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2016/01/12

観光、キャンプ、経験値 ー『弱いつながり』と『キャンプ論』

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を今更ながら読んだ。ネットは絆を強くし、リアルは弱い絆でつながっている。特定のコミュニティ(
=「村」)に固執するのではなく、複数のコミュニティをあるていど無責任に渡り歩き、偶然性に身を委ねながら「観光客」としてできることを実践していくべし、という現代の人生論。

ぼくはこの本の内容に素直に共感した。ぼくは責任感というより自己顕示欲が強いからか「村」みたいなものに固執する癖がある。それが悪いことだとも思わないけど、その一方で「あるていど無責任」ということが可能な社会だというのもなんとなく知っている。

例えば飲み会もそうだろうなと思う。計画的に設計された飲み会はあまりにも退屈で、なんとなくいい加減に集まった飲み会がやたらと楽しかったりする。呼んだり呼ばれたり、みんなあるていど無責任に適当に集まってきて、コミュニティが横断されていくのはいいことだと思う。「せねばらなない」な〜んてこたないのだ、という気になってとても楽だ。

ただ、飲み会ではなく仕事だとしたらそう簡単にはいかない。「観光客としての生き方で働く」って例えばフリーランスのライターや編集者、デザイナーの人を思い浮かべる。フリーランスで生きていけるのはやっぱり強い個人で、ぼくはそういう人たちをとても尊敬している。観光客的フリーランスで働いて生きていくには、安定した技術と、新しい場所や取り組みを恐れない勇気がいる。

『弱いつながり』では、観光は「表層を撫でるだけ」だけど、その場所についての本を何十冊読むよりも強い体験になる、ということが書かれている。観光に期待しすぎてはならず、その場所にいって表層を撫でることの感度をあげていく、みたいな話。この話にやたら共感できたのには理由があった。

思い返せば大学時代に所属していた加藤文俊研究室が実践していたこともそういうことだった。この本よりも以前から『キャンプ論 あたらしいフィールドワーク』というかたちで提案している、旅のかたちがある。


加藤先生のいう「キャンプ」は、東さんのいう「観光客」よりももう一歩踏み込んで、ゼミ生たちがその土地に暮らす人たちへのインタビューをし、ポスターやマップにして返還する、という、観光客とコミュニティの間に贈与関係を成り立たせている。その意味で「責任」は「観光」よりも重い。偶然性の範囲がデザインされているので、出会った人の話が聞けたりして深まりもある。「観光」のほうが自由だが、経験の深度は「キャンプ」のほうが深い。この「キャンプ」をいくつか経験しているおかげで、ぼくが旅行に行った時に、無責任にぶらぶらしつつも、裏路地にいったり人に話しかけたりするのを躊躇しない姿勢ができたんだろう。

もうすぐ30歳になるがまだまだまだまだいろんなことをもっと知りたいし深い経験値のためのあくなき観光をつづけたいと思うので、この2冊について考えたことをなんとなく整理した。

*関係する記事はこれ





2015/12/30

落ち着きと解像度 ー27 歳最後の投稿

28歳が足音をたてて近づいてくるところで、年末はカウントダウンが二つあるんだよな〜と思いながらキーボードを叩く。大晦日が誕生日で「慌ただしい日に生まれましたね〜」とよく言われるのだけど、そのせいかそそっかしい人間になったものだと思う。

何かまとめたいことがあるわけじゃないけれど、年末なのでぼーっと今年のことを振り返ると、仕事の仕方が大きく変わって、考え方もいろいろ変わった。来年は結婚もするし、引越しもする。年明けには独身最後ってことで一人アメリカ旅行もする。自分のことを大事にしなければ、と思ったのは2年ぐらい前で、正直つらい時期だった。とにかく大学生からそそっかしく生きてきて、その時期のことはまだ片付いていないのだけれど、ようやく落ち着いて考えられるようになってきた。

