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2017/02/16

他者と撚り合う物語、エンドロール ー『この世界の片隅に』を観た

2016年のキネマ旬報ベスト1に選ばれるなどの超・超・話題作である『この世界の片隅に』をやっと観に行った。そして、すごくすごく最高だったので、ぼくは漫画も未読だし、映画も一回しか観ていないが、ちょっと感想を書きなぐってみる。



注:ネタバレを多分に含みます。



この映画、「たまたま戦争という時代を生きた人たちの日常」という視座の置き方への賞賛をテレビの特集などでよく見る。しかし、それだけではない。物語にちりばめられた点の素晴らしさがあった。

まず第一に、アニメーションとして、アニメーションにしかできない物語方法で、ファンタジーを忍ばせていたこと。冒頭の、毛むくじゃらの男によって、カゴの中に入れられて運ばれるシーンがあり、それが実は将来の旦那さんとの出会いのシーンでもある。のちに結婚する相手との出会いを、淡い、昼間見た夢のような表現で、まるでそっと忍ばせるような品の良さで、観客の心にも、ほんのりとした酔いを残すだけで、また素朴な日常へと戻していく。

この日常とファンタジーのフェードイン・フェードアウトは、アニメーションにしかできない!そして、日常の中に入ってくる戦争、戦争の中の日常、という物語主題ともマッチしている。ほかにも、座敷童子の女の子が、じつはりんさんだったんじゃないか、みたいなこととか、そういうほんのりさが、とても難しい抑圧の効いたバランスで成り立っていて、美しかった。

次に、主人公すず役ののんさんの声。冒頭の子ども時代の語りから「うちはぼぉっとしとるけぇ」というやわらかいトーンが、映像のふんわりしたトーン、そしてこれからのことを予言するようなコトリンゴの「悲しくてやりきれない」とが見事に合わさっていて、鳥肌が立つ。

その淡々としたやわらかさのなかに少しずつ少しずつ爆撃が映し出されることが増えていく。それに呼応するかのように、のんさんの声が憤り、慟哭する場面が幾つか出てくる。このやわらかさのなかの激情が、映画全体の物語と合わさって、観客の心を震わせたと思う。

そして、なによりぼくがそれまで我慢していたのに落とさなかった涙を決壊させたのはエンドロールだった。物語の重要な核とも言える内容を、あわよくばもう1作かけて描くような内容を、最後のあのエンドロールのなかに持ってくるなんて!!!

原爆で右手を負傷し子どもを守りながら母親が死んでいくのを隣で見ていた子どもが、別の理由で右手を失ったすずのところにやってきて、擦り寄っていく。その子と一緒に家に帰る、というところで本編が終わる(かのように見える)。

その前に、すずさんが子どもを授かったことが描かれるが、劇中でその子が生まれることがなかった。ぼくはぼーっとしていて気づかなかったが、生まれなかったのだ。子どもが。その代わり、最後に出会う子どもを、すずさんも我が子のように思っていこうとしたのか、それで家に連れて帰ることにしたのか…。エンドロールでは、その子と共に暮らすことになり、成長し、失った姪子の服を着せたりして成長していく様が描かれていく。

そもそも他者であったはずの人の家に嫁ぎ、家族として暮らすことの艶やかさと違和感が物語の端々で描かれていったが、夫も、子どもも、血の繋がっていない人たちと生きることを選んだすずさんのその後の人生の物語は、丈夫でたおやかな布地のように美しくて、エンドロールという短い時間のなかに圧縮されていたため、その情報が体の中を駆け巡る速度が強かった。で、涙決壊。

自分も半年ほど前に結婚をして、妻と一緒に暮らしはじめたばかりだったので、こうして血の繋がっていない他者と糸を撚り合うように生きていくことの物語に悲しみと希望をもらった気がするし、一方でぼくたちの世界にも少しずつ戦争が臭ってきている時代にあって、この世界の片隅でぼくらがどう生きていくか、何を選び、何を捨てるのか、誰と生きるか、ということを静かに自分たちに問いたくなった。




そんなこの映画を小学生の子どもをつれて家族で観に来ているひとも多くて、ぼくらが最後に劇場をあとにするときに座席にバッグが忘れられていて、「これ、誰か忘れてませんか?」と声をかけると「あ、」と言って駆け寄ってくる子にそのバッグを手渡したんだけど、そんなことにも意味を見いだしたくなる感覚に、体が変わっていた。(こういう感覚のことを、どう言葉にしたらいいんだろう。クオリア?)

