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2014/12/04

民謡、淡く深いギター、身体の変化

今日、vinylsoyuzの清宮凌一さんにお誘いいただいて、木津茂里さんという民謡歌手・太鼓奏者のライヴに行ってきた。YouTubeで見たことがあるぐらいだったのだけど、ライヴは想像を超えてすばらしくて、ほんとによかった。 木津さんの声の響きはもちろんだし、津軽三味線も三線も最高なんだけど、それに合わせている青柳拓次さんのギターの音がなによりよかった。ギターが鳴るだけで、こんなにも淡く深く響くんだ・・・。聞き慣れた『炭坑節』に青柳さんのギターの音が重なると、節が前景化して、その背景に淡く深みのあるフォーキーな響きが流れる。節とフォークと、2つ(よりもっと多く)の情景が重なってノスタルジックな未視感を味わう。 音楽もアートも、いまここでいろんなものごとが重なってるんだ!そしてそれがおれのあたまんなかでぐるぐるまわって穴を開けようとしてるんだ!という興奮作用みたいなものがあって、それはやっぱり人の心をアゲる。そして、日常の感覚と違うその興奮は、おれはこんなにも別の感覚で生きることができるんだ、というオルタナティヴを提示する。 「音楽やアートが日常を豊かにする」というのは、いろんな感覚、いろんな状態に、自分の身体が変わるということを学びうる手立てだからなのかもしれないと思う。

2014/11/17

キュレーションと子どもの施設

『キュレーション 「現代アート」をつくったキュレーターたち』(ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著、村上華子訳)を読んでる。そしてこのインタビュー動画がすこぶるシンプルで面白い。 現代アートの展覧会を企画するっていうことと、児童館を運営するということは、それは同時代性と変化の空間であるということでやっぱり通じているような気がしていて、それが何なのかわかなくてもやもやする。アートが多様な文脈の可能性を内包しているように、子どもたちもそうである。子どもこそアートだ!なんて言えないけれど、方向性は同じだと、やっぱり思う。

この本の中で、キュレーターは「メタ・アーティスト」なのでは?という見方も提示されている。アーティストの作品を、展覧会という大きな絵画の構成要素として扱う、というような。しかしそれでは面白くない。展覧会は多元的で、今見たものがつぎの瞬間にはひっくり返るような、絶えず変化するような、そういう場であってほしいと思う。

同様に教育者・保育者が「子どもってこうだよね!」「無限の可能性を秘めてるよね!」みたいなクリシェのために子どもが描いた絵や子どもの行為を並べ立てるのはおもしろくない。子どもの複雑さや子どもを取り巻く環境/大人の関わり方を批評的に考える場としての機能もまた、持ち合わせている。同時に子ども自身が次々といろんな表現/他者との関わり方を学習する場としても。











2014/11/11

速度をあげる仕草、突き上げるキック、ポンコツの選択 ― 服の記憶展 その2

2014年11月8日(土)・9日(日)、FORM ON WORDSの新作ファッションショー《ノーテーション》をアーツ前橋で開催した。


前橋に暮らす人々へのリサーチを積み重ね、生まれて初めて脚本のようなものを書き、なんとか展示を生み出してから1ヶ月。FAIFAIの野上絹代さんによる演出、Open Reel Ensembleの佐藤公俊さん・難波卓己さんによる音楽、Nakajimasによる映像がついてファッションショーが開催された。

参加者/モデルは本番の10分前に集まり、簡単な説明をうけたあと音声ガイドでリアルタイムに振り付けされていく。前橋に生きる5人の仕草を。繰り返される仕草は次第にその速度を上げ、最後はダンスになっていく。最終回は、絹代さんの誕生日プレゼントで渡した花束の花びらが舞った。



ハサミの音、ミシンの音、アイロンのスチームなどがその場で録音/再生され、次第に速度を上げ、最後はBPM120のキックが突き上げるようにランウェイを揺らす。壁面には、その場で撮影されている映像がプロジェクションされている。参加者のポーズ/仕草がスローパンで映しだされると、まるで生きる彫刻のようだった。



とにかくゲストの仕事のクオリティの高さにぼくらはただ驚くばかりで、今回も水戸芸術館の時と同じクルーだったけれど、かなりパワーアップしたことを実感した。

しかしFOWとしては反省点だらけだし、なによりこのショーを踏まえて今後どう展開するか、その選択が問われていることはみんな自負している。あとは、FOWがこのショーをどういう文脈に位置づけるかっていう戦略が欠けていた。この文脈にならコミットしたい!と強く思わせる何か、が足りなかった。それはFOW自身の問題でもあるし、これは「服の記憶」展という展覧会自体の課題でもあるように思う。

