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2015/06/04

気持ち、影響、小説の憑依 ー舞城王太郎『淵の王』

休みの日の夜にブログを書けるのは、のんびりしてていいなぁとか思いながら、今日は怖くてワクワクして最高だった舞城王太郎の新作『淵の王』のことを書く。Twitterにも書いたけど、『ビッチマグネット』以降のネオ青春感と、舞城ならではの文体に硬質さが加わって、さらにスリップストリームにチャラさが消えて怖さ!興奮!!!(以下、ネタバレある)


俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ――。

魔に立ち向かい、往還する愛と祈り!

友達の部屋に現れた黒い影。屋根裏に広がる闇の穴。正体不明の真っ暗坊主。そして私は、存在しない存在。“魔” に立ち向かうあなたを、ずっと見つめていることしかできない。最愛の人がこんなに近くにいたことに気づいたのは、すべてが無くなるほんの一瞬前だった……。集大成にして新たな幕開けを告げる舞城史上最強長篇!

話題になっているのはこの小説の語られ方で、「1.5人称」とか「3人称」とか言われるんだけど、要は、各章の主人公(中島さおり、堀江果歩、中村悟堂)の背後霊が、主人公に向かって語りかけるように進んでいく。いろいろ書きたいけど今日はこの仕掛けのところを書きたい。

「何となくだけど、俺はずっと君と同い年だと思ってた。俺は君のことしかしらないし、君とずっと小さい頃から育っていて、と言うよりふと気付くと気見といて、俺は君のいる世界から、君の見るもの聴くもの触るもの、そして君と話した人から全てを同時に学んできたのだ。」
(第二章「堀江果歩」の冒頭より)

↑こんな感じだ。登場人物の行動に同意したり、驚いたり、慌てたりするこの語り手が優しくて、かわいくて、そして勇敢で、たぶんきっと神様なのかもしれない。主人公の行動に決して手出しをしない(というかできない)この語り手(神様)が、最後の最後に決死の介入をしようとするシーンがもう最高に最高なのだ。この語り手の言葉のグルーヴ感が、もちろん舞城ならではのグルーヴィーな文体になっているんだけど、今回は抑圧の効いた、硬質で優しさに満ちた質感になっていて、それでいて次々と恐ろしいことが起こっていく。音楽的なライド感がすごい。

それで、この仕掛けが面白いなぁと思うのは、小説を読むってある種の「憑依」とか「幽体離脱」の体験で、他人のカラダに入り込んだような、あるいは幽霊になって世界を俯瞰しながら見るような、そういう経験なんだってことを、物語の中と、物語を読む人の経験の両方で味わえるようになっているということ。『九十九十九』でメタレベルで遊びまくった舞城は、ここでまた本気出してきた・・・・って感じになっている。



『淵の王』は、怖い想像が悪い影響を持つ、ということを、「怖い話」と「他者への呪い」が次第に影響していくことを描いている。

でもこういうことってぼくらの現実でもよくある感じだ。昔、ぼくが九州に向かって鈍行列車で一人旅をしていたとき、岡山の公園で野宿しようと思ったら霊媒師でホームレスのおじさんに出会って、一晩その人の話を聞いていたということがあった。

そのときに霊媒の話を色々聞いているうちに背中がぞくぞくしてきて怖いな〜怖いな〜って思っていたら、おじさんが突然指をパチンパチンと鳴らしはじめて、「こうすると気持ちが明るくなるし、空気も変わるでしょ?あいつら(霊とか)はこういう明るい気分が嫌いなんだよ。人が怖いと思ってる気持ちが好きで、そこに集まってくるからね」ということを言っていた。まさに、怖い想像が悪い影響を持つ、その感じだ。

「怖い気持ち」は怖いものを引き寄せるメディウムになる。高校生の頃にクラスのみんなでハマった『新耳袋 ー現代百物語』は、怪談が99話掲載されていて、最後の1話はあんたの身に訪れちゃうぞ、という、「怖い気持ち」を媒介にして、話を読む経験と日常の暮らしを地続きにしてしまうシリーズだった。今回、舞城は「背後霊の語り」っていう、語り手が読み手に憑依しつつちょっと浮いてる感じの小説の仕掛けによって、「怖い話」とそれを読んだときに起こる気持ちを、層を重ねるように現実への影響作用を強めている。

