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2015/03/16

形、中身、神

「形だけ真似してて、中身がないね」

みたいな、枠と中身の話はよく聞くけれど、中身というか、もっと言えば筋とか骨だと思う。

例えば皮膚だけあってもラブドールみたいにしかならないわけで、骨とか筋とかそれを働かせようとする思考の自由とかがあって初めて身体が動くように、たとえ形を真似たとしても、筋や思考を通せるか、というのがキモなわけだ。ようは真似たものを自分のものにできるかって話。

最近、同僚にヨガマスターがいるので、ヨガを教わっている。太陽礼拝っていう基本の流れがあって、幾つかのポーズの組み合わせを教わった。

※絵は内容と関係なく、彼女の姪っ子4歳の絵で、これこそ形と詳細の面白さの絵だなと思って載せました


わりと毎朝ヨガの、その太陽礼拝を実践してるのだけど、例えばダウンドッグとか、コブラのポーズとか、やってはいるけどなんだか腑抜けた感じになるので、同僚に見てもらった。「掌の4点を地面にしっかり押し付けて」とか「無理に顎をあげるんじゃなくて、胸を開いた結果、顎があがるくらいがちょうどいい」とか、ディテールの指摘をもらっただけで、俄然効果が上がったのだ。

ヨガのポーズは作用反作用の法則でできていて、ポーズがカチッとキマると、使う筋肉とその反対も作用し始める。しまりのなかった筋肉にスッと筋が通るのを感じ、身体が熱くなり、それでいて無理のないリラックスを感じるのだ。

こういうのって、ヨガだけじゃなく何にでも言えることで、例えば服のデザインも、襟の仕上げ方ひとつで、全体の雰囲気が崩れたり締まったりする。ワークショップも、ある一言で参加者の振る舞いが変わる。それによって面白くもなるし、活動に火がついたり鎮火したりもする。

全体の中の極小の一点。散りばめられた点たちそれぞれに全体が集約される。

形を真似るというときの「形」のなかにはこのような無数の極小の「細部」があるわけで、形の中の細部が全てスススッとつながり、統一されつつ自由であるような状態を目指すと。禅のような話である。

「神は細部に宿る」とミース・ファン・デル・ローエは言った。細かいところにこだわろう、ということだけでなくて、細かいところ同士のリンク、筋の通る瞬間にこそ神は宿るのかもしれない。

そして、学ぶということは、この「筋の通る瞬間の感覚」を培い、あらゆる場面で味わうことなのだろう。


2015/02/22

自分の物語を誰がどうやって編集するの? ー飲み会に行く楽しみとして

飲み会に意味なんてあるのかな?と、ふいに思ったりすることもあるし、昔はよく無駄な飲み会なんて行きたくないね、とクール気どりの嫌なことを言っていた。



最近飲み会をわざわざ企画してご飯を食べに行くことが増えたような気がするんだけど、それは何か飲み会に楽しみを見出したからなのかもしれない。

飲み会のなにが面白いって、友達の人生の話を聞けることだし、自分の話と影響しあってぽこぽこと湧いてくる友人や同僚たちのものごとのやり方や好き嫌いやどうしようもなくやってしまうことの集積みたいなのが見えてくることだ。小説を読むよりもグルーブがあって、演劇を見るよりも参加できて、映画を観るよりも自由だ。



飲み会の場の、仕事につながるわけでも、何かの問題解決になるわけでもない言葉のやりとりは、人生の中で起こる出来事の見方というか見立て方を変えるかもしれないし、語りながら見つかる自分の考えとか感覚とかがあるかもしれない。

いい飲み会での会話はふとした時に自分の人生の物語を編集してくれるかもしれない。

悪い飲み会というものは、あたりさわりのない会話だけがかわされたり、ひとりの人の聞きたくもない演説で終わってしまったり、発見も驚きもないし、ツッコミも入れづらいようなのは超スーパー退屈なのですぐ帰ろうと思う。



複数人でビールを飲んで牡蠣やあん肝をたべて刺身を食べてレモンハイを飲みながら、お互いの癖や考えやくだ巻きやオススメや悩みや自慢が言葉になって混ぜ合わさっていくと、占いやカウンセリングみたいに形式にはならないけれど、話しているうちに自分の物語の輪郭や筋が見えてきたりして、あーなるほどそうかもしれない、と妙な納得をして帰れたら、それはいい飲み会だったんだと思う。

