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2015/12/09

飲み込めない想い、ワークショップ、笑い ー映画『恋人たち』

もう二週間前になるが、橋口亮輔監督の『恋人たち』を観に行った。トレイラーも見ず、職場近くのテアトルの看板だけで、下のコメント

"飲み込めない想いを飲み込みながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして"人間の感情"を、ちゃんと描きたい。"
ー橋口亮輔

これを見て、あ、必見と思って仕事終わりに駆け込んだ。そして、その予感は的中した。ぼくはこの映画を観てよかったあーーーー!!!と思った。その理由は、ワークショップから生まれた作品であること、そこに自分がいると思えること、聞こえない相手へのモノローグの3つ。



映画を作るワークショップを、プロアマ問わず様々な役者の人たちと一緒に実践した、という話は荻上チキさんの「session 22」で知った。橋口監督にはそれ以前にプライベートでとても辛いことがあって、社会的に立ち直れないかもしれないとどん底だった時期に、人に誘われて始めたワークショップがカムバックのきっかけだったという。その内容の一部は、 橋口亮輔の「まっすぐ」というエッセイに詳しい。

ぼくも子ども向けのワークショップをつくる仕事をさせてもらっているけれど、このエッセイに書かれているような、他人の人生をえぐるエチュードをするようなものはまだできていない。本当は他人の人生を変えてしまうほどの磁力を持った場がワークショップなのだろうと思いながら、自分にはまだまだだと思うし、そんな責任も取れていない。

そんなみみっちいぼく自身と比較するまでもなく、橋口監督はその「他者の人生をえぐるようなワークショップ」に身を乗り出し、自分自身の人生をえぐりながら恢復し、映画に向かったのだろうと思う。そうしてえぐられ、恢復していった監督や参加者の人生が映画というバゲットにレバーペーストのように塗りたくられ、観客は苦味とともに希望を味わう。そのためのメディアとしてワークショップがあったのだ。ああ。

※以下、ネタバレ注意

そんなたくさんの人の人生が塗りたくられた映画のなかに、ああ、自分がいるなぁと、我々は感じざるを得ない。愛する妻を亡くした若い男、旦那と姑との生活を送る主婦、やり手のゲイの弁護士の3人が主人公なのだけど、彼らが他人に対して耳を閉ざすこと、情けなとわかりながら行動できない悔しさ、幻に救いを求める滑稽な姿・・・役者のえぐられた人生は、観客の人生も、えぐっていく。

そしてクライマックスの一連のシークエンスは、3人の主人公が、耳を閉ざしてしまった恋人たちへのモノローグへとつながっていく。「飲み込めない想いを飲み込んでる人たちの"人間の感情"」が、やりきれない状況のなかで、そしてそれぞれに聞こえない他者に向かって吐露するシーンは涙なしに観られなかった。

他にこの映画の良かったところは、懸命に生きる人の滑稽さが、どうしようもなく笑えてしまうところだ。水曜日の映画デーで、男女ともに1100円で見られるテアトルには仕事終わりのいろんな年齢の人が集まっていて、随所で笑いが起きていた。温かみのある劇場の雰囲気も、最高だった。

以下、笑えたセリフ集
「ほら、静電気ないんだよ」
「そりゃそうだ」
「ほんとやだ〜」
「いいものいっぱい入ってる。そうだね。自然ってすごいね」
「あれ、回んないなこれ」
「それが今の旦那なんだけど」
「先生、泣いてくれてるんですか〜?」

そう、裏切りや理不尽さ、やりきれなさのなかで傷付いた重たい人生は、ふとした笑いで軽やかになってしまうのだ。ぼくが一番笑ってそして泣いた黒田の言葉「笑うことは大事だよ」に、そうだよね、と思うのだ。

今の時代感とか、黒田の名ゼリフ集とか、語り口はいくらでもあると思う。未見の方はぜひ。観た方は一緒に飲みましょう。

2015/11/24

物の語り、石の語り

子どもの遊び道具について日々考えている。道具も玩具も「物」であり、0~4歳ぐらいの小さい子どもの遊びを見ていると、物を投げたり鳴らしたり転がしたり並べたり、物を使った遊びのなかに、物と対話しているように感じるときがある。その対話が楽しくなるためには、物がより多くのことを子どもに語りかけ、また、子どもの話(行為)を良く聴く(受けとめ、リアクションする)、というのが重要なのだ、と思う。

