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2015/12/10

執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫

今日は珍しく、展覧会巡りをした。「休日」というものを「とにかく休める日(何もしないでダラダラする日)」にするのではなく、「好きなことだけをする日」というのに

最初は森美術館《村上隆の五百羅漢図展》。話題になっているしツイッターやフェイスブックでCMがバンバンながれてくる力の入りよう。客層は年配の方も多く、仏教関係の方もちらほら見かけた。


メインの五百羅漢図に対して、おばちゃまたちが「一体何人いるのかしらねえ?」「あら〜これがやっぱり玄武なの、そぉ〜」とコメントを寄せているのを見ると、仏教美術の展覧会として、あるいは観光地でお寺にいくような感覚でここに来ているんだなぁ。ぼくは仏教美術はほとんど関心をもってこなかったし、「羅漢」の意味も会場で知ったほど無知なのだけど、とにかく感じたのは執念だった。

それは異様なデカさと手の混みようで、絵の具を塗りたくっているはずなのにつるっとしていて、コンピューターでつくったデジタル感がある。村上隆という執念に燃え、猛り狂うコンプレックスの炎が、「今この時代に必要な芸術」という大きな目標をもち、大きな組織を動かしながら生み出した五百羅漢図。その制作資料の展示を見ると「指示書通りやれ!ボケ!」と書かれたり「程度が低い!」という罵倒の言葉。「村上様からの指示書」というラベル。200人規模の管理生産体制は、絵師集団というか民主的とかそういうんじゃない厳つさがあった。そういう背景と、村上隆の執念と、絵の迫力とをあわせて、宗教と芸術がこの日本でまた新しく混在していっているんだなという、大きな力のうねりを体験した。

強い力を浴びてぷはぁと思いながら、ずいぶん前にFAIFAIの文美さんに教えてもらったFREY'Sのピザを食べて美味しいコーヒーを飲んで休憩。次に見に行ったのは21_21 DESIGN SIGHTの《建築家フランク・ゲーリー展》。


原宿のエスパス・ルイヴィトン《フランク・ゲーリー/ Frank Gehry パリ - フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展》を先々週くらいに見ていたので、もっと大きな展示なら楽しみだ〜と思って行った。なにより今回の技術監修を、オランダに行った際にお世話になったLUFTZUGの遠藤豊さんがやっているというのだから期待は大きかった。そしてその期待をはるかに超える、もう最高に楽しい展覧会だった。

冒頭は、フランク・ゲーリーの建築を内側から撮影した映像がぐるりと観客を囲うプロジェクション。「私は建築を内側から考えるのだよ」とゲーリー本人がいうところの、その内側から始まる。ほあ〜と見てしまった。撮影はLUFTZUGだった。

次に、フランク・ゲーリーの自宅の模型と、彼のマニュフェスト。「それが厄介だ」でおわるあたりがとても可愛いマニュフェストだ。


メインの展示室には、これまで手がけたプロジェクトの模型が、段階別に展示され、キャプションが施されている。ここがもう本当に楽しかった。

ねちこく、幾つも模型をつくる。考えて作って考えてつくってを途方もないほど繰り返す。普通だったら諦めたり「もうこんでいいや」ってなるところ、ならない。自分のアイデアを気に入って、嫌いになってを繰り返し、施行されて現実のものになった建築が自分の予想を越えながら、「ああすればよかった」が幾度も出てきて嫌いになるそうだ。そんな感情の抑揚と、模型と、プロジェクトの進行過程がリンクする展示構成もう見事。

これだけだと「天才って努力しててすごいね」ってはなしで終わりそうなのだが、天才たる所以は独創性だけでなくその設計手法にあった。「ゲーリー・テクノロジー」に関する映像はぜひ最初から最後まで見てほしい。独創的な造形だけでなく、人々が空間を経験することへの敬意、そして設計手法の合理化とコラボレーションの上質さ、楽しすぎて泣きそうになった。

あと気になったのは、ゲーリーが支援して立ち上がったという「Turnaround Arts」というプロジェクト。アーティストが学校にいく、というのは世界中にあると思うけれど、行政と民間企業とがタイアップして、大掛かりに展開しているみたい。

村上隆もフランク・ゲーリーも、ものすごい圧力で物を作り、それでいて高解像度だ。圧力と解像度が高く、歴史や社会と符合させながら物を生み出すクリエイターには足元には及ばないことがわかっていながらも、ゲーリーの展覧会は「自分にもできるかもしれない」と希望を与える内容だった。


最後に行ったのは《赤塚不二夫のビチュツ展》。こちらは16日の木曜日で終わってしまうので、駆け込んだ。『天才バカボン』や『モーレツア太郎』『レッツらゴン』などはぼくも小学生の頃から大好きだったマンガで、穴があくほど読んだし今も大好きだ。そんな赤塚不二夫へのオマージュ作品が多数。なかでも祖父江慎さんのブラックライトの仏壇と、アラーキーによるポートレートは優しい気持ちになれたなぁ。

高圧力・高解像度のクリエイターというよりは、赤塚不二夫は軽やかさと徹底した遊び心なんだよなあと思いつつ、それをさささっと表現する絵の上手さなんだよな〜とか思いながら、「バカは死んでも治さないのだ」って至言が頭のなかに響いた。

今日見たどの展覧会も感情を動かされる内容だった。彼らのような大物には足元には及ばないとわかっていながら、奮い立つものがあった。妥協のない執念のようなものは、ぼくも持てるはずだ、とか。

なんか最近暗い話題ばっかりだし、きつい世の中だし非正規雇用だし年金もらえないだろうしいろんな心配事もたくさんある。だからこそこういうクリエイターの執念の炎が世界を照らすことを、考えていいんだと。










2015/10/19

予感、仕掛け、気配 ー《パワースポット》展に行った

仕事にしても何にしても、感じていることを言語化していくことで知恵が蓄積されていくので、このブログはあまり考えず思いのままに書いている。

10月17日(土)の朝に思い切り熱を出して、まぁよくあることなのだけど、休まざるを得ず。ぐったりしていたら夜になっていて、そしたら大量に汗をかいていて熱も下がっていた。

翌日の日曜日は千葉までいって、彼女の実家に行って結婚の申し込みをしてきた。死ぬほど緊張した、というかどうしていいかわからなくなって、お父さんのサポートがなくてはぼくは本題を切り出すことができなかった。優しく晴れた日曜日の午前11時に、言いたいことを言えて、思いも寄らず受け入れてもらえたことが嬉しかった。

