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2015/10/19

予感、仕掛け、気配 ー《パワースポット》展に行った

仕事にしても何にしても、感じていることを言語化していくことで知恵が蓄積されていくので、このブログはあまり考えず思いのままに書いている。

10月17日(土)の朝に思い切り熱を出して、まぁよくあることなのだけど、休まざるを得ず。ぐったりしていたら夜になっていて、そしたら大量に汗をかいていて熱も下がっていた。

翌日の日曜日は千葉までいって、彼女の実家に行って結婚の申し込みをしてきた。死ぬほど緊張した、というかどうしていいかわからなくなって、お父さんのサポートがなくてはぼくは本題を切り出すことができなかった。優しく晴れた日曜日の午前11時に、言いたいことを言えて、思いも寄らず受け入れてもらえたことが嬉しかった。

自分なんかが結婚なんてしていいのだろうかと不安もあるし、自信もないし、かといって迷いがあるかと言ったらないから、ことが進んでいる。この人と一緒に生活したらきっと楽しいだろ!っていう予感に満ちていて、前途多難だけど家族もそれを受け入れてくれる気配がある。何がこの予感と気配を醸し出しているんだろうなと考えたら、人の意志という仕掛けだろうな。



そして10月19日は、一件打ち合わせを済ませたあと、Atsukobarouhというギャラリーでひらのりょうさん、ぬQさん、最後の手段さんというクリエイターたちによる展覧会《パワースポット》を見に行ってきた。

ひらのりょうさんはこのMVの疾走シーンでファンになった。「君に会いに行く」という詞のリフレインと疾走、どんどん変わっていく現実と会えない距離みたいなのがたまんなくてこの歌のスピード感とあいまってしびれた。



展示は、作家のセンスがどばっと込められたタブロー、ミニチュア、ぬいぐるみなどの間に映像が上映されているのだが、中央に置かれたスイッチを押すと、プロジェクションされた映像とブラウン管のテレビに映された映像と音楽が切り替わる。


そしてスイッチがつながっているケーブルを辿ると「作家の間」というバックヤードにつながっていて、そこで作家さんたちがZINEを増刷したり、フリマをしていたり、赤ちゃんが遊んでいたりする。



こうやってここにあるものを作った人達が裏側にいて、そこにぼくらも踏み入れることができて、ここに漂うものたちによって何かが始まる予感や、動き出しそうな気配が、こうして人によって仕掛けられていることを素朴に感じる空間だった。人がものを動かす、という素朴で不思議なパワーのスポットだった。

物事の間に漂う、何かが始まったり動き出したりしそうな気配が漂う空間には何かが仕掛けれれていて、その仕掛けは人の意志とセンスによってできてるんだなと思った。

2015/10/17

読み語りき、書く語りき

先日のブログ「仕事、生活、読書、運動」で書いた「読書について」、その続きで考えていることがある。



まず、「なぜ本を読むのか」という問いに対して、このあいだは「人生の参考書にしたいからだ」と書いたけれど、もう一つの答えがあるような気がしていること。「なぜ本を読むのか」、と聞かれたらぼくはもうひとつ「読んだことを他人に語りたいからだ」と答えるなぁと思う。読書にたいして「語書」もしくは「書語」って言葉はないのかな?書について語ると。

読書というのは感覚的な体験だ。理論書にしても小説にしても、ぞっとしたり楽しくなったりサクサクと納得できたりわからなくなって頭がぐるぐるしたり、露骨な、あるいは静かな高揚をもたらすものだと思う。ぼくは「体験」は言語化することで初めて「経験」になると思っている。体験はその場かぎりだけど、経験は語ることで幾度となく更新される。それでいて読書は何度も体験できる。

「1冊の本を理解したければ10回読むべし。10回読めば、その本の真意がわかる」とも思っている。10回異なる読書体験をして、10回異なる切り口から語れば、真意がわかるどころか、新しい理論もしくは新しい物語に、読み手自身がつくりかえてしまっているだろう。一冊の本に感化されるなら中途半端に鵜呑みにするな、どっぷり入っちまえ。どうせ作者にはなれないのだし、どっぷり入ったところから抜け出したころには作者でも読者でもない別の自分になっているだろうよ。

