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2017/01/05

冒険をめぐる冒険 ー未知と出会うワークショップ考

年が明ける前日に29歳になり、2017年になって20代最後の1年が始まった。たまたまオフだった今日、ある方からのお話をきっかけに、自分が最もやりたいと思ってきたことってなんだろうとあらためて考えはじめた。やりたいことを語るなんて恥ずかしいし、なんだか間違っている気もするのだが、かっこつけてなきゃいけない立場でもないし、思い切って、自戒を込めて書いてみようと思う。新年だし。20代最後だし。

ぼくの仕事は、人、とくに子どもが参加し、何かを学ぶワークショップを企画することだ。学生時代からいろんなことをやってみたが、一貫してワークショップだったと言っていいと思う。なぜそれをやりたいのかといえば、ぼくは映画でも小説でも、人が困難とか偶然の出来事を前にして意志の力を信じてどうにかしようとする物語が好きで、それを見たいという欲求からだ。そしてそれは同時にぼく自身が自分の意志でどうにかする物語でなくてはならない。そこに責任がともなったとき、欲求が仕事になっている。 

「ワークショップ」とは、大雑把に言えば参加体験型の学びの場=体験学習のようなもののことである。講演会や会議なども「ワークショップ」と言われることもあるし、まあ定義はさまざまでいいのだが、ぼく自身が好きなワークショップと嫌いなワークショップの基準は自分の中ではっきりしている。

結論から言えば、ぼくが好きなワークショップは、主催者にとっても参加者にとっても「冒険」になっているものなのだと思う。ワークショップをつくり実施することは、「冒険の入り口」をつくり、その扉をあけて未知のものと遭遇する他者と共に自らも未知への挑戦をすることだ。その「冒険」としてのワークショップの要素を7つ挙げてみた。 

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① 未知との遭遇

 ぼくが一番よくないと思うのは「主催者の期待通り」というもの。参加者が期待通りにパフォーマンスしていることに対して、主催者が感動しちゃってるなんてなおさらいやだ(そういう場面が必要な儀礼的なものもある)。ポイントは、主催者にとって新しいものを作り出す挑戦になっているか、ということだ。ワークショップにおいて、参加者を目的に向けて促していく進行役を「ファシリテーター」と言い、ぼくもその役割を仕事としているが、ファシリテーターは設定されたゴールに参加者を導く案内人であると同時に、未知のものを歓迎するのでなければない。常に自分が知らなかったことを発見し、驚き、こうなったらどうだろうという想像を巡らせ、即興で応答するなかで、気づいたら想定していたゴールの形が未知のものに変容している。そういうことを歓迎しなければならない。最初設定されていたゴールが参加者によって更新されたことを参加者に伝える役割でなくてはならない。


② 生活実践

ワークショップへの参加のきっかけは、参加者の生活実践に埋め込まれているべきだ。小学生の子ども向けのワークショップの場合、親が子どもをミュージアムに連れていく、という場合が多い。だがぼくは子ども自身が情報をキャッチし、親を説得してでも行きたいと思うものであるべきだと思う。そこに参加の意志と責任がある。それでこそ未知への冒険ができる。地元のお祭りでも、商店街の一角でも、公園でも、児童館でもいい。冒険の入り口は参加者の生活に寄り添って存在するべきなのだ。 


③ 困難と選択肢

参加者をゴールまで導く案内人であるファシリテーターは、その道のりのなかで想定される困難を可能な限り洗い出し、参加者が乗り越えられるように階段をあらかじめ設計する。ときに、選択肢として複数のルートを設計する場合もある。しかし、それは困難の「省略」であってはならない。時に予想もしなかったことが参加者の困難になることもありうるが、それをどうやって乗り越えてもらうか、新しい選択肢を広げ、即興で提示していく。 



④ 失敗・非参加への許容 

ワークショップは知らないものと出会うし、困難と出会う。それはワクワクすることでもあるし、怖いことでもある。困難に挑んで失敗してしまうこともあれば、参加を見送りたい気持ちになることもあるだろう。当たり前のようだが、ワークショップには参加を強制しないことが必要だ。まれに、ゆるやかに、やわらかく、楽しげに、失敗する人や参加しない人を否定する雰囲気をつくっていることがある。のるかそるかはその人次第であり、ワークショップに出来ることは、出会いの可能性を提示し、参加のとびらをひらいておき、席をあけておくことまでだ。 


⑤ 熟達者との関わり

ワークショップの最中に出会う困難とその乗り越え方には、熟達者のふるまいが参照される。音楽や演劇など身体を使ったワークショップの場合、自分だけで試行錯誤していては埒があかないことも、その道の熟達者の無言のふるまいのなかからヒントを見出し、自分なりの解釈で乗り越えていくことができる。また、ワークショップで熟達者との出会いを通して、人生のロールモデルを増やすことができる。「人は他者の物語の網目を生きる」という言葉がぼくは好きなのだが、人生はいままで出会ってきた他者の人生の引用の織物であり、自分自身の選択(どんなロールモデルを参照するか)の賜物だと思う。それを面白く、かっこよく、美しくするのは良き熟達者との出会いなのだと思う。


⑥ 身体の変化

ワークショップに参加した後は、その体験をするまえの身体には戻れないような、身体の変化が伴う。それがなく「刺激」「勉強」「気づき」という言葉だけが感想として出てくるようではダメだ。他者の身体を変えてしまうのだし、主催者自身の身体も変わらなければならない。そんなふうに協働し、変化しあう人の集まりであってほしい。 


⑦ 観客・読者・聴衆へのパフォーマンス

生活実践のなかに埋め込まれた入り口をくぐり、困難を乗り越えながら未知のものと遭遇し、身体が変化していくワークショップというものは、閉鎖的なコミュニティではなく、開かれた社会的な実践であると思う。体験を参加者に消費させるのではなく、参加者とともに新しい物事が生み出されるものであってほしい。その物事は、閉じたコミュニティに埋没するのではなく世に開かれたものであるべきだ。そのために、観客・読者・聴衆、あるいは新しい参加者へと開かれたものができていくべきである。ワークショップとは教室という閉じた空間で収束するものではなく、大げさにいえば人に向けた作品・商品・サービスをつくる活動なのだと思う。

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 と、こんな感じで書き出してみると、あらためてぼくがやりたいことは冒険の入り口を開き、冒険する他者のかたわらで、自らも冒険するということなのだろう。新しいことと出会い、価値観を解体するという痛みを伴いながら、新しいことを学ぶ過程に身を投じる、ということを繰り返したいのだと思う。冒険をめぐって、冒険したいのだと思う。

ここに書き出した7つの要素は、ぼくの理想だ。実践できているかどうか、自分の過去を戒めるような気分になる。とはいえ理想を持つことはその実現に向かうために必要で、そうでなければのんべんだらりでなんでもよくなってしまう。「どうすればこういう『冒険』をつくることができるのか」という方法論とか「なぜこの時代に『冒険』が必要なのか」とかの大きな文脈については、まだまとまらないし次の機会にゆずることにする。

今回はこの理想が明らかになったので、この一年、これに照らして自分の過去の仕事をふりかえってみようと思うし、この内容について、人とたくさん話をしたい気持ちなので、感想や意見を持たれた方は聞かせてほしいし、どんどん飲みに誘ってほしい。

2016/05/02

幸せ、日陰、闘い ー酒井順子『子の無い人生』を読んだ。

TBSラジオの『荻上チキ・session-22』をPodcastで聞きながら電車で通勤するのが僕の日課なのだけど、4月5日の「session袋とじ」のコーナーで、酒井順子さんの『子の無い人生 』という本が紹介されていた。ラジオを聞いて、「子どもがいない私は誰に看取られる?」という痛烈な問いとか、「子育て右翼」という興味深い見立てとかを聞いているうちに、この本をなんだか読まなければいけない気がして、amazonで注文した。