自分なんかが結婚なんてしていいのだろうかと不安もあるし、自信もないし、かといって迷いがあるかと言ったらないから、ことが進んでいる。この人と一緒に生活したらきっと楽しいだろ!っていう予感に満ちていて、前途多難だけど家族もそれを受け入れてくれる気配がある。何がこの予感と気配を醸し出しているんだろうなと考えたら、人の意志という仕掛けだろうな。



そして10月19日は、一件打ち合わせを済ませたあと、Atsukobarouhというギャラリーでひらのりょうさん、ぬQさん、最後の手段さんというクリエイターたちによる展覧会《パワースポット》を見に行ってきた。

ひらのりょうさんはこのMVの疾走シーンでファンになった。「君に会いに行く」という詞のリフレインと疾走、どんどん変わっていく現実と会えない距離みたいなのがたまんなくてこの歌のスピード感とあいまってしびれた。



展示は、作家のセンスがどばっと込められたタブロー、ミニチュア、ぬいぐるみなどの間に映像が上映されているのだが、中央に置かれたスイッチを押すと、プロジェクションされた映像とブラウン管のテレビに映された映像と音楽が切り替わる。


そしてスイッチがつながっているケーブルを辿ると「作家の間」というバックヤードにつながっていて、そこで作家さんたちがZINEを増刷したり、フリマをしていたり、赤ちゃんが遊んでいたりする。



こうやってここにあるものを作った人達が裏側にいて、そこにぼくらも踏み入れることができて、ここに漂うものたちによって何かが始まる予感や、動き出しそうな気配が、こうして人によって仕掛けられていることを素朴に感じる空間だった。人がものを動かす、という素朴で不思議なパワーのスポットだった。

物事の間に漂う、何かが始まったり動き出したりしそうな気配が漂う空間には何かが仕掛けれれていて、その仕掛けは人の意志とセンスによってできてるんだなと思った。

2014/10/11

前橋、リサーチ、夜の恋慕 ー服の記憶展について その1

昨日から始まったアーツ前橋での「服の記憶」展。展覧会についてもちょこちょこアップしていこうと思うのですが、その前日譚としてリサーチの過程をちょこちょこ書いていきたいと思っています。これはオープニング明けて眠たい頭をかきまぜながら、高崎線にのって書いています。

今回の新作では、前橋に住むいろんな人に話を聞いて、面白いなとおもった5人の方に協力をいただいてその人のための服をつくり、展覧会ではその人の人生経験ごと試着する、というもの。他人になることはできないが、他人の人生に袖を通すような体験を服はさせられるんじゃないの〜というところが今回のキモ。

2週間前、今回の新作のために必須である夜の前橋リサーチということで、21時から飲み屋をほっつき歩き始める。前橋は昼間のかんさんとした姿とうってかわって週末の夜はとりわけ元気だ。

目的のスナックへ。こういうところ、遊び慣れていないんで、、、とドギマギしつつビールを飲むと、さっきまでリンパマッサージ30分コースで身体をごりごりにほぐされている竹内さんは二杯目でもう絶好調な感じになって、服の話を陽気にしている。とはいえ、普通にママからたくさんの話を聞くことができた。

スナックと児童館はよく似ている。お店の人がいろんな人の席に入ったり抜けたりしつつ勘定や洗い物バースデーケーキの準備はボトルやグラスの片付けをテキパキとする女性たちの振る舞いはさながら児童館の職員さんだ。



とはいえ、ここは大人の空間だ。ぎゃっはっは!じゃあ騎乗位中だしが最高ってわけ?エロいなー!エロい女だなー!みたいな声が聞こえてきて、ギョッとする。かと思えば、サンダルと短パン姿のラフな格好で、というか寝癖で、カウンターで好きなものの話をしまくってる感じの人もいるし、のど自慢だ〜!と言わんばかりに渋い歌声響かす人もいる。
人々の面白い様子が見える。ん〜、こういうところは男性が甘えにくる空間なのかもなあとも思う。擬似的な母子関係、擬似的な恋愛関係を求めに来ているようにも見える。ぼく自身もママにいろんな話を聞いてもらって、いい気になっていた。

スナックでひとしきり話を聞いたのち、夜の街をあるきながら、そもそもスナックとキャバクラってどう違うんでしょうねと、竹内さんが言い始める。行ったことあります?いや、ないっす。行ってみる?比較のために。ほあーまじすか?って会話しながら歩いていたら、どう?そこのスナック、若い子もいるよ、60分4000円でビール焼酎ソフトドリンク、と近寄ってくるおじいちゃんをスルーして歩いてて思ったけど、前橋の千代田町はとにかく夜になるとわっと人出が多くて、昼間の少ない人通りの様相が変わり、キャッチの人たちで街が賑わう。

どうすかどうすか!アニキアニキ!あのーーーーうちの話も聞いてもらっていいっすか!いやぁ、もううちに決めましょ!はい!ほい!

キャッチにも作法があって、4つぐらいの店舗に囲まれたんだけど、一つの店舗が説明してるときは、別の店舗は値段や条件のことを口にしない、というのがある。アニキアニキーー!という声は出し続ける。

はー、そうやって勧誘するもんなんすねー、アーツ前橋って知ってます?あそこで今度展示するために来てるんですよ、ぜひ来てください、へー!そうなんですか!私娘がいて娘が洋服大好きなんですよー、娘と行きます!ぜひぜひ、いろんな洋服が観れて楽しいですよ!とかいいながら、何してんのかよくわかんなくなる。

んで、結局一番若くて元気なお兄さんがキャッチしてたところにいくことにして、人生で初めてキャバクラに入店した。20分ごとに女の子が入れ替わっていくシステムで、2人で行ったから6人の人に出会ったんだけど、みんなに「服の記憶」展の説明をして終わった感じだった。一人だけ、ニゴーとかでてるやつですよね!知ってるー!という人がいた。

んでぼくはというとなんの悪気もなく、いまスナックからのキャバクラに来てるよーと彼女にLINEをしたら、「なに。」とだけ返ってきたのでギョッとして酔いが覚める。腕組みをしながらあーだこーだ考えてどう説明したらいいかを考えていると、ほらほら早く返事しなよー!と隣に座った子が身を乗り出してぼくのiPhoneをぽんぽん触ってLINEを開いて返事を打とうとしはじめたので、これまたギョッとして身を引く。