ぼくが仕事でやっているワークショップの設計は、人の経験をデザインしている(この言い方はちょっとおこがましくて使うのに少し迷っている)のだけど、そのことと比べてみると『この世界の片隅に』は、素晴らしい経験だった。それについては次に譲る。


2017/01/05

冒険をめぐる冒険 ー未知と出会うワークショップ考

年が明ける前日に29歳になり、2017年になって20代最後の1年が始まった。たまたまオフだった今日、ある方からのお話をきっかけに、自分が最もやりたいと思ってきたことってなんだろうとあらためて考えはじめた。やりたいことを語るなんて恥ずかしいし、なんだか間違っている気もするのだが、かっこつけてなきゃいけない立場でもないし、思い切って、自戒を込めて書いてみようと思う。新年だし。20代最後だし。

ぼくの仕事は、人、とくに子どもが参加し、何かを学ぶワークショップを企画することだ。学生時代からいろんなことをやってみたが、一貫してワークショップだったと言っていいと思う。なぜそれをやりたいのかといえば、ぼくは映画でも小説でも、人が困難とか偶然の出来事を前にして意志の力を信じてどうにかしようとする物語が好きで、それを見たいという欲求からだ。そしてそれは同時にぼく自身が自分の意志でどうにかする物語でなくてはならない。そこに責任がともなったとき、欲求が仕事になっている。 

「ワークショップ」とは、大雑把に言えば参加体験型の学びの場=体験学習のようなもののことである。講演会や会議なども「ワークショップ」と言われることもあるし、まあ定義はさまざまでいいのだが、ぼく自身が好きなワークショップと嫌いなワークショップの基準は自分の中ではっきりしている。

結論から言えば、ぼくが好きなワークショップは、主催者にとっても参加者にとっても「冒険」になっているものなのだと思う。ワークショップをつくり実施することは、「冒険の入り口」をつくり、その扉をあけて未知のものと遭遇する他者と共に自らも未知への挑戦をすることだ。その「冒険」としてのワークショップの要素を7つ挙げてみた。 

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① 未知との遭遇

 ぼくが一番よくないと思うのは「主催者の期待通り」というもの。参加者が期待通りにパフォーマンスしていることに対して、主催者が感動しちゃってるなんてなおさらいやだ(そういう場面が必要な儀礼的なものもある)。ポイントは、主催者にとって新しいものを作り出す挑戦になっているか、ということだ。ワークショップにおいて、参加者を目的に向けて促していく進行役を「ファシリテーター」と言い、ぼくもその役割を仕事としているが、ファシリテーターは設定されたゴールに参加者を導く案内人であると同時に、未知のものを歓迎するのでなければない。常に自分が知らなかったことを発見し、驚き、こうなったらどうだろうという想像を巡らせ、即興で応答するなかで、気づいたら想定していたゴールの形が未知のものに変容している。そういうことを歓迎しなければならない。最初設定されていたゴールが参加者によって更新されたことを参加者に伝える役割でなくてはならない。


② 生活実践

ワークショップへの参加のきっかけは、参加者の生活実践に埋め込まれているべきだ。小学生の子ども向けのワークショップの場合、親が子どもをミュージアムに連れていく、という場合が多い。だがぼくは子ども自身が情報をキャッチし、親を説得してでも行きたいと思うものであるべきだと思う。そこに参加の意志と責任がある。それでこそ未知への冒険ができる。地元のお祭りでも、商店街の一角でも、公園でも、児童館でもいい。冒険の入り口は参加者の生活に寄り添って存在するべきなのだ。 


③ 困難と選択肢

参加者をゴールまで導く案内人であるファシリテーターは、その道のりのなかで想定される困難を可能な限り洗い出し、参加者が乗り越えられるように階段をあらかじめ設計する。ときに、選択肢として複数のルートを設計する場合もある。しかし、それは困難の「省略」であってはならない。時に予想もしなかったことが参加者の困難になることもありうるが、それをどうやって乗り越えてもらうか、新しい選択肢を広げ、即興で提示していく。 



④ 失敗・非参加への許容 

ワークショップは知らないものと出会うし、困難と出会う。それはワクワクすることでもあるし、怖いことでもある。困難に挑んで失敗してしまうこともあれば、参加を見送りたい気持ちになることもあるだろう。当たり前のようだが、ワークショップには参加を強制しないことが必要だ。まれに、ゆるやかに、やわらかく、楽しげに、失敗する人や参加しない人を否定する雰囲気をつくっていることがある。のるかそるかはその人次第であり、ワークショップに出来ることは、出会いの可能性を提示し、参加のとびらをひらいておき、席をあけておくことまでだ。 