"酒井順子、はたと気づく。独身で子供がいない私は、誰に看取られる?『負け犬の遠吠え』から12年、未婚未産の酒井順子の今とこれから。30代は既婚女性と未婚女性の間に大きな壁がありました。結婚していなければ単なる「負け犬」と思っていた酒井順子は、40代になり悟ります。人生を左右するのは「結婚しているか、いないか」ではない、「子供がいるか、いないか」なんだと。期せずして子の無い人生を歩む著者が、ママ社会、世間の目、自身の老後から沖縄の墓事情まで、子がいないことで生じるあれこれを真正面から斬る!" (amazon内容紹介より) 


この本のトピックはなんだかとてもデリケートに感じられて、ヒリヒリしながら読み進めた。ホームパーティーでの専業主婦の人たちの、子どもがいない人たちへの無自覚な哀れみがにじみ出た言葉を聞いたことや、子どもがそんなに好きじゃないという酒井さんの気持ちの吐露から始まり、子育てと政治、子どもがいない女性が死んだ時にどうなるかについてのフィールドワークなど、話題は多岐に及ぶ。とりわけ、子育てと政治の話と、沖縄のトートーメーについての話、そして「1人で死ぬこと」についての話などは興味深く読んだ。

トートーメーとは、沖縄の位牌で、個人や夫婦の戒名ではなく、先祖代々の戒名が位牌札というものに記されて収められているものだそうで、いわば「集合住宅のような感じ」とのこと。本の中では、このトートーメーには、バツゼロ独身の人は入れないとか。

タイトルを一見した時は、子どもがいないことに対する個人の気持ちを吐露するエッセイなのかなと思ったのだが、そうではなく、子どもがいないと死んだ時にどうなるのかという文化人類学的なアプローチでのリサーチだとか、子育てと政治の関係だとか、社会学的な内容も多くて面白い。さらには、そこに乗せられた酒井さんの実感が、この本を読んでいるときのヒリヒリしたりグサリと刺さる感じだったりを作り出しているんだと思う。

ぼくも日々facebookやinstagramを見ていて、知人友人の子どもの写真や映像を見ていて、元気が出たりほっこりしたりすることももちろんある。この溢れる子どもの映像には「子どもがいることこそが最上の幸せで、わたし(たち)は今その最高の幸せのなかにいます」ということが現れている気がするし、ぼくはその幸せに感染したがるように日々映像を吸っている。もちろん、その裏に尋常じゃない苦労があることも、精一杯想像しながら。ただ、その一方で、それが最上の幸せなんだというイメージが滲んでくると、そうではない人生は不幸なんだという機運も滲んできている気がする。それは別に今に始まったことじゃないかもしれないけれど、SNSは幸せを可視化してその幸せへの憧れを増強する仕組みをもっていて、そうではない人生をゆるやかに、やわらかく日陰にしていくような感じがある。

酒井さんはその日陰に生きる人を「負け犬」といい、自らを「負け犬」と定義して、その日陰から物語る。「結婚して子育てをするのが幸せ」という考え方だけが正しいわけじゃない、というのは頭ではよくわかっているが、その幸せの道を歩みたいと思っている人はたくさんいるわけで、ぼくもそうだ。それが幸せだというのはよくわかる。だがこの本からは、そうではない結果になっている人たち(結婚していない、子どもがいない)が不幸かというとそうではないだろう!と静かに闘う姿勢を感じた。今を生きる人々が多くの選択肢のなかで生きられるように、闘っている本だと思った。






2016/01/19

大人と子ども、クロスフェード 

久しぶりに中村児童館にいって子どもたちと戯れた。普段の仕事では3~4歳と多く関わっているので、久しぶりに遊ぶ小学生がだいぶ大人に見えた。

一方で、今朝の朝日新聞のこの記事 (18歳って大人?精神科医・斎藤環さん:朝日新聞デジタル )には「25歳からが大人では?」という意見が書かれていた。

読んでみて思うことは、子どもと社会をつなぐ枠組みとルートのなさへの嘆きがこの記事の問題提起の核なんだろうなということ。だから、ここでの提案は大学を卒業して働くことを通して社会と自分との接点をヒリヒリするなかで経験した25歳以上にすべきだと言わざるを得ない、といういささかネガティブな提案になっているのだと思う。

とはいえ、ぼくもこの意見には概ね賛成で、なぜならぼく自身も大人の自覚みたいなのが芽生えてきたのが25歳ぐらいだったなぁと思うからだ。社会は自分基準で動いていないのに、自分本位で動いているように考え、振舞うことでたくさん失敗をした。子どものうちにこういうことを楽しみながら学ぶことができたらなあと思う。

その話でいうと、2014年の夏に参加したシンポジウム《ミュンヘン市の「こどもと家族にやさしいまち」-こどもによるまちづくり提案事業から学ぶ-での衝撃は、子どもと社会をつなぐ枠組みやルートの設計次第で小学生でも子どもにはできることがたくさんある、ということだった。その具体的な内容についてはこちらの記事(「ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み」)にまとめている。

こちらの記事はより本格的な取材に基づいてまとまっている。→「ドイツの「子どもにやさしいまちづくり」が本気すぎて学べる 」

ぼくの失敗の経験から子どもたちに学びの場を提供したいなんておこがましいが、それはさておいても子どもと社会をつなぐ場がもっとあっていい。この事例のように、遊びの仕組みと政治の仕組みがクロスフェードするような場を、小さくてもいいから作っていくことだろうと思う。これにインターネットが絡んでくると、さらに面白くなりそうだな〜と予感する。何はともあれ、楽しくて興奮できるものでなければ子どもの気持ちは動かないし、それは大人だってそうなんだと思う。

*関連する記事はこれ

2014/11/17

キュレーションと子どもの施設

『キュレーション 「現代アート」をつくったキュレーターたち』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著、村上華子訳)を読んでる。そしてこのインタビュー動画がすこぶるシンプルで面白い。 現代アートの展覧会を企画するっていうことと、児童館を運営するということは、それは同時代性と変化の空間であるということでやっぱり通じているような気がしていて、それが何なのかわかなくてもやもやする。アートが多様な文脈の可能性を内包しているように、子どもたちもそうである。子どもこそアートだ!なんて言えないけれど、方向性は同じだと、やっぱり思う。

この本の中で、キュレーターは「メタ・アーティスト」なのでは?という見方も提示されている。アーティストの作品を、展覧会という大きな絵画の構成要素として扱う、というような。しかしそれでは面白くない。展覧会は多元的で、今見たものがつぎの瞬間にはひっくり返るような、絶えず変化するような、そういう場であってほしいと思う。

同様に教育者・保育者が「子どもってこうだよね!」「無限の可能性を秘めてるよね!」みたいなクリシェのために子どもが描いた絵や子どもの行為を並べ立てるのはおもしろくない。子どもの複雑さや子どもを取り巻く環境/大人の関わり方を批評的に考える場としての機能もまた、持ち合わせている。同時に子ども自身が次々といろんな表現/他者との関わり方を学習する場としても。











2014/10/27

空間を変える、仕事のトレーニング ー 石神井児童館工作室のリノベーションについて その1

先週一週間をかけて、昨年度から企んできた石神井児童館の改修工事を終わらせた。遠藤幹子さんに設計をお願いし、棟梁こと北條さんの現場指揮に従いながらアージスタッフ4人とがんばってこしらえた。



職員さんと相談し、とにかく不要なものを処分してもらった。断捨離。

バール(釘抜きのこと)とトンカチで棚を解体し、壁紙をはがして黒板塗料を塗った。

天井のカーテンレールと、備え付けの棚を白く塗って存在感を消した。

解体した棚を建具にして、これまたカラーの黒板塗料で塗装した扉を取り付けた。

棚をばらして有孔ボードを取り付け、展示したり自由な工作材料を並べられる場所をつくった。












毎日リポビタンDを飲みながら、丸ノコで吹き上がるおがくずに苦しみながら、和気あいあいと作業をすることができた。作業中に食べたドーナツが、その糖分が脳髄に染みわたる感じがして、とにかくおいしかった。あと、作業後に食べたごま油と塩で食べるレバテキも。