竹内さんには、おい、キャバクラきて腕くんでんじゃねーよ!とツッコミくらいながら、ぼくはめったなことで怒らない彼女がイラっとしてるのを感じて焦りつつ、酔っ払った手で返事を打つ。

まわりのお客さんを見みると、肩を組んでカラオケを歌っている二人組がいる。声の張り上げ方とか、たまにカウントダウンTVとか見るといるキャバ嬢っぽい歌手の人がいて、ああこの歌い方はキャバクラ的な歌い方なのかもとか考える。

別の席では日サロで焼いた肌がテカる血の気の多そうなワイシャツの男性3人組が、女子たち相手にどんどこどんどこ盛り上げている。さながら映画『ソーシャルネットワーク』のジャンスティン・ティンバーレイク。なるほどこれはスポーツ感覚なのか。いかに女子を楽しませられるか、自分の雄々しさを試す遊びなのか。ガチの求愛ではなく、求愛の遊びとでもいうか、そんなゴリラ感があった。

しかしま〜、何を求めていったわけでもないが、この遊び方はぼくたちには合わなかったみたいだ。店を出た後の感じは茹ですぎた夏野菜を齧ったときみたいだ。水っぽくて味も食感も残念になっちゃった茹で過ぎのトウモロコシみたいな。

いやあこりゃあなんにも残らねえや、彼女には怒られるしよーとか言いながら、キャバクラをでて、むちゃくちゃ美人な女将さんがやってる鰻屋さんでうなぎの蒲焼を食べよう、って話になって、キモ焼きをつまみに飲んでるお客さんからビールを一本ご馳走になる。なんでも女将さんの高校の同級生かなにかで、高崎から来て月に一度こうやって晩酌するんだとか。今年で52歳って言ってたかなぁ。

ぼくはどうにも彼が女将さんへの恋心をずーっと持ってんのかなぁと思ってしまって、ああ慕情とか思ってたんだけど、翌朝竹内さんに話したら、いや、あれはただ仲良いだけに決まってますよ、というのでさすがフラれたことのない男は違いあると思って負けた

ルーザーな自分には彼の慕情がなんとなくわかって、実らないけどしぶとくなっちゃう男子の恋心に、しっとり照れる女将さんの顔の艶っぽさをみて、なんとなくほっとする。
夜の世界はこんなふうに、その土地の人たちのいろんな求愛がマーケットに乗って動いている。そのグルーヴの中で遊びながら、いろんなかたちの求愛の渦を食らうのは楽しかった。

アーツ前橋での「服の記憶」展、次回はまた別のリサーチの様子を書きます。

2014/09/13

服をつくる、無数の選択、切実さ ー拡張するファッション展 その3

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて開催中の「拡張するファッション」展、関連企画として、先月FORM ON WORDSで服づくりのワークショップ《ファッションの時間[丸亀]:普段着》をやりに、四国へ。

FORM ON WORDS《ファッションの時間[丸亀]:普段着》
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「拡張するファッション展」 
©FORM ON WORDS

内容はこんな感じ。

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永遠に着たいほど気に入っているけれどほころびてしまった、年齢にあわなくなってしまった、好きだけどどうにもからだにしっくりこない。《ファッション時間丸亀]:普段着》は、参加者がそうした悩みを持つをもちよって新しい普段着につくりかえるワークショップです。模様やシルエットを変えていくだけでなく、スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど、自分日常ある一瞬ため「装置」を付け加えていきます。新しく付け加える素材には、《ファッション図書館[丸亀]》で集められた、物語を持つ古着を使います。複数物語を持つが素材となって、かけがえない自分日常1シーンためかたちができあがっていきます。
(「拡張するファッション」展ウェブサイト/http://www.mimoca.org/ja/events/2014/08/20/1199/より)

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参加者は中学生から大人まで。5日間連続のワークショップ。9月23日(火/祝)までそのアーカイヴが公開されていますよ!




人が服をまとったすがた・かたちは、無数の選択の結果


参加者(というかぼくも含めて)ほとんどが服づくりの素人。ミシンの使い方ぐらいはちょっと経験がある程度。ぼくもワークショップをしながら、「服をつくる」という行為のその片鱗を、初めて経験した。進行役でありながら、恥ずかしくも服づくりの素人であるぼくは、進行役/参加者と2つの立場でここにいた。

これから書くことは、服づくりの経験がある方からしたら、そんな基本も知らないのかよ、というレベルだし、まがりなりにもファッションブランドに関わる人間としては恥ずかしい発言の数々に違いない。でも、驚いたことなのだから、嘘をつかずに書きます。



服づくり、というか物事をつくること全てに共通することなのだと思うけど、いま、この時代、ある場所にその風景があること、それはつくる人、買う/選ぶ人、着る/使う人、といった複数の役割の、無数の選択の結果なのだ、ということ。

服をつくる過程には、人がその服をまとったすがた・かたちをもたらすために無数の選択がある。つくる人による、形、生地、色、縫い方の選択。着る人による、着方、着ていく場所の選択。あるいは服とどのようにして出会うか。

その選択の道すじが、そのムードを微細に仕立てあげていく。選択とその結果起こる出来事と相関して、やわらかさ/かたさ、重さ/軽さ、明るさ/暗さ、おかしさ/真剣さなどを綯い交ぜにした現在の人々の風景をつくっている。






ミシンを使うまでの準備と、平面が立体になること


ワークショップの中で、最初に驚くのはその工程。ぼくには服づくりというと、布を切って縫う!ぐらいのイメージしかなかった。それが実際に作業をしてみると、その部分ごとに多様な工程があり、一つの部分にもいくつもの工程がある。パターンをとり、生地にチャコペンで書き写し、布の地の目を意識しながら布を切り、縫いしろを折り曲げながらまち針で止め/仮縫いし、ミシンで丁寧に縫い、ロックミシンで端を始末する・・・・・・といういくつもの工程がある。専門家いわく「縫製がうまいひとは、ミシンの使い方が上手なのももちろんだけど、縫うまでの準備がうまいんです。」と。

