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2012/03/19

離合集散、ノリ、知性

全児童自動館、本番が終わった。そのレポートを書けと言われたら恐ろしく時間が掛かりそうなので、また今度。

中高生たちの繊細で過剰な感情に触れ、もう回線ショートしっぱなし。運営面でも3ヶ月前ぐらいから感じていた「思考停止しそうだな…」という不安は見事に的中。一週間前のぼくは本当につかいものにならないディレクターだったなと反省しています。何がそうさせたのか、単純に想像力の欠如と確認の怠り。ダメっぷり。

一方で、今回のプロジェクトを通して見えた光明は、合意形成とコミュニティのあり方が、全然未知のものになっていたことだった。登録されたり、管理されたりして出来上がるコミュニティとは違い、個人の意志と友人同士の約束によってできている離合集散型のコミュニティ。意思の確認や意見交換ではない、「空気」の読み合いと「ノリ」による合意形成。それはもはや新しい知性。バカにできない。


2012/03/12

旅路の開き方

制作の渦中にいて、今考えてることを上手く言葉に出来ないけれど、とにかく書いておくためにこのブログをやってるわけで。



今日は、海を目指して電車にのった。普段会ってる場所から離れたところへの「旅路」を開いた。この「旅路」はもう一つ、参考となる将来像を示した、ということでもある。将来こうなりたい、という像ではなく、こういう可能性もあるんだ、という体験として。

プロジェクトは、「旅路」を開くためのメディウムになることができる。内側から外側へと関係をつくりかえていく。外側にはただやみくもに広がる「楽しいこと」があるわけではなく、プロジェクトという「手段」がある。その手段をどんな目的に使うかはその人次第だが、その手段によって想像力の範囲の射程の外に出ていくことができる。そうして「旅路」は開けていく。


3月11日14時46分そのときは、ビックカメラのテレビの前で迎えた。黙祷が場所をつつんだ。多くの人々がその時間を同期し、多くの死と喪失と結びついた。鳥肌がたった。その内側の強い連結を感じたけど、外側に出ていく手段は持ち得ないのか。旅路は開けないのか。

2012/03/09

偶然、接触、応答

ナデガタのプロジェクトの制作が佳境に入っています。そんなこんなでアートスケープでブログを書いたり、制作に立ち会ったりする日々なわけですが、よくわからない大人バンザイだなと。

中村児童館の中高生たちとはほんとに個人として仲良くなってきてるし、すごく好感を持ってるし、みんな面白いと思ってる。でも世代も違えば環境も結構違うわけで、共有できるものがそんなに多いわけでもない。だからまとってる空気も違うし、それはお互いにわかってる。

アートスケープにも書いたけど、今回のプロジェクトに関わったところで、メジャーデビューできるわけでも、受験や就活で有利になったりするわけじゃない。誰かにほめられるか?と言ったらそうでもない。じゃあ何のためにやるかっていったら、自分の感覚を信じて、自分で考えてもらうために、異物になることでしかない。その異物性とはすなわち作品が面白いということでもある。

今プロジェクトに関わっている子たちはここで偶然、この異物に接触してしまい、自分もその一部になってしまうわけだけど、それ自体は全然悪いことじゃなくて、人生は稽古なしのいきなりの本番なのだから、その異物との接触に応答し、乗りこなしてほしいなと思う。すべての偶然の出会いを断つのではなく、応答し、使いこなしていけるリテラシーのようなものとは一体何かーとか考えると、それは柔らかい身体の使い方でしかないような気がしてる。


2012/02/26

時間をつぶす。時間をつくる。

児童館は時間をつぶすための場になってほしくないなぁと思う。
アトラクションは、時間をつぶすための時間をわざわざつくっている。児童館がそうなってほしくないなぁと思う。

時間をつくる、というのは2つの意味があって、1つは予定をあける、という意味。
もう1つは出来事や状況をつくる、という意味。「時間をそだてる」とも言えるかもしれない。