さてところで、今回のプロジェクトは施工をして終わりではなく、新しい空間をつくることで新しいプログラムを生成するのが目的だ。それは、子どもたちが職員のサポートを得ながら、自らここでの活動をつくっていくことだ。活動はむしろ、これからスタートする。これまで子どもの自治だ何だと言っていたけれど、実は「仕事」ということともつながってくるんじゃないかと思う。

超当たり前のことだけど、建築家は「人がこれから生きていく場所」をいくつもつくっていく。遠藤さんと仕事をさせてもらって、愛情と気遣いを尽くし、驚かしたり楽しませたりすることが絶えず生まれるような場所を次々と形にしていくなんて、建築家とはなんて大変で楽しい仕事なのだろうと改めて感動した。

「仕事」というのは言われたことを言われたままにこなすのではなく、「こうしたほうが(自分の生活が/世界が)面白くなるのに」というアイデアをリアライズする技術なんだなと思う。世界のお金の流れの中で、周囲の人に相談し、協力を頼み、自分のアイデアをちょっとずつでも加えながら、具体的に変化を起こす技術というか。

最近親しい人から「心理士」という仕事の話を聞いている。そこで思うのは、どんな仕事にも創意工夫が必要だというこれも当たり前のことだ。カウンセリングって人を癒やすちょっと神秘的な仕事に見えるが、その実務はクライアントの親や学校や機関とのつなぎ役だ。。あるいはクライントを守るために人とのつながりを断つ、小さな政治的な仕事だ。人と人との間を何度も縫ったり切ったりすることで、クライアントの生活を少しでもよく、軽くしていこうとする、心理士一人ひとりに創意工夫が求められる、難しい仕事だ。

今読んでいるハンス・ウルリッヒ・オブリストの『キュレーション A brief History of curating』を通しても、キュレーターがアーティストやビルの管理人などと協力して、創意工夫していくことで新しい美のタームがつくられてきたことを感じる。

でも、よく考えてみると、ぼくらは、自分でアイデアを出してそれを人と協力してかたちにしていくトレーニングを、子どもの頃から積んできているだろうか。そしてぼくは今でもそのトレーニングを怠ってやしないだろうか?子どもたちと一緒にそのトレーニングを積んでいける場所を残り半年でつくっていくっていうのが、なんかぼくにとって切実な動機なんじゃないかという気がしてきている。

そのトレーニングを発展させ、お金の流れの中に身を投じることが、仕事をする、ということなんだなと思う。

そういえば、ぼくが「アーティスト・イン・児童館」を始めたそもそもの動機は、子どもたちが面白いことに出会う場所をつくりたいと思ったことだった。最高のハプニングが起こるのを待つための場所を作りたいとおもったことだった。しかし、そのためには、お金の流れに乗る必要があったことを痛感しているのが現在だ。ぼくにはまだまだそれができていなくて、お金の流れが見えていないことが最大の欠点だ。そして、その欠点を克服するには時間がかかる。アイデアを形にする修練と、お金の流れの中に身をおくことをしていく20代後半にしていきたいなと思った先週であった。


2014/08/27

ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み




8月20日(水)、練馬まちづくりセンター主催のシンポジウムに参加させてもらった。その主軸は、ドイツ・ミュンヘンで行われている「子ども青少年フォーラム」の話を、その運営を担当されている「子どもの参画専門員」であるヤーナ・フレードリッヒさんの講演。

ドイツでは「子どもの権利条約」に則って、遊び場を新設・改築するときは必ず子どもの意見を取り入れることが法律で制定されているらしい。こうした背景からおこなわれている「子ども青少年フォーラム」は、遊び場や図書館のような公共施設、交通や地域コミュニティの課題など、様々な課題について子どもたちが議論し、大人に議会で提案し、可決されれば大人がそれを実現させる、かなり実際的な活動だった。ヤーナさんたち「子どもの参画専門員」は市役所の公務員であり、行政がこの活動をNPOと協働しながら主催している。

「子ども青少年フォーラム」のプロセス

おおまかなプロセスは、こんなかんじだ。

まず、広報活動。リーフレットを配布したり、学校に出張授業にいったりして、「子どもの社会参画」の意味を伝える。そこで関心をもった子どもたちが放課後の時間にワークショップに参加する。

ワークショップでは、まちの様々な課題について議論が行われる。問題を解決する具体的な提案を子どもたちがつくっていく。たとえば公園の改築案や、交通事故の問題解決についてなど。

リサーチでは、様々なキットの入ったスーツケースを持って、現場の視察を行う。子どもたちが街に住む人に取材をし、ワークショップで生まれた提案をブラッシュアップしていく。このスーツケースの中身については後述します。

そしてフォーラム。こうしてつくられてきた提案を審議する。大人の議員もいて、子どもたちに現状を説明したり、子どもたちの提案について質問をしたりする。こうしたプロフセスを経て、子どもの提案の可否が問われる。可決された提案は、その場でその担当の大人が、子どもたちによって決められる。「実現させます!」ということを、大人が子どもに約束する。

こうして、子どもたちのアイデアが取り入れられることで子どもが楽しく暮らせる街になり、また自治の感覚が育まれることでよりよい民主主義的な政治が市民によって行われることになる、というわけだ。


「子どもの社会参画」って説教くさいしつまんなそう

とはいえ、日本語で「子どもの社会参画」と聞くと、なんとなく説教臭い感じがするし、大人の都合に付き合わされてる子どもの姿を想像してしまう。最初にこの話を聞いた時、中学生のころにあった「子ども議会」のようなものを思い出した。役所の議会で子どもたちが遊び場の課題や、いじめの問題などについて作文を発表するというようなイベントだったと思う。

その作文は提案ではなく、なにか施策として実現されるわけではない。学級委員的な「いい子」が学校の代表として選出され、予め先生とつくった作文を読み上げるという感じのやつだった。子ども自身が楽しくてやっているというよりは、大人の都合に我慢して付き合っている、それをやると学校代表っていうステータスになる、みたいな。

しかし、ミュンヘンの事例はそうではなかった。写真で見る子どもたちは楽しそうに、そして責任感のある表情をして活動をしていた。なぜ・・・?その謎をとくカギは、講演と、その後の懇親会でヤーナさんに直接聞いた話にあった。

ここから先は、ぼくの間違いだらけの理解と解釈というか妄想含むので、正しいものとは違うかもしれません。


誰かと共に生きる物語世界へ

まず最初の驚きは、子どもに社会参画の意味を伝えるリーフレットにあった。「社会参加にはこんな意味があります」と説教するのではなく、子どもが社会に参加するということの意味を、書き込み方のゲーム絵本によって伝えている。



絵本はドイツ語で書かれていたし、ヤーナさんの英語を読解しきれなかったぼくの憶測でしかないことをお許しください。

シャイで自分の意見があまり言えないという設定の主人公を、読者に置き換えるために名前、性別、性格を書き込む欄がある。そしてこの絵本には子どもの友だちとしてドラゴンが登場する。これは、子どもの「不安」「ワクワクする気持ち」「言葉にならないアイデア」など、言語化されない感情を象徴している。その都度、読者は自分の感情を空欄に書き込み、このドラゴンとうまく対話しながら、友だちと付き合い、環をつくっていく過程が物語になっている。

誰もがもつ言語化できない感情を共有しながら他者とともに生きていく。「参画」という政治的な意味合いをもつ以前の、人間の社会のコンセプトをこの絵本によって、しかも書き込みによって参加させながら伝えていく。ここからすでに、子どもたちによってつくられる物語は始まっている。

ライプチヒの絵本工房でも思ったことだけど、ドイツにはファンタジーと政治をつなぐ文学性がそもそも土壌としてあるんだなという感じだ。なるほどミヒャエル・エンデの育った国だ。


「政治の仕組み」を「遊びの仕組み」に読み替える

そして2つ目の驚きは、ワークショップだ。ぼくが想像していた子どもが順番に手を上げてお行儀よくしなきゃいけない感じとはおよそ違った。

テーブルにはなんでも描きまくっていい模造紙が敷かれ、ペンやクレヨンなどあらゆる画材、粘土やブロックなどのあらゆる材料が用意されている。どうやら空間もパーティー感たっぷりで、ジュースやお菓子もたっぷりらしい。子どものテンションをあげるための