⑤ 熟達者との関わり

ワークショップの最中に出会う困難とその乗り越え方には、熟達者のふるまいが参照される。音楽や演劇など身体を使ったワークショップの場合、自分だけで試行錯誤していては埒があかないことも、その道の熟達者の無言のふるまいのなかからヒントを見出し、自分なりの解釈で乗り越えていくことができる。また、ワークショップで熟達者との出会いを通して、人生のロールモデルを増やすことができる。「人は他者の物語の網目を生きる」という言葉がぼくは好きなのだが、人生はいままで出会ってきた他者の人生の引用の織物であり、自分自身の選択(どんなロールモデルを参照するか)の賜物だと思う。それを面白く、かっこよく、美しくするのは良き熟達者との出会いなのだと思う。


⑥ 身体の変化

ワークショップに参加した後は、その体験をするまえの身体には戻れないような、身体の変化が伴う。それがなく「刺激」「勉強」「気づき」という言葉だけが感想として出てくるようではダメだ。他者の身体を変えてしまうのだし、主催者自身の身体も変わらなければならない。そんなふうに協働し、変化しあう人の集まりであってほしい。 


⑦ 観客・読者・聴衆へのパフォーマンス

生活実践のなかに埋め込まれた入り口をくぐり、困難を乗り越えながら未知のものと遭遇し、身体が変化していくワークショップというものは、閉鎖的なコミュニティではなく、開かれた社会的な実践であると思う。体験を参加者に消費させるのではなく、参加者とともに新しい物事が生み出されるものであってほしい。その物事は、閉じたコミュニティに埋没するのではなく世に開かれたものであるべきだ。そのために、観客・読者・聴衆、あるいは新しい参加者へと開かれたものができていくべきである。ワークショップとは教室という閉じた空間で収束するものではなく、大げさにいえば人に向けた作品・商品・サービスをつくる活動なのだと思う。

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 と、こんな感じで書き出してみると、あらためてぼくがやりたいことは冒険の入り口を開き、冒険する他者のかたわらで、自らも冒険するということなのだろう。新しいことと出会い、価値観を解体するという痛みを伴いながら、新しいことを学ぶ過程に身を投じる、ということを繰り返したいのだと思う。冒険をめぐって、冒険したいのだと思う。

ここに書き出した7つの要素は、ぼくの理想だ。実践できているかどうか、自分の過去を戒めるような気分になる。とはいえ理想を持つことはその実現に向かうために必要で、そうでなければのんべんだらりでなんでもよくなってしまう。「どうすればこういう『冒険』をつくることができるのか」という方法論とか「なぜこの時代に『冒険』が必要なのか」とかの大きな文脈については、まだまとまらないし次の機会にゆずることにする。

今回はこの理想が明らかになったので、この一年、これに照らして自分の過去の仕事をふりかえってみようと思うし、この内容について、人とたくさん話をしたい気持ちなので、感想や意見を持たれた方は聞かせてほしいし、どんどん飲みに誘ってほしい。

2016/11/23

聴こえの体験、音の密林 ー Mother Tereco ELECTRONIC & ACOUSTIC SESSION

11月19日(土) 横浜市民ギャラリーあざみ野にて、電子音楽バンドMother Terecoと、詩人の小林大吾さん、ギタリストのDustin Wongさんのライブセッション「Mother Tereco ELECTRONIC & ACOUSTIC SESSION」が開催された。音楽を聴きにいったつもりが、音について耳を覚まされる経験になった。



Mother Terecoについては以前もこの記事で書いている。昨年から活動を本格化した2人組の電子音楽のユニット。ことあるごとにお世話になっている。これまでは原宿のVacantや青山の月見ル君思フでライブを聞いてきたけれど、今回のはそれらと並列に考えるのは難しい体験だった。

ここで感じたのは「いろんな場所からいろんな音が聴こえる~!!!!!!!」ということだった。音楽のライブに行く、というと大体がメロディを聴いたり歌詞を聴いたりしてノレる、感動する~みたいな、感情を煽らにいくことが多いのだと思うけれど、そういうのとは違った。



会場に入ってまずビビったのは、立方体だったり三角形にたくさん目みたいのが付いていたり、火を吹きそうな五重の塔だったり、スピーカーと思しきものが会場に散りばめられていることだった。円形に並べられた観客席のどこに座ったらいいかスピーカーや機材の配置の意図が読めないままとりあえずPA卓の近くを選んだ。