あと読書について考えているもうひとつは、目的をもって本を読むことの退屈さだ。本を読むときはなんとなく手にとって読み始めたら止まらなくなる、ということが重要だ。ときには無理して読むことで 快に到達することもあるけれど、趣味なんだからそんな無理しなくたっていい。

不思議なことに読書というのは、ある種の目的というか「◯◯についての知識を得よう」もしくは「◯◯を読んだ、という実績をつくろう」と思って読むと至極退屈なものになる。

目的なく読み始めたものから想定外のショックを受けることがある。これこそ読書の醍醐味で、期待していた知識や心象とは異なる方向に自分の心が揺り動かされ、ここで書かれている内容ってこれやあれとつながるのかもしれない!と、想像だにしていなかったリンクが頭の中で弾ける。この驚きが気持ちがいい。

さて次はなんの本を読もうかな。

*関連する記事はこれ
「仕事、読書、生活、運動」
「自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて」



2015/10/05

仕事、生活、読書、運動


mac book proを新調して初投稿。画面はきれいだし、キーボードは壊れてないし、サクサク動くし、最高だ。んで、ただ新しいパソコンで何かしたかっただけで特に書くこともないのだけど、最近考えていることをメモしておく。



1. 仕事のこと。
3年ぐらいかけて、ひとつのリサーチをまとめたいと思っている。子どもの社会参加と今つくっているようなワークショップとこれまでの児童館の活動と、自分のなかでマッピングしたものを外在化できるようにしたいということ。自分の考えの地図と方位磁石をつくりたいと思っている。



2. 生活のこと。
本八幡あたりに引っ越したいってことで昨日リサーチに行ったら街の雰囲気はなんだか素敵だし、葛飾八幡宮はきれいだし、和多屋っていういい居酒屋見つけちゃうしで最高。ホームセンターが近くにあるらしいので、いい本棚とサイドテーブルを自分でつくりたいと思っている。


3. 読書のこと。
小説を読むのは趣味だけど、仕事のリサーチのために読まなきゃと思う本もたくさんある。はてさてどちらを優先させるべきなのか。そもそもなぜ小説を読むのかを考えてみると、結局は「自分自身の物語」を描く方法を知りたいというエゴイスティックな欲求があるからだと思う。「自分自身の物語」には現実や事実じゃなくて思想や空想も含まれるわけで、あらゆる小説が「自分自身の物語」のリファレンスなのだとしたら、ぼくはどの小説を参考にしているのだろう。そのことを知るのはきっと楽しい。

4. 映画のこと。
フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』がまた名画座で上映される。今度こそいかなくちゃ。




5. ジョギングとプールのこと。
運動をすることで体調が落ち着く。運動をしないと、疲れているのに暴れたいような気分になって落ち着かない。たった20分でよい。走るにしても、泳ぐにしても、一つのキックもしくは腕かきで、体がぐーっと前に進む感覚があって、ストン、グー、ストン、グーというミニマルなリズムの繰り返しが体を躍らせ同時に落ち着かせる。フロイトの「快楽原則」もそういえば「不快は興奮量の増大で、快は興奮量の減少だ」って話だ。


6. 仕事のことその2。
何をやるにしてもやり方が雑になりがちなのはぼくの欠点なのだが、10月から下半期に入ったということで、運営の計画を運営しながらつくっていかなきゃいけなくて、それはみんなで出てきてる情報を整理して共有するということの繰り返しになっていく。情報の整理には時間がかかる。少ない時間でいかに冷静に情報を整理するかってことだから、問われる力量。駄馬でも走るし考えるのだ。