自分のことじゃなかったとしても、ああこの人はこんな風に変わっていくかもなぁ〜とかその後を想像できる感じのも、好きな感じだ。

そんなわけで年度末のファッキン忙しいのが終わったら、またいろんな人と飲みにいきたい。みなさんぜひお誘いください。そして誘わせてください。

2015/02/03

自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて

「男の子を意のままに操るビッチから弟を救わなきゃ!」舞城王太郎の新たなる代表作。


すべてを分かち合う仲が良すぎ? な香緒里と友徳の姉弟。夫の浮気と家出のせいで、沈み込みがちな母・由起子。その張本人である父・和志は愛人・佐々木花とのんびり暮らしている。葛藤や矛盾を抱えながらもバランスを保っていた彼らの世界を、友徳のガールフレンド・三輪あかりが揺さぶりはじめて――。あなた自身の「物語」っていったい何? 優しくて逞しい、ネオ青春×家族小説。

http://www.shinchosha.co.jp/book/118637/

舞城王太郎の『ビッチマグネット』を読んで思ったことは、いろんなことが起こる自分の物語を誰がどうやって編集するの?ということだった。カウンセラーの診断テストの4つの選択肢に全部⑤をつけて自分で返すシーンは白眉だった。

この世界には物語の類型がたくさんあって、ただ自分はそのどれに当てはまるんだろう、っていう不安があるとする。その不安をかき消すために、人は他人に自分を編集してもらい物語化してもらうことを求めるのだとする。

そういう意味での編集業はこの世にあまねくある。占星術師は星と星座の関係で、医者は身体と症状の、スタイリストは服と身体の関係で、「こうなってるとこう」っていう型をちょっとずつつなげてその人が安心する物語に編集するサービスなのかもしんない。そしてそれぞれには占星術、医学、流行という形が違うオーソリティーがある。権威とその翻訳者によって自分がある類型に編集される快楽みたいなのが昔からあってそれは宗教もそういうたぐいのものかもしれない。

あるいは自分を愛してくれる人もまた編集者だとする。でも、私の物語を編集するのは、身近な他者か、あるいは縁遠い権力か、という話かといえばそうでもなくて、予想外のことを引き受けながら自分の物語をたえず構築しながら生きていかなきゃいけなくて、そんな強い意志なんてどこから芽生えるのかといえば、何かに支えられるしかなくて、その何かというのがオーソリティーなのかパートナーなのか、という話にまたぐるりと戻ってくる。
類型化されてパッケージになった仮初めの安心/物語を買うことに対して、いやだいやだいやだーと抵抗することもできて、じゃあでもそういう人はバラバラになって物語化できない自分を生きていく分裂症疾患みたいに扱われるしかないのか?そんなの辛くて耐えられない。私は私の物語を生きるんだ!と言っても、それは偶然と意志の相互作用によってできるもの(『ディスコ探偵水曜日』)だから、コントロールなんてできない。コントロールできると思ってるとしたら、それはどうにもこうにも他者を傷つけ、潰しているだろうし、ある種のオーソリティーになるしかない。組織のお偉なのか、DV親父なのか、その形も規模も様々だろうけど。


「時間というのは田畑のように四角く区切られたものではなく、本来は草むらのように前後左右の感覚のないものなのだ」

というのは過去に誰かが言ったことばで、ベンヤミンだったかクロフォードだったか二人とも言っていたかもしれないけど正確な引用じゃない。ただ面白いのは、時間に方向やカタチを与えるのは決まっていたことじゃなくて人間の意志なのだということだ。時間割というのは決まっているものじゃなくて誰かが決めたものだし、いろんな都合でそうなったりしているのだ。

現代美術のキュレーティングはいつだって芸術の歴史と社会の歴史のなかにぼうぼうと広がるいろんな作品や事柄の読み替え/作り替えだし、この流れがあってこう!っていう提案でもある。そう考えると、自分の物語を編集するときの拠り所は実は他者や権力だけでなく歴史の中にあって、あるいは自分でもできるんじゃないの〜と思う。でもそれでもまた、他者と歴史と権力とその3つのものに取り囲まれながら、愛されたり従わせられたり、自分で選んで孤独になったり誰かと一緒にいる中で勝手に見えてきた感じになったり、そういうのがいろいろあって物語のつぎの展開がぼんやりと見えてくるんだろうなと思う。