舞城作の怪談百物語をツイッター上で流すアカウント「深夜百太郎(@midnight100taro )」は、まさに百物語をツイッター上で実践するという文学的アクティビズムで、またしびれることをやってくれてる。

「感情や暴力はムードやトーンになって周囲に伝播する」っていうのは『スクールアタック・シンドローム』でも扱っていた主題だ。一方「意志が運命を変える」っていうのは、『ディスコ探偵水曜日』を貫いていた。ここでいう「意志」は、「そうしようと思ってすること」ではなく、「なんでだかわかんないけどそうしちゃうし、どうしていいかわかんないことをぐちゃぐちゃやってなんとかしようとしちゃう」みたいな、「衝動」に近い意味で使われている。衝動であると同時に信じる気持ちを持つ感じが「意志」、みたいな。

そもそも、ある感情が芽生える原因なんてハッキリしていなくて、唐突に、文脈なしに自分の心に巣食っちゃう「気持ち」が、行動を促したり周囲を変容させたりしてしまう、っていうのは舞城の世界観の独特さだよなと思っている。それが恋だったり呪いだったりするのかもしれない。そんな独特さの中で、責任とか約束とか信じる気持ちとか、そういうダサいけど切実な気持ちをもってダバダバと生きていく登場人物たちに、いつも陶然としてしまう。

いやぁ〜きっと『新耳袋』シリーズ読んでるんだろうな〜、とか、最後の「中村悟堂」はベケットの『ゴドーを待ちながら』とかけてんだろうな〜、とかアニメに挑んだ『龍の歯医者』や『バイオーグ・トリニティ』で漫画原作やってるのとかそういう経験が反映されてる感がすごくある「堀江果歩」の章のあのかんじとか、あのシーンの恐怖表現すげぇ!!!とか、いろいろ書きたいことあるけど次の機会にする。

とにかく激烈お勧め。

*関連する記事はこれ
「自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて」
「思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開」






2015/05/22

縦横無尽に跳ねまわる感情、Mommy

昨日、ずっと観たかった映画『Mommy』を観てきた。感情のうねりに乗ったまま2時間、映画ってこんなにもいろんなことできるんだと、ワクワクしたり緊張したりして物語に乗っていた。



多動性障害を持つ少年スティーヴとその母の物語。うれしいときは周囲をドン引きさせるほど過剰に動き、ふざけたいときは他者との親密さの垣根を容易に飛び越え、唐突に、ほとんどなんの前触れもなく激昂する、そんなスティーヴの感情の渦にぶつかりながら必死に彼を愛そうとする母親と、そのうねりのなかで自分を解き放っていく隣人カイラ。何が起こるか先を読めないこの関係性は、終始緊迫しているんだけど、生活の中の刹那に現れる幸福感は、長くは続かないことがわかっているから擦り切れるように美しかった。

この物語は、どうやったって「うまくいく」ということがありえないだろう世界での、希望と選択と行動の物語だった。そして、いまこの時代の物語とは、「うまくいかない」ということが根底にあって、そのなかにある刹那の喜びとか激しい苦難とか、そういう情緒の躍動自体なのかもしれない。

思いもよらないことが、準備なしに次々と巻き起こっていくなかで、登場人物たちは感情のおもむくままにあたり砕けるように行動を選択していくんだけど、どうやったって「うまくいく」なんてありえないんだけど、どうやったって信じているのは希望で、それは愚かでもろく、それでいてタフな人間の業であり業の賛歌なんだなぁと思いながら、何度も泣いた。

こういう物語を描くために、「うまくいくなんてありえない」ということを前提に据えることの困難さがあって、ともすれば不幸自慢みたいな陳腐な悲劇になるだろうし、「うまくいく」という方向に安易に逃げたくなってしまうかもしれない。うまくいくわけない現実の中で希望を信じるって、一体何で、どうやってやるのか、「なんとかする」ということをどうやって行動して形にして現実と関わっていくのか。シチュエーションを設定し、そのなかで出来事と情緒を縦横無尽に跳ねまわらせながら、希望のことを描くなんて。

ただ呆然とするばっかりだったけれど、1つ確かだと思ったのは、物語をつくるということは感情を扱うということで、人の感情を逆なでしたり快楽を与えたり怯えさせたり優しさでつつんだりすることなんだろうなと。そしてそれは、どうしようもなく切実な何かから言葉になっていくんだろうなということだった。