2015/09/25

野生のメディアセンター ーYCAM《think things》展のおぼえがき

9月16日から17日、山口情報芸術センターYCAMに遊びに行ってきた。YCAMとはいろんな関わりがあるし、いまでは去年までアーティスト・イン・児童館で活躍してくれてた金子春香さんがファシリテーターとしてYCAMで活躍中でもある。


ぼくは初めて行ったときから山口が好きで、仙崎のヤリイカも、ヒラソも、マフグやトラフグのアラも、スーパーで安く手に入っちゃう感じとか、温泉とか、あとは獺祭にとどまらない日本酒の数々(五橋が好き)とか、あとカマボコがめちゃくちゃおいしいとか。今回も魚類を食い散らかしてきた。

それに加えてYCAMは、やっていることが独特でクセのあるところが好きだ。ん〜!なんかいい時期だし!現在開催中の《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展を見に行かないわけにいかない!ということで休みをもらって行ってきた。
http://thinkthings.ycam.jp

前回行ったのは2013年で、そのときの記事はこれ。「遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて」http://takashiusui.blogspot.com/2013/11/ycam.html

10周年記念祭では「life by media」というプロジェクトで、商店街で住民と関わりながら様々なアーティストが関わっていた。そして2年後の今回行ってみて、fablabができていたり、食の拠点形成のムーブメントがあったり、YCAMがハブになって、人々の生活圏のなかに新しいカルチャーの拠点が膨らんでいっているのを感じた。

エデュケーターの菅沼さんは、「これまではYCAMのラボとアーティストがある意味クローズに作品制作をしてきたけど、これからは生活する人々に対してオープンにしていくほうが面白いと思うし、公共施設としての役割はそこにあると思う」と話していた。



《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展はその意味で、遊ぶことが生活することである子どもたちを中心に、ユーザーと共同で展示内容を生成していく場だった。YCAMのスタッフがつくったヘンテコな道具(振動によって数字をカウントするボール、光が当たると音がなるボール、棒の先に玉が付いているものなど)を使って、来場者が遊びを考える。考えた遊びのルールや注意点などを記述して「あそログ」をつくる。つくったログは会場とウェブサイト上で共有される。仕掛け、生成、アーカイブがぐるぐると循環する仕組みになっている。



たとえば、光が当たると音がなるボールを使って、光と音の鬼ごっこをつくる。その鬼ごっこに名前をつけて「あそログ」に登録。そうすると次に遊ぶ人たちがそのログを読んで鬼ごっこのルールを発展させる。そうやって遊びがどんな風に進化していったのか、「あそログ」から生態系を読み解くことができる。




ここではYCAMのラボスタッフの人たちが考えた、シンプルな仕掛けのアイテムが並び、その名前がどれもかわいい。スイッチを押すとシンバルやスネアドラムが鳴る「スイッチ虫」とか、転がすと数を数える「なかまんボール」とか、棒の先端に玉がついている「おおわきぼう」とか、ラボスタッフの名前にちなんだものも多い。



「あそログ」は、ネット上で読んだだけではなんのことが書かれているのかよくわからない。わからないがなんだか子どもたちが一生懸命丁寧に書いているので読んでしまう。会場で読んでいると一般名称ではない名前が使われ、ツールとユーザーの間に特別な親密さが生まれているのがわかる。まるで古代文字を読み解いているような、ある部族の村に迷い込んだような気分になる。



このツールたちのなかでも面白いのは「インプット」と「アウトプット」の可視化、外在化があるところだ。たとえば数字を10まで数える、とか、音がなる、とか。

児童館とかで鬼ごっこをして遊んでると
「タッチしたよ!」
「ぴろーん、されてないよ〜」(ほんとはされてる)
「したよ!」
「されてないですー」(ほんとはされてることもわかっている)
「したってば!」→泣き

みたいなことってよくあって、こうやってルールを守らないとぐずぐずになることがよくあるけど、これらのツールは遊びのなかのインプット(タッチ)とアウトプット(タッチされた)を客観的に判断可能にするんじゃないかな、とか。実際は誤作動のようなものも多いかもしれないし、その様子は見ていないからなんとも言えないけど、遊びを堕落しないようにする効果がありそう。