「物語」っていう言葉って、もしかしたら「物が語る」というか「物の語りを聴く」ということなのかもしれないと思う。こんなことを考えていたら、一つ思い出すことがあった。

小学生のとき、猛烈に打製石器と磨製石器にハマった時期があって、学校から帰ってマンションの裏山に入り込んで石をコンクリートに打ち付けて割ったり、ガリガリ削ったりして、それで木を削って遊んでいた。

そのとき、同時に「堆積岩」と「火成岩」についても習っていた。火成岩はマグマが冷えて固まったもの。堆積岩は水などの流れによって運ばれたものが固まってできたもの。そういう知識があったから、石を拾い集めているときに、それらの石が辿ってきた時間に思いを馳せた。

これが、ぼくにとっての「物の語りを聴く」という原初体験だ。


ただ、「物の語りを聴く」ために別に知識は必要ないはずだ。触ったり、投げたり、いじくりまわすことを通して物と語り合う、とはどういうことか。さて、もう少し考えてみよう。

2015/11/09

いい遊び、トラストミー ー映画『わたしの名前は…』

ファッションブランド「アニエスベー」で知られるアニエス・トゥルブレが本名で発表した監督作品『わたしの名前は・・・』を、渋谷アップリンクで観てきた。


家を飛び出した少女と、トラック運転手。奇妙なふたりのロードムービー。
映画は、あっと驚く結末へ向かって進んでいく。主人公の12歳の少女は父親から虐待を受けていた。ある日、学校の遠足で出かけた海辺で偶然停まっていたトラックに乗り込んだ彼女は、スコットランド人のトラック運転手と共に逃避行に出る。フランス語と英語、言葉が通じない2人は、次第に心を通わせていくが…。10年以上前に新聞で読んだとある事件の記事をきっかけに、アニエスべー自身が脚本を書いた、瑞々しいロードムービー。(映画公式サイトより)

なんでこの映画を観たいと思ったかというと、ファッションに関わる仕事をしている手前、アニエスベーのような有名なブランドをつくった人がなぜこんな映画を撮りたいとおもったのか、そもそもアニエスベーってどんな人なのか、知っとくべきかなとかそういうお勉強的な興味だった。しかし想像を超えて映画は素晴らしかった。様々な映像技法を試していること、即興性、そして色や形の作り込みは、映画が初めてとはいえ、ファッションの現場で場数を踏んでいるだけでなく、『マルホランド・ドライブ』や『パルプ・フィクション』の衣装に参加していたり映画制作を支援していたりする、さすがの熟達っぷりで、あのシーンもこのシーンも素晴らしいシーンの枚挙にいとまがない。

あらすじにもあるとおりこの映画は少女とトラック運転手のロードムービーなのだが、それはこの2人が、世界中のどこにでもある郊外の、他者への情愛も尽きそうなほどストレスフルで気怠い生活のなかで傷を負って生きている日々から逃れる、つかの間の旅だ。その旅は唐突に始まり、静かな予兆を携えながら終わりに近づき、そしてやはり唐突に終わる。その終わりを2人がいかに引き受けたか、ということがこの映画の見どころだ。

とりわけぼくが素晴らしく思ったのは、現代美術家のダグラス・ゴードンが演じるトラック運転手ピーターの存在とその描かれ方だった。彼は少女がトラックに乗り込んでいることを発見しても、ほぼ何も言わずに隣に座らせ、「どこから乗ってきたんだ!」とか「こんなことをしたら、大変だ!誘拐になってしまう!」みたいな野暮なことは言わない。その日の夜は何も言わずに寝て、次の日の朝に「おはよう」という。そして、終わりもまた静かに迎える。

このピーターが「いい遊びを思いついた、俺を信用して。」といって肩車した少女を逆さまにするシーンがある。その状態でぐるぐる回る様はあぶなっかしいのだけど、少女は嬉しそうに振り回されていて、彼は息を切らせながらも笑いながらぐるぐる回る。

キレキレな演出のなかで、ほんの些細なワンシーンなのだけど、この映画全体のことがこのシーンに詰まっていた。少女がトラックに乗り込んでいるのに気づいたとき、ピーターは「いい遊びを思いついた」のであり、そしてフランスパンをナイフで半分に切ってピーナツバターを塗ったものをあげたり、次の日の朝におはようのあいさつをしたりして、「Trust me」と無言で伝え、数日間の旅路を少女と一緒にぐるぐる回るのだ。その遊びの終わりをもまた、彼は引き受けるのである。

かっこいいい!!!!!かっこよすぎるっていうか、うおー!!!