人が円形に並ぶと、儀礼的な何かを感じる。始まる前はドキドキして、とかく緊張感を煽る空間になっていた。



セッションは大きく3つの構成に分かれていた。

第1部はMother Tereco の2人のセッションが始まる。最初に鳴った電子音に、別の電子音が重なる。が、それはどうやら別々の場所から聴こえる。電子音の音源の位置を定位するのに目はあまり役に立たないので、耳を澄まして音の位置を定位しようとする。どうやら2人の近くにある立方体のスピーカーから聞こえているっぽい、ということぐらいまで憶測がたったところで今度は背後から重低音がミシミシと空間を震わせ、天井がしなる音を立てる。重低音は内臓まで振るわす。

そこにさらに別の音がどこかから聞こえてきて、もうどこに何の音があるのか追いきれなくなるが、耳はどうやったって音源の位置を定位しようとするから耳がいろんなところにピントを合わせようとしてめまぐるしい。ああ、音ってこんなにも空間だったのか~!ということを、まざまざと感じさせる演出とそれを実現させる演奏と機材で、始まったときはもう今回はこれは音楽体験というよりは空間体験なんだ、と思うことにした。

日常の「聴こえ」の経験は、幾つかの音が混じった状態で1つのシーンであると認識している。たとえば電車の中で、電車の車輪が線路をこする音や鉄製の車両が震えてしなる音、車内放送の声、人の会話の声など、様々な音が聞こえる。こういった音の聴こえによってぼくたちはシーンを記憶するし、想起する。今回のコンサートは、空間の中に散らばって聴こえる音と音の間につながり(リズム、コード、メロディ)が隠れていて、それを発見する耳の遊びで、音を楽しむというより「聴こえ」を楽しむようになっていった。

第2部は、詩人の小林大吾さんとのセッション。パーカーにジーンズにキャップ姿の高い背に長い腕の小林大吾さんが「コップ」「一杯の」「Beer」の3つの言葉からわーっと始める言葉の羅列に乗せられつつ翻弄されつつ、何と滑舌がいいのだろう!と驚きながら聞き入る。

日常の中の言葉は、単語があって、熟語があって、文があって文章がある。word,idiom,sentense,text….そうやって文章の意味を受け取る。「コップ、一杯のビア」単語は聴こえるしイディオムをなしているのもわかるのだが、早すぎて言葉の連なりの中で何が起きているのかが把握できないまま、断片的な意味だけが耳に残り、電子音のドローンとともに通り過ぎていく。「そいつは言ったんだ」みたいな呼びかけるような詩人の仕草もまた、断片的な意味として目に残る。脈絡をもっている(ような気がする)断片的な言葉と仕草の情報過多に、日々ふれている(と思っている)言葉の意味から、聴取者であるぼくの身体が遊離していくのを感じる。その浮遊感を、Mother Terecoの音が支える。

第3部は、ギタリストのDustin Wongさんとのセッション。Mother Terecoが操る電子楽器は、電気信号によって音がつくられている。けれどギターは弦の振るえによって音をつくりだす。赤と黄色の靴下を履いた足で、エフェクターを踏み、椅子に座ってかがんだ状態でツマミをひねってギターの音にエフェクトをかけていく。ギターの弦の振るえがエフェクトされて音の形が変わっていったり、残響になっていったりする。

Mother Terecoが作り出す音楽の特徴のひとつに「情報過多」というのがあると思う。2人が奏でる音数とその変形パターンが押し寄せてくる感じが気持ちいい、というのが2人の楽曲の特徴なのかな~なんて思っていた。今回はさらにスピーカーの位置と響き方という情報が加わるので、ここちいい情報過多の渦に飲まれながら自分の知覚も次第に加速していくのを感じていた。しかし、あとでMother Terecoの難波くんに聞いたら、今回はかなり音の数を制限したとのこと。1つ1つを現場でシンセサイザーで作り、それで鳴らしていたのだとか。それがDusting Wongさんのギターの響きが加わり、細部まで書き込まれた密林の風景画の中にいるような気持ちにさせられた。



とにかく、いろんな場所からいろんな音が聞こえて楽しくて、座っているよりも歩き回りたかったし、音の場所を探したかったし、音を出している人の仕組みをのぞき込みたいしなんなら手を加えて音いじりをしてみたくなった。鳴らしていいものならぼくも音を鳴らしてみて、この密林の中にどう搔き消えるのか、残響するのか、試してみたい気持ちにもなった。

コンサートの後は、遺跡を眺めるように観客の人たちが電子楽器やスピーカーの写真を撮っていた。たしかに展示品としてもかっこいい物と配置と照明でだった。


ほかにも、こんな面白いライブがなんでこんなところで?とか、キュレーションの意図は?とか、気になったことはたくさんある。ひとまずは、こんな風に音についてたくさんのことを教えてくれたこのライブに感謝するし、企画の小原君のステートメントが読みたい。

そして、実際のライブ映像が14分にわたって贅沢に公開されている!ので、追加!