「落ち着く」ってどういうことかって、つまらなくなったり退屈になったりすることではないと思う。「落ち着く」とは、冷静に慌てずに判断ができるようになることと、偶然性を楽しめるようになることの2つだと思う。落ち着きがなくては冷静さはないし、「こうしなきゃ」みたいなことに縛られていると偶然の美に気付くことができない。例えば、道を歩いてていて珍しい植物や虫を見つけてその名前を呼んで喜べる人はとても落ち着いているなぁと思う。あとお茶が好きな人も。

前にフランク・ゲーリーの展覧会について「高圧力・高解像度」のことを書いたけれど、有限な時間のなかで世界を高解像度で眺め、高圧力で何かを生み出すには、落ち着きが欠かせない。今年は同僚に教わったヨガの太陽礼拝というのを毎朝地道に続けたり、運動をマメにやったりして、フィジカルに落ち着くことをコツコツやってきたつもりだ。そしてそれはまたしつこく続けて行こうと思う。

年をまたいで人が変わるわけではないけれど、落ち着きを纏うことと、そうして解像度が上がってきた視界が捉えるものを、ちょっとづつ圧力をあげて(一見余計な)提案をしていくのが目指すところです。来年もまたよろしくお願いします。

*関連する記事はこれ
「執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫」
「形、中身、神」



2015/12/10

執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫

今日は珍しく、展覧会巡りをした。「休日」というものを「とにかく休める日(何もしないでダラダラする日)」にするのではなく、「好きなことだけをする日」というのに

最初は森美術館《村上隆の五百羅漢図展》。話題になっているしツイッターやフェイスブックでCMがバンバンながれてくる力の入りよう。客層は年配の方も多く、仏教関係の方もちらほら見かけた。


メインの五百羅漢図に対して、おばちゃまたちが「一体何人いるのかしらねえ?」「あら〜これがやっぱり玄武なの、そぉ〜」とコメントを寄せているのを見ると、仏教美術の展覧会として、あるいは観光地でお寺にいくような感覚でここに来ているんだなぁ。ぼくは仏教美術はほとんど関心をもってこなかったし、「羅漢」の意味も会場で知ったほど無知なのだけど、とにかく感じたのは執念だった。

それは異様なデカさと手の混みようで、絵の具を塗りたくっているはずなのにつるっとしていて、コンピューターでつくったデジタル感がある。村上隆という執念に燃え、猛り狂うコンプレックスの炎が、「今この時代に必要な芸術」という大きな目標をもち、大きな組織を動かしながら生み出した五百羅漢図。その制作資料の展示を見ると「指示書通りやれ!ボケ!」と書かれたり「程度が低い!」という罵倒の言葉。「村上様からの指示書」というラベル。200人規模の管理生産体制は、絵師集団というか民主的とかそういうんじゃない厳つさがあった。そういう背景と、村上隆の執念と、絵の迫力とをあわせて、宗教と芸術がこの日本でまた新しく混在していっているんだなという、大きな力のうねりを体験した。

強い力を浴びてぷはぁと思いながら、ずいぶん前にFAIFAIの文美さんに教えてもらったFREY'Sのピザを食べて美味しいコーヒーを飲んで休憩。次に見に行ったのは21_21 DESIGN SIGHTの《建築家フランク・ゲーリー展》。


原宿のエスパス・ルイヴィトン《フランク・ゲーリー/ Frank Gehry パリ - フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展》を先々週くらいに見ていたので、もっと大きな展示なら楽しみだ〜と思って行った。なにより今回の技術監修を、オランダに行った際にお世話になったLUFTZUGの遠藤豊さんがやっているというのだから期待は大きかった。そしてその期待をはるかに超える、もう最高に楽しい展覧会だった。

冒頭は、フランク・ゲーリーの建築を内側から撮影した映像がぐるりと観客を囲うプロジェクション。「私は建築を内側から考えるのだよ」とゲーリー本人がいうところの、その内側から始まる。ほあ〜と見てしまった。撮影はLUFTZUGだった。