そしてなにより!布という平面を立体にするわけなので、平面で切ったかたちと、できあがるかたちは違うのだ!その違いを予め把握しながら形を考え、切らなくてはならない。ミシンを使うまでに、やらなきゃいけないことがたくさんあるのだ!FORM ON WORDSの中で服づくりの専門性をもつ竹内さんはこの「工程」のボキャブラリーが豊かだ。豊かすぎて「これもできるしああもできるし」となって判断できなくて「どれがいいですか?」と参加者に委ねまくる。(そこがいい結果をもたらす)




服づくりの技術を身につけるには本で学ぶより手本を見るより、何度も繰り返しつくるのがよいと感じた。はじめはわけがわからないまま、指示を得ながらつくっていくのだけど、経験を積んでくると、どんな素材を使ってどうやって型をとり、どうやって縫いあげたら仕上がりが綺麗になるか、を考えるようになる。無数の選択の結果が服の「かたち」をもたらしていくのだということに気づく。



気づかれないディティールがつくりだす全体のムード


その「かたち」は、もちろん生地の切り方や縫い方によっても変わってくるんだけど、ものすごく些細な部分へのこだわりが全体に影響する。抽象絵画の、たった一つ新しい色を加えるだけで全体のムードを変えてしまうのと同じように。





今回のワークショップでは、日常生活における様々な場面を想像し、その1場面のためだけの服をつくっていった。スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど。日常のワンシーンも、微細に考えてみると、様々なことが浮き彫りになる。そのとき自分はどうするか、どこにどんなものをつけるか、ほんとに些細な部分だけど、服のディティールが変わっていく。あーそうなのか、服のデザイナーはこうやってほとんど人には気づかれないようなところに気を配り、雰囲気をつくっていくんだなぁ…と。



切実で小さな決意たち


とかまぁそんなふうに服作りってすげぇなと素人まるだしの驚きをおぼえながらぼくはワークショップの進行をしていたのだけど、もっともグッと来たのは参加者ひとりひとりの「切実さ」だった。今回の参加者のなかにはまったくの素人(like me)から縫い物やファッションが好きな中学生、そして服作りのプロとしての技術をもっている方までいろんなひとがいた。FORM ON WORDSのサポートはあるけれど、全員、自分が普段それを着ている姿を想像しながら自分で服をつくるわけなので、一つ一つの選択に「このやり方でかわいくなるかな?」「間違えやしないだろうか」「変ではないか」という不安がある。


そんな切実な迷いと不安を前に、一人ひとりが自らの美的直観をもって、よし、やろう、と小さく決意していく様。やったことのない初めてのこと、できあがるまでうまく想像できない未知のかたちを目指して、一つ一つ乗り越えながらやっていく様。「自分がなにやってるのかわからんくなる」とか「このやり方はあってるんだけど、もっとおもしろやりかたがあったんじゃないか」とか「これ以上手を加えていびつになるのはいやだ」とか。でもそうやっていくうちに、個人のなかにあった未知のセンスが服を通して浮き彫りになって、自分のかたちになっていくのが少しずつ見えてくる。

「ファッション」のすごく嫌いな部分は、本当はその人らしいいろんな好みがあって、それを丁寧に愛していくことはいいことなのに、そういう個性を否定するかのように「こういうのがいい」「こういうのがモテです」「こういうのは非モテです」と提案し、人々のバラバラな美的感覚の方向性を強引に束ねてしまう欺瞞的な力をもっているところだ。そういう大きな方向性にノレない人は(ぼくもそうだったが)服を選んで着ることが億劫になっていく。あるいは服のブランドや値段といったものにだけ価値を見出し、それが似合うとか似合わないとかはどうでもよくなってくる感じ、そういう中高生を何人か見ている。



今回のワークショップは、そもそも何も手本がない状態から立ち上がっていく。既製服を買わず、自分でつくるということは、そういう「ファッション」の提案する美的な方向性に頼ることができない状態に自分を追い込む。信じられるのは自分が言語化できる範囲の自分の「好み」と、それがかたちになったときに「こうなったらいいな」というおぼろげなイメージでしかない。そのおぼろげなイメージに向かって、小さな不安を乗り越えながら、そしてFORM ON WORDSのささやかな提案と他の参加者のセンスに小さく後押しされながら、つくっていくみんなの姿が勇ましく見えた。

もちろん!ワークショップとしては反省点がありちらかしてるし、ぼくももう少し日常的に服づくりしようかなとか色々考えている。しかし、永遠に着たいけれど着られなくなってしまったものをもう一度新しくするための技術を学べ、その挑戦ができるきっかけを人は求めていて、このワークショップを通してつくっていける展望が見えた。





最後に謝辞を。

ワークショップの機材・備品の準備から飲み会、そしてみなさんご自身の服づくりまで(!)一週間みっちりお付き合いくださった丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の古野さん、平山さん、林さん、宇川さん、佐藤さん、みなさんの機敏なサポートのおかげで、得難い経験をすることができました。またMIMOCAに遊びに行ける日を楽しみにしています。

そして参加者のみなさん、今回の経験がこれからの生活に役立つことを願っています。またどこかでお会いできますように!

最後の最後に、このワークショップの試作にご協力くださった、央子さん、大菅さん、お二人のお陰で見えた課題が、このワークショップに活かされました。

みなさま、本当にありがとうございました。




2014/09/08

美術展、子ども、参加 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その2

森美術館で8月31日まで開催されていた「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」展に、ぼくが関わった「子どもキャプションプロジェクト」の成果物が展示されていた。

この展覧会については以前にこちらで書いている。→「子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1


想像していた「子どもがかいたキャプション(作品解説文)」というよりは、「こどもの感想つぶやき(まとめ)」というような印象だった。ワークショップ自体も、小学校の鑑賞プログラムと一緒にやったので、そういうアウトプットになってしかるべきだと思う。

今回のワークショップに関わって、その成果物を見て思うことは、ワークショップにおいて、子どもなど参加者は「共同制作者」なのか「サービスの対象者」なのか、ということ。

子ども向けのアートのワークショップにはいろんなタイプがある。ひとつは、アーティストの手法を体験・模倣・学習する機会。彫刻、絵画、音楽などさまざまであるがアーティストの特徴的な制作の手法を模倣させるもの。あるいは、簡単でだれでもできる敷居の低い工作。持ち帰れる飾りものや日用品を簡単につくることができる。美術館で「夏のこどもフェア」的なものがそうだ。(ここには結構多くの家族連れが集まるらしく、来場者数を稼げるという事情もあるらしい)そして、日常的に行われているのが展覧会の鑑賞ツアー。学校向けのプログラムで、学年単位で来館し、子どもたちに美術館のスタッフが作品の魅力を伝えるツアーを実施するようなかたち。

