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2012/03/27

円環、フィールドワーク

フィールドワーク、とか、客観、とか、そういう言葉と共に大学生活を過ごしてきたけど、2011年度のプロジェクトは、それらの言葉を疑うところからはじまったように思う。

いろんな人々の活動やコミュニティのことを「円環」と捉えるとすると、ある円環を一歩外側から見る、みたいなことって実はあり得なくて、客観的と思っていたポジションも実はその円環運動の中に組み込まれている、と考えることにしている。

フィールドワーカーは現場に影響を与える。現場を変える。その変化の当事者であるべきだー、ということは前もこのブログに書いた。

客観的、ということは全くあり得なくて、複数の主観があるのみ。フィールドワーカーも、主観のひとつ。それまでその場になかった新しい主観であり、それまでその場にあった役割と、新しい役割の間のステップワークでしか、フィールドワーク的な眼差し、記述はありえない。

円環は常にふくらんだりしぼんだりしている。外側も内側も、実は無いんじゃないか説。

2012/03/25

振る舞い、変革、I LOVE YOU

ずっと買ったまま観れていなかった、快快『My name is I LOVE YOU』のブダペスト版を観た。

言葉とお金と身体と、人と人とが関わるときに、間に入ってくるもののせいでズレて、ズレて、そして「I LOVE YOU」の名が言えなくなっていく。



なんだろう、演劇なんだけど、現実の再構築に見えてくる。ぼーっと見てると、ぼくらが生活している社会の仕組みそのもののように、役者はシンプルに振舞っているように見える。

じゃんけん大会をやったり女体盛りを食べさせたりして観客をステージにあげていく『SHIBAHAMA』や、高校生の甘酸っぱい経験自体を"売り物"にする『いわきの高校生インザ蚤の市』みたいに、観客の振る舞い自体を変えてしまう作品もある。こういうと月並みだけど、快快は文化人類学の言うところの"振る舞い"としての演劇に、かなりストイックに向き合ってるんだなぁーと思う。しかもポップで、ノレる。

人が集まる場所にドラマがあるし、つたのように絡まる時間があるし、その前提には、関係を操作する空間がある。絡まる時間はグルーヴを生むし、人々の集まりは人生を小さくでもたしかに変えていく。そういう小さな変革を生み出す空間を編むのが演劇なら、ぼくもノリたい。

しかし、そこでも「I LOVE YOU」の名は言えなくなっていくんだろうな。本当のことは、ズレてズレて、言えなくなっていくんだろうな、と思うと強烈に切ないのだけど、でもそれを受け入れながら、4月からの一年を頑張っていこう!と思ったわけです。


2012/03/20

地下通路、カンパニー

今日は快快の篠田さん、あにーさん、文美さんとミーティングだったんだけど、いやーノッたノッた。これは拡散した。アイデアがいろんなところから出てきて、泣くかと思った。

《全児童自動館》のアフタートークで司会をしてくれた篠田さん。あのとき、中高生から「次」を期待する声が生まれたのは大きかった。それを受けて、今日の広がり。嬉しい、嬉しい。

「アーティスト・イン・児童館」はアートスケープにも書いたけど、小説『夏の庭』的な、なんていうかな、異質なものとの邂逅を期待する世界観だった。今日のミーティングで、映画『アンダーグラウンド』みたいな、地下通路を堀り、張り巡らすような、世界の別のレイヤーをつくるイメージに変わった気がする。思いがけず「カンパニー」という言葉が僕の中でシンクロした。

これは一大プロジェクトだ。寝て、起きたら企画を整理しよう。

2012/03/19

離合集散、ノリ、知性

全児童自動館、本番が終わった。そのレポートを書けと言われたら恐ろしく時間が掛かりそうなので、また今度。

中高生たちの繊細で過剰な感情に触れ、もう回線ショートしっぱなし。運営面でも3ヶ月前ぐらいから感じていた「思考停止しそうだな…」という不安は見事に的中。一週間前のぼくは本当につかいものにならないディレクターだったなと反省しています。何がそうさせたのか、単純に想像力の欠如と確認の怠り。ダメっぷり。

一方で、今回のプロジェクトを通して見えた光明は、合意形成とコミュニティのあり方が、全然未知のものになっていたことだった。登録されたり、管理されたりして出来上がるコミュニティとは違い、個人の意志と友人同士の約束によってできている離合集散型のコミュニティ。意思の確認や意見交換ではない、「空気」の読み合いと「ノリ」による合意形成。それはもはや新しい知性。バカにできない。