次に、フランク・ゲーリーの自宅の模型と、彼のマニュフェスト。「それが厄介だ」でおわるあたりがとても可愛いマニュフェストだ。


メインの展示室には、これまで手がけたプロジェクトの模型が、段階別に展示され、キャプションが施されている。ここがもう本当に楽しかった。

ねちこく、幾つも模型をつくる。考えて作って考えてつくってを途方もないほど繰り返す。普通だったら諦めたり「もうこんでいいや」ってなるところ、ならない。自分のアイデアを気に入って、嫌いになってを繰り返し、施行されて現実のものになった建築が自分の予想を越えながら、「ああすればよかった」が幾度も出てきて嫌いになるそうだ。そんな感情の抑揚と、模型と、プロジェクトの進行過程がリンクする展示構成もう見事。

これだけだと「天才って努力しててすごいね」ってはなしで終わりそうなのだが、天才たる所以は独創性だけでなくその設計手法にあった。「ゲーリー・テクノロジー」に関する映像はぜひ最初から最後まで見てほしい。独創的な造形だけでなく、人々が空間を経験することへの敬意、そして設計手法の合理化とコラボレーションの上質さ、楽しすぎて泣きそうになった。

あと気になったのは、ゲーリーが支援して立ち上がったという「Turnaround Arts」というプロジェクト。アーティストが学校にいく、というのは世界中にあると思うけれど、行政と民間企業とがタイアップして、大掛かりに展開しているみたい。

村上隆もフランク・ゲーリーも、ものすごい圧力で物を作り、それでいて高解像度だ。圧力と解像度が高く、歴史や社会と符合させながら物を生み出すクリエイターには足元には及ばないことがわかっていながらも、ゲーリーの展覧会は「自分にもできるかもしれない」と希望を与える内容だった。


最後に行ったのは《赤塚不二夫のビチュツ展》。こちらは16日の木曜日で終わってしまうので、駆け込んだ。『天才バカボン』や『モーレツア太郎』『レッツらゴン』などはぼくも小学生の頃から大好きだったマンガで、穴があくほど読んだし今も大好きだ。そんな赤塚不二夫へのオマージュ作品が多数。なかでも祖父江慎さんのブラックライトの仏壇と、アラーキーによるポートレートは優しい気持ちになれたなぁ。

高圧力・高解像度のクリエイターというよりは、赤塚不二夫は軽やかさと徹底した遊び心なんだよなあと思いつつ、それをさささっと表現する絵の上手さなんだよな〜とか思いながら、「バカは死んでも治さないのだ」って至言が頭のなかに響いた。

今日見たどの展覧会も感情を動かされる内容だった。彼らのような大物には足元には及ばないとわかっていながら、奮い立つものがあった。妥協のない執念のようなものは、ぼくも持てるはずだ、とか。

なんか最近暗い話題ばっかりだし、きつい世の中だし非正規雇用だし年金もらえないだろうしいろんな心配事もたくさんある。だからこそこういうクリエイターの執念の炎が世界を照らすことを、考えていいんだと。










2015/12/09

飲み込めない想い、ワークショップ、笑い ー映画『恋人たち』

もう二週間前になるが、橋口亮輔監督の『恋人たち』を観に行った。トレイラーも見ず、職場近くのテアトルの看板だけで、下のコメント

"飲み込めない想いを飲み込みながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして"人間の感情"を、ちゃんと描きたい。"
ー橋口亮輔

これを見て、あ、必見と思って仕事終わりに駆け込んだ。そして、その予感は的中した。ぼくはこの映画を観てよかったあーーーー!!!と思った。その理由は、ワークショップから生まれた作品であること、そこに自分がいると思えること、聞こえない相手へのモノローグの3つ。



映画を作るワークショップを、プロアマ問わず様々な役者の人たちと一緒に実践した、という話は荻上チキさんの「session 22」で知った。橋口監督にはそれ以前にプライベートでとても辛いことがあって、社会的に立ち直れないかもしれないとどん底だった時期に、人に誘われて始めたワークショップがカムバックのきっかけだったという。その内容の一部は、 橋口亮輔の「まっすぐ」というエッセイに詳しい。