他にもいろんなモノがあると思うが、その多くは、アーティストの仕事/(主催者が考える)アートの価値を子どもに対してわかりやすく翻訳してあげるための手段/サービスだと思う。つまり、子どもは「お客さん」以上の立場には成り得ない。

唯一、アーティストと子どものガチンコ制作だけが、子どもを「主体的な」参加者であると捉え、新しい作品の共同制作者という立場で迎えている。それは作品制作のために、子どもが持つ楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ感、過剰さなどが合わさった質感が、作品のコンセプトをより強いものにし、目指すべきムードを演出するために必要なものである場合に限る。

今回の「子どもキャプションプロジェクト」は、作品ではなく展覧会という一つの物語/文脈/構成に、子どもたちがその楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ、過剰さなどをもって参加することができる、可能性のあるフレームだと思った。結果的に「子どもの感想つぶやき」のまとめのようなかたちになったが、ワークショップのしつらえ次第では、子どもたちが作品の資料から物語を構成し、自分たちの目で作品を解説するプロジェクトにもできたかもしれない(ものすごく時間とコストがかかることだけれど)。

子どもが大人に対して作品の意味を翻訳するということを起こしうるのが、ワークショップの本当のポテンシャルなんだと思うが、どうか。こうした子どもと展覧会が関わるプロジェクトの、今後に期待しつつ、自分にもできることをかんがえていきたい。


2014/06/04

子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1

森美術館で先週末からはじまった「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」。子どもを題材にしたアーティストの仕事から、子どもという存在の意味を問い直す素晴らしい展覧会。

ぼくはいま、この展覧会の関連企画「子どもキャプションプロジェクト」の企画の手伝いをさせてもらっていて、それがすごく楽しいけど超難しい。ただでさえ難しい作品のキャプションを書くという作業を、子どもに任せようというのだから、そのプロセスをワクワク楽しくつくるのはなかなか大変だ。

この展覧会では、子どもとはあらゆる文化・国・政治・あの世とこの世を、その状況下に翻弄されながらたくましく自由に行き来する「媒介者・間を行くもの(=go betweens)」ととらえられている。複雑な世界を生きていく子どものたくましさに希望をみる、そんな展覧会だ。キュレーターの荒木夏実さんをはじめ、スタッフのみなさんの熱量をがつーんと感じる。

だが一観客として見てみたときに、正直、ちょっと子どもの孤独、自由、想像力という部分にフォーカスをしすぎていて、作品の別の側面の魅力が見えにくくなっちゃってないかな、と感じるところもある。なんでもかんでも子どもはすごい!と肯定しているように見えなくもない。メッセージを可能な限りシンプルにした結果なのだと思うけれど。

子どもは神秘的だ!子どもはたくましい!子どもは孤独だけど自由だ!と声高に大人はうたいたくなるものだしぼくもそうだけど、それらは大人の願いとも言えるし、期待とも言えるし、勝手な幻想とも言える。その幻想が子どもをよい方向に導くこともあれば、抑圧したり、大人が用意した方向性に迎合させてしまって、彼らの意志を奪うことにもなってしまう。子どもに対して何かを願うことは、難しく、繊細な問題だ。

もうひとつ、ほぼ全ての作品に、子どもが被写体として登場する。だからこそ、その子どもが誰なのか、その意志がどうあるのかが気になる。アーティストの内なる子どもの姿なのか、その子自身の代替不可能な個人としての生きる意志を記録したものなのか、あるいは「子ども」という表象を扱っているのか。

子どもたちとスタッフが共作した「地獄」のオブジェの前で子どもがその紹介をする山本高之さんの《どんなじごくへいくのかな》や、女子中学生のエスカレートしまくった悪ふざけを記録した梅佳代さんの《女子中学生》は、そこに映る子どもとアーティストのグルーヴィーな共犯関係を感じる。

フィオナ・タンの《明日》、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《エイト》などは、子どもを被写体として割り切っていて作家の子どもへのエモーションを画面上からは排除している。そのある種の冷たさが、かえって子どもという表象が持つ力強さを描き出している。もちろん、制作の舞台裏では、子どもたちとアーティストの親密さがあるに違いないのだけど。

一方でぐっと近づいて撮った記録もある。在日韓国人の家族のポートレイトとそのインタビューを記録したキム・インスク《「SAIESO:はざまから」シリーズ》、アスペルガー症候群をもつとされる男の子が母親にしたインタビューにアニメーション映像をつけたSTORY CORPS《Q&A》などは、ヘッドフォンから流れてくるその声の震えから、複雑な状況を生きる代替不可能な個人の意志と、それに凛として寄り添うアーティストの関係を感じて、うっかり涙ぐんでしまう。

とにかく26組のアーティストの作品からは、子どもたちが複雑な状況を生きることへの深い情愛と、その状況をたくましくかろやかに、想像力豊かに生き抜いていくことができるだろうという強い希望を感じる展覧会だった。子どもも楽しく遊べるような参加体験型の作品をあつめた「こども向け」の展覧会とは異なる。大人と子どもも、自分の中の子どもと大人が揺れ動く。

と、まぁこんなふうに書いたぼくの感想は、どうしたって26歳男子の視点でしかないし、現在の展覧会のキャプションは大人向けに、大人が用意したものである。そこにクサビを打つような、まったく別の物語を開くような言葉を、子どもたちにつくってもらえるのか、どうなのか。それはこの後のキャプションづくりのワークショップにかかっているし、どうにか面白くしたい。

2013/12/26

大きな文脈、規制、OSの設計

12月23日(月・祝) 

アサヒ・アートスクエアで開催されていた山城大督さんの個展「VIDERE DECK」に行く。「時間」を主題にしていたこの展示、オートマチックでループされる12~13分の時間のなかで、子どもが世界を認識する過程、他者に伝えること、刻まれる時間などが描かれる。エモーショナルな、小さな世界とその肯定感はとてもここちよい。敷かれたカーペット、そしてどこから入ってもいい時間のループ。時間とは、直線的につづいてくものではなく、ひとつの円環であり、放射線状にのびる形象なのだなぁ〜とぼーっと感じ入る。

