ゲームぐらいやってました。ぼくも10ゲームぐらいしたかな。普通のバッティングセンターでやったらそれだけで3000円ぐらいだから、これだけで元はとれてます。(が、おかげで腰とか肩とか変なところが筋肉痛)



あとはバレーボールやテニス、フットサルができる場所もある。本来のコートよりもやや縮小されていて、素人が遊びやすいように設計されているのかなあ?ガチでやるというよりは、あくまで擬似的な感じ。


混雑して並んでいるときのために「1人1ゲーム」「1組10分」などのルールが決められている。あとは、近隣への配慮とか、禁止事項とかも最低限だけど書かれている。


ひとしきり身体を動かした後はゲームコーナーで「湾岸ミッドナイト」でカーレースをしたり、なんか変な画面に向かってボール投げて敵を倒すやつやったり、パンチングマシンをしたり「太鼓の達人」をやったり・・・・

全ゲームフリーで遊べる!のだけど、最新のゲームではなく型落ちしたゲーム機を使っているみたいですね。普通だったら1回100円とか200円とかだけど、お金がかからないのでお得感がすごい。


▶ 児童館とスポッチャ

児童館とスポッチャを比較すると、そう違いはないと感じます。しかし、種目ごとに空間が区切られ、使用時間の目安があり、ペアもしくはグループごとに遊べる、という安心感がスポッチャにはあると感じました。


児童館は、空間が区切られていないし、使用時間の目安もない。整理されない混沌とした空間のなかで、子どもたちは工夫して場所を見つけ、遊んでいます。ただ、縁日やお化け屋敷などの催事は、利用者が考え、空間をつくることができる。これは児童館の強みです。スポッチャには"ハレ"がない、あるいは常に"ハレ"。児童館は"ハレ"と"ケ"の区別がある。

ただ、"ケ"の日がただのカオスになってるときがあるので、スポッチャを参考に、空間の使い方を整理することはできるんじゃないかなと感じました。



▶ 興奮と退屈のアップダウン

児童館とスポッチャは、こんなふうに比較できる。ただ、ぼくがスポッチャで感じたのは、なんというかやってもやっても退屈する感じでした。ゲームの最中は、一瞬のスリルとか、勝ち負けの競り合う感じとかを楽しめるが、次、次、とゲームや遊びをこなしていくたびに、心の奥底で退屈が晴れない…。

あ、この感じはあれだ、児童館で子どもたちがいろいろ出来る遊びがあるのに「ねぇなんかやることない?ひま〜!!!」と不満を言っているあの感覚だ!!!

と強烈に気付いたのです。ぼくも小学生の頃、同じメンバーで同じ場所でずーっと遊んでて、飽きてるんだけど言い出せない、なんか新しいことないの〜と退屈する感覚を味わっていた。そうか、この感覚を彼らは日々味わっているのか…それは結構キツイ。

2000円払ってフリータイム。閉じられた環境のなかの、溢れるコンテンツ。カーレースやシューティング、キックターゲットやビリヤード、おまけに漫画喫茶もある。それぞれに、それぞれ遊びの世界が開かれているのだけど、一つ一つの世界でスピード感やスリルや競り合いの昂揚があって、そこから抜けるとcalm down。この繰り返し。

3時間もそのアップダウンを繰り返していたら、ゲームの昂揚に身体が慣れてきて、別の感覚が欲しくなってくる。で、ちょっと一息つこうと思って、割高だけどコーラとフライドポテトを買ってたべる。このすべて用意されている感じの充足感と閉塞感。

ここで退屈を強烈に感じたこのとき、ぼくが欲しくなったのは、新しい驚きとか、見たこと無いものとか、これは一体なんだ!?とわからなくなってしまう感じとか、そういうトリップ感でした。



▶ 「快楽」と「楽しさ」

チクセントミハイという人が『フロー体験 喜びの現象学』という本の中で「楽しさ」と「快楽」について以下のようなことを言っています。

"「快楽」とは単に期待が満たされたり欲求が充足されたりする"均衡回復"であるのに対して、「楽しさ」とは期待を超え、事前には想像していなかったことを達成したときに生じるものだ。"


ぼくは「快楽」ではなくこの「楽しさ」が欲しくなったんだと思います。そしてそれはそういう欲望のあり方をぼく自身が培ってきているからであり、そうじゃない人はそうじゃないわけで。

学校や仕事や生活のなかで日々たまっていく鬱憤がある。なんかしたい、なんかもっと別のこと、別の感覚が欲しい!と興奮量が増大していく。で、それを満たしてくれる「快楽」の体験は、興奮量を減少させ、また日々の生活に向かわせてくれる。

溜まっていった鬱憤があり、居てもたってもいられなくなるとき、映画を観たり音楽を聞いたりお酒を飲んだりゲームをしたりして、「快楽」の体験がその均衡を回復しているのでしょう。そういう意味では必要なものなのだと思います。

例えば、児童館で「新しいことを考えよう!」と言うと、「特に何も新しいことしなくていいよ」と言われることも多いです。この興奮量のアップダウンを安定して体験できることが、彼らの日常を支えているのかも知れません。



▶ あらためて、児童館とスポッチャ

まず重要だと思うのは、児童館では「快楽」のためのプログラムと「楽しさ」のためのものを区別して考え、「快楽」の体験を丁寧に提供することだと思います。

混沌とした状況では、「快楽」がほしくてもそれを手に入れられないで、ますます鬱憤が溜まります。しかし、整理された状況であれば、それは安定して手に入るのだということをスポッチャで学びました。

一方で、「楽しさ」のためのプログラムとはどんなものなのだろうと考えると、「何が起こるかわからないけど何か起こりそうな場」をきちんと用意することなんじゃないかと思っています。勝手に使っていい食材がたくさんあるとか、触ったことのない画材や道具があるとか。自分たちでどうにもできてしまう「自由」が保証されていることなのかなぁとか考えています。

スポッチャにはその「自由」はなかった。ただ、児童館にはその「自由」を作る余地があります。

あれーこれって結局は、前の記事で書いた「変化と移動の余白」ということと同じじゃないか。もうだいたい見えているのだから、もうちょっとシンプルに言語化できないものかと、自分の言葉のセンスを嘆きながら、仕事を進めていきます。



▶ おまけ



おまけですが、このあとボーリングをして、最後に激辛ラーメンで有名な「中本」の本店に行ってきました。ぼくがたべたのは普通の蒙古タンメン(6辛)なのだけど、一緒に行った並木くんは「ちょっとチキり(躊躇し)ました」と言いつつつけ麺(9辛)を頼んでいました。

並木くんにうけた忠告は「食べ始めたら水を飲んではいけない」「麺は絶対にすすらない(気管支に入ったら終わり)」の二つ。

集中して汗だくになりながらヒーヒーいいながら食べる。そして翌朝はカプサイシンフィーバーのおかげでお腹を下す…。

なんというか、自分の身体をちょっとイジメながら欲を満たして楽しむあたり、スポッチャ的というか、なんかそういう消費文化なんだなぁと感じたのでした。