2016/11/17

発達心理学 覚書


この2週間ぐらい、発達心理学に関する文献をガサガサと読み漁っている。といっても『まなざしの誕生』『意味から言葉へ』『感覚と運動の高次化からみた子ども理解』という3冊をぐるぐる読んでいるだけなのだが、なんとなく見えてきたことがある。とはいえ素人の考えだから批判もあろうが、ひとまずここではザーッと感じていることを覚え書きする。

1つは、ピアジェの発達理論はむちゃくちゃ面白いんだけど、他者との情動的交流という明確に欠点もあるということ。ピアジェの理論にもとづいたツール開発は、個人ー物の探求は触発するのだけど、個人ー物ー社会の探求までは触発しないのでは?ということ。

『感覚と運動の高次化からみた子ども理解』に書いてあった面白い事例として、トランポリンで遊ぶ児童の例がある。 


トランポリンを大人に揺らしてもらって遊ぶ子どもは、床面の揺れや体の上下によって前庭感覚や固有受容感覚が刺激されることを楽しんでいる。ピアジェでいえば「二次循環反応」を楽しんでいる、ということが言えるのだと思う。しかし著者の宇佐川さんは「(トランポリンを揺らし)続けていくうちに、目を閉じたり自分の手をみつめてケラケラ笑い、よりうちに閉じこもるような感じになっていく」と記述した。このとき、「情動が内にこもってしまう、もしくは自己刺激的な興奮状態になるかもしれない」と判断され、子どもの顔の正面に自分の身体と顔をもってきてトランポリンを強くゆすったり、1・2・3で顔を突き合わせてトランポリンをゆするなど、感覚刺激に対してセラピストが介入し、感覚刺激が単なる自己刺激ではなく相互的な関係になるようにセッションをしたという。
 

『意味から言葉へ』の骨子は、「人は複数の人間どうしが織りなす意味の脈絡=物語を生きる」ということであり、他者は赤ちゃんの意味形成の媒体であり、赤ちゃん自身の生きる物語のなかの登場人物である、というところ。この、赤ちゃんが他者を介してどうやって物語を形成していくのか、というところがこの本の白眉だ。例えば、生まれたての赤ちゃんにとってお母さんの乳房は「もの」であり「ひと」性をおびていない。自分とは異なるもう1人の主体(=他者)の一部と捉えられるようになるまでには、まだいくつかの階梯を要する。 

つい最近、杉本博司さんの「ロスト・ヒューマン」を見に行ったのだけど、そこにあったメインの展示〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉は杉本さん独自の見立ててでオブジェクトとテキストによって世界の終末が描き出されていた。「物」と「語り」で「物語」なのだが、杉本さんの展覧会は物語という時間性をもつものが瞬間に圧縮されたような感覚になる、不思議な物語体験だった。もし仮に、ぼくらに「物」と「語り」から物語(個人もしくは複数の他者の行為と情動)を想起する能力が備わっているんだとしたら、それはどのようにして育まれてきたのだろうか。

とかくまあ「物語」という言葉が好きなので、赤ちゃんに対するこういう解釈が好きだ。親以外の他者が、赤ちゃんの物語の登場人物になるためには、物心がついてから再登場するしかないだろう。物心以前の登場人物は赤ちゃんの人生にどう介入するんだろうか。そういえば物心という言葉にも「物」って入ってるな。

2016/10/21

愛の締め技

先月9月に入籍をして、結婚式を挙げた。人間が2人いて、その2人が一緒に暮らしたいと思い、そのために入籍手続きをし、結婚式を挙げ、披露宴の場を用意するというくだりはフォーマットになっていて、そこに乗って行ったのだけど、準備は簡単ではなかったし、いろんなことがあった。だからこそ、僕は結婚式を挙げてよかったなぁと思うし、何よりそこでたくさんの人たちに再会できて嬉しい気持ちになった。

まだ一緒に暮らし始めて一月くらいで、なれない生活に悪戦苦闘しながらも、だんだん落ち着いてきた感じもある。というところで3連休に入って気が緩んだのか、奥さんは熱を出し、ぼくはその翌週に喉をやられた。最近の飲み会でちょっとはしゃぎすぎたかもしれない。