人は自分の人生の占い師でありスタイリストであり医者なのかも知れないから、占いやスタイリングはしてもらうんじゃなくてその手法を学ぶほうがよくて、それでもどうやったって自分の人生のことはわからなくて不安になるから、人や歴史や時にはパワーを借りて物語の大筋を一緒に考えてもらうのがいいんじゃないかなとか思ったり思わなかったり。

2015/01/12

新しい仕事、COCOIKU、新しい一手

前回ブログを書いてからまる3日風邪をひいてダウンしていました。関節痛いし40度近い熱出るしでインフルエンザだったんじゃないかと思いながら(実際は違ったのですが)打ち合わせやら飲み会やらの約束を断ってしまい、すみませんでした…。みなさんも体調にはくれぐれもお気をつけください!

さて前回のブログで某企業に就職〜みたいなことを書きましたが、もう公にしてもよいとのことなのでそのことを書きます。

2月から、ぼくは伊勢丹新宿本店の新規事業「COCOIKU」の専任スタッフとして働きます。「COCOIKU」は伊勢丹が手がける教育コンテンツの事業です。百貨店もモノではなくコトを売る時代ということで。ディレクターには、元YCAMのエデュケーターで現・東京大学の特任助教、アーティスト・イン・児童館の理事もお願いしている会田大也さん。YCAMのエデュケーションのエッセンスが、伊勢丹に合わせた新しいかたちに発展することになると思います。

COCOIKUでは、0~12歳の子どもたちに、アーティストやクリエイターなど様々な専門性を持つ大人たちが講師となってワークショップを実施します。1学期(約3ヶ月)に20~30人の講師陣の招聘。それが年間4学期。楽しそうですよね。もちろんそれは軸の一つであって、他にも「創造性を育む」ことをコンセプトにいろんな活動を展開していきます。

スタッフの仕事としては、ワークショップの企画開発、講師によるワークショップの運営、スケジュール管理、親御さんへの対応など。ワークショップの企画を立てて、進行表を書きまくりさばきまくり、なんというか超修行できそう、というのがぼくの希望です。相当エキサイティングな現場になることでしょう。

児童館からまさかの百貨店勤務というのは自分でも予想外な変化ですが、企業が、しかも伊勢丹が、CSRではなく収益を上げるための新しい一手としてワークショップを選んだということに驚いたし、その展望に賛同して、この仕事をさせていただくことに決めました。

そして、現在一緒に働いてくれるスタッフを絶賛募集中です。ワークショップの経験を高めたい、いろんなクリエイターと関わりたい、など、われこそは〜!と思う方、ぜひご応募ください。http://nettam.jp/career/detail.php?no=10061

今月21日から伊勢丹本店6階センターパークにて、プレ企画も始まりますし、ぼくもいます。ぜひ遊びにきてくださいね。





2015/01/05

2015年によせて

あけましておめでとうございます。

元旦は伯父さんと伯母さんに会いにいって、ロンドンでウェディングプランナーの仕事をしてた伯母さんから結婚式のドラマツルギーについていろいろ教えてもらって、夜は結婚した男女のサスペンスである『ゴーンガール』を観に行きました。酸いも甘いもある結婚のことを、はからずも考えた元旦でした。

2日は箱根駅伝で青学の神野くんの爆走を見て感激し、夜はちょっとかわったメンバーで新年会。ひょんなことから、なんで男は浮気するのか、浮気はいいのか悪いのか、なんなんだよちきしょーみたいなことを朝まで話していました。

3日は友人の彼氏を紹介してもらうべく上野のスペインバルでスペアリブを食べまくり、今日4日はクリスマス前からかかっていたウィルス性胃腸炎から復帰した彼女と久しぶりのデートで、誕生日のお祝いにシャツを買ってもらいました。

さて、2015年を迎えて、新年の展望を。


今年、ぼくの環境は大きく変わります。2月から、某企業が手がける子ども向けのクリエイティブ教育事業に従事することになりました。これまでのフリーな生活とは異なり、週5日間、新宿に通うことになります。そうです、就職です。

これまでの児童館やFORM ON WORDSの活動は、余暇の時間をうまく使って続けていきたいと思っています。そんな生活に、この2月から変わります。

2014年は、4月に東京文化発信プロジェクト室による補助金の受給が終わり、活動も生活も大きな変化をすることになりました。ぶっちゃけ、与えられた5年間の中でNPOを経営しきれなかったのです。自分がリーダーになって人に仕事をしてもらい、そのためのお金を回し、場をつくっていくことに、完全に失敗していたのです。