前者は、時間がスケジュール帳のようにグリッドにわかれていて、その1マスを何かの目的のために空けておく、という考え方。これは、その1マスが塗りつぶされることを期待していて、その時間を塗りつぶす、片付ける、という思考につながっていく。ひとつひとつ消えていくタスク処理の快楽を味わうためにこのグリッドの時間の考え方は有効。

後者は、時間を蔦のように伸ばしていくイメージ。ある出来事が生まれ、つながり、派生していく。失敗すればその時間は枯れ、伸びない。出来事から別の出来事へと連鎖をつくり、未来も過去も縦横無尽に移動する思考を生む。こんなふうに方々に伸びていく時間のつくり方・そだて方を知っているのが演出家であったり、美術家であったりする。音楽家もそう。それぞれ別の方法だけど、芸術家は「つぶす」とは別の感覚をもって、他者との間にある時間を育て上げている。

なんか今日話していて、児童館を開いていく、今のこの《全児童自動館》は、児童館に観客をつけ、育てていく活動にもなっていくんじゃないかなと思った。ナデガタの方法は、普通の素人の仕事を面白く見立てる。今回は中高生がその見立てられる側、になるわけだけど、その見立ての技術をしっかり見ておいてほしい。そして大人のお客さんがたくさん来る(呼ぶ!)から、大人がどういうところを楽しんでいるのかをよーくチェックしておいてほしい。そして、これから大人を楽しませる/驚かせる/裏切るものをつくっていく方法を、実践してほしいと願う。第二回全児童自動館があるとしたらほんとみんながつくったらいいよ。ぼくも応援するし。

壁に守られた、時間をつぶすための場所は少なくなっていく。そこでの時間をつくり、そだてていく主体はだぁれ?という話になってくる。




2012/02/13

子どもと政治、経済、インターネット(3)

この間のWi-Fiのはなしの続き。

児童館職員をしている友人に話してみたら「Wi-Fiを開放すると、たぶん貪るようにゲームをするだけで、他の遊びができなくなってしまう」という意見をもらった。もちろん彼女もインターネットに否定的なわけではなく何か良い使い方があれば、ということを思っているのだけど、妙案がない、というのが実際のところらしい。

子どもたちの行動習性は完璧にマーケティングされていて子ども(とその後ろにいる親、大人)は巨大なマーケットになっている。カードゲーム、ポータブルゲーム機が容赦なく畳み掛けることで、子どもは「消費する身体」として教育されていく。ゲームにハッキングされた彼らの生活と、どう付き合うかが児童館職員の課題にもなっている、ということ。

確かに無条件にWi-Fiを開放しただけでは、ゲームの巣窟(それはもうこんな感じ)になるのは目に見えているだろう。ぼくの中で「うごメモ」にはとても好感をもったけど、「モンスターハンター」はどうも好かない。実際にやってみたけど、つかれるだけでハマらなかった。一体この差は何なのだろう。たぶん、クリエイティブ・コモンズとか「n次創作」と言った考え方、運動を支持しているからじゃないだろうか。

この話をするとまた長くなりそうなので、続く。

2012/02/09

子どもと政治、経済、インターネット(2)

昨日は《全児童自動館》のネタ出し会議をした。あっちゃこっちゃに話は飛ぶし、途中でいなくなったり、いきなり話に入ってきたり、しらけたりわめいたり…いやいや、楽しいんですけどね。まとまりも段取りも何もないなと。

そんな混沌の会議の前に、インターネット大好き中学生と話していたとき、ふと「児童館にwi-fiあったらどお」と聞いてみた。「最高っす!」「スマホ(使うのが)楽ー」「ケータイ持ってなくてもiPod touch使えるよねー」と口々にいい反応。それが実現可能か?というとかなりシビアな問題だ(前回の「リスクA」に関わる)と思うけど、彼らにとってのwi-fiのオアシス感はすごい。