そして進行はワールドカフェみたいに5つの議題を5つのテーブルで。参加する子どもたちは順番に巡っていく。きっと、とりとめもないことをぎゃーすか言い合ったり、絵を描き殴ったり、粘土で人形劇したりするんだろう。

「議会」という大人の仕組みを、子どもの世界、つまり遊びの文法に読み替えて展開する。混沌とした遊びの世界から立ち上がるアイデアを待つ。


「それってこういうこと?」大人がさしだす言葉とかたち

ぼくの想像では、子どもがリーダーシップをとってまとめていけるよう、大人は引いて見守っているんだろうと思っていた。ところが、このワークショップには大人がガッツリ参加する。

ワークショップの最中、図書館なら司書さんが、公園なら建築家が、それぞれテーブルを注意深く観察している。そして何度目かのローテーションののち、子どもたちの意見/表現を読み解き、つなぎあわせたアイデアを「それってこういうこと?」とスケッチを描いて提案する。

子どもたちの、点在するバラバラな意見/表現を、プロフェッショナルである大人がつなぎ、言葉やかたちを与え、高次の統合を遂げる。それを見て、「そうそう!」「違う、そうじゃない!」「ここはこうであーで」など、よりディティールについて議論が深まっていく。デコレーションは得意だが、土台・枠組みをつくるのが苦手な子どもに、やわらかい枠組みをさしだし、やりとりをしながら「提案」として練り上げられていく。


街に出て遊ぶ

そして、三つ目の驚きは、街に出て行うリサーチ。子どもたちと一緒にもっていくスーツケースの中には、カメラ、マイク付きのMP3プレイヤー、地図、写真を出力するためのプリンター、スケッチブックやペンなどの画材などが入っている。そしてそれらの使い方を説明するハンドブックも。

公園の利用状況について調べるために、遊んでいる様子の撮影や利用者へのインタビューを行う。コミュニティの調査の場合は、地図にマッピングをし、トルコ系移民の人はネコ、高所得者の人はクマなど、スタンプでキャラクター化していく。ハンドブックにはそうした使い方が書かれているそうだ。リサーチ自体がある種のゲームでありごっこ遊びであるようだ!


アートプロジェクトとしての参画

リサーチの遊び性をつなぐように、フォーラムでの発表では、大人みたいなパワポのプレゼンではなく、劇をつくったり、歌をつくったり、時にはラップで表現することもあるようだ。そんなのほとんどの子どもは恥ずかしがってやりたがらない。一体どうなってんの?という感じだ。

遊びという言葉を使ってきたけど、これは実際的で政治性をもった演劇とも言える。「子どもの権利条約」あるいはそれに基づく法律が「戯曲」で、子どもは俳優。「子どもの参画専門員」はその演劇をかたちにする演出家であり、ドラマトゥルクなのかも知れない。そう考えると、「子ども青少年フォーラム」はアートプロジェクトであるとも言える。

実際の政治のために、「遊び」を媒介に行政が子どもを包摂する。行政主導のアートプロジェクトの、一つの正しいカタチなんじゃないか。


社会参加は大人から

シンポジウムの最後に卯月先生がまとめの言葉で、「練馬にはプレーパークや旭ヶ丘アートスタジオ、アーティスト・イン・児童館のような子どもの参画を面白くつくりだすプロジェクトがたくさんある。これらをまとめる大きな仕組みがあれば、練馬もミュンヘンのように、子どもたちが楽しく暮らせるまちにもっと変わっていくと思う」というようなことをおっしゃっていた。

実現するためには、市民の声をあつめて、議会を通して行政の計画にするという壮大さがある。多くの人が面白がるような「参画」のコンセプトを、日本語で練り上げる必要がある。そして学校や家庭、NPOを巻き込んだ、緻密なゲームの設計も。 



とにかくミュンヘンの「子ども青少年フォーラム」の運営やその担い手が共有してるコンセプトやセンスが一体どうなってんの?と思うので、視察に行きたい!でも、視察したからといってこれを練馬で実施します!みたいなことをいう勇気はまだない。しかし、卯月先生の言葉から、参画はまず大人からなんだなと思った。ちょっとずつ、「なんかこういうこと議員さんに提案してみない?」というような気運が高まっていったらいいなぁと思う。














2014/01/21

スポッチャ、快楽、反復

1月17日(金)「スポッチャ」のリサーチということでラウンドワンスタジアム板橋店に行ってきました。

ボーリングにわざわざ行く…ということで思い出すのは、小学生の頃「みんなでボーリング行こうぜ!」と企画して、わくわくして前日寝られなくて、当日も朝早く起きちゃって、で、ヘトヘトになって帰ってくるあの感じでした。が、大人になってからいくアミューズメントは全然体験でした。

光が丘の児童館での子どもたちの様子を見ていて、大人が名目としてかかげている「子どものコミュニティづくり」とか「居場所づくり」とか「健全育成」とか、そういう活動よりも、設備があってそれを使って遊べるという機能のほうが当然重視されているわけです。高い天井があり、バスケができ、外ではフットサルもできる、みたいな。なぜ「スポッチャ」に行きたくなったかというと、その感覚で思い切り遊べる場所といえば「スポッチャ」なのでは?と思ったからです。

そして行ったことがなかったので、アージの企画コーディネーターであり、遊び魔人並木くんはじめ5人で行ってきました。



▶株式会社ラウンドワン


ウェブサイトによると、株式会社ラウンドワンは大阪に本社があって、ラウンドワンは全国に111店舗、北米に3店舗(山形、茨城、富山、福井、滋賀、鳥取、島根、長崎を除く)。全国どこに行ってもあるイメージだし、ボーリングといえばラウンドワンとさえ思うレベル。

会社の経営状況を調べてみると、一時は収益率が下がっていたみたいだけど最近では学生を中心に時間帯による料金プランの違いで「割安感」を打ち出すことで業績を回復しているみたいです。CMやチラシなどの広告量によって業績が左右される、ともありました。あ、それなら行こうかなと思わせる料金プランと広告で勝負してる。

ただ、メインはやっぱりボーリングで、サブとしてのスポッチャだそうです。料金はまた別途必要ですが、ボーリングがけっこう待ち時間が長いらしく、その間スポッチャで時間をつぶす、という使い方があるのだとか。



▶遊んでみる




ラウンドワンスタジアム板橋店に到着して、まずは受付。会員証をつくる。フリータイムで大人は2300円、学生はそのほぼ半額の1200円!!!やっぱり学生がメインのターゲットなんですね。

入るといろんなブースがあって、いろんな効果音が方方から鳴っているあのゲーセンの感じ。この感じか…と思いながら周りをみると結構中学生が多い。ダブルデート的な感じの。


ぼくら5人もまとまりなくランダムに遊んでいく。最初はガンシューティング、次にゴルフ、そんで「筋肉番付」のあのバスケのフープが動くフリースローのやつ、キックターゲット・・・・


まぁ普通だったらゲーセンで200円ぐらいいれてできるゲームが、空いていればやりたい放題。確かにいろんなスポーツを擬似体験できるし、振ったこともなかったゴルフクラブを振ったりもできて、いい機会。

で、卓球でひとしきり対決したあとはビリヤード。対決できるし、スリルあるし、まぁある程度楽しいは楽しい。


そして、やたらと喉が乾く。身体動かすし空間が乾燥しているのもあるし、ジュースが欲しくなる。で、自販機に行くとなんと200円…!なるほどね、と思いながらやむを得ずボトルのコーラを買う。炭酸と甘さが喉に広がって潤すので、うまい。



屋上階に行って、バスケやってるのを横目にバッティングコーナーへ。あらゆるコンテンツの中で最高はこのバッティングでした。なんてたって(空いていれば)やりたい放題!!!!! 80km~130kmの球をバカスカ空振りできまくれるわけです。