2013年になったあたりから、次第につぎの展望が見えなくなり、身動きも思考も鈍くなり、現場からも一緒に働いてくれた仲間からも行政の皆さんからも、その他大勢の方々からも、信頼を失っていきました。その結果がすべて現れたのが2014年の3月でした。はっきりと、挫折したんだなと実感しました。

補助金依存だった自分の考えを反省しましたし、下駄を履いて調子にのっていたり、大変なことを他人のせいにしてうやむやにしようとしていた自分の態度を反省しました。なぜ自分はこんなにもダメだたったのかと自責し続けるのは、正直かなりきつかったです。「うっすん、鬱大丈夫?」と聞かれたときは、びっくりしましたが、確かに顔がはれぼったく、どんよりした空気を出していたんじゃないかなと思います。

自分自身で仕事をことができない、その力不足を痛感しました。どうにかして「仕事をつくる/お金を回す」という感覚を学ばなければ、どうにもならないと感じていました。しかし、児童館の大きな仕事をやり残したままで、どこかで働くことはどうにもできませんでした。なんとか這いつくばってフリーでやってみるかと。その中で働き方を考えようかと。

そんななかで去年してきた仕事をざっくりとふりかえります。

『アーティスト・イン・児童館』は、2つの助成金をもらいながら、完全に無償で続けています。

ひとつ大きな仕事としては、10月に石神井児童館の工作室を建築家の遠藤幹子さん、BUGHAUSの棟梁こと北條元康さんと職員さんとともに、大胆にリノベーションしたことです。子どもたちの作ることや描くことへの抵抗をなくし、シェアしようというマインド、丁寧にあつかわなくちゃという雰囲気を醸成することに貢献しました。

中村児童館では、中高生向けの食のワークショップをフードデザイナーの中山晴奈さんとともに実践中です。

一方、FORM ON WORDSは4つの展覧会に参加し、いくつものワークショップ、2つの大きなファッションショーを成し遂げました。ぼくとしては、作家という立場でモノゴトのアウトプットに関わる初めての経験になりました。演出や音楽や映像で関わってくれたみなさんとの意気投合っぷりは本当に楽しくて、こんな楽しい現場なんてなかなかないよなぁと感慨深く。

とくに『拡張するファッション』展に参加できたことは、キュレーティングの何たるかを身を持って実践するキュレーターの方々と仕事をさせてもらう(しかも作家の立場で!)あまりにも貴重な経験でした。キュレーティングとは、貫くべき信念なんだなと…。

他にも2月頃から「ミライエ」という保育所での絵画教室の企画に関わり、19世紀後半から20世紀前半のアーティストたちの方法論を翻訳するワークショップを企画・実施してきました。3〜7歳というこれまであまり体験したことのない子どもたちに向けた企画でしたが、次第に自分のなかに方法論を確立していきます。

6月には森美術館の『ゴービトゥイーンズ』展で、NPO法人A-I-Tさんと一緒に、子どもたちによるキャプション制作のワークショップの企画に携わりました。

そして去年の大半(週3〜4日)を、児童館の運営委託会社で、児童館や学童保育での企画業務や保育業務のアルバイトをしていました。民間委託の大変さと利点、そして児童館運営におけるルールや安全性のマネジメントを学びました。

なによりの実感として大きいのは、「ワークショップデザイン」という仕事の感覚をつかむことができたことでした。実務として、企画の目的/場の流れを丁寧に読み解き、タイムテーブルを組んで、ファシリテーター役を演じあげ、参加者に成果を言語化してもらうこと。はっきりと自分がデザインを仕事にしている、という感覚が芽生えてきました。

これまでは達成すべきことを運営することが自分の仕事だと思っていたけれど、デザインして、作って稼ぐ、という感覚がしっくりきはじめているところです。

でも、何より、これまでたくさんの失敗をさせてくれた人たちがいなければ、こうやって学ぶこともできませんでした。がっかりさせてしまった人たちともう一度会えるように、仕事ができるように、新しい場所で鍛錬してきます。