というのも、そこで聞いた2つのエピソードが面白くて、それは結婚するかしないかを男性に求める時の女性の、いわば「愛の締め技」の話だった。なかなか男性が結婚に向けた話を進めない時の「どうするんだ一体」を問い詰めるやり方の話は、非常に面白かった。

ひとつは、女性から聞いたもの。年上の男性と一緒に住んでいたのかな?付き合っていくなかで結婚の話が具体的にすすまないことにやきもきした女性が、「年内までに結婚するかしないか決めろ、さもなくば別れる」と言った、という話。

もう1つは、3年以上同棲をしていた彼女から「結婚しないならもう出ていく」という話になりその次の日にもう他の男と飲みに行っていたらしい。「私にはすぐにでも結婚してくれる男はいるんだよ」と言外の実践で示してきて、さらにその後、荷物をまとめて出て行こうとする彼女に「ちょいちょいちょい、落ち着こう、結婚に向かって付き合っていこう」と言ったという。

こういう時の女性の本気というかスキルってあるよなぁと思う。期限(年内、もしくは数日中)を設定し、関係性(男友達、家族など)を用い、感情(怒り?悲しみ?)をのせて、希望を信じつつ賭けにでる。エーリッヒ・フロムが愛は技術だと言ったけれど、この2つのエピソードを聞いて本当にそうだなーと思ったし、男性としてはこの技術を使った時のエピソードを収集しておいたほうがいいんだろうなと思う。なのでこのエピソードは飲み会のために引き出してみたいと思う。



2016/08/30

身体つき、言葉の停止、言葉の決壊 ー『100円の恋』を観た

安藤サクラを好きな友達が、安藤サクラがどうしても好きなんだという話を聞いてから、安藤サクラのことが気になっていて、なんか不意に時間ができたので『100円の恋』をネットフリックスで観てみた。ジャンルが前後半でガラリと変わる、最高の映画だった。

なんかもうトレイラーとか見ると全部ネタバレしちまってんじゃねえか!って感じがして、とにかく予告もあらすじも見ないで観ることを勧めるけど、映画の宣伝って難しいんだよな~といつも思う。

以下、ネタバレ。



==あらすじ==

32歳の一子(安藤サクラ)は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていた。
ある日離婚し、子連れで実家に帰ってきた妹の二三子と同居をはじめるが折り合いが悪くなり、しょうがなく家を出て一人暮らしを始める。夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありつくが、そこは底辺の人間たちの巣窟だった。
心に問題を抱えた店員たちとの生活を送る一子は、帰り道にあるボクシングジムで、一人でストイックに練習するボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することが唯一の楽しみとなっていた。
ある夜、そのボクサー・狩野が百円ショップに客としてやってくる。狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに2人の距離は縮めていく。なんとなく一緒に住み始め、体を重ねるうちに、一子の中で何かが変わり始める―――。


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前半、「自堕落な生活」というときの安藤サクラの体型の半端ないルーズさ、猫背、二重あご、無気力で思考停止寸前の目つき。妹の二三子にいわれる「あんた親の年金狙ってんだろ、おめえみてぇなやつが平気で死体を埋めたりすんだよ!」というセリフにも、あ、確かにそういう感じかも、と思わせるような危うさ。この場合、親を殺すみたいな話じゃなくて、親が死んでしまった時にどうしていいかわからなくて埋めちゃう、みたいな話だなと僕は思った。

他人と共に生きることを諦めまくって、言葉を使って人に何かを伝えることをしていなさすぎて言葉が出てこない。親の死のような局面で他人がどうしているかを見たことがないから、考えることも工夫することもできない。猫背で、腰から落ちたような歩き方で、わがままで無気力。それでいていつも何かに怯えて肩に力が入っているような狭窄感。安藤サクラの演技っていうか身体つき自体をそうしちゃってる感じがすごい。

一子が働き始めた100円ショップの定員たちも、その狭窄感に拍車をかける。うつ病の店長の、なりたくてそうなったわけじゃない息苦しい真面目さ。働かないでしゃべってばかりいる粘着質な野間というおっさんのそれこそ思考停止したバカさ。

そんな中でも、一人暮らしを始め、働くことを続けていくと生活が回り始め、服や下着やテレビを少しずつ買い揃えていく様子が、明確にシーンとしては表現されないけれど画面の中にポツポツと現れ始める。その事に希望というか、明るさが見える。