みたいな気持ちになった。

以前にツイッターで、こんなことをつぶやいたことがある。

最近考えてることだけど、ここ数年、あらゆる理不尽さをゆったりと許容し、声に出さないけど他者が求められるであろうことをしなやかに行動して解決に導いていく「キャパシティ男子」というのが増えている、気がする。

ピーターは孤高のキャパシティ男子だったのだなぁ、とか思うと映画が一気に陳腐に見えてしまうけれど、そう感じた。



そしてぼくは見終わったあと、パンフレットを買った。パンフレットがただ可愛かったのもある。だがなにより映画を観てパンフレットを買い、一緒に観た人と飲みながら映画の話をして、帰りの電車でパンフレットを読む、という体験を久しぶりにやってみたくなった。映画館の中では気づかなかった細やかな設定や、俳優の背景、監督の思い、観た人のレビューなどなど、パンフレットで映画のことが語られているのを読んで、映画を観た余韻が言葉になっていくのが嬉しい。

そういえば昔『千と千尋の神隠し』のパンフレットを買って、穴があくほど観ていた。細部までこだわってつくられた映画の細部を知ると、その映画をもう一度観たときの味わいが変わる。何度も繰り返し観たくなる。観るたびにその時々の自分の人生とリンクして、映画が自分の血となり肉となる。

わかりやすいお土産のない体験型ワークショップにも、こういうパンフレットがあるといいんだろうなと思う。


関連する記事はこれ
「読み語りき、書く語りき」

2015/10/19

予感、仕掛け、気配 ー《パワースポット》展に行った

仕事にしても何にしても、感じていることを言語化していくことで知恵が蓄積されていくので、このブログはあまり考えず思いのままに書いている。

10月17日(土)の朝に思い切り熱を出して、まぁよくあることなのだけど、休まざるを得ず。ぐったりしていたら夜になっていて、そしたら大量に汗をかいていて熱も下がっていた。

翌日の日曜日は千葉までいって、彼女の実家に行って結婚の申し込みをしてきた。死ぬほど緊張した、というかどうしていいかわからなくなって、お父さんのサポートがなくてはぼくは本題を切り出すことができなかった。優しく晴れた日曜日の午前11時に、言いたいことを言えて、思いも寄らず受け入れてもらえたことが嬉しかった。

自分なんかが結婚なんてしていいのだろうかと不安もあるし、自信もないし、かといって迷いがあるかと言ったらないから、ことが進んでいる。この人と一緒に生活したらきっと楽しいだろ!っていう予感に満ちていて、前途多難だけど家族もそれを受け入れてくれる気配がある。何がこの予感と気配を醸し出しているんだろうなと考えたら、人の意志という仕掛けだろうな。



そして10月19日は、一件打ち合わせを済ませたあと、Atsukobarouhというギャラリーでひらのりょうさん、ぬQさん、最後の手段さんというクリエイターたちによる展覧会《パワースポット》を見に行ってきた。

ひらのりょうさんはこのMVの疾走シーンでファンになった。「君に会いに行く」という詞のリフレインと疾走、どんどん変わっていく現実と会えない距離みたいなのがたまんなくてこの歌のスピード感とあいまってしびれた。



展示は、作家のセンスがどばっと込められたタブロー、ミニチュア、ぬいぐるみなどの間に映像が上映されているのだが、中央に置かれたスイッチを押すと、プロジェクションされた映像とブラウン管のテレビに映された映像と音楽が切り替わる。


そしてスイッチがつながっているケーブルを辿ると「作家の間」というバックヤードにつながっていて、そこで作家さんたちがZINEを増刷したり、フリマをしていたり、赤ちゃんが遊んでいたりする。



こうやってここにあるものを作った人達が裏側にいて、そこにぼくらも踏み入れることができて、ここに漂うものたちによって何かが始まる予感や、動き出しそうな気配が、こうして人によって仕掛けられていることを素朴に感じる空間だった。人がものを動かす、という素朴で不思議なパワーのスポットだった。