遊びの中でユーザーのメディアリテラシーが高まっていく、というのは、野生のメディアセンターYCAMならではだ。

「展覧会+ワークショップという形式を使って最先端のアート作品を市民に伝える、みたいなことってもう古くて、これからはワークショップでコミュニティでボトムアップだ!」という感じもなんだか気持ち悪くて、結局はフレームを作っている人の知恵と経験と技術のトップダウンと、それを使う人たちのボトムアップの拮抗の中にしか物事は生まれないと思うし、そのことを体感した。



会場内には夏休みの子どもたちのエネルギーによって増殖した700枚ちかくの「あそログ」が展示されていて、いずれも変な名前が使われ、ルールの説明文がヘンテコだ。それがthink things展の独特の世界観をつくっていた。 

展覧会ってアーティストの作品を集めて鑑賞するものがある、という感じの枠組みだけど、ここでの鑑賞者には3つくらいの層があって、ひとつは遊びを作る子どもたちのような存在。そしてそれを引き出す二次的なユーザー。そしてそれを読んだり見たりして楽しむぼくのような一番外側のユーザー。

あ、でももうちょっと言い方を変えると、「おおわきぼう」や「けいなボール」も、作品の一部だと言える。ただし、一見ランダムに並べられているそれらを即座に組み合わせて遊びを創出していく子どもたちの様は、レディメイドを引き合いに出すまでもなく、ツールを使うこと、ツールの流用、誤読、ブリコラージュの創造性なのだなぁ、と。

ぼくのような一番外側のユーザーというか鑑賞者にとっては、この展覧会のコンテンツは主に子どもたちが作り出した「あそログ」、ということになる。

ここらで一回あそログをぱーっと読んでほしい。http://asolog.ycam.jp

これらには誰か特定の個人に権利が帰属するものではなく、CC0*というコードが使われている。食べログ的な集合知であり、独特なツールとその読み替えの実践のエスノグラフィーでもある。

※CC0とは、インターネット時代のための新しい著作権ツールで、制作物について有している著作権やそれに隣接、関連する権利を全て放棄し、公共財(パブリック・ドメイン)とすることができる

この展覧会の枠組みと、あそログと、スタッフログを読み込んでいけば、カイヨワの『遊びと人間』を凌ぐ遊び論に発展しそうな予感に満ちてて素敵だ。

カイヨワは本を読んで、遊びとは純粋な消費であり、遊びは日常から隔離された閉域である、という点についてはほんとにそうか?とは常々疑問だった。think thingsは、フリーカルチャーの起源としての遊びに着目して作られた展覧会なのかな、とか、山口にファブラボができたことや、メイカーフェアが開催されていることは遊びの生活圏への解放を、さらに加速させるのを予感させる。



しかし、一方で、この展覧会の枠組みが東京で実現できるだろうか、と考えるといろいろ不安だ。何かにつけてクレームを警戒してしまう東京で、こんなオープンネスを実現できるだろうか。山口だからできた、とは思わないけれど、YCAMが山口という場所で10年以上かけて積み上げてきた文脈があるから、できたんだろうなと。

展覧会は9月27日の日曜日で終わってしまうけれど、この後の展開をどんな風に考えているのか、山口で何が起きていくのか、またみなさんに会って話を聞ける日を楽しみにしている。

*関連する記事はこれ
「遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて」
「glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(1)」

2015/09/14

カノン、2.5人称、すり替わるあれこれ

野田秀樹さん作、野上絹代さん演出の『カノン』を観た。すっごく面白かった。



盗賊と判官の時代劇たる冒頭から、それは次第に3億円事件や浅間山荘など昭和の様々な事件とよく似ていく。西洋絵画のボトルやグラスが酒を飲むシーンに使われ、額縁は壁や牢獄にかわっていく。自由は銃になり、妙は見ようになり、お願いは希望になる。っていう話だった。