ぼくたちFOWは今、これまで断続的にしかやってこなかった「服を作って売る」ということを主軸に活動を編み直さなければならない時期に来ている。そこに今回のようなプレゼンテーションを、どのように編みこんでいくか。



今回のショーの制作も、きつかったけどとにかく笑いが耐えなくて、濱くんはドM扱いだし、竹内さんは寝てたり信じられない遅刻をかましたりしつつもみんなから愛されてるし、ぼくは気が回らないただのゆとりだし、まあとにかくポンコツ感のあるFOWメンバーを、スーパースキルフルなメンバーが支えてくれていました。

参加してくださったみなさん、絹代さん、佐藤さん、難波さん、中島くん、ユウさん、そしてのろさん、みちゅ、そしてアーツ前橋の学芸員のみなさん。当たり前すぎることですが、皆さんの力なくして、このショーの成功はありえませんでした。ありがとうございました。

これからはこのポンコツ感の良さを伸ばしつつ、同じ失敗は二度としないようにして、ゲラゲラ笑いながらつくっていきたいとそう思っています。

2014/11/01

FORM ON WORDS《ノーテーション》

新作ファッションショー《ノーテーション》
2014年11月8日(土)・9日(日)

他者の人生を再生する衣服

前橋に生きる5人の物語を参加者が準備なしに踊る




時間:各日 13:00〜/15:00〜/17:00〜( 各回20分程度)
会場:アーツ前橋 (〒371-0022 群馬県前橋市千代田町5-1-16)
   企画展「服の記憶 私の服は誰のもの?」展 内

FORM ON WORDSは、服にまつわる人々の「ことば」から新しい「かたち」を提案するファッションブランドである。
今回アーツ前橋で開催されている「服の記憶 私の服は誰のもの?」展では、前橋市に暮らす22歳から94歳の5人の男女をモデルに、彼らの人生を12の〈作業〉に集約し、彼らの人生の〈作業着〉を制作した。
今回のファッションショーでは、一般の参加者がモデルの人生を写しとった衣服を着て、音声ガイドでのリアルタイムの振付によって、稽古なしにこの5人の人生を演じる。
同時に、ミシンやハサミなどの作業音をリアルタイムで録音し、振付に合わせて再生することで音楽が演奏される。
人の人生の〈作業〉を写しとった服が、その〈作業〉をまた別の他者に写していく。
人から人へ、生きられた経験を伝える楽譜としての衣服を提示する。

演出・構成:野上絹代(FAIFAI)
音楽:Kimitoshi Sato + Takumi Namba(from Open Reel Ensemble)
映像:中島唱太 + Yu Nakajima
写真:湯浅亨

*ショーの鑑賞・参加には展覧会チケットが必要です。

《今回のファッションショーではモデルの方を募集しております》

モデルの経験は問いません。
事前の練習などはなく、当日15分前に集合し、その場で新作コレクションを身につけ、イヤホンから流れる音声ガイドに従って動いていくことでショーが成立します。新作をより深く感じることが出来る、特別な機会です。ふるってご応募ください。

定員:各回5名
対象:中学生以上、経験などは問いません。
集合時間:各回15分前
参加費:無料(要観覧券)
参加方法:事前申込制(先着順)
住所、氏名、年齢、電話番号、参加希望回を添えてお電話にてお申込みください。
電話窓口:027-230-1144(アーツ前橋)

お問い合わせ

[ショーの参加、開館時間、取材申し込みはこちら]
アーツ前橋
電  話:027-230-1144
メール:artsmaebashi@city.maebashi.gunma.jp

[ブランドに関する問い合わせはこちら]
FORM ON WORDS
電 話:080-1207-1395(担当:臼井隆志)
住 所:〒151-0001 東京都渋谷区神宮前6-51-11 
    原宿ニューロイヤルマンション 601
メール:info@formonwords.com

2014/10/27

空間を変える、仕事のトレーニング ー 石神井児童館工作室のリノベーションについて その1

先週一週間をかけて、昨年度から企んできた石神井児童館の改修工事を終わらせた。遠藤幹子さんに設計をお願いし、棟梁こと北條さんの現場指揮に従いながらアージスタッフ4人とがんばってこしらえた。