物事の間に漂う、何かが始まったり動き出したりしそうな気配が漂う空間には何かが仕掛けれれていて、その仕掛けは人の意志とセンスによってできてるんだなと思った。

2015/10/17

読み語りき、書く語りき

先日のブログ「仕事、生活、読書、運動」で書いた「読書について」、その続きで考えていることがある。



まず、「なぜ本を読むのか」という問いに対して、このあいだは「人生の参考書にしたいからだ」と書いたけれど、もう一つの答えがあるような気がしていること。「なぜ本を読むのか」、と聞かれたらぼくはもうひとつ「読んだことを他人に語りたいからだ」と答えるなぁと思う。読書にたいして「語書」もしくは「書語」って言葉はないのかな?書について語ると。

読書というのは感覚的な体験だ。理論書にしても小説にしても、ぞっとしたり楽しくなったりサクサクと納得できたりわからなくなって頭がぐるぐるしたり、露骨な、あるいは静かな高揚をもたらすものだと思う。ぼくは「体験」は言語化することで初めて「経験」になると思っている。体験はその場かぎりだけど、経験は語ることで幾度となく更新される。それでいて読書は何度も体験できる。

「1冊の本を理解したければ10回読むべし。10回読めば、その本の真意がわかる」とも思っている。10回異なる読書体験をして、10回異なる切り口から語れば、真意がわかるどころか、新しい理論もしくは新しい物語に、読み手自身がつくりかえてしまっているだろう。一冊の本に感化されるなら中途半端に鵜呑みにするな、どっぷり入っちまえ。どうせ作者にはなれないのだし、どっぷり入ったところから抜け出したころには作者でも読者でもない別の自分になっているだろうよ。

あと読書について考えているもうひとつは、目的をもって本を読むことの退屈さだ。本を読むときはなんとなく手にとって読み始めたら止まらなくなる、ということが重要だ。ときには無理して読むことで 快に到達することもあるけれど、趣味なんだからそんな無理しなくたっていい。

不思議なことに読書というのは、ある種の目的というか「◯◯についての知識を得よう」もしくは「◯◯を読んだ、という実績をつくろう」と思って読むと至極退屈なものになる。

目的なく読み始めたものから想定外のショックを受けることがある。これこそ読書の醍醐味で、期待していた知識や心象とは異なる方向に自分の心が揺り動かされ、ここで書かれている内容ってこれやあれとつながるのかもしれない!と、想像だにしていなかったリンクが頭の中で弾ける。この驚きが気持ちがいい。

さて次はなんの本を読もうかな。

*関連する記事はこれ
「仕事、読書、生活、運動」
「自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて」



2015/10/05

仕事、生活、読書、運動


mac book proを新調して初投稿。画面はきれいだし、キーボードは壊れてないし、サクサク動くし、最高だ。んで、ただ新しいパソコンで何かしたかっただけで特に書くこともないのだけど、最近考えていることをメモしておく。



1. 仕事のこと。
3年ぐらいかけて、ひとつのリサーチをまとめたいと思っている。子どもの社会参加と今つくっているようなワークショップとこれまでの児童館の活動と、自分のなかでマッピングしたものを外在化できるようにしたいということ。自分の考えの地図と方位磁石をつくりたいと思っている。



2. 生活のこと。
本八幡あたりに引っ越したいってことで昨日リサーチに行ったら街の雰囲気はなんだか素敵だし、葛飾八幡宮はきれいだし、和多屋っていういい居酒屋見つけちゃうしで最高。ホームセンターが近くにあるらしいので、いい本棚とサイドテーブルを自分でつくりたいと思っている。


3. 読書のこと。
小説を読むのは趣味だけど、仕事のリサーチのために読まなきゃと思う本もたくさんある。はてさてどちらを優先させるべきなのか。そもそもなぜ小説を読むのかを考えてみると、結局は「自分自身の物語」を描く方法を知りたいというエゴイスティックな欲求があるからだと思う。「自分自身の物語」には現実や事実じゃなくて思想や空想も含まれるわけで、あらゆる小説が「自分自身の物語」のリファレンスなのだとしたら、ぼくはどの小説を参考にしているのだろう。そのことを知るのはきっと楽しい。