*関連する記事はこれ
「彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3」
「仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』」



2015/05/14

泳ぎ方、カラダの姿勢、仕上がり

よどみなく、ゆったりとした心の状態、動きの流れ、というのがある気がしていて、それはカラダの動きのムダのなさ、やわらかさもさることながら、自分を疑い、自省することができて、何か無意識に間違った態度をとっている他者がいれば愛をもって指摘できるような心の状態。そういうふうに仕上がっている人がプロっぽい感じがする。



先週と今週と、平日休みの日の夜に泳ぎにいった。以前からちょこちょこプールに行って泳いではいるけれど、続けていったのは久しぶり。いつもとにかく力を抜いて泳ごうとするのだけど、何往復かするとクッタクタになってしまうから、これはちょっと泳ぎ方が間違っているんじゃないかと思って少し調べてから実践してみた。

ある説によればクロールの基礎は「伏し浮き」というのにあって、これは文字通りうつ伏せになって浮かぶ技術なのだけど、これがなかなか難しい。参考にしたのはこのページ。http://www.page.sannet.ne.jp/yamato99/tech_fusiuki/fusiuki_6.html

人間が水に浮かぶとき、肺に空気をたっぷりふくんで浮袋にするらしい。だから浮かぶときの中心は「肺」にある。一方で重心は「へその下」にある。さらにぼくの下半身は陸上部時代のへたなトレーニングのせいで無駄な筋肉がたくさんついているので、重い。肺を浮袋にしても、重心はへそだし、足の筋肉は重いし、下半身が沈んでしまって「伏し浮き」なんてできやしない。

このとき、重心を肺に近づけるイメージ、というのをどうつかむかがカギになる。とにかく力を抜いて、それでいて腹筋を駆使して重心を肺の方にぐいっと近づけるようにして、腰を軽く、首を重たく感じるようにしてやってみると、ちょっと浮けた。これは大きな進歩だった。

その状態で「蹴伸び」をすること、そして「ズン・チャ・チャ」の6ビートでキックをすることの練習をしていくと、浮かび、軽めのキックを推進力にして進めることがわかる。これに水を掻く手を加えると、驚くほどススムススム!

ランニングをするときも、上半身を少しだけ前傾させて重心を前に出し、頭をナナメ上に釣り上げるようにして走るようにすると力まず進めるという節がある。そう考えると泳ぐことと走ることって一緒なんじゃん。と、これまで長いこと走ったり泳いだりしてきて初めてつながった。そしてそれは冒頭の心の状態とカラダの姿勢にも通ずるような、そんな気がする。

半年ほど前だが、以前の職場の研修で不審者が襲ってきたときに子どもをどうやって守るか、というのの、抜き打ちの実演研修をやったことがある。施設内に立ち入って刃物を振り回してきた場合、サスマタなどをつかって押さえつけ、モノを投げつけ、バランスを崩し、戦意を喪失させ、無力な状態にするしかない、と教わった。もちろん、子どもを守らなければならない、とはいえ、そんな暴力の状態に自分を切り替えることができるか?そんなに仕上がってるか?と、かなりその時はショックだった。そんな心とカラダの状態って、異常なのか、それとも、ゆったりとしたよどみない動きを生む姿勢は、突発的な暴力状態にも切り替えることができるようになるんだろうか。

走るのも泳ぐのも、あとはなにかに取り組むにも、暴力状態に切り替えるにも、「身体を楽に動かすための姿勢」というのがあって、それはいつでも重心を動きたい方向に傾けるための準備された姿勢なのだろうということ。それは先日教えてもらったヨガについてのテキスト(「形、中身、神」)で書いていることにもつながる。

文脈をよみ、流れるような身のこなしができるような「仕上がった状態」みたいなのって憧れる。












2015/05/01

なんかよくわからない感じ、戯れの中で見つかるカタチ

タイにいる友だちとスカイプで話し込んだ。1時間くらいで要件だけ済ませることになるかと思ったら、最近の仕事のことを話したり、恋人とどうだ、とか、これからどうやって働くか、とか、そんな話をしてたら0時を回っていた。