一緒にいった友達は、15ゲームぐらいやってました。ぼくも10ゲームぐらいしたかな。普通のバッティングセンターでやったらそれだけで3000円ぐらいだから、これだけで元はとれてます。(が、おかげで腰とか肩とか変なところが筋肉痛)



あとはバレーボールやテニス、フットサルができる場所もある。本来のコートよりもやや縮小されていて、素人が遊びやすいように設計されているのかなあ?ガチでやるというよりは、あくまで擬似的な感じ。


混雑して並んでいるときのために「1人1ゲーム」「1組10分」などのルールが決められている。あとは、近隣への配慮とか、禁止事項とかも最低限だけど書かれている。


ひとしきり身体を動かした後はゲームコーナーで「湾岸ミッドナイト」でカーレースをしたり、なんか変な画面に向かってボール投げて敵を倒すやつやったり、パンチングマシンをしたり「太鼓の達人」をやったり・・・・

全ゲームフリーで遊べる!のだけど、最新のゲームではなく型落ちしたゲーム機を使っているみたいですね。普通だったら1回100円とか200円とかだけど、お金がかからないのでお得感がすごい。


▶ 児童館とスポッチャ

児童館とスポッチャを比較すると、そう違いはないと感じます。しかし、種目ごとに空間が区切られ、使用時間の目安があり、ペアもしくはグループごとに遊べる、という安心感がスポッチャにはあると感じました。


児童館は、空間が区切られていないし、使用時間の目安もない。整理されない混沌とした空間のなかで、子どもたちは工夫して場所を見つけ、遊んでいます。ただ、縁日やお化け屋敷などの催事は、利用者が考え、空間をつくることができる。これは児童館の強みです。スポッチャには"ハレ"がない、あるいは常に"ハレ"。児童館は"ハレ"と"ケ"の区別がある。

ただ、"ケ"の日がただのカオスになってるときがあるので、スポッチャを参考に、空間の使い方を整理することはできるんじゃないかなと感じました。



▶ 興奮と退屈のアップダウン

児童館とスポッチャは、こんなふうに比較できる。ただ、ぼくがスポッチャで感じたのは、なんというかやってもやっても退屈する感じでした。ゲームの最中は、一瞬のスリルとか、勝ち負けの競り合う感じとかを楽しめるが、次、次、とゲームや遊びをこなしていくたびに、心の奥底で退屈が晴れない…。

あ、この感じはあれだ、児童館で子どもたちがいろいろ出来る遊びがあるのに「ねぇなんかやることない?ひま〜!!!」と不満を言っているあの感覚だ!!!

と強烈に気付いたのです。ぼくも小学生の頃、同じメンバーで同じ場所でずーっと遊んでて、飽きてるんだけど言い出せない、なんか新しいことないの〜と退屈する感覚を味わっていた。そうか、この感覚を彼らは日々味わっているのか…それは結構キツイ。

2000円払ってフリータイム。閉じられた環境のなかの、溢れるコンテンツ。カーレースやシューティング、キックターゲットやビリヤード、おまけに漫画喫茶もある。それぞれに、それぞれ遊びの世界が開かれているのだけど、一つ一つの世界でスピード感やスリルや競り合いの昂揚があって、そこから抜けるとcalm down。この繰り返し。

3時間もそのアップダウンを繰り返していたら、ゲームの昂揚に身体が慣れてきて、別の感覚が欲しくなってくる。で、ちょっと一息つこうと思って、割高だけどコーラとフライドポテトを買ってたべる。このすべて用意されている感じの充足感と閉塞感。

ここで退屈を強烈に感じたこのとき、ぼくが欲しくなったのは、新しい驚きとか、見たこと無いものとか、これは一体なんだ!?とわからなくなってしまう感じとか、そういうトリップ感でした。



▶ 「快楽」と「楽しさ」

チクセントミハイという人が『フロー体験 喜びの現象学』という本の中で「楽しさ」と「快楽」について以下のようなことを言っています。

"「快楽」とは単に期待が満たされたり欲求が充足されたりする"均衡回復"であるのに対して、「楽しさ」とは期待を超え、事前には想像していなかったことを達成したときに生じるものだ。"


ぼくは「快楽」ではなくこの「楽しさ」が欲しくなったんだと思います。そしてそれはそういう欲望のあり方をぼく自身が培ってきているからであり、そうじゃない人はそうじゃないわけで。

学校や仕事や生活のなかで日々たまっていく鬱憤がある。なんかしたい、なんかもっと別のこと、別の感覚が欲しい!と興奮量が増大していく。で、それを満たしてくれる「快楽」の体験は、興奮量を減少させ、また日々の生活に向かわせてくれる。

溜まっていった鬱憤があり、居てもたってもいられなくなるとき、映画を観たり音楽を聞いたりお酒を飲んだりゲームをしたりして、「快楽」の体験がその均衡を回復しているのでしょう。そういう意味では必要なものなのだと思います。

例えば、児童館で「新しいことを考えよう!」と言うと、「特に何も新しいことしなくていいよ」と言われることも多いです。この興奮量のアップダウンを安定して体験できることが、彼らの日常を支えているのかも知れません。



▶ あらためて、児童館とスポッチャ

まず重要だと思うのは、児童館では「快楽」のためのプログラムと「楽しさ」のためのものを区別して考え、「快楽」の体験を丁寧に提供することだと思います。

混沌とした状況では、「快楽」がほしくてもそれを手に入れられないで、ますます鬱憤が溜まります。しかし、整理された状況であれば、それは安定して手に入るのだということをスポッチャで学びました。

一方で、「楽しさ」のためのプログラムとはどんなものなのだろうと考えると、「何が起こるかわからないけど何か起こりそうな場」をきちんと用意することなんじゃないかと思っています。勝手に使っていい食材がたくさんあるとか、触ったことのない画材や道具があるとか。自分たちでどうにもできてしまう「自由」が保証されていることなのかなぁとか考えています。

スポッチャにはその「自由」はなかった。ただ、児童館にはその「自由」を作る余地があります。

あれーこれって結局は、前の記事で書いた「変化と移動の余白」ということと同じじゃないか。もうだいたい見えているのだから、もうちょっとシンプルに言語化できないものかと、自分の言葉のセンスを嘆きながら、仕事を進めていきます。



▶ おまけ



おまけですが、このあとボーリングをして、最後に激辛ラーメンで有名な「中本」の本店に行ってきました。ぼくがたべたのは普通の蒙古タンメン(6辛)なのだけど、一緒に行った並木くんは「ちょっとチキり(躊躇し)ました」と言いつつつけ麺(9辛)を頼んでいました。

並木くんにうけた忠告は「食べ始めたら水を飲んではいけない」「麺は絶対にすすらない(気管支に入ったら終わり)」の二つ。

集中して汗だくになりながらヒーヒーいいながら食べる。そして翌朝はカプサイシンフィーバーのおかげでお腹を下す…。

なんというか、自分の身体をちょっとイジメながら欲を満たして楽しむあたり、スポッチャ的というか、なんかそういう消費文化なんだなぁと感じたのでした。


2012/11/11

公共文化施設のコミュニティ・プログラム


今日は世田谷パブリックシアターで「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」と題したシンポジウムへ。

考えたことは、「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」に関わる人たちの「必要」とはなんだろうか、ということ。

第1部のテーマは「(コミュニティ・プログラムの)目的・対象・方法」。

公共文化施設に対して、まず税金を払うという関わり方をしている市民、区民、都民の「(潜在的な)必要」というのがあって、それにエクスキューズすることが公共文化施設の仕事の一つとなる。会田さんが言っていたように、公共施設の事業は行政の政策と不可分なものであって、プログラムを作る人がただ単に自分の興味関心でつくっていていいわけではなくて、議会での審議を経て提示されている自治体の政策方針とか、政策内容とか、施設に求められるものや自らが掲げるミッションと、プログラムをかみ合わせていくという作業がいる。