職員さんと相談し、とにかく不要なものを処分してもらった。断捨離。

バール(釘抜きのこと)とトンカチで棚を解体し、壁紙をはがして黒板塗料を塗った。

天井のカーテンレールと、備え付けの棚を白く塗って存在感を消した。

解体した棚を建具にして、これまたカラーの黒板塗料で塗装した扉を取り付けた。

棚をばらして有孔ボードを取り付け、展示したり自由な工作材料を並べられる場所をつくった。












毎日リポビタンDを飲みながら、丸ノコで吹き上がるおがくずに苦しみながら、和気あいあいと作業をすることができた。作業中に食べたドーナツが、その糖分が脳髄に染みわたる感じがして、とにかくおいしかった。あと、作業後に食べたごま油と塩で食べるレバテキも。



さてところで、今回のプロジェクトは施工をして終わりではなく、新しい空間をつくることで新しいプログラムを生成するのが目的だ。それは、子どもたちが職員のサポートを得ながら、自らここでの活動をつくっていくことだ。活動はむしろ、これからスタートする。これまで子どもの自治だ何だと言っていたけれど、実は「仕事」ということともつながってくるんじゃないかと思う。

超当たり前のことだけど、建築家は「人がこれから生きていく場所」をいくつもつくっていく。遠藤さんと仕事をさせてもらって、愛情と気遣いを尽くし、驚かしたり楽しませたりすることが絶えず生まれるような場所を次々と形にしていくなんて、建築家とはなんて大変で楽しい仕事なのだろうと改めて感動した。

「仕事」というのは言われたことを言われたままにこなすのではなく、「こうしたほうが(自分の生活が/世界が)面白くなるのに」というアイデアをリアライズする技術なんだなと思う。世界のお金の流れの中で、周囲の人に相談し、協力を頼み、自分のアイデアをちょっとずつでも加えながら、具体的に変化を起こす技術というか。

最近親しい人から「心理士」という仕事の話を聞いている。そこで思うのは、どんな仕事にも創意工夫が必要だというこれも当たり前のことだ。カウンセリングって人を癒やすちょっと神秘的な仕事に見えるが、その実務はクライアントの親や学校や機関とのつなぎ役だ。。あるいはクライントを守るために人とのつながりを断つ、小さな政治的な仕事だ。人と人との間を何度も縫ったり切ったりすることで、クライアントの生活を少しでもよく、軽くしていこうとする、心理士一人ひとりに創意工夫が求められる、難しい仕事だ。

今読んでいるハンス・ウルリッヒ・オブリストの『キュレーション A brief History of curating』を通しても、キュレーターがアーティストやビルの管理人などと協力して、創意工夫していくことで新しい美のタームがつくられてきたことを感じる。

でも、よく考えてみると、ぼくらは、自分でアイデアを出してそれを人と協力してかたちにしていくトレーニングを、子どもの頃から積んできているだろうか。そしてぼくは今でもそのトレーニングを怠ってやしないだろうか?子どもたちと一緒にそのトレーニングを積んでいける場所を残り半年でつくっていくっていうのが、なんかぼくにとって切実な動機なんじゃないかという気がしてきている。

そのトレーニングを発展させ、お金の流れの中に身を投じることが、仕事をする、ということなんだなと思う。

そういえば、ぼくが「アーティスト・イン・児童館」を始めたそもそもの動機は、子どもたちが面白いことに出会う場所をつくりたいと思ったことだった。最高のハプニングが起こるのを待つための場所を作りたいとおもったことだった。しかし、そのためには、お金の流れに乗る必要があったことを痛感しているのが現在だ。ぼくにはまだまだそれができていなくて、お金の流れが見えていないことが最大の欠点だ。そして、その欠点を克服するには時間がかかる。アイデアを形にする修練と、お金の流れの中に身をおくことをしていく20代後半にしていきたいなと思った先週であった。


2014/10/11

前橋、リサーチ、夜の恋慕 ー服の記憶展について その1

昨日から始まったアーツ前橋での「服の記憶」展。展覧会についてもちょこちょこアップしていこうと思うのですが、その前日譚としてリサーチの過程をちょこちょこ書いていきたいと思っています。これはオープニング明けて眠たい頭をかきまぜながら、高崎線にのって書いています。

今回の新作では、前橋に住むいろんな人に話を聞いて、面白いなとおもった5人の方に協力をいただいてその人のための服をつくり、展覧会ではその人の人生経験ごと試着する、というもの。他人になることはできないが、他人の人生に袖を通すような体験を服はさせられるんじゃないの〜というところが今回のキモ。

2週間前、今回の新作のために必須である夜の前橋リサーチということで、21時から飲み屋をほっつき歩き始める。前橋は昼間のかんさんとした姿とうってかわって週末の夜はとりわけ元気だ。

目的のスナックへ。こういうところ、遊び慣れていないんで、、、とドギマギしつつビールを飲むと、さっきまでリンパマッサージ30分コースで身体をごりごりにほぐされている竹内さんは二杯目でもう絶好調な感じになって、服の話を陽気にしている。とはいえ、普通にママからたくさんの話を聞くことができた。