ただ、正直ぼくはこの展示には既視感をおぼえてしまった。どこかで観た/聞いたような感覚というか。見終わって思ったのは、なんかもっとやばくて狂気を感じるものを期待していた。

あと、なぜ今この時代、この場所で、このアーティストの映像や時間、小さな生活についての展示をやる意味があるのか。その言葉がものたりなく感じた。アサヒ・アートスクエアのディレクターの坂田さん、あるいは運営委員会のみなさんの大きく出たステートメントを読みたかった。(というか、それがなかったので、なんだか業界内の報告会のようで居心地が悪かった。)

今、この時代に、この実践は何を問うているのか…。その大きなコンセプト/思想/文脈を語る勇気が、アーティストを扱う場には必要なんだと改めて感じた。


12月24日(火)

この日は児童館へ。前澤Pと、萌ちゃんと、縣さんと4人で児童館の工作室にいくと、イベント開催のためにいつもの居場所を追われたゲームホリック男子たちがうようよと集まっていた。

「はろー」といつもぼくとカードゲームの対戦をして遊ぶ子に声をかけると、「おう、うっすん」と元気がない。聞けば、明日からカードゲームの持ち込み・使用が禁止されるそうだ。理由は盗難があったから。翌日に緊急子ども会議が開催され、そこでゲーム禁止について審議するという。

「これでまたひとつ規制が増えた…」と嘆く子どもの姿に、ぼくはとても悲しくなってしまった。

「新しい大人が来るたびに「◯◯禁止」規制が増えるし、「あいさつをしなさい」みたいな標語も増える。そういうのがほんとにウザい。空気ワルくなるし。だから最近みんな児童館つまんないって言ってるし、実際人も減ってるよ」

と言うのは小5女子。「うっすんだって、ボール握るの禁止にするじゃん」と言われてはっとした。あれはドッジボールを楽しくするために、それはやめて、と言ったのだが、その真意(ボール握らないほうがドッジボールが楽しくなる)というのはあんま伝わってなかったんだなぁ…。

で、4人でその女子グループの話を聞いていると、児童館への不平や不満がこんこんと湧いて出てくる。まぁ実際どっちもどっちというところもあるんだけど、この状況は全然いいとは言えない。職員さんと子どもたちの和解というか、相互に許し合って、いい児童館を一緒につくろうと約束しないと、この状況は変わらない。



12月25日(水)

この日はアージの理事会+企画コーディネーター会議+忘年会。

理事会では、来年度から着手する人材育成事業の内容についてと、自由な活動と小さなリスクを許容する「寛容性の空間」をつくるためのルールや合意の場の形成をしなければならないということを話した。そのためにプログラムを組んでいく。

子どもたちが自由に活動をするための、子どもと親、地域住民、児童館職員などそれぞれが合意していく場。そのうえで、子どもたちが自由に素材を使って創作を楽しめる環境をつくる。これはいわば、合意の場があり、ルールを生成し、素材の開放・企画立案を可能にする"OS"。そこに様々な表現の技法をもちこむ"アプリケーション"の導入。あるいは、立法・行政・司法のミニマルで創造的な形であるともいえる。

企画コーディネーター会議では、おのおのの現場で感じていた「毒」をばーっと吐き出した。児童館(あるいはその背後にある社会)が子どもにかけてしまっている規制のこと。「居場所」とその「排他性」のことなど。

来年の企画もまた、一筋縄ではいかないだろうと思う。








2011/03/07

《ことばのかたち工房》展 3/25~

3月25日から、東大泉児童館にて、ことばのかたち工房展が開催されます。26日17:00~オープニングパーティーです!
なお、児童館という会場の特性上、ご来場は予約制になります。
下記内容をご記入の上、メールにてご連絡ください。

==
宛先:info@jidokan.net
件名:ことばのかたち工房展 予約
内容:
1.お名前:
2.電話番号:
3.  ご来場時間:
==
皆様のご来場、心よりお待ちしております。

2011/02/21

Let's Research For Tomorrow 成果報告+新規事業プラン説明会!

2月も後半になり、寒い日と暖かい日が交互にやってきております。
時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

さて、私たちアーティスト・イン・児童館実行委員会は、来る2月26日土曜日(17:30-18:30)に、2010年度に練馬区立中村児童館に招待しているアーティストユニット「Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)」より、今年度の成果報告と来年度の新規プロジェクトプラン説明をするイベントを実施させていただく運びとなりました。

下記にチラシを添付いたしましたので、ご確認のうえお気軽にご来場ください。

みなさまのご参加、心よりお待ちしております。

アーティスト・イン・児童館プログラムディレクター
臼井隆志


2011/01/10

2011/01/09 「音遊びの会」&「ダブル・オーケストラ」

1月9日 水戸芸術館「アンサンブルズ ―共振」関連企画
「音遊びの会」&「ダブル・オーケストラ」

揺らいでいるもの、ぼくたちが戸惑ってしまうものを、「枠」に収めてみると、「枠」自体が揺らいでしまう。


ぼくが蓄積してきたステージの経験を、ステージの上から揺さぶられるとは思って無かった。「枠」の使い方を学ぶ機会になった。

ていうかね、障害者が音楽やってるから素敵ね、とかそんな話じゃないんですよ。演奏として面白くなるように、「表現」のレベルで彼らは実践している。「芸術と福祉」みたいな言い訳はここにはない。それがかっこいいんですよ。「この子達こんなにがんばってるんだから、聞いてあげてくださいね」と押し付けるのではなく、「ここでこんなコト起こってるけど、どうですか?どう思いますか?」と強烈に問いかけてくる。問いかけ。表現の重要なスタンス。

今回は、現場スタッフでこの企画に関わっていました。ステージ上とその裏で彼らに会うことができたのは、本当に幸せでした。ぼくのわがままを聞きいれて現場スタッフをさせてくださった竹久さん、ありがとうございました。

2010/12/10

12/09 芸大博士展

 芸 大 博 士 展 

この日は西尾さんの博士展の設営を手伝いに、上野の芸大美術館へ。謝礼金も出る、アルバイトだった。

『Self Select in Nairobi』の写真をひたすらピンで打ちつけていく。その数、40枚。

展示の設営は、結構苦労する。ある見せ方はパッとイメージできても、それを実現するための壁、道具、工具、出力形式、機材までは想像できない。これをササッと頭の中でリストアップできるといいなと。