プログラムに参加する人びとの「必要」というのは、「これに参加すればこういう効果が得られる」とか「こういう知識を学べる」とか「こういう快楽が味わえる」ということだけでなく、「あたらしいものに出会う」という好奇心を満たすことであると考えてみる。しかし、好奇心の強さやベクトルは人それぞれだし、いろんな好奇心の有り様に応答していくこともまた、プログラムを考える側の仕事になっていく。

わけのわからないものに出会ったときに、それをしりぞけ思考停止させるのではなく、それに対して取り組むことが創造力だ、という会田さんの話にはすごく共感したし、わたしたちはどうしていったらいいのか、ということを美術や科学や演劇やメディアアートを通して、議会とは違う在り方で考えることができる場がコミュニティ・プログラムだとする野村政之さんの考え方にも。人びとが文化を更新していく創造力をもって未来というわけのわからないものに向かっていくためのコミュニティ・プログラムなのであって、そのために人が集まる場をつくり、集まった人びとがモノゴトをつくることを楽しめるような工夫をする。

個人の好奇心からだけでなく、仕事に関わる「必要」もある。たとえば学校の先生達は、鑑賞教育が組み込まれたときから芸術作品を鑑賞する、ということを身をもって子どもたちに伝えることが必要になり、よりよい鑑賞教育の方法を模索しているという。東京都現代美術館の郷さんは、アーティストの訪問事業に加え、先生たちの研修会に美術館の一室を提供したり、先生が無料で展覧会を鑑賞できるプログラムを実施したりして、この先生たちの現状に積極的にコミットしている。

そして最後に、プログラムをつくる側の「必要」というのはなんだろう、ということ。自分もそうだから、自分の「必要」を語るとすると、まず前提として自分がいいと感じる芸術を信じているし愛していると思う。そしてそういう芸術が人びとにエフェクトしたり、人びとからエフェクトされて芸術が変容していく風景をみたい、という「必要」、というか欲望がある。とくにそれが子どもであり、子どもの遊びによって芸術が変容しより奥ゆきを増していくプロセスに興奮するし、その興奮は生きていく上でもはや「必要」だということ。

あらかじめ定まっている未来などなく、いま・ここにあるのは、すでに生まれた人やモノゴトと、これから何かが生まれるという予兆であって、できることはそれを予想すること。そして、それを形にするのはほかでもない人びとの意志や行為だし、その形の価値はどんな文脈におき、どんな言葉や数字を与えるかでいかようにも変化する。人びとの必要というより意志を知り、何を為しているかを知るために、プログラムをつくる人間はよく耳をそばだてておかなくてはなるまい。そうして集めた情報や感じた気運から、人びとと何を為したら面白いかを想像し、すでにそこにあるモノゴトや文脈とすりあわせながら、それが実現するための時間を組み立て、空間に人やモノをあつめ、出来事を生み出し、その後に言葉や数字をあたえていく。面白い仕事だなぁーと思う。手仕事やフットワークによるプログラミング。

とはいえ、アーティスト・イン・児童館としては自治体の政策についてのリサーチも足らないし、ミッションももうすこしバージョンアップしたほうがいいし、文脈の整理も甘い。ドラマツルギーが要る。来年はいろんな情報を収集し、文脈をつくる作業に1年を充てて考えたい。

で、第2部は「地域と子ども」がテーマ。だったはずが、第1部とほとんど同じテーマになっていたような気がする。こういう場で質問するのは苦手というかあんまりやったことないのだけど、「ワークショップという言葉がたくさんでてきたけど、ワークショップはサービスと考えていますか?それともクリエーションだと考えていますか?」という質問と、「地域の子どもたちに施設をどのように活用してほしいと思っていますか?」と聞いた。

「ワークショップはサービス。そうでなければ市民に作品に奉仕してもらうかたちになる」と言い切った柴幸男さんは鮮やかで、なおかつ「ワークショップじゃなくても、地域のなかに作家の存在があって、創作の現場があるだけでいろんな影響や効果があると思う」という話には頷いた。どうやってその効果を測定すればいのか、また、どうやってその影響を効果的に生み出すことができるのかはまったくわからないけれど、アージにトライできる重大な部分な気がする。

大変刺激になった一日でした。明日からまた走る。

2012/06/26

glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(2)


山口情報芸術センターYCAMにて開催中の教育普及展「glitchGROUND」。公園型インスタレーション「コロガル公園」の使い方を考える「子どもあそびばミーティング」のプロジェクトのファシリテーターを担当しています。そのレポート2回目。

子どもあそびばミーティング
ー 想像力とD.I.Y、大人と子どもの契約の場

コロガル公園で遊ぶ子どもたちが、自身の遊び場の環境を考えるためのミーティングを開き、コロガル公園内の新たな機能を提案します。ファシリテーター(司会進行)は、地域の児童館にアーティストを招聘し、子どもとアーティストとの出会いの場を生み出すプログラム「アーティスト・イン・児童館」の代表・臼井隆志さんです。
(glitchGROUND展特設サイトより)

子どもたちが公園の新しい使い方を考え、それをYCAMのテクニカルチームが実現していく。夢のようなアイデアも、YCAMのテクノロジーによって実現してしまうかも知れない。みんなの「夢」がつまった公園の実現、というわけだ。

とはいえ、どんな夢も叶うわけではなく、実現できるアイデアにも限りがある。子どもたちの限りなく自由でいい加減な発想を引き出し、それをテクニカルチームのみなさんが実現できるレベルに落としこんでいく、その間を調整するのがぼくの仕事である。



― 環境・ハードウェアを変化させる



スピーカーやマイク、振動子、LED照明などが備え付けられているだけですごいと思うのだが、実はこの公園のポテンシャルはそんなもんではなく、本気を出せばプロジェクションマッピングやレーザータグ、モーションセンサーなども導入できてしまう、とのこと。部屋を暗くしてプロジェクションマッピングによる「遊具」をつくりだしたり、モーションセンサーを装備したボールを使った遊びなども考えられる。

鬼ごっこやかくれんぼなどによって公園のソフトウェアをつくりだすことはこれまでにも経験してきたかも知れないが、公園のハードウェア自体を変化させる、というのは一体どういうことなのか、ぼくもまだわかりきっていないのだけど、ということは、子どもの想像の範囲を超えたことであることもたしか。やったことのない新しい経験がこのミーティングでは待っている。


― 子どもたちからアイデアを引き出す 想像、提出、契約

公園の「環境」自体を変化させる、というやったことのないことを、子どもたちと一緒にすすめるにはどうしたらいいのか。既存の公園やテーマパーク、ゲームセンターなどのアイデアを参照した意見が生まれることは想像に難くない。面白い技術が導入されているからといって、アミューズメント化させてしまうのではなく、あくまでこの公園は、新しいメディアの使い方を編み出す、D.I.Y精神にあふれた場所であってほしい。というか、そうでなければ、この公園のユーザーである子どもたちはつくられた環境を消費するだけになってしまう。つくることによる学びを生起するためには、それじゃいかん。

とかグネグネと考えながら、6月8日(日)の14時に、「子どもあそびばミーティング」の初回がスタートした。以下はその内容の紹介。

  ①イマジネーションとアイデア ― 「暗号」から連想・拡散する


まずはじめにやってもらったのは、連想ゲームのようなもの。コロガル公園にはいくつか
のアーカイヴがあって、その中に「こんな公園があったらいいな」というアイデアシートのアーカイヴがある。「すべり台がほしい」「坂道にロープをつける」「地下に穴がある」など、公園の環境自体を新しくつくりかえる多種多様な妄想が描かれ、記録されている。



今回は、その中から"解読不能"なアイデア(?)が描かれたものを選別し、ミーティングに参加した子たちにそこから具体的なアイデアを連想してもらった。例えば、2〜4歳ぐらいの子が描いたであろう色とりどりの描きなぐりを、「スイッチを踏むと、光のもじゃもじゃが追いかけてくる仕掛け」というように解読する。アイデアのソースを、子どもたちの経験から、アイデアシートに変えることで、よくわからないけど新しいアイデアを引き出すことを狙った。それらのアイデアをスタッフが模造紙に書き込んでいく。