スナックと児童館はよく似ている。お店の人がいろんな人の席に入ったり抜けたりしつつ勘定や洗い物バースデーケーキの準備はボトルやグラスの片付けをテキパキとする女性たちの振る舞いはさながら児童館の職員さんだ。



とはいえ、ここは大人の空間だ。ぎゃっはっは!じゃあ騎乗位中だしが最高ってわけ?エロいなー!エロい女だなー!みたいな声が聞こえてきて、ギョッとする。かと思えば、サンダルと短パン姿のラフな格好で、というか寝癖で、カウンターで好きなものの話をしまくってる感じの人もいるし、のど自慢だ〜!と言わんばかりに渋い歌声響かす人もいる。
人々の面白い様子が見える。ん〜、こういうところは男性が甘えにくる空間なのかもなあとも思う。擬似的な母子関係、擬似的な恋愛関係を求めに来ているようにも見える。ぼく自身もママにいろんな話を聞いてもらって、いい気になっていた。

スナックでひとしきり話を聞いたのち、夜の街をあるきながら、そもそもスナックとキャバクラってどう違うんでしょうねと、竹内さんが言い始める。行ったことあります?いや、ないっす。行ってみる?比較のために。ほあーまじすか?って会話しながら歩いていたら、どう?そこのスナック、若い子もいるよ、60分4000円でビール焼酎ソフトドリンク、と近寄ってくるおじいちゃんをスルーして歩いてて思ったけど、前橋の千代田町はとにかく夜になるとわっと人出が多くて、昼間の少ない人通りの様相が変わり、キャッチの人たちで街が賑わう。

どうすかどうすか!アニキアニキ!あのーーーーうちの話も聞いてもらっていいっすか!いやぁ、もううちに決めましょ!はい!ほい!

キャッチにも作法があって、4つぐらいの店舗に囲まれたんだけど、一つの店舗が説明してるときは、別の店舗は値段や条件のことを口にしない、というのがある。アニキアニキーー!という声は出し続ける。

はー、そうやって勧誘するもんなんすねー、アーツ前橋って知ってます?あそこで今度展示するために来てるんですよ、ぜひ来てください、へー!そうなんですか!私娘がいて娘が洋服大好きなんですよー、娘と行きます!ぜひぜひ、いろんな洋服が観れて楽しいですよ!とかいいながら、何してんのかよくわかんなくなる。

んで、結局一番若くて元気なお兄さんがキャッチしてたところにいくことにして、人生で初めてキャバクラに入店した。20分ごとに女の子が入れ替わっていくシステムで、2人で行ったから6人の人に出会ったんだけど、みんなに「服の記憶」展の説明をして終わった感じだった。一人だけ、ニゴーとかでてるやつですよね!知ってるー!という人がいた。

んでぼくはというとなんの悪気もなく、いまスナックからのキャバクラに来てるよーと彼女にLINEをしたら、「なに。」とだけ返ってきたのでギョッとして酔いが覚める。腕組みをしながらあーだこーだ考えてどう説明したらいいかを考えていると、ほらほら早く返事しなよー!と隣に座った子が身を乗り出してぼくのiPhoneをぽんぽん触ってLINEを開いて返事を打とうとしはじめたので、これまたギョッとして身を引く。

竹内さんには、おい、キャバクラきて腕くんでんじゃねーよ!とツッコミくらいながら、ぼくはめったなことで怒らない彼女がイラっとしてるのを感じて焦りつつ、酔っ払った手で返事を打つ。

まわりのお客さんを見みると、肩を組んでカラオケを歌っている二人組がいる。声の張り上げ方とか、たまにカウントダウンTVとか見るといるキャバ嬢っぽい歌手の人がいて、ああこの歌い方はキャバクラ的な歌い方なのかもとか考える。

別の席では日サロで焼いた肌がテカる血の気の多そうなワイシャツの男性3人組が、女子たち相手にどんどこどんどこ盛り上げている。さながら映画『ソーシャルネットワーク』のジャンスティン・ティンバーレイク。なるほどこれはスポーツ感覚なのか。いかに女子を楽しませられるか、自分の雄々しさを試す遊びなのか。ガチの求愛ではなく、求愛の遊びとでもいうか、そんなゴリラ感があった。

しかしま〜、何を求めていったわけでもないが、この遊び方はぼくたちには合わなかったみたいだ。店を出た後の感じは茹ですぎた夏野菜を齧ったときみたいだ。水っぽくて味も食感も残念になっちゃった茹で過ぎのトウモロコシみたいな。