2015年も、よろしくお願いします。

2014/12/28

彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3

今年観た映画で、今年日本で公開された作品でもっともよかった3つをあげるならこの3作だな、という遊びをしたいと思います。

▶『her/世界でひとつの彼女』



まずは夏のはじめに有楽町で観た『her/世界でひとつの彼女』。スパイク・ジョーンズが監督脚本を手がけ、アカデミー賞脚本賞を受賞したこの作品は、人工知能をもったOS「サマンサ」と、妻と別れた孤独な中年男セオドアとの恋を描く。主演のセオドア役にホアキン・フェニックス、OSの声の出演にスカーレット・ヨハンソン、元妻役にルーニー・マーラ。

とにかく良かったのは、元妻とのデートシーンのフラッシュバックと、OSサマンサの「身体」であるスマートフォンを胸ポケットに入れてめぐるデートのシーン。その2つの対比。恋のはじまりに誰もが感じるあの擦り切れるようなスピード感で、何もかもが面白くて、お腹の底から身体が動いてしまうあの感じが、手持ちのカメラと素早いカット割で構成されている。ぼくのベストカットは、セオドアと元妻が出会った頃に、深夜の路上で、パイロンを二人でかぶってその先端でつつきあうあのカット。ほんの2秒なんだけど、それ見て泣けた。

手紙の代筆士であるというセオドアの設定にはアイデンティティの複数性が描かれ、声だけでのセックスシーンでは肉体を離れた肉感が表れてる。画面が真っ暗になって、声だけで交わす性愛の切迫感のすごさ。アーケイドファイアの曲も、Karen Oの主題歌を歌うところも、衣装も、川内倫子にインスパイアされたという画面の淡い光も、とにかく最高だった。

そして、「私もあなたも誰にでもなれちゃうから誰でもない」という現代的な孤独と「それでも誰かを好きになった過去のことは自分しか知らないじゃん!それって自分だけの歴史だしそれを肯定していいじゃん!」という切々としたラストの、元妻への「手紙」。

今年FORM ON WORDSで音声ガイドによる演出のショーというのをつくったこともあるし、付き合う前の今の彼女と観に行ったというのもあって、今年の夏を印象づける思い出の作品になった。


▶『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』




続いて9月に新宿武蔵野館でみた『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』。フランスアルプス山脈に建つ伝説的な修道院の、ドキュメンタリー。1984年の申請時には「いまはまだはやい」と断られ、16年後に「準備がととのった」という返信があった。撮影の条件は、照明なし、ナレーションなし、撮影には監督のみ、というもの。さらに撮影と編集に5年を費やした。かかった時間の途方もない重み。

この映画の感想は以前にブログで書いたので割愛するけど、この「沈黙」というのは単なる無音のことではなく、普段聞こえない音を聞くということ、生きる仕草の音を聞け!ということなのだという衝撃を受けた作品。3時間の切実な生と祈りの仕草の音は、荘厳でありながらあまりにも日常で、隣合わせで、聞こえてこない呼吸に耳を傾けろ、という素晴らしい作品だった。



▶『6歳のボクが、大人になるまで』

そして今年の文句なしベストになってしまったのは先日日比谷シャンテで観た『6歳のボクが、大人になるまで』。『ビフォア・サンライズ』『スクール・オブ・ロック』などのリチャード・リンクレイター監督が、12年かけて6歳の少年が18歳になるまでの物語を4人の家族を同じ役者で演じ続けたというすさまじい作品である。超派手展開があるわけではない、ささやかで、どうにもこうにもうまくいかなくて、なんとなく幸せってこういうのなのかなあみたいな、無数の事柄が通り過ぎて行く12年。

正直、この予告編を観ずに今やってる劇場に直行するのをオススメします。

すげえ!と思ったのが3つある。

ひとつは、主人公メイソンの6歳から18歳までのシナリオと、それを演じるエラー・コルトレーンの実人生が相互に影響しあってるんだろうなぁ、、、というリアリテイ。人の人生を描くとき、役者は演技をするけれど、演技を超えた彼の実人生の変化が、如実に画面に現れている!!!