その友だちは、なんかよくわからない「感じ」を共有できる貴重な人だ。言葉が意味通りに伝わりあってるわけでもなく、録音して書き起こしたらこれなに言ってるか全然わかんないよな、っていうような、そうやって言葉をまばらに配置して、互いの頭の中で星座を描くみたいに点と点を結んだり解いたりして遊ぶ。遊ぶ中で、あ、これで大丈夫だ、やっぱそうだ、という何かよくわからない「感じ」を確かめていける。


モノゴトを作ろうとするとき、目標を決めて、狙いを定めて、戦略を作っていく仕事の仕方と、なんかよくわかんない「感じ」をふわふわした言葉や身の回りのものを触って確かめながら作っていく仕事の仕方と、大きく2つある気がしてる。

人との付き合い方も、上司や同僚と戦略を作って競合と戦うようなやり方と、仲間とともによくわからない「感じ」をシェアリングしながら生み落していくようなやり方と、分けられる。

もちろん、それはスペクトラムで、仕事となれば極端にどちらかに偏るとしたらそれはそれで問題がある気がする。

「感じ」の共有から生み落とされるものを仕事にするのは容易じゃない。ぼくにはまだまだそれでご飯を食べられるほど美しく生きていない。でも、面白くて興奮することはその「感じ」からしかやっぱり生まれないし、それはなにもないところから突然現れるものじゃなくて、地下水脈が通ったところに湧き上がるんだと思う。それが人との言葉とイメージの戯れの中で、カタチをもち、物語になるのだと思う。そうだと思ってやっていけるかどうか。わからないけど希望はある。

2015/04/21

ワンピースづくり、きかない見通し、ふりしぼる勇気

伊勢丹で働きながら、ちょこちょこ他の仕事もやっていきたい!ということで2015年度第1弾は、中山晴奈さんがディレクターを務める食とものづくりスタジオ「FERMENT」にて、ワンピースをつくるワークショップでした。FORM ON WORDSで一緒の竹内大悟さんとつくったものです。

これは見本です。


ほぼ一日がかりで、生地を選び、竹内さんがつくったパターンに添って裁断し、縫製する。そのなかで、幅や丈、アクセントになっている切り返しのギャザーもしくはタックのかたち、襟の仕上げ方など、いくつかの選択肢の中から、自分に合ったシルエットのワンピースをつくっていく。

参加者の皆さんの中には、中学校のときの家庭科の課題でズボンやエプロンをつくったときにうまくいかなかった想い出が残っている方も多く、そのトラウマと向き合いながら制作を進めていっていました。ぼくは昨年の夏のワークショップでやっとミシンと仲良くなれて、今ではだいぶ仲良しです。

いつも子ども向けにやっている企画だと「失敗してもいい」「トライアンドエラーが大事」ということを考えているけれど、服作りとなるとそうはいかないところが面白い。雑になってしまったぶん、その文字通りのしわ寄せが、服の雰囲気全体にあらわれてしまう。真剣で丁寧な作業が細部に宿ることで、はじめて服に美しさが現れるのだということを、いつも思い知ります。



真剣にならざるをえない、自分が身にまとうための服。当たり前だけど、服はたいてい買ったものを着る。デザイナーがデザインし、パタンナーがパターンを引き、工場で縫製されたものを着る。それを着る人の姿が不格好にならないように、こだわりをもって作られたものを着ているのだと思います。

その服のはじまりをつくるデザイナーは、人々の服や身体への意識を敏感に察知して、着崩されてしまうことや、およそモデル体型とは異なる体型の人が着ることも含めて、それでも人がかわいさや楽しさやエレガンスを感じられるように、服をつくる。そのこだわりや誠意にあやかってぼくたちは服を着ている。

もちろんそうでない服の作られ方もたくさんあって、かわいい、素敵なモデルへの憧れをあらゆる方法で煽り、それと同質化させるほうに促す、ファッションのファシリテーションのあり方のほうがむしろ主流だと思います。それによって「モテ」「非モテ」の分類が生まれ、自分を「非モテ」に分類してしまう特に男子たちの気持ちとかよくわかるし、その劣情はまた新しいエネルギーになると信じてなんかしたいと思っています。がまぁその話はまた別のところで。