  ②コロガル公園の隠れ機能の紹介


次に、コロガル公園に埋め込まれたそれぞれの「シーン」の説明と、真っ暗にしてプロジェクターで映像を投影できることなど、「こんなことができます」という機能の紹介。途中からあきちゃったし、なにしろ魅惑の坂道だらけなので、子どもたちは静かに話を聞くなんて無理。走らずにはいられない。この機能紹介は最初の緊張してるときにやっても良かったかなー、と反省。

  ③アイデアからプランへ ーまとめ、発表


最終的にグループを3つにわけて、①で出したアイデアをもとにプランをまとめて発表してもらった。子どものプランに対して、YCAMのテクニカルチームにもどうすれば実現できるか、を質問していく。「いや、それは無理だよ?」と子どものプランを拒否する場面もあって、笑えた。最終的には「自分の姿が見えるおばけ屋敷」「ワニが出てくる足湯」「バンジージャンプの映像を投影した飛び降り台」「一箇所からしか読めない文字」など、具体的?で変なアイデアがいっぱい出てきた。子どもたちとのミーティングはここで終了。


  ④実装にむけて ー大人の時間



ここから、子どもたちのアイデアをどうやって実現するか、テクニカルチームとエデュケーターチームのミーティングが始まる。子どもたちが考えたプランを、技術的・時間的に実現できそうな内容に改変していく。


と、こんな感じ。実際に採用されたプランを知らないし、どうなったんだろう。次回に訪れるのが楽しみです。

いろいろ考えたけど、たぶん、「ファシリテーター」がいなくてもこのミーティングでやろうとしていることが実現できるのが一番いいんだと思う。環境が子どもたちから意見というか意志を可視化し、それを誰かがアイデアにまとめ、実際に作業をする大人に提出し、コンセンサスをとって実装していく。環境が、意志、アイデア、提出、契約、実装をアフォードしていけるのであれば、子どもを中心に、同心円状の組織ができあがり、新しい形の自治が見えてくる気がする。

とにかく、次回に訪れるのが楽しみです。

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YCAM教育普及展「glitchGROUND」5月19日〜8月12日
10:00~19:00
入場無料 火曜日休館
山口情報芸術センターYCAM

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子どもあそびばミーティング第2回
7月8日(日)14時〜15時30分




2012/06/24

glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(1)


6月8日〜6月10日にかけて、山口情報芸術センターYCAMへ。

ここで行われている教育普及展「glitchGROUND」のプロジェクトに参加しています。会場内に設置された、音響、照明、映像などの装置が埋め込まれたインスタレーション型の公園「コロガル公園」の使い方を、子どもたちと一緒に考える「子どもあそびばミーティング」の進行をするのがぼくの今回の仕事でした。レポートをまとめて書くのが難しそうなので、感じたことのメモというかなんというか。


YCAM教育普及 
―メディアを使う、知識のアップデート

YCAMの教育普及活動は、YCAMで制作/発表されるさまざまな作品を鑑賞するという経験が、より高い価値のものになるように、作品のテーマに沿った鑑賞方法を創出し、常に新しいミュージアム体験の設計に努めています。また、「表現」「身体」「コミュニケーション」「社会」といったYCAMが重要視する要素と「メディアテクノロジー」の関係性に注目し、メディアリテラシー教育につながるような、オリジナルワークショップの研究開発もおこなっています。開発したワークショップはパッケージ化し、山口市内を中心に国内外の文化施設/教育機関で積極的に実施しています。
(YCAM4月プレスリリースより)


ケータイで写メを撮りあう鬼ごっこのような遊びをつくる「ケータイ・スパイ・大作戦」、検索エンジンの使い方を学ぶ「Search'n Search」、様々な身体の動きのデータベースをつくる「コトバ身体」など、人間の身体と、日常的に使われているケータイやインターネットの関係性、あるいは監視社会やデータベース化された世界をテーマにしたYCAMのワークショップはどれも個性的。YCAM InterLabで開発された技術や、メディアアートやサウンドインスタレーションの展示内容と関連づけながら開発されていくワークショップは、ドキュメント冊子に用意するものやプログラムがまとめられ、他の施設(メディアセンターや学校など)でも実施できるようになっている。
※内容は「glitchGROUND」展のウェブサイト、またはドキュメント冊子「YCAM WORKSHOPS」に詳しい


- メディアと出遇う体験、日常へのフィードバック

ケータイ、データベース、サウンド・・・新しいメディアやテクノロジーは次々に登場し、ぼくたちの生活に流入してくる。入り込んできたものをいかに使いこなすか。ワークショップでの体験が日常にフィードバックされ、メディアを使うこと・知識を備えることが楽しい、もっと知りたい!という感覚を強めていくように設計されている。「ケータイ・スパイ・大作戦」での体験などは、日常への影響も色濃いはずだ。

そして驚くべきは、YCAMのワークショップはその対象年齢が「小学校4年生〜一般」と幅広いこと。エデュケーターの菅沼さんいわく、「新しいメディアの使い方を学ぶのに、おいも若いもない。共に使い方を学ぶ場が大事」とのこと。確かに、iPHONEなんかは子どものほうが操作に慣れるのが早く、大人が逆に教わっていたりする。新しいメディアにおいては、教える/教えられるの関係は逆転している場面も多くなってきている。


- 知識のアップデート、プラットフォーム

さらに興味深いのは、先にも述べたように、YCAMだけの特別なものではなく、他の施設でも実施できるような仕組みになっていることだ。パッケージ化され、どこでも汎用できる「オープン・ソース」になっている。ワークショップ自体がある種の「ルール」や「プロセス」をつくっていくものであるため、ワークショップの内容自体も、実践が重ねられ、フィードバックを得て、アップデートされる仕組みになっている。単なるコンテンツではなく、ある種の集合知をつくっていくための「プラットフォーム」の設計にもなっている。

こうしたYCAMのエデュケーションチームが創りだしてきた、新しいメディアとの遭遇の「体験」、あるいはメディアの使い方をアップデートしていく「プラットフォーム」が集約されたものが「コロガル公園」である、と思った。そしてそれはワークショップのような時間が限定されたイベントではなく、恒常的に設置された「環境」として提出されている。



「コロガル公園」 
ーメディアと出遇う、環境のアップデート

いま、私たちを取り巻く自然や社会といった「環境」がゆっくりと、しかし大きく変わろうとしています。そうした変化を見極めながら、「教育」も変化していかなければなりません。この展覧会のタイトル「glitchGROUND」は、私たちを支えている大地(GROUND)に、亀裂や断崖など(glitch)が現れている状態を示しています。このような不規則性や不安定性を、忌避し、排除するのではなく、所与のものとして受け容れること。YCAMの教育普及活動ではこうしたスタンスが、私たちを取り巻く環境で生きていくための想像力や身体感覚を生み出す糸口になると考えています。この展覧会では、こうしたスタンスへと誘う創発的な〈環境〉として、大規模なインスタレーションを制作/発表します。
(YCAM4月プレスリリースより)


天井が高い17m四方の部屋の中に、複数の「波」が入り組んで配置され、子どもたちは坂道をすべりおちたり、走り回ったりしている。天井からは巨大な球体の照明が吊り下がる。LEDとスポットライトによって空間の色や配置が変わり、埋め込まれたスピーカーからビープ音や音声が聞こえ、床は埋め込まれた振動子によってブルブルと震える。トンネルの中に空いた小さな穴をのぞくと、公園全体を俯瞰した映像に出遇う。

音響(録音/再生)、照明、カメラ、プロジェクター、Wi-Fiなど、あらゆる道具が埋め込まれたこの公園。来場者が連日おおく、入場規制もかかるほど話題を呼んでおり、子どもたちの走り回る足音や声で賑わっている。室内にあるため、天候などの影響は受けないが、プログラミングされた様々な「シーン」(振動子が震える、マイクで会話できる、ころがるようなビープ音が鳴る)が切り替わることで空間は常に変化する。