この日西尾さんは、松戸から手持ちで運んできた脚立を使っていた。電車の中でいろんな人に見られたことについて、西尾さんはこう言う。

「モノを運ぶっておもろいよね、アフリカだとみんな自転車に大量にモノを積んだり、背負ったりするのが普通やのに、日本やとこんな小さい脚立運んでるだけで「何を運んでんねん!」という顔してくるやん」

あぁ、たしかに大きな荷物というのは日本では歓迎されない。コンパクト化されたものを持ち歩いたり、他の人(運送会社とか)に頼んだりする、誰かのサービスが内在化されている。「運ぶこと」「移動すること」の意味がアフリカとはやはり違うのだ。このことについて考えてみると、もうちょっと先が見えてくるかも知れない。

西尾さんの論文も読める、この展覧会は2010年12月12日(日)〜12月24日(金)まで。
博論の発表は12月14日午前10時から11時。日比野克彦さん(東京芸術大学教授)と苅宿俊文さん(青山学院大学教授)が聞き手になるそうです。注目。


東京藝術大学 大学院美術研究科博士審査展
会期:2010年12月12日(日)-24日(金)
月曜日休館
午前10時~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
会場:東京藝術大学大学美術館
東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程の最終審査を一般公開いたします。 本展覧会は、博士学位の修得を目指す学生達にとって最終関門であると共に、 大学院在学中の集大成としての作品、研究を発表し、今後、作家・研究者として活動していく上で、 出発点となる展覧会でもあります。
観覧料:無料
主催:東京藝術大学
問い合わせ:美術学部教務係
〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8
TEL:050-5525-2122ハローダイヤル:03-5777-8600



2010/12/06

12/05 カメラに依って

今日は東京都写真美術館に「ラヴズ・ボディ ー生と性を巡る表現」展を見て、「松戸アートラインプロジェクト」へ。帰ってきてからはみそ鍋を食べて、卒論を進めている。

 ラ ヴ ズ ・ ボ デ ィ 

「ラヴズ・ボディ」展は、タイトルの語感がいいので、前から気になっていた。友人からの評判はそんなによくなかったけど、最終日に行けてよかった。素晴らしかった。身体をヌードやエロスの表現だけでなく、あらゆる政治的、法的、権威的な「視線」にさらされるモノとして捉え直す試みだった。それらの「視線」や関係性の集積を表現するのに写真というメディアの有用性を訴えている展示でもあった。あらゆるものに規制され、規定され、それでも愛し合っちゃう人間って何なんだろうね、とそんな事でも呟きたくなるような、そんな作品たち。


 松 戸 ア ー ト ラ イ ン プ ロ ジ ェ ク ト 

その後、珈琲を飲んでから松戸へ向かう。西尾さんや石幡さんが参加している「松戸アートラインプロジェクト」の会期中なのでした。細かい内容については割愛するが、こういうアートプロジェクトに行っていつも悲しい気持ちになるのはなぜなのだろう。みんな頑張っているのはわかるのだけど、何かが悲しい。

「地域系アートプロジェクト」とか言うよく分からないことばが使われているけど、それを言ってしまった瞬間に、美術の「毒」がすっかり抜けてしまう。美術って何?表現って何?という辛辣な問いかけはすでになく、美術いいでしょ、なんかこういう感じ。いいでしょ…となってしているように見える。行く宛のない創作物たちを見ると、悲しくなるのだ。単純に、足を運んだのに、ガツーンと頭を揺るがされるような、面白いものに出会えない悲しみでもある。(この「創作物の行く宛」については、今考えていることがあるので、また明日にでも。)

なんだか少し前まで、「アマチュアリズムで行けるぜ!」とか考えていたけど、もはや無理。情報デザインからドキュメントまで、プロの参与が必要だって。アマチュアでも誰でもアートはできます、なんて幻想。フィクション。ファンタジー。



しかし、しかし、このプロジェクトにアーティストとして参加している村上慧くんの作品は理屈ぬきに面白い。彼の「家」とそれを作った理由。力抜け過ぎてていい感じ。高校の後輩なのだけど、今後が楽しみ。


 み そ 鍋 

まぁそんな取り留めもないモヤモヤと一縷の期待を持って帰ってきて、でもどうしてもモヤモヤが晴れなくて池袋をうろうろしているときに、無印の大きな土鍋を見つけてしまった。以前から美味しい鍋を食べたくて土鍋を探していたので、思い切って買うことにした。3300円。マッカリに帰ってみそ鍋を仕込み、食べているうちにテンションは徐々に回復。


 カ メ ラ に 依 っ て 

ご飯を食べてから、明日の卒論に向けて作業。evernoteで作った昨日のフィールドノートを見ていて、ふと思ったことがある。



ぼくは児童館に居て、中高生達と関わっているけれど、そんなに「児童館マジで大好きです!!」というわけでもない。この間の音楽祭の時も、高校生のバンドや小学生のダンス教室の発表を見ていて、恥ずかしい気持ちになったり、いたたまれない気持ちになったりするほうが大きくて、現場に乗れずにいる。むしろ引いてる。「うわー」って感じで。何もしないでただその場所に居るとき、ぼくはそんな感じなのだ。

でも昨日、コンパクトカメラを手にビデオを撮っていて、その映像を家で見ながら気付いた。映像に写っている彼らは懸命で、でも滑稽で、ぼくはそれを愛おしいと思っている。「カメラで撮影をする」というアイデンティティを持って、カメラに依って彼らとの距離を測り、安定できる場所を模索するのだろうなぁ。カメラに依ってぼくは彼らと関わることができるわけだ。

さて、明日はそのあたりも告知含めて話そうかな。

2010/11/30

11/28 水戸芸術館「アンサンブルズ・フェス」

オープンミーティングの翌朝、もぞもぞと起きて東京駅からバスに乗り込み水戸へ移動。

大友良英「アンサンブルズ2010 共振」のオープニングイベント「アンサンブルズ・フェス」へ。展覧会場のいろんな箇所で、即興演奏やセッションが始まる、フェス。山本精一、山本達久、テニスコーツ、梅田哲也、七尾旅人、カヒミ・カリィ、そして大友良英。