あと、離婚した実父がポテトを食べながら性の話を高校生の娘とするときに、ふいに現れる女性。その人は父がちょっと気になってる感のある人で、その様子をみて、親父を小馬鹿にしたように、それでいて安心したように、他者として父を眼差しているメイソン(主人公)の表情を見て、「なんだその顔は!」と慌てていう父。そのワンシーンにぼくは泣いた。他者としての家族、役割を演じ合う家族。恋人を持つ父が、ふいに父という役割を脱いだ、一人の男に見えた瞬間にぼくはたまらなく愛おしくなって、涙が出た。

そして、ネタバレになるから言えないけど、ラストのお母さんのあのセリフ。12年、演じ続けた。映画の中でも外でも、母親役をやった、、、というこの事実がドンとくる。

ぼくはこのラストはもちろん、その余韻をひくようにエンドクレジットでも、ああこれだけの人が12年の月日を過ごしたのか、映画/フィクションの中で、あるいは撮影や制作の現場/リアルの中で…と思ったらまた涙が出た。ようは3回泣いた。

児童館に関わって8年。小学校1年生だった子が、もうすぐ高校生だ。ぼくもまだ大人になったといえんのか、いえないだろう、という感じだけど、自分の姿と、児童館で出会った子どもたちの姿も重ねていたのは言うまでもない。





あとなんだろう、『リアリティのダンス』もすごくよかったし、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』も超絶楽しかった。あと『バルフィ 人生に歌えば』も『her』にならぶ恋のフラッシュバック/カット割りでかなりよかった。

それから今年公開じゃないけど8月に目黒シネマで観た『この空の花 長岡花火物語』は、生涯で一番泣いた映画だった。『この空の花』『長岡映画』と、いくつものタイトルがスクリーンに写されただけで、この映画の持つ複層性を感じて涙腺が開き、そのあとはもう終始涙流しっぱなしで、思わずそのあと長岡に旅行に行ったほどだった。なんだろう、映画を観て泣くっていうのがクセなのかな…。

今年は、去年よりもたくさんいい映画に出会った気がする。また来年出会う映画も、楽しみだ。






2014/12/13

カーテン、役割、見立ての遊び

今日は石神井児童館のカーテンの模様をつくるワークショップ。午前中カーテンの土台を塗って、午後はステンシルのやり方を説明して、子どもたちとワーク。模様というものが同じものの繰り返し、リズムでできていること、そのアレンジでどんなものでも模様になるということが次第にわかってきて、ボリュームたっぷりのテキスタイルをつくることができた。かわいい。



この日1日作業をしてくれていたSちゃんは、5時を回ってみんなが帰って、参加する小学生がSちゃん一人になってから、俄然作業にスピードがでてきて、どんどん模様を付け足していく。スタッフの金子さんとの連携もにもリズムが出てくる。BGMは並木君がかけくれていたKiNKの『Leko』という曲で、このミニマルっぷりがさらに加速させていく。最後にはパレットを洗ったりカーテンをたたんだり、率先して片付けをしてくれた。


そこにいる大人たちとの間の、先生/生徒という役割の壁を超えて、共に何かをつくる親密な相手になっていくこの感じに、久しぶりに出会った。特別なY時だな、とあの作品のことを想い出す。

ワークショップが「サービスの提供者」と「参加者/消費者」という建前を崩せない限り、「参加者/消費者」は個人的な欲求を満足させたり、個人的に取得したい技術を学び取るだけで終わりになってしまう。そうではなくて、提供者と参加者の垣根を超えて、何かとても面白くていいもののために一緒につくろうとしていくこと、個人の目的を充足させるとともに、そこにいる人たちの共同体の集合的目的を目指していく。そんな状況がつくられるには何かやっぱり条件があるはずで、そのことはもう少し時間をかけて考えたい。



家に帰ってきてからすこしゴロゴロしながら読んでいた1981年の高輪美術館・西武美術館で行われた『マルセル・デュシャン展』の図録。井上ひさし、澁澤龍彦、東野芳明、ジョン・ケージなどそうそうたるメンバーの執筆のこれは本当におもしろくて、「解決はない、なぜなら問題がないのだから」という謎かけと、人間って機械みたいで面白いよね、みたいなデュシャンのフェティッシュな感じを読み解ける。

見立てによる壮大な遊びの仕掛けを作り出しているデュシャンの作品は、「遊び」というものの宙ぶらりんな感じと、「アートは人の心を豊かにする」「アートは自己表現力を養う」みたいなつまんない美術教育のクリシェに対して「本当にそうなの?」と問いなおす痛快な批判になっている。

遊び、仕事、アート、見立て、子ども、グルーヴ・・・今日は1日面白かった。