ダブルミーニングと韻とメタファーと駄洒落の応酬でわけわかんなくなるんだけど、目の前で役者の身体が動き、いろんな表情をするので、なんとなく見えてくるのは善悪とか真偽とかがくるくる回るなかで一生懸命みんな生きてる感。

絹代さん、大きな仕事をしている、、、しかも学生たちを鼓舞してここまで持ってったのかよすごい、、、と震えた。ステートメントのこの一筆がマジで歌舞伎のようにキレ!バシッ!って感じで最高感あった。観劇後にもっかい読んで唸った。

http://endairen.net/canon/

劇中で魅力的だったのは猫の「お願い」という役。「わたし」という一人称でありながら登場人物たちのことを「彼ら」として、観客に向かって表現しつつ、物語の登場人物として「あなた」と呼ばれもする。ただし、猫なので言葉が通じないから、物語の筋を変えようと思っても変えられない。その愛情と悲壮が魅力的なキャラクターだった。

これ、舞城王太郎が『淵の王』で使った2.5人称っていうやつで、その前触れがここにあったのか〜と驚いた。妊娠、という事態を通して物語に介入する『カノン』の猫と、最後の最後に意志の力で物語に介入する『淵の王』の語り部は、意志があったのかそうでないのか、が違うけど。

なんで『カノン』がこんなにも今っぽいって感じたかって、いろんなメタファーやダブルミーニングによって信念や意味がすり替わって善悪が転倒してしまうのって、オリンピックロゴの例を出すまでもなく、何が本当に問題だったのかはうやむやになったまま人が傷ついていくこの時代のムードそのものだなと。

あとは、目の前で起こっている出来事を気ままに眺める2.5人称の猫が、最後に偶然の事態を通して物語に影響していく様。テレビの向こうで起こっていることを無責任に眺めている群衆が、不意に責任を負うことの予兆。もしくはそうなっちまえ!っていう作家の欲望のようにも思える。

今回は猫がその不意の責任を担っていたけど、僕ら観客に憑依してもおかしくない役柄だ。2.5人称的な役回りを、観客が担うような演劇をこれからもっと見たいと思った。

これはよくある「参加型」「わたし、あなた、みんな」みたいなのは違うと思う。介入したくてもできない!という悲壮さが2.5人称にはある。それを乗り越えて物語に介入しようとする意志とハプニングが、この形の美しさなんだろうなーと思う。

野田さんの演劇を生で観たの初めてだったし、戯曲のこともほとんど知らなかったし、役者さんのこともほぼほぼ知らなかったので、なんの先入観もなく見ていたら、随所に絹代さんらしいこだわりが見られて嬉しかった。

2015/09/05

わからないリアリティ、めくったりひっくり返したり

目の回るような忙しさだった夏が過ぎようとしていて、日の落ちるのも早くなったし、ひんやりした風が吹いて長袖を着るようにもなってきた。夏の企画も一息ついて、次なる担当企画は今月末と12月。その間も毎日ワークショップである。年間で20近くの企画を作らなきゃいけない、って厳しいことかもしれないけど、企画屋としては毎日酔っ払うような心地よさである。


さて先月末から0〜2歳の子も参加できる企画が始まった。託児ではないので保護者の人にも入ってもらうんだけど、そこで思ったことが2つある。

ひとつはお母さんたちとの会話が日々面白いということ。初対面の人に自分のこともろくに紹介しないでも、子どもたちの遊びの様子を見ていたら会話がぽつぽつと始まっていく。

そんななかでお母さんたちがワークショップに何を求めているのか、ってことを日々考える。言語や知能の発達の促進なのか、子どもの溜まったエネルギーの発散なのか、ほんのちょっと一息つきたい、という気持ちなのか、とか。