話していた子が「うごくメモ帳」というDSのフリーソフトでアニメーションをつくっているのを見せてくれた。初音ミクの曲のPVを二次創作したものだった。わざわざワークショップなんてしなくても、タッチペンでアニメ作れるし、「うごメモ」のサイト内で作品を発表してる。インターネットに向けて発信ははじまってるし、つくる、描くという技術をここで学んでいる。

例えば児童館にWi-Fiがあったとして、ここで作ったアニメや映像をアップロードできるサイトを用意しておけば、ネット上でD.I.Yの映像祭を開催できる。2010年に山口情報芸術センターで行われた「Creating Our Own Media」は子ども対象ではないけど、その先行する事例で、参加者を「表現者」にする仕組みとして、シンプルかつユニーク。

空間がメディウム化して外とのつながりを持ったとき、児童館は明らかに保護される場所から実践する場所に変わる。大人も保護の対象としてでなく、小さな主体として彼らを眼差しうる。「んー、じゃあ学芸会は表現の実践じゃないの?」と今思ったけど、学芸会は見せる対象が先生と親、というふうに了解されてる。その対象が不特定多数に想定される、あるいは全く相手が想定されない場合、表現のベクトルが違うから子どもは「子ども」を演じなくなるんじゃないかな。

そんなことはどうでもよくて、実際に子どもが撮った映像は相当面白いはずだ。映像祭「coom」、児童館でも開催してみたい。


2012/02/05

子どもと政治、経済、インターネット(1)

今日は中村児童館でフライヤーの写真撮影。「顔は映らないから!」という条件で30人超の中高生に協力してもらったけど、

最近中高生とmixiでやりとりをすることが多くなった。発見されて、マイミクになって、twitterと同期してたつぶやきにコメントが来るようになって、「明日やるよー」とか呼びかけると反応してくれるし、「中児わず!きょうもたのしかったー」とかつぶやいてくれてる。

単純に、みんな徐々にこの企画のこと楽しみ始めてくれてるなーと嬉しくなっていたところだったのだけど、ふとこれは、面白い/重大な問題をはらんでいるんじゃないか?と考えた。それは一体何か。

mixiは一応クローズドなSNSだし、15才未満はできないように規制されているけど、それでも個人は特定可能だ。彼らはほとんど無自覚なまま、いろんな人と共有できる喜びに従うまま、個人の名のもとに「小さな主体」として行動している。これは『リトル・ピープルの時代』で宇野常寛さんが言っていることでもあるけれど、SNSは誰もが「小さな父(政治的・経済的意思決定者)」になってしまうこの時代を象徴するシステムだ。

子どもとインターネットの問題を考えるとき、子どもがインターネットに関わるリスク(リスクAとする)を挙げることは容易にできる。個人が特定されることで犯罪に巻き込まれる可能性が増加する、個人の肖像権を侵害される二次使用がなされる、など。しかし、子どもがインターネットに関わらないリスク(リスクBとする)を挙げることは容易ではない。メディアリテラシーが育たない、新しいコミュニケーションの仕組みに身体がなじまない、など、より複雑な問題になってくる。

ぼくは子どもがツイッターをやることなどは賛成だし、どんどんやれーという考え方なのだが、それによって「小さな父」にならざるを得ない人々は、公私の区別がなくなり、複数の居場所が均質化していくようになると、アイデンティティが硬直し、すごく生きづらくなるんじゃないか、と思うわけです。息苦しいというか。その予防策として、ナデガタを児童館に招待して、今はよくわからなかったとしても別のグルーヴ感を憶えさせておくのはよいことだと思っているのですが、予防するも何も彼や彼女たちは「リトル・ピープルの時代」におけるグルーヴの捕まえ方を自ら編み出していくのでしょうけれど。

あれ?なんか書きたかったことと違ってきたな。いずれにせよ、公私混同の状況の中に、「子どもとアーティストが出会う」という出来事も飛び込んでいく事になるだろうと思っています。

続く。