ぼくも子ども向けのワークショップをつくる仕事をさせてもらっているけれど、このエッセイに書かれているような、他人の人生をえぐるエチュードをするようなものはまだできていない。本当は他人の人生を変えてしまうほどの磁力を持った場がワークショップなのだろうと思いながら、自分にはまだまだだと思うし、そんな責任も取れていない。

そんなみみっちいぼく自身と比較するまでもなく、橋口監督はその「他者の人生をえぐるようなワークショップ」に身を乗り出し、自分自身の人生をえぐりながら恢復し、映画に向かったのだろうと思う。そうしてえぐられ、恢復していった監督や参加者の人生が映画というバゲットにレバーペーストのように塗りたくられ、観客は苦味とともに希望を味わう。そのためのメディアとしてワークショップがあったのだ。ああ。

※以下、ネタバレ注意

そんなたくさんの人の人生が塗りたくられた映画のなかに、ああ、自分がいるなぁと、我々は感じざるを得ない。愛する妻を亡くした若い男、旦那と姑との生活を送る主婦、やり手のゲイの弁護士の3人が主人公なのだけど、彼らが他人に対して耳を閉ざすこと、情けなとわかりながら行動できない悔しさ、幻に救いを求める滑稽な姿・・・役者のえぐられた人生は、観客の人生も、えぐっていく。

そしてクライマックスの一連のシークエンスは、3人の主人公が、耳を閉ざしてしまった恋人たちへのモノローグへとつながっていく。「飲み込めない想いを飲み込んでる人たちの"人間の感情"」が、やりきれない状況のなかで、そしてそれぞれに聞こえない他者に向かって吐露するシーンは涙なしに観られなかった。

他にこの映画の良かったところは、懸命に生きる人の滑稽さが、どうしようもなく笑えてしまうところだ。水曜日の映画デーで、男女ともに1100円で見られるテアトルには仕事終わりのいろんな年齢の人が集まっていて、随所で笑いが起きていた。温かみのある劇場の雰囲気も、最高だった。

以下、笑えたセリフ集
「ほら、静電気ないんだよ」
「そりゃそうだ」
「ほんとやだ〜」
「いいものいっぱい入ってる。そうだね。自然ってすごいね」
「あれ、回んないなこれ」
「それが今の旦那なんだけど」
「先生、泣いてくれてるんですか〜?」

そう、裏切りや理不尽さ、やりきれなさのなかで傷付いた重たい人生は、ふとした笑いで軽やかになってしまうのだ。ぼくが一番笑ってそして泣いた黒田の言葉「笑うことは大事だよ」に、そうだよね、と思うのだ。

今の時代感とか、黒田の名ゼリフ集とか、語り口はいくらでもあると思う。未見の方はぜひ。観た方は一緒に飲みましょう。

2015/11/24

物の語り、石の語り

子どもの遊び道具について日々考えている。道具も玩具も「物」であり、0~4歳ぐらいの小さい子どもの遊びを見ていると、物を投げたり鳴らしたり転がしたり並べたり、物を使った遊びのなかに、物と対話しているように感じるときがある。その対話が楽しくなるためには、物がより多くのことを子どもに語りかけ、また、子どもの話(行為)を良く聴く(受けとめ、リアクションする)、というのが重要なのだ、と思う。

「物語」っていう言葉って、もしかしたら「物が語る」というか「物の語りを聴く」ということなのかもしれないと思う。こんなことを考えていたら、一つ思い出すことがあった。

小学生のとき、猛烈に打製石器と磨製石器にハマった時期があって、学校から帰ってマンションの裏山に入り込んで石をコンクリートに打ち付けて割ったり、ガリガリ削ったりして、それで木を削って遊んでいた。

そのとき、同時に「堆積岩」と「火成岩」についても習っていた。火成岩はマグマが冷えて固まったもの。堆積岩は水などの流れによって運ばれたものが固まってできたもの。そういう知識があったから、石を拾い集めているときに、それらの石が辿ってきた時間に思いを馳せた。