2012/03/12

旅路の開き方

制作の渦中にいて、今考えてることを上手く言葉に出来ないけれど、とにかく書いておくためにこのブログをやってるわけで。



今日は、海を目指して電車にのった。普段会ってる場所から離れたところへの「旅路」を開いた。この「旅路」はもう一つ、参考となる将来像を示した、ということでもある。将来こうなりたい、という像ではなく、こういう可能性もあるんだ、という体験として。

プロジェクトは、「旅路」を開くためのメディウムになることができる。内側から外側へと関係をつくりかえていく。外側にはただやみくもに広がる「楽しいこと」があるわけではなく、プロジェクトという「手段」がある。その手段をどんな目的に使うかはその人次第だが、その手段によって想像力の範囲の射程の外に出ていくことができる。そうして「旅路」は開けていく。


3月11日14時46分そのときは、ビックカメラのテレビの前で迎えた。黙祷が場所をつつんだ。多くの人々がその時間を同期し、多くの死と喪失と結びついた。鳥肌がたった。その内側の強い連結を感じたけど、外側に出ていく手段は持ち得ないのか。旅路は開けないのか。

2012/03/09

偶然、接触、応答

ナデガタのプロジェクトの制作が佳境に入っています。そんなこんなでアートスケープでブログを書いたり、制作に立ち会ったりする日々なわけですが、よくわからない大人バンザイだなと。

中村児童館の中高生たちとはほんとに個人として仲良くなってきてるし、すごく好感を持ってるし、みんな面白いと思ってる。でも世代も違えば環境も結構違うわけで、共有できるものがそんなに多いわけでもない。だからまとってる空気も違うし、それはお互いにわかってる。

アートスケープにも書いたけど、今回のプロジェクトに関わったところで、メジャーデビューできるわけでも、受験や就活で有利になったりするわけじゃない。誰かにほめられるか?と言ったらそうでもない。じゃあ何のためにやるかっていったら、自分の感覚を信じて、自分で考えてもらうために、異物になることでしかない。その異物性とはすなわち作品が面白いということでもある。

今プロジェクトに関わっている子たちはここで偶然、この異物に接触してしまい、自分もその一部になってしまうわけだけど、それ自体は全然悪いことじゃなくて、人生は稽古なしのいきなりの本番なのだから、その異物との接触に応答し、乗りこなしてほしいなと思う。すべての偶然の出会いを断つのではなく、応答し、使いこなしていけるリテラシーのようなものとは一体何かーとか考えると、それは柔らかい身体の使い方でしかないような気がしてる。


2012/02/26

時間をつぶす。時間をつくる。

児童館は時間をつぶすための場になってほしくないなぁと思う。
アトラクションは、時間をつぶすための時間をわざわざつくっている。児童館がそうなってほしくないなぁと思う。

時間をつくる、というのは2つの意味があって、1つは予定をあける、という意味。
もう1つは出来事や状況をつくる、という意味。「時間をそだてる」とも言えるかもしれない。

前者は、時間がスケジュール帳のようにグリッドにわかれていて、その1マスを何かの目的のために空けておく、という考え方。これは、その1マスが塗りつぶされることを期待していて、その時間を塗りつぶす、片付ける、という思考につながっていく。ひとつひとつ消えていくタスク処理の快楽を味わうためにこのグリッドの時間の考え方は有効。

後者は、時間を蔦のように伸ばしていくイメージ。ある出来事が生まれ、つながり、派生していく。失敗すればその時間は枯れ、伸びない。出来事から別の出来事へと連鎖をつくり、未来も過去も縦横無尽に移動する思考を生む。こんなふうに方々に伸びていく時間のつくり方・そだて方を知っているのが演出家であったり、美術家であったりする。音楽家もそう。それぞれ別の方法だけど、芸術家は「つぶす」とは別の感覚をもって、他者との間にある時間を育て上げている。

なんか今日話していて、児童館を開いていく、今のこの《全児童自動館》は、児童館に観客をつけ、育てていく活動にもなっていくんじゃないかなと思った。ナデガタの方法は、普通の素人の仕事を面白く見立てる。今回は中高生がその見立てられる側、になるわけだけど、その見立ての技術をしっかり見ておいてほしい。そして大人のお客さんがたくさん来る(呼ぶ!)から、大人がどういうところを楽しんでいるのかをよーくチェックしておいてほしい。そして、これから大人を楽しませる/驚かせる/裏切るものをつくっていく方法を、実践してほしいと願う。第二回全児童自動館があるとしたらほんとみんながつくったらいいよ。ぼくも応援するし。

壁に守られた、時間をつぶすための場所は少なくなっていく。そこでの時間をつくり、そだてていく主体はだぁれ?という話になってくる。