いやあこりゃあなんにも残らねえや、彼女には怒られるしよーとか言いながら、キャバクラをでて、むちゃくちゃ美人な女将さんがやってる鰻屋さんでうなぎの蒲焼を食べよう、って話になって、キモ焼きをつまみに飲んでるお客さんからビールを一本ご馳走になる。なんでも女将さんの高校の同級生かなにかで、高崎から来て月に一度こうやって晩酌するんだとか。今年で52歳って言ってたかなぁ。

ぼくはどうにも彼が女将さんへの恋心をずーっと持ってんのかなぁと思ってしまって、ああ慕情とか思ってたんだけど、翌朝竹内さんに話したら、いや、あれはただ仲良いだけに決まってますよ、というのでさすがフラれたことのない男は違いあると思って負けた

ルーザーな自分には彼の慕情がなんとなくわかって、実らないけどしぶとくなっちゃう男子の恋心に、しっとり照れる女将さんの顔の艶っぽさをみて、なんとなくほっとする。
夜の世界はこんなふうに、その土地の人たちのいろんな求愛がマーケットに乗って動いている。そのグルーヴの中で遊びながら、いろんなかたちの求愛の渦を食らうのは楽しかった。

アーツ前橋での「服の記憶」展、次回はまた別のリサーチの様子を書きます。

2014/09/16

仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』



新宿シネマカリテにて、ずっと観たかった『大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院』を観る。

監督が最初に撮影を依頼してから16年後に「準備は整った」と許諾を得、撮影は6ヶ月修道士として迎え入れられて、ともに生活しながら撮ったという。とはいえ、1日に1時間程度しか撮ることができず、6ヶ月間でおよそ120時間。そのまま上映したいぐらいだっただろうに、その映像を169分に編集した。2006年公開の本作は、日本公開までにさらに8年かかった。

「沈黙」とは完全な無音ではない。この映画は終始、聞いたことのあるようでない音への驚きに満ちていた。そして仕草の美しさ。というか仕草の美しさとは、仕草の「音」の美しさなのかと、こんなにも思ったことはない。

例えば、コップを机に置くときのムード。コトリと静かにおくか、ゴンと思いやりのない音をたてるか。日々の仕草のムードを演出してるのは実は音なんだなと。

修道士たちの仕草は、幾度と無く繰り返され、無駄を省き、丁寧さを練り込んだ仕草。たとえば、青い服をきた老修道士が畑の土をぶあつく覆う雪をスコップですくう場面。土の表面を削らないように、雪だけをすくうように、丁寧にスコップを雪に差し込んでいくんだけど、うっかりほんの少しだけ土をすくってしまったとき、またスコップでその土だけをすくって畑に放ったのだ。また、靴を修理するとき、靴底と革を貼り付けるボンドを塗り、息を吹いて少し乾かすのだが、その息を吹きかけるリズムと長さ、丁寧さ!

ていうか、そもそもなんで修道院はあるのか、修道院のもろもろの行為の目的はなんなのかって考えたとき、最近読んだ本の一節を思い出した。

行動する者は勝利したいと欲する者だ。勝利する者は他者に苦しみをもたらす。行動を断念することだけが、幸福と平穏への唯一の方途なのだという憂愁。

でも、行動しないで生きるなんて無理だよなぁ。呼吸するし、のどが渇いたら水飲むし、お腹すいたら食べる。家がほしい、恋人がほしい、とか欲求は高まる。もしかしたら修道士という人たちは、すべての行動とそれによってもたらされる勝利を(可能な限り)断念しようとしているのだろうか。そしてそれらの仕草に祈りを練り込んで生きていこうとしている人たちなのかもしれない。

そしてそこには希望が漂う。神に近づける、慈愛に満ちた人間として生を終える。その希望に悲哀を見てしまうのはぼくが俗世の人間だからだろうなとか。映画をみるぼくらとは別の生き方を選んでいる人たちの姿は、人間が他者を苦しめることなく共に慈しみ、あわよくば楽しみ生きるには、人間の魂はどうあるべきかを静かに問いかけてくる。

ちなみに、ボンドで修理した靴は、週に一度だけ遊びにでかけるときに雪山で履く。スキーのように滑って遊ぶ修道士達の様に、遊びとはこんなにも瞬間の喜びなのか、と。他者とともにいかに生きるかという魂への問いから、一瞬だけ解き放たれる瞬間が遊びの美しさなのか、と。

まーとにかく約三時間、耳を澄ますべき映画。日々の自分の仕草の音をもう一度聞いてみようと思う。