新井浩文演じるボクサー・狩野の引退試合を見たこと、そしてその夜に野間に強姦されること(この強姦のシーンが、残酷で暴力的というより、とにかくセコすぎて軽がるしすぎて、もう最低だった)、別の日に酔いつぶれて100円ショップにきた狩野を介抱したこと、狩野が別の女のところに行ってしまうことなどが重なっていき、複雑になっていく生活とは裏腹に、一子はシンプルに、ボクシングにのめり込んでいく。

働き始めたばかりのときにレジ打ちをおぼえようとする様子と、ボクシングを習い始めたばかりのころにジャブをおぼえようとする様子のたどたどしさが同じな感じとかも、よかったな~。ジャブって、脇を締めたり腰を入れたり鋭くまっすぐ打ち込む意識をしながら、同時にガードも意識しなきゃいけなくて、単純に見えていろんなことを同時にこなさなければならない。ちょっと前まで思考停止寸前だった一子には、それは複雑で難しい。だが狩野とのことや野間とのことなど、生活の中で複雑でわからないことを食らううちに、ステップ、ジャブ、ダッキング、ボディ、フックがシンプルにつながっていく。

この、中盤の、映画自体のジャンルが変わっちゃう怒涛のギアチェンジに痺れた。その感じ、予想してませんでした。ボテボテの体つきから次第に切れ味の増していく安藤サクラのシャドーボクシングの加速感はもう最高でビリビリくる。

最後、プロテストに合格した一子は、幸運もあって4回戦の試合に出る。試合前に短く切った髪の毛をかきあげるとき、切れ長の目がすごくカッコよくて美しくてハッとする。切れ味最高のシャドーボクシングをいっぱい見せられたぼくは「これはいけるんじゃないか」と思ってしまったが、試合の相手は強そうで、一子のパンチは全然当たらない。冷静さの欠片もなく相手の事もまっすぐに見つめられず、ただただ呼吸を荒げて闇雲にバタバタし、コーナーに帰ってきたときには白目をむいてまともに言葉もでてこないグロテスクな一子の表情。そのなかに、ときどきめちゃくちゃ美しい表情が帰ってくる瞬間があって、これまたハッとする。3ラウンドめの、一矢報いるあのボディからの左フック、からの相手のブーメランフック、、、あ~!!!っていう。

試合が終わって、着替えて、ボロボロの顔を鏡で見て、階段をおりたところに試合を見に来ていた狩野がいて、呼吸を荒げて泣きながら何かを必死で言うんだけど、何を言ってるのかもうわからなくて、たぶんそれが「一度ぐらい勝ちたかった」なんだろうなというぐらいの感じで、狩野に手を引かれて泣きながら歩いていく。体つきもだるだるで言葉もまともにでてこないくらい思考も感情も停止しかかっていた一子は最後、シャープに仕上がった体で、好きな人に会って感情も思考も追いつかないぐらいグルグル回って言葉もまともに出てこなくなる。前後半の対比がめちゃくちゃ美しい映画だった。

安藤サクラが出ている映画ってまともにみたことなかったけど、目つき、身体つき、仕草が、見ている観客の気持ちをのりうつらせるような魅力のある人だと思った。卑近なルーズさを持っているのだけど、同時に遠くて追いつけないような美しさを見せる感じ。映画も小説も、主人公に憑依するような感覚で見られるのが最高だと思うんだけど、それを実現している役者安藤サクラすごかった。


ボクシング映画として『クリード』のような試合の臨場感だったし、女性がギリギリの闘いに挑みながらもギリギリで敗れるという点でマリオン・コティヤールの『サンドラの週末』を思い出した。

2016/08/18

空間を読む、作る、身体知 ー『TOKYOインテリアツアー』

前回のブログで「トラブルを抱える建築と向き合う」みたいなことについて考えていて、まぁそれを実践できているかはわからないのだけど、空間の手入れをすることで体も空間も生きてくる、みたいな話かなぁと思う。部屋が乱れてくると空間が帯びる雑味が身体に憑依してきて、体つきがルーズになることって、ある。 

自分の部屋は美しくも汚くもなくて、まだ食器棚や本棚も満足にそろえていないようなスカスカな感じなのだけど、ぼくはなぜか昔から空間の話をしたり聞いたりしていると元気がでてくる。それはきっと幼稚園の頃、ウレタンと木のブロックで壁をつくり、天板を渡して二階建ての建物をつくるのが大好きだったという経験に由来しているような気がする。それは自分で作った空間でゴロゴロしたり上り下りしたりすることができて、たいそう自由な気持ちだった。今でも空間のレイアウトをどうしようかと人と話し合うときや、配置を変えてバシッと決まった感があるときはすごく元気になる。 