4. 映画のこと。
フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』がまた名画座で上映される。今度こそいかなくちゃ。




5. ジョギングとプールのこと。
運動をすることで体調が落ち着く。運動をしないと、疲れているのに暴れたいような気分になって落ち着かない。たった20分でよい。走るにしても、泳ぐにしても、一つのキックもしくは腕かきで、体がぐーっと前に進む感覚があって、ストン、グー、ストン、グーというミニマルなリズムの繰り返しが体を躍らせ同時に落ち着かせる。フロイトの「快楽原則」もそういえば「不快は興奮量の増大で、快は興奮量の減少だ」って話だ。


6. 仕事のことその2。
何をやるにしてもやり方が雑になりがちなのはぼくの欠点なのだが、10月から下半期に入ったということで、運営の計画を運営しながらつくっていかなきゃいけなくて、それはみんなで出てきてる情報を整理して共有するということの繰り返しになっていく。情報の整理には時間がかかる。少ない時間でいかに冷静に情報を整理するかってことだから、問われる力量。駄馬でも走るし考えるのだ。









2015/09/25

野生のメディアセンター ーYCAM《think things》展のおぼえがき

9月16日から17日、山口情報芸術センターYCAMに遊びに行ってきた。YCAMとはいろんな関わりがあるし、いまでは去年までアーティスト・イン・児童館で活躍してくれてた金子春香さんがファシリテーターとしてYCAMで活躍中でもある。


ぼくは初めて行ったときから山口が好きで、仙崎のヤリイカも、ヒラソも、マフグやトラフグのアラも、スーパーで安く手に入っちゃう感じとか、温泉とか、あとは獺祭にとどまらない日本酒の数々(五橋が好き)とか、あとカマボコがめちゃくちゃおいしいとか。今回も魚類を食い散らかしてきた。

それに加えてYCAMは、やっていることが独特でクセのあるところが好きだ。ん〜!なんかいい時期だし!現在開催中の《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展を見に行かないわけにいかない!ということで休みをもらって行ってきた。
http://thinkthings.ycam.jp

前回行ったのは2013年で、そのときの記事はこれ。「遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて」http://takashiusui.blogspot.com/2013/11/ycam.html

10周年記念祭では「life by media」というプロジェクトで、商店街で住民と関わりながら様々なアーティストが関わっていた。そして2年後の今回行ってみて、fablabができていたり、食の拠点形成のムーブメントがあったり、YCAMがハブになって、人々の生活圏のなかに新しいカルチャーの拠点が膨らんでいっているのを感じた。

エデュケーターの菅沼さんは、「これまではYCAMのラボとアーティストがある意味クローズに作品制作をしてきたけど、これからは生活する人々に対してオープンにしていくほうが面白いと思うし、公共施設としての役割はそこにあると思う」と話していた。



《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展はその意味で、遊ぶことが生活することである子どもたちを中心に、ユーザーと共同で展示内容を生成していく場だった。YCAMのスタッフがつくったヘンテコな道具(振動によって数字をカウントするボール、光が当たると音がなるボール、棒の先に玉が付いているものなど)を使って、来場者が遊びを考える。考えた遊びのルールや注意点などを記述して「あそログ」をつくる。つくったログは会場とウェブサイト上で共有される。仕掛け、生成、アーカイブがぐるぐると循環する仕組みになっている。



たとえば、光が当たると音がなるボールを使って、光と音の鬼ごっこをつくる。その鬼ごっこに名前をつけて「あそログ」に登録。そうすると次に遊ぶ人たちがそのログを読んで鬼ごっこのルールを発展させる。そうやって遊びがどんな風に進化していったのか、「あそログ」から生態系を読み解くことができる。




ここではYCAMのラボスタッフの人たちが考えた、シンプルな仕掛けのアイテムが並び、その名前がどれもかわいい。スイッチを押すとシンバルやスネアドラムが鳴る「スイッチ虫」とか、転がすと数を数える「なかまんボール」とか、棒の先端に玉がついている「おおわきぼう」とか、ラボスタッフの名前にちなんだものも多い。



「あそログ」は、ネット上で読んだだけではなんのことが書かれているのかよくわからない。わからないがなんだか子どもたちが一生懸命丁寧に書いているので読んでしまう。会場で読んでいると一般名称ではない名前が使われ、ツールとユーザーの間に特別な親密さが生まれているのがわかる。まるで古代文字を読み解いているような、ある部族の村に迷い込んだような気分になる。