このワークショップでは、服の作り手になって、その立場を体験する。服を着る人の気持と、作る人の気持ち、今の社会では分離してしまったこの2つの気持ちを一時に経験することになる。プロがつくった服はゆがんでいるわけがないのだけど、服はやわらかい布でできているし、裁断のやりかたや縫い方次第でゆがんでしまうし、不格好になってしまう。繊細な布は失敗するたびにくずれていく。失敗はなるべくならしないほうがいい。

さらに言えば、初心者には、パターンからできあがりを想像することが難しい。ぬいしろ、できあがり線、ステッチの線など、いろんな線が重なっている。裁断は縫製を見越してやらなければならないし、縫製はできあがりを見越してやらなければならない。小さな1つの失敗がつぎのゆがみを生む。見通しの効かないまったくはじめてのことで、それでも自分が着るものがかわいくて素敵なものであったらいいなという希望をもって、ひとつひとつ丁寧にやっていくしかない。

失敗が怖くなってしまい、怖気づいてしまうところをどうにか乗り越えてつくっていく参加者の方々の勇気を振り絞る姿を応援するのがぼくの仕事で、完成したときの、ほっとして、嬉しそうな表情には、しびれるような感動がありました。



こちらのワークショップは来月も再来月も開催を予定しております。夏に向けてえいやっと制作されてみてはいかがでしょうか〜?





2015/04/11

言い方、快不快、時すでに遅し



「いや、別にいいんだけど、「言い方」ってあるじゃん」

という言葉はよく聞くけれど、そのとおりで、言い方によって相手を快にも不快にもする。ぼくは無自覚に相手を不快にするような言い方をしてきた20代前半までを過ごしてきたと思うので、気をつけるようにはしているけれど、なかなかにその悪い癖は抜けない。

「言い方」によって相手を心地よくする、というのは、参加する人を創造的な気分に変えるワークショップのファシリテーションの基本の一つで、それを日常生活でもできるようにしておかないと、悪い癖が本番で出てはこまる。まして、相手が子どもならなおさら。

普段から人を見下したような言い方をしていると、たとえ仕事がキレッキレだったとしても、次第に信頼を失ってしまうし、自分が何か決定的なミスをしたときに、誰も味方がいなくなってしまう、というのはよくある話で、これを実感していないひとが説教されたとしても「いやでもぼくは失敗しないしなぁ」としか思っていなかったとして、それはそれでやばいというか学びのなさが貧しいなぁと思う。

ぼくには幸いにも、「言い方」について注意してくれた人たちがたくさんいた。でもその当時はよくわかっていなかった。今ならわかるのだけど、時すでに遅し、ってやつで、せめて当時注意をしてくれた人たちに報いたいという想いで仕事をがんばろうと思う。

2015/03/23

あ、また「理不尽」か。

「社会にでたら理不尽なことをたくさん経験しなきゃいけないんだと思うと、怖くて足がすくむ・・・」みたいなことを大学生の友人が言っていて、そりゃあそうだよね、と思う。ぼくも何度か理不尽なことを経験したし、よもや信頼していたものが理不尽さに姿をかえることもしばしばあった。

「未知のものやわからないことを前に、どう見通しを立て、行動するか」ということが大事、みたいなのはよく言われることだけど、「未知」とか「わからないこと」ってどことなくロマンチックで魅力的なものだ。たとえばこれを「理不尽さを前に、どう見通しを立て、行動するか」と言い換えたら、とたんに現実味が出てこないだろうか。

「理不尽さ」って、責任をなすりつけられることとか、根拠もわからないまま無視されることとか、いろいろだと思う。それってやっぱ超怖いし、嫌なものだ。でも同時に、何か新しいことをしようと思ったら付きまとうものでもある。なくていいものでもあり、ある種の条件でもある。理不尽さ。

どんな姿をとって現れるかも予想できないし、こんな感じかなと思ってたらそれを裏切ってくる。理不尽さは姿が見えないし、理性的だと思っていたものが理不尽さだったりするからさらにやだ。

でも、幾度となくそういうものに出会っていると、なんとなく、あ、またか。と、思えてくるのだろう。そうなれるまでが大変で、だから20代という時代は苦渋の時代なのだと思う。

がんばれ若造、というキャッチコピーがかつてあった。理不尽さを前に、ふんばれ若造、と、自分に向かって言いたい。