『TOKYOインテリアツアー』刊行記念イベント「建築とインテリアの邂逅」


幸いにも、最近インテリアデザイナーの安藤僚子さんとお仕事をさせてもらっていて空間のプロフェッショナルからたくさん話を聞ける。そして、そのつながりもあって先月末に『TOKYOインテリアツアー』という書籍の刊行記念イベントに行ってきた。安藤さんと、共著者の浅子佳英さん、ゲストに建築家の中山英之さんを交えたトークは、あらゆるものを引用してつくる「編集型インテリアデザイン」の話から、原宿の東急プラザの話になって、外と内が緩やかに交わる建築とインテリアの邂逅の話になり、基準階型の建築(学校みたいにグリットで区切られた建築)は人の自由を奪うから、基準階型の建築をインテリアがハックして自由をつくりだしていくのが面白い、みたいな話の流れだった(要約雑)。最後のインテリアによって貧しい空間をハックして自由にする、という話は賛同!賛同!と思いながら聞いていた。

ぼくもインテリアツアーをしてみた。最初に東急プラザへ。
 とにかくお三方とも素材の名前から建築家やデザイナーの名前がポンポン出てきて、素材から配置の仕方、その歴史性など、空間のプロフェッショナルからしたら当たり前のことなのだろうけど、空間についてなんと多角的に思考しているんだとあっけにとられた。

入り口の鏡は、えげつないデザインだなぁと思っていたけれど、入ってみると風景のコラージュが面白い。
なにより(これも建築家やインテリアデザイナーからしたら当たり前だと思うのだが)、彼らは「空間は作ることができる」と思って世界を眼差している。多くの人はきっとそんなふうには思っていない。スーモを見たり不動産屋に行ったりして部屋を選んだりはするものの、空間を作るというアイデアを持っている人は、多くはないだろう。

空間を作る人の身体知みたいなもの 

「楽器を演奏した経験がある人の方が、音楽を聴いたときに脳の聴覚野が活性化する」という話があって、空間についても、きっと同じことが言える。空間を自分で作ったことがある人のほうが作ったことのない人に比べて、空間を知覚し、言語化し、自分に最適化できるように編集する力が長けていると思う。空間にしても音楽にしても、「作る経験」はきっと「よい身体」をつくるのだろう。そんなわけで、「作る経験」を積み、「良い身体」に仕上がってきている建築家やデザイナーの身体知みたいなものに興味がある。

その身体知とはなにか。とりわけ空間をつくるための身体知について、ちょっと仮に考えてみる。 ひとつは空間の文脈の読み解き方。この空間がどんな物語を持った場所なのか、ということを感じ取り言語化もしくはデザインに落とし込む感覚というのはどういうものなのだろうか。

続いて、素材の選び方。先のトークのなかで様々なインテリアの事例が紹介されたが、それぞれそこで使われている素材には必然性というかドラマツルギーがあるように感じた。この空間はこういう物語をもった場所だから、この素材が合う、という勘はどう働くのか。

そして、空間の形の決め方。空間の持つ文脈を読み解きながら新しく作り変えるとき、どんなふうに空間のかたちをつくっていくのか。特に内装の場合、ラグジュアリーに飾り付けるだけでなく、機能性も兼ね備えなければならない。その決め手はどう見つけていくのか。

さらには素材の買い方、揃え方。建材屋や繊維メーカーとのコネクション、あるいは廃材など安価な材料などを集めるルートをどうやって開拓しているのか。一般の市場には出回らないような素材にどうやってアクセスしているのか。 

次に、素材の加工の仕方。木材から金属、化学繊維までそれぞれに加工のための道具があるのだと思うが、どんな道具でどんな加工をすれば、イメージするかたちに変わっていくのか。素材の硬さなど特性、道具の得意なこと不得意なことを良く知っていればいるほど、加工の幅が広がるのだろう。 

なんかこういうのを単に「デザイナーのノウハウ」とか「仕事術」って言っちゃうと大事なことを見落としてしまう気がしている。こういうノウハウをどうやって身体に染み込ませているのか、というところが気になる。それは、「仕事をしていくうちに身につけた」とか「現場で培った」と言われてしまえばそれまでだし、何よりそんなおいそれと簡単に、誰でも身につくモノではないと思う。ただ、その限界を知りながら、限界まで言語化し、共有することを務めるのが、ワークショップを考える人間の1つの役割なのではないかと、最近考えている。