- 編み出される使い方 

ぼくが公園を見ていたときに、坂道に開けられた「穴」が実はマイクとスピーカーであり、その関係に気がついた小学生がいた。入力を試し、出力を確認する。ぼくもマイクのところに行って声をだし「聞こえた?」と確認してみると、うん、と頷く。「あー、あー」「ばーか、ばーか」と単純な声が録音され、別の場所で再生される。そうすると、その様子を見た別の子がその行為を真似し始める。こうして、ある発見が伝播し、空間の使い方が変わっていく。


「遊具」の新しい使い方を発明したり、誰かの発明を真似したりするのは、普通の公園でもよくあるし、多くの人が経験したことがあるだろう。コロガル公園では、それがアナログな遊具だけでなく、音声や映像をも含む。それは「ケータイ」に内蔵された様々な機能を、分解し、「環境」として組み直しているように感じた。ワークショップのように決められたプロセスに「従う」のではなく、遊びながら、ころがりながら、出逢ったメディアの使い方を「編み出す」のがこの空間の特徴である。

様々な道具が埋め込まれた環境で遊ぶことで、子どもたちはメディアと遭遇する。その「発見」と「真似」の連鎖によって遊び方/知識は伝播し、アップデートされていく。知識のアップデートだけでなく、環境それ自体のアップデートをも可能にするのが「子どもあそびばミーティング」ということになる。

ミーティングの内容については、また次回。


- おまけ

山口県は魚が超うまくて、タイの煮付けは美味しすぎて叫びました。牡蠣とか、烏賊とか、鱚と梅肉の唐揚げとか。あとは揚げだしのナスも美味しかったし、鱧の湯引きなんてもうふっかふか。また魚食べるの楽しみだなぁ・・・・



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YCAM教育普及展「glitchGROUND」5月19日〜8月12日
10:00~19:00
入場無料 火曜日休館
山口情報芸術センターYCAM

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子どもあそびばミーティング第2回
7月8日(日)14時〜15時30分

2012/02/13

子どもと政治、経済、インターネット(3)

この間のWi-Fiのはなしの続き。

児童館職員をしている友人に話してみたら「Wi-Fiを開放すると、たぶん貪るようにゲームをするだけで、他の遊びができなくなってしまう」という意見をもらった。もちろん彼女もインターネットに否定的なわけではなく何か良い使い方があれば、ということを思っているのだけど、妙案がない、というのが実際のところらしい。

子どもたちの行動習性は完璧にマーケティングされていて子ども(とその後ろにいる親、大人)は巨大なマーケットになっている。カードゲーム、ポータブルゲーム機が容赦なく畳み掛けることで、子どもは「消費する身体」として教育されていく。ゲームにハッキングされた彼らの生活と、どう付き合うかが児童館職員の課題にもなっている、ということ。

確かに無条件にWi-Fiを開放しただけでは、ゲームの巣窟(それはもうこんな感じ)になるのは目に見えているだろう。ぼくの中で「うごメモ」にはとても好感をもったけど、「モンスターハンター」はどうも好かない。実際にやってみたけど、つかれるだけでハマらなかった。一体この差は何なのだろう。たぶん、クリエイティブ・コモンズとか「n次創作」と言った考え方、運動を支持しているからじゃないだろうか。

この話をするとまた長くなりそうなので、続く。

2012/02/09

子どもと政治、経済、インターネット(2)

昨日は《全児童自動館》のネタ出し会議をした。あっちゃこっちゃに話は飛ぶし、途中でいなくなったり、いきなり話に入ってきたり、しらけたりわめいたり…いやいや、楽しいんですけどね。まとまりも段取りも何もないなと。

そんな混沌の会議の前に、インターネット大好き中学生と話していたとき、ふと「児童館にwi-fiあったらどお」と聞いてみた。「最高っす!」「スマホ(使うのが)楽ー」「ケータイ持ってなくてもiPod touch使えるよねー」と口々にいい反応。それが実現可能か?というとかなりシビアな問題だ(前回の「リスクA」に関わる)と思うけど、彼らにとってのwi-fiのオアシス感はすごい。

話していた子が「うごくメモ帳」というDSのフリーソフトでアニメーションをつくっているのを見せてくれた。初音ミクの曲のPVを二次創作したものだった。わざわざワークショップなんてしなくても、タッチペンでアニメ作れるし、「うごメモ」のサイト内で作品を発表してる。インターネットに向けて発信ははじまってるし、つくる、描くという技術をここで学んでいる。

例えば児童館にWi-Fiがあったとして、ここで作ったアニメや映像をアップロードできるサイトを用意しておけば、ネット上でD.I.Yの映像祭を開催できる。2010年に山口情報芸術センターで行われた「Creating Our Own Media」は子ども対象ではないけど、その先行する事例で、参加者を「表現者」にする仕組みとして、シンプルかつユニーク。

空間がメディウム化して外とのつながりを持ったとき、児童館は明らかに保護される場所から実践する場所に変わる。大人も保護の対象としてでなく、小さな主体として彼らを眼差しうる。「んー、じゃあ学芸会は表現の実践じゃないの?」と今思ったけど、学芸会は見せる対象が先生と親、というふうに了解されてる。その対象が不特定多数に想定される、あるいは全く相手が想定されない場合、表現のベクトルが違うから子どもは「子ども」を演じなくなるんじゃないかな。

そんなことはどうでもよくて、実際に子どもが撮った映像は相当面白いはずだ。映像祭「coom」、児童館でも開催してみたい。


2012/02/05

子どもと政治、経済、インターネット(1)

今日は中村児童館でフライヤーの写真撮影。「顔は映らないから!」という条件で30人超の中高生に協力してもらったけど、

最近中高生とmixiでやりとりをすることが多くなった。発見されて、マイミクになって、twitterと同期してたつぶやきにコメントが来るようになって、「明日やるよー」とか呼びかけると反応してくれるし、「中児わず!きょうもたのしかったー」とかつぶやいてくれてる。

単純に、みんな徐々にこの企画のこと楽しみ始めてくれてるなーと嬉しくなっていたところだったのだけど、ふとこれは、面白い/重大な問題をはらんでいるんじゃないか?と考えた。それは一体何か。

mixiは一応クローズドなSNSだし、15才未満はできないように規制されているけど、それでも個人は特定可能だ。彼らはほとんど無自覚なまま、いろんな人と共有できる喜びに従うまま、個人の名のもとに「小さな主体」として行動している。これは『リトル・ピープルの時代』で宇野常寛さんが言っていることでもあるけれど、SNSは誰もが「小さな父(政治的・経済的意思決定者)」になってしまうこの時代を象徴するシステムだ。

子どもとインターネットの問題を考えるとき、子どもがインターネットに関わるリスク(リスクAとする)を挙げることは容易にできる。個人が特定されることで犯罪に巻き込まれる可能性が増加する、個人の肖像権を侵害される二次使用がなされる、など。しかし、子どもがインターネットに関わらないリスク(リスクBとする)を挙げることは容易ではない。メディアリテラシーが育たない、新しいコミュニケーションの仕組みに身体がなじまない、など、より複雑な問題になってくる。

ぼくは子どもがツイッターをやることなどは賛成だし、どんどんやれーという考え方なのだが、それによって「小さな父」にならざるを得ない人々は、公私の区別がなくなり、複数の居場所が均質化していくようになると、アイデンティティが硬直し、すごく生きづらくなるんじゃないか、と思うわけです。息苦しいというか。その予防策として、ナデガタを児童館に招待して、今はよくわからなかったとしても別のグルーヴ感を憶えさせておくのはよいことだと思っているのですが、予防するも何も彼や彼女たちは「リトル・ピープルの時代」におけるグルーヴの捕まえ方を自ら編み出していくのでしょうけれど。

あれ?なんか書きたかったことと違ってきたな。いずれにせよ、公私混同の状況の中に、「子どもとアーティストが出会う」という出来事も飛び込んでいく事になるだろうと思っています。

続く。