これが、ぼくにとっての「物の語りを聴く」という原初体験だ。


ただ、「物の語りを聴く」ために別に知識は必要ないはずだ。触ったり、投げたり、いじくりまわすことを通して物と語り合う、とはどういうことか。さて、もう少し考えてみよう。

2015/11/09

いい遊び、トラストミー ー映画『わたしの名前は…』

ファッションブランド「アニエスベー」で知られるアニエス・トゥルブレが本名で発表した監督作品『わたしの名前は・・・』を、渋谷アップリンクで観てきた。


家を飛び出した少女と、トラック運転手。奇妙なふたりのロードムービー。
映画は、あっと驚く結末へ向かって進んでいく。主人公の12歳の少女は父親から虐待を受けていた。ある日、学校の遠足で出かけた海辺で偶然停まっていたトラックに乗り込んだ彼女は、スコットランド人のトラック運転手と共に逃避行に出る。フランス語と英語、言葉が通じない2人は、次第に心を通わせていくが…。10年以上前に新聞で読んだとある事件の記事をきっかけに、アニエスべー自身が脚本を書いた、瑞々しいロードムービー。(映画公式サイトより)

なんでこの映画を観たいと思ったかというと、ファッションに関わる仕事をしている手前、アニエスベーのような有名なブランドをつくった人がなぜこんな映画を撮りたいとおもったのか、そもそもアニエスベーってどんな人なのか、知っとくべきかなとかそういうお勉強的な興味だった。しかし想像を超えて映画は素晴らしかった。様々な映像技法を試していること、即興性、そして色や形の作り込みは、映画が初めてとはいえ、ファッションの現場で場数を踏んでいるだけでなく、『マルホランド・ドライブ』や『パルプ・フィクション』の衣装に参加していたり映画制作を支援していたりする、さすがの熟達っぷりで、あのシーンもこのシーンも素晴らしいシーンの枚挙にいとまがない。

あらすじにもあるとおりこの映画は少女とトラック運転手のロードムービーなのだが、それはこの2人が、世界中のどこにでもある郊外の、他者への情愛も尽きそうなほどストレスフルで気怠い生活のなかで傷を負って生きている日々から逃れる、つかの間の旅だ。その旅は唐突に始まり、静かな予兆を携えながら終わりに近づき、そしてやはり唐突に終わる。その終わりを2人がいかに引き受けたか、ということがこの映画の見どころだ。

とりわけぼくが素晴らしく思ったのは、現代美術家のダグラス・ゴードンが演じるトラック運転手ピーターの存在とその描かれ方だった。彼は少女がトラックに乗り込んでいることを発見しても、ほぼ何も言わずに隣に座らせ、「どこから乗ってきたんだ!」とか「こんなことをしたら、大変だ!誘拐になってしまう!」みたいな野暮なことは言わない。その日の夜は何も言わずに寝て、次の日の朝に「おはよう」という。そして、終わりもまた静かに迎える。

このピーターが「いい遊びを思いついた、俺を信用して。」といって肩車した少女を逆さまにするシーンがある。その状態でぐるぐる回る様はあぶなっかしいのだけど、少女は嬉しそうに振り回されていて、彼は息を切らせながらも笑いながらぐるぐる回る。

キレキレな演出のなかで、ほんの些細なワンシーンなのだけど、この映画全体のことがこのシーンに詰まっていた。少女がトラックに乗り込んでいるのに気づいたとき、ピーターは「いい遊びを思いついた」のであり、そしてフランスパンをナイフで半分に切ってピーナツバターを塗ったものをあげたり、次の日の朝におはようのあいさつをしたりして、「Trust me」と無言で伝え、数日間の旅路を少女と一緒にぐるぐる回るのだ。その遊びの終わりをもまた、彼は引き受けるのである。

かっこいいい!!!!!かっこよすぎるっていうか、うおー!!!