このツールたちのなかでも面白いのは「インプット」と「アウトプット」の可視化、外在化があるところだ。たとえば数字を10まで数える、とか、音がなる、とか。

児童館とかで鬼ごっこをして遊んでると
「タッチしたよ!」
「ぴろーん、されてないよ〜」(ほんとはされてる)
「したよ!」
「されてないですー」(ほんとはされてることもわかっている)
「したってば!」→泣き

みたいなことってよくあって、こうやってルールを守らないとぐずぐずになることがよくあるけど、これらのツールは遊びのなかのインプット(タッチ)とアウトプット(タッチされた)を客観的に判断可能にするんじゃないかな、とか。実際は誤作動のようなものも多いかもしれないし、その様子は見ていないからなんとも言えないけど、遊びを堕落しないようにする効果がありそう。

遊びの中でユーザーのメディアリテラシーが高まっていく、というのは、野生のメディアセンターYCAMならではだ。

「展覧会+ワークショップという形式を使って最先端のアート作品を市民に伝える、みたいなことってもう古くて、これからはワークショップでコミュニティでボトムアップだ!」という感じもなんだか気持ち悪くて、結局はフレームを作っている人の知恵と経験と技術のトップダウンと、それを使う人たちのボトムアップの拮抗の中にしか物事は生まれないと思うし、そのことを体感した。



会場内には夏休みの子どもたちのエネルギーによって増殖した700枚ちかくの「あそログ」が展示されていて、いずれも変な名前が使われ、ルールの説明文がヘンテコだ。それがthink things展の独特の世界観をつくっていた。 

展覧会ってアーティストの作品を集めて鑑賞するものがある、という感じの枠組みだけど、ここでの鑑賞者には3つくらいの層があって、ひとつは遊びを作る子どもたちのような存在。そしてそれを引き出す二次的なユーザー。そしてそれを読んだり見たりして楽しむぼくのような一番外側のユーザー。

あ、でももうちょっと言い方を変えると、「おおわきぼう」や「けいなボール」も、作品の一部だと言える。ただし、一見ランダムに並べられているそれらを即座に組み合わせて遊びを創出していく子どもたちの様は、レディメイドを引き合いに出すまでもなく、ツールを使うこと、ツールの流用、誤読、ブリコラージュの創造性なのだなぁ、と。

ぼくのような一番外側のユーザーというか鑑賞者にとっては、この展覧会のコンテンツは主に子どもたちが作り出した「あそログ」、ということになる。

ここらで一回あそログをぱーっと読んでほしい。http://asolog.ycam.jp

これらには誰か特定の個人に権利が帰属するものではなく、CC0*というコードが使われている。食べログ的な集合知であり、独特なツールとその読み替えの実践のエスノグラフィーでもある。

※CC0とは、インターネット時代のための新しい著作権ツールで、制作物について有している著作権やそれに隣接、関連する権利を全て放棄し、公共財(パブリック・ドメイン)とすることができる

この展覧会の枠組みと、あそログと、スタッフログを読み込んでいけば、カイヨワの『遊びと人間』を凌ぐ遊び論に発展しそうな予感に満ちてて素敵だ。

カイヨワは本を読んで、遊びとは純粋な消費であり、遊びは日常から隔離された閉域である、という点についてはほんとにそうか?とは常々疑問だった。think thingsは、フリーカルチャーの起源としての遊びに着目して作られた展覧会なのかな、とか、山口にファブラボができたことや、メイカーフェアが開催されていることは遊びの生活圏への解放を、さらに加速させるのを予感させる。



しかし、一方で、この展覧会の枠組みが東京で実現できるだろうか、と考えるといろいろ不安だ。何かにつけてクレームを警戒してしまう東京で、こんなオープンネスを実現できるだろうか。山口だからできた、とは思わないけれど、YCAMが山口という場所で10年以上かけて積み上げてきた文脈があるから、できたんだろうなと。

展覧会は9月27日の日曜日で終わってしまうけれど、この後の展開をどんな風に考えているのか、山口で何が起きていくのか、またみなさんに会って話を聞ける日を楽しみにしている。

*関連する記事はこれ
「遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて」
「glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(1)」