美術館の中でパフォーマーが台車に乗ったり歩いたり、移動しながら即興や予定していた曲を演奏する。演奏する人の奇妙な身体性を浮き彫りにする異質な風景がところどころに立ち上がっていきます。しかし、徐々に観客が地べたに座り「客席」をつくりはじめたところから、異質さが薄れていきました。ぼくたちは音楽の消費の仕方を知っています。体を揺らしたり、手拍子をしたり。それをし始めた瞬間に、美術館であるにも関わらず音楽を消費する空間になってしまったように思いました。美術をもって、僕達が知っている音楽の消費方法を解体しようとしたのかなぁ。もう少しラディカルな解体が観たかった。

展覧会はまだ見ていない、と言っておきます。繊細な音たちの集合はきっと素晴らしい体験になるはず。もう一度行こうと思っています。

大友良英「アンサンブルズ2010-共振」 
欧文表記:
Otomo Yoshihide "ENSEMBLES 2010: Resonance"
会期:2010年11月30日 (火)~2011年1月16日 (日)
開館時間: 9:30~18:00 *入場は17:30まで
会場:水戸芸術館現代美術ギャラリー
休館日:月曜日・年末年始12月27日 (月)~2011年1月3日 (月)
*ただし1月10日(月・祝)は開館、翌11日(火)休館
入場料:一般800円、前売・団体(20名以上)600円
中学生以下、65歳以上・障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料

2010/11/23

11/20 泉太郎「こねる」展

神奈川県民ホールギャラリーでの泉太郎個展「こねる」。
この日は快快のパフォーマンスも公開制作もあって贅沢な日。でも美術館で参加型パフォーマンスしようとすると無理がある気がする。そもそも演劇や音楽とは、観客が作品に臨む態度が違う。



散らかってて、汚くて、笑えて、おすすめです。ぼくたちが世界をどうやって体験し、把握しているのか、その鏡みたいな作品群。

11月27日まで。http://www.taroizumi-koneru.com/

2010/10/18

10/16 西尾美也「OverAll : Shibuya River」/石上純也展

10/16

西尾美也「OverAll:Shibuya River」


西尾さんの「OverAll」シリーズの最新作「Shibuya River」のパフォーマンスに参加した。今回の挑戦は、田中千代ファッションカレッジの先生方と協働、パタゴニアや渋谷区民の方々も巻き込み、かつて流れていた「渋谷川」を想起させる。聞けば、パフォーマンスの交渉はほとんどファッションカレッジの先生が担当したとか。厳格な規制を区民の想いが揺るがし、「渋谷川」の亡骸として古着の川が流れていった。たった15分の、歩行距離もごく僅かな、奇跡のようなパフォーマンスだった。


道行く人は興味を持ち、一緒に「川」を持つ人もちらほら。しかし、何もないかのように目もくれずに通り過ぎていくカップルもいる。なんだろう?とか、面白い!とか、そういう感情さえない。コミュニケーションの拒絶がそこにはあった。


資生堂ギャラリー 石上純也展「建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きく広がっていくのだろうか?」

渋谷から新橋に移動。資生堂ギャラリーへ。空想も虚構も現実のプランも入り交じった石神さんのアイデアが「プロジェクト」として整然と展示されている。ファンタジックな素敵なアイデアたち。アイデアの説明と模型というシンプルな提示なのだけど、それが並んでいると建築の多様な可能性を考えざるを得ず、空間への常識的な認識を改めざるを得ない。

でも同時に、こんな批判もある。確かに「無反省な「いいこと」を強いるムード」はあった。だが、これらのプロジェクトはほとんどが空想で、建築にこだわった空想を手がかりに現実を考えてみる思考方法はぼくは嫌いではない。

建築家の仕事の仕方をリスペクトしているし、積極的に真似していきたいと思っている。

2010/10/12

10/10 六甲ミーツ・アート(後編)



そんな中で、「OFF COURSE HILLS」は異彩を放っていた。レジャー施設の中で、TDLやUSJのアトラクションのような見立てで、観客は何か面白いものがあるのかな、と迷いこんでいく。


その元レストランの中に「かつてある夫婦が経営していたレストランに、戦国時代から5人がタイムスリップしてきて・・・」というフィクションのストーリーが埋め込まれている。チャプタごとに物語が展開していくのか、と期待しながら歩いて行くと、どうでもいいしょうもうない話に期待を裏切られる。









チャプタごとの情景描写も、イスを積み上げて「山」や「馬」をつくっていたり(でもそれが川俣正やマルセル・デュシャンへのオマージュだったり)、ペープサートのアニメだったり、このあたりの"即席感"は彼らの特徴。ナデガタの作品を見ているといつも「くったくただな!」という感想を抱く。形がクタクタになっていて、原型は想像しないとわからないようになっているのだ。そのクタクタをどこまで見せて、どこまでカッチリ型にするか、そのバランスが彼らの作品の決め手のように思える。


今回、この作品は実は3重の層になっている。
①:「夫婦と戦国時代のサムライたちのドタバタ話」
②:「その伝説を追いかけたヒロシ(8歳)の話」
③:「ヒロシを追体験する観客の話」
・・・この入れ子構造が作品としての批評の対象になりそう。


でも実はこの構造はどのメディアにも埋め込まれている。例えば自伝やドキュメンタリのように「事実」を描写したものでさえ持っている構造だ。ある「事実」(①)を、描写・演出する誰か(②)がいて、それを読む私たち(③)が居る。だれもある事実をありのままに体験することはできず、②の色眼鏡を掛けて見なければそれは成立しない。


描写、演出され、追体験できるものはすべて、「事実」として捏造できちゃうのかもしれない。裏をかえせば、演出されたものの中に「事実」はどこにも存在しないのかも知れない。


とまぁ考えてみたけれど、ぼくが建物の中に居合わせたお客さんは、他の作品同様「ふぅん」という感じ。「学園祭みたいだな」「なんだかよくわかんない」「なんでこんなことしてんだろう?」「しょーもねー・・・」とつぶやきながら建物の中を歩くお客さん達。


美術作品に対して、こう斜に構える人たちばかりだけど、オーディエンスとのコミュニケーションは難しいなと。本筋となる物語(①)の構成がもっとしっかりしていて、限りなくホントっぽい話になっていれば、作品の批評性を彼らも受け取ることができたんじゃないかな。この作品の仕組みが分かってこそ楽しめるはずだし、アトラクションだと思って迷いこんでしまった人が、その仕組に気づいて「はっ」とする瞬間をもっと見たかった。

 


リテラシーのある人だけが「はっ」となる作品にあんまり面白さは感じ無い。誰もが「ガーン」と喰らうような作品がぼくは好きだ。