みたいな気持ちになった。

以前にツイッターで、こんなことをつぶやいたことがある。

最近考えてることだけど、ここ数年、あらゆる理不尽さをゆったりと許容し、声に出さないけど他者が求められるであろうことをしなやかに行動して解決に導いていく「キャパシティ男子」というのが増えている、気がする。

ピーターは孤高のキャパシティ男子だったのだなぁ、とか思うと映画が一気に陳腐に見えてしまうけれど、そう感じた。



そしてぼくは見終わったあと、パンフレットを買った。パンフレットがただ可愛かったのもある。だがなにより映画を観てパンフレットを買い、一緒に観た人と飲みながら映画の話をして、帰りの電車でパンフレットを読む、という体験を久しぶりにやってみたくなった。映画館の中では気づかなかった細やかな設定や、俳優の背景、監督の思い、観た人のレビューなどなど、パンフレットで映画のことが語られているのを読んで、映画を観た余韻が言葉になっていくのが嬉しい。

そういえば昔『千と千尋の神隠し』のパンフレットを買って、穴があくほど観ていた。細部までこだわってつくられた映画の細部を知ると、その映画をもう一度観たときの味わいが変わる。何度も繰り返し観たくなる。観るたびにその時々の自分の人生とリンクして、映画が自分の血となり肉となる。

わかりやすいお土産のない体験型ワークショップにも、こういうパンフレットがあるといいんだろうなと思う。


関連する記事はこれ
「読み語りき、書く語りき」

2015/10/19

予感、仕掛け、気配 ー《パワースポット》展に行った

仕事にしても何にしても、感じていることを言語化していくことで知恵が蓄積されていくので、このブログはあまり考えず思いのままに書いている。

10月17日(土)の朝に思い切り熱を出して、まぁよくあることなのだけど、休まざるを得ず。ぐったりしていたら夜になっていて、そしたら大量に汗をかいていて熱も下がっていた。

翌日の日曜日は千葉までいって、彼女の実家に行って結婚の申し込みをしてきた。死ぬほど緊張した、というかどうしていいかわからなくなって、お父さんのサポートがなくてはぼくは本題を切り出すことができなかった。優しく晴れた日曜日の午前11時に、言いたいことを言えて、思いも寄らず受け入れてもらえたことが嬉しかった。

自分なんかが結婚なんてしていいのだろうかと不安もあるし、自信もないし、かといって迷いがあるかと言ったらないから、ことが進んでいる。この人と一緒に生活したらきっと楽しいだろ!っていう予感に満ちていて、前途多難だけど家族もそれを受け入れてくれる気配がある。何がこの予感と気配を醸し出しているんだろうなと考えたら、人の意志という仕掛けだろうな。



そして10月19日は、一件打ち合わせを済ませたあと、Atsukobarouhというギャラリーでひらのりょうさん、ぬQさん、最後の手段さんというクリエイターたちによる展覧会《パワースポット》を見に行ってきた。

ひらのりょうさんはこのMVの疾走シーンでファンになった。「君に会いに行く」という詞のリフレインと疾走、どんどん変わっていく現実と会えない距離みたいなのがたまんなくてこの歌のスピード感とあいまってしびれた。



展示は、作家のセンスがどばっと込められたタブロー、ミニチュア、ぬいぐるみなどの間に映像が上映されているのだが、中央に置かれたスイッチを押すと、プロジェクションされた映像とブラウン管のテレビに映された映像と音楽が切り替わる。


そしてスイッチがつながっているケーブルを辿ると「作家の間」というバックヤードにつながっていて、そこで作家さんたちがZINEを増刷したり、フリマをしていたり、赤ちゃんが遊んでいたりする。



こうやってここにあるものを作った人達が裏側にいて、そこにぼくらも踏み入れることができて、ここに漂うものたちによって何かが始まる予感や、動き出しそうな気配が、こうして人によって仕掛けられていることを素朴に感じる空間だった。人がものを動かす、という素朴で不思議なパワーのスポットだった。

物事の間に漂う、何かが始まったり動き出したりしそうな気配が漂う空間には何かが仕掛けれれていて、その仕掛けは人の意志とセンスによってできてるんだなと思った。