とはいえ、ぼくは結婚も育児も経験ないし、できたとしても妊娠も出産も一生経験できない。つまり自分は母にはおよそなれないし、「お母さんの立場になってみて考える」ということが、絶望的にできない。多少の想像はできるかもしれないけど、およそリアリティには到達し得ない。絶望的にわからないリアリティを前に、頓珍漢な想像しかできないかもしれないけど、その頓珍漢さから何か面白いことが思い浮かぶかもしれない。



あとほかにも興味深いことはいくつもあるけれど、幼児の子たちを見ていてとくに面白いと思うのは「おもちゃで遊ぶのが好きじゃない」っていう感じの子だ。1歳から2歳くらいで、言葉を少しずつ話し始めてて、歩くのも上手になってきているくらいの子たち。「こっちでおもちゃで遊ぼう」と誘っても、見向きもしないで、イスや机や引き出しの扉に関心をもつ。ティッシュやトイレットペーパーも大好きだという。

オープンエンドな、多様な遊び方のできるおもちゃはまるで信頼できる話し相手のようで、いろんな言葉で子どもに話しかけるし、子どもの話をよく聞く。

その一方で、既成のおもちゃは実用性と直結しない。おもちゃに魅力を感じない子は、鍵や引き出しや机などの実社会で使われているものをおもちゃにするのが楽しい様。

そういう子は柵があれば乗り越えたくなるし、穴があればほじくりたくなる。めくれたカーペットをひっくり返したくなる。目の前のおもちゃの言うことを聞いて遊ぶより、自分がいる空間それ自体ををめくったりひっくり返したりしたい!という欲望なのだろうか。

そうなると、ワークショップを作る側としてはめくったりひっくり返したりできる空間を作らねば、と思う。例えば、全部食べられる「お菓子の家」みたいに、丸ごと遊べる/食べ尽くせる空間だったら、そういう子たちはどんなエッジを探るんだろう。そういういたちごっこは楽しそうだし、子どもとワークショップデザイナーの相乗効果だよなーとか。

繰り返す、めくる、ひっくり返す、ほじくる、歩き回る、など、1歳児のイタズラアクションをリストアップして研究したら新しい企画できそう。

はぁ。日々の実践の中で思ってることをこうしてがーっと文章にしてみるとポーッとしてスッキリするものだ。そしたらまた明日。

2015/08/16

企画、熟慮、純米吟醸

いやぁ、今年の夏はまったく目の回るような忙しさで、担当させてもらった企画が盛況でとにかく嬉しい。あと一週間、とにかく無事に終わることを願うばかり。



「企画のクオリティは担当者で決まる」というのは西村佳哲さんが講演会でおっしゃっていたことで、いつも本当にそうだなぁと思う。今回はぼくが担当だったけど、もろもろのツメの甘さをチームのメンバーにフォローしてもらいながらなんとかここまでこれた。企画全体や、その受け取られ方にもぼくの長所も短所も現れている気がする。

質のいい企画をつくるには、担当者の情熱とタフネスが問われていて、「これは面白いからなんとしてでも成し遂げたい」という気持ちと、うまくいかないことがあって内部でボロクソに叩かれても、その度に熟慮して改善するところは改善し、曲げない信念は曲げない、みたいなしなやかさと粘り強さが問われる。そつなく、サクッといい企画をつくっている人なんて、きっとどこにもいない。



まあまだ終わっていないので振り返るようなことはまた改めて書きたいんだけど、でもこの段階で思うことは、魅力的なワークショップをつくるにはとにかく広く、深く熟慮することだ。そしてそれをチームでやることだ。個人ではワークショップはできない。やっぱり、企画をつくることは日本酒をつくることにきっと似ている(日本酒をつくったことはない)。チームでいい酒をつくるのだ。

おいしい米を育て、収穫し、脱穀し、そして精製する。それと同じように、膨大な情報量をリサーチし、テーマを絞り込み、ワークショップの形を整え、幾度と無くブラッシュアップする。そのブラッシュアップっぷりが大吟醸なのか、純米吟醸なのか、それで参加者の経験の質がかわる。

つぎの担当の企画もはやくも1か月後。ぬかりなきよう。