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2014/08/27

ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み




8月20日(水)、練馬まちづくりセンター主催のシンポジウムに参加させてもらった。その主軸は、ドイツ・ミュンヘンで行われている「子ども青少年フォーラム」の話を、その運営を担当されている「子どもの参画専門員」であるヤーナ・フレードリッヒさんの講演。

ドイツでは「子どもの権利条約」に則って、遊び場を新設・改築するときは必ず子どもの意見を取り入れることが法律で制定されているらしい。こうした背景からおこなわれている「子ども青少年フォーラム」は、遊び場や図書館のような公共施設、交通や地域コミュニティの課題など、様々な課題について子どもたちが議論し、大人に議会で提案し、可決されれば大人がそれを実現させる、かなり実際的な活動だった。ヤーナさんたち「子どもの参画専門員」は市役所の公務員であり、行政がこの活動をNPOと協働しながら主催している。

「子ども青少年フォーラム」のプロセス

おおまかなプロセスは、こんなかんじだ。

まず、広報活動。リーフレットを配布したり、学校に出張授業にいったりして、「子どもの社会参画」の意味を伝える。そこで関心をもった子どもたちが放課後の時間にワークショップに参加する。

ワークショップでは、まちの様々な課題について議論が行われる。問題を解決する具体的な提案を子どもたちがつくっていく。たとえば公園の改築案や、交通事故の問題解決についてなど。

リサーチでは、様々なキットの入ったスーツケースを持って、現場の視察を行う。子どもたちが街に住む人に取材をし、ワークショップで生まれた提案をブラッシュアップしていく。このスーツケースの中身については後述します。

そしてフォーラム。こうしてつくられてきた提案を審議する。大人の議員もいて、子どもたちに現状を説明したり、子どもたちの提案について質問をしたりする。こうしたプロフセスを経て、子どもの提案の可否が問われる。可決された提案は、その場でその担当の大人が、子どもたちによって決められる。「実現させます!」ということを、大人が子どもに約束する。

こうして、子どもたちのアイデアが取り入れられることで子どもが楽しく暮らせる街になり、また自治の感覚が育まれることでよりよい民主主義的な政治が市民によって行われることになる、というわけだ。


「子どもの社会参画」って説教くさいしつまんなそう

とはいえ、日本語で「子どもの社会参画」と聞くと、なんとなく説教臭い感じがするし、大人の都合に付き合わされてる子どもの姿を想像してしまう。最初にこの話を聞いた時、中学生のころにあった「子ども議会」のようなものを思い出した。役所の議会で子どもたちが遊び場の課題や、いじめの問題などについて作文を発表するというようなイベントだったと思う。

その作文は提案ではなく、なにか施策として実現されるわけではない。学級委員的な「いい子」が学校の代表として選出され、予め先生とつくった作文を読み上げるという感じのやつだった。子ども自身が楽しくてやっているというよりは、大人の都合に我慢して付き合っている、それをやると学校代表っていうステータスになる、みたいな。

しかし、ミュンヘンの事例はそうではなかった。写真で見る子どもたちは楽しそうに、そして責任感のある表情をして活動をしていた。なぜ・・・?その謎をとくカギは、講演と、その後の懇親会でヤーナさんに直接聞いた話にあった。

ここから先は、ぼくの間違いだらけの理解と解釈というか妄想含むので、正しいものとは違うかもしれません。


誰かと共に生きる物語世界へ

まず最初の驚きは、子どもに社会参画の意味を伝えるリーフレットにあった。「社会参加にはこんな意味があります」と説教するのではなく、子どもが社会に参加するということの意味を、書き込み方のゲーム絵本によって伝えている。



絵本はドイツ語で書かれていたし、ヤーナさんの英語を読解しきれなかったぼくの憶測でしかないことをお許しください。

シャイで自分の意見があまり言えないという設定の主人公を、読者に置き換えるために名前、性別、性格を書き込む欄がある。そしてこの絵本には子どもの友だちとしてドラゴンが登場する。これは、子どもの「不安」「ワクワクする気持ち」「言葉にならないアイデア」など、言語化されない感情を象徴している。その都度、読者は自分の感情を空欄に書き込み、このドラゴンとうまく対話しながら、友だちと付き合い、環をつくっていく過程が物語になっている。

誰もがもつ言語化できない感情を共有しながら他者とともに生きていく。「参画」という政治的な意味合いをもつ以前の、人間の社会のコンセプトをこの絵本によって、しかも書き込みによって参加させながら伝えていく。ここからすでに、子どもたちによってつくられる物語は始まっている。

ライプチヒの絵本工房でも思ったことだけど、ドイツにはファンタジーと政治をつなぐ文学性がそもそも土壌としてあるんだなという感じだ。なるほどミヒャエル・エンデの育った国だ。


「政治の仕組み」を「遊びの仕組み」に読み替える

そして2つ目の驚きは、ワークショップだ。ぼくが想像していた子どもが順番に手を上げてお行儀よくしなきゃいけない感じとはおよそ違った。

テーブルにはなんでも描きまくっていい模造紙が敷かれ、ペンやクレヨンなどあらゆる画材、粘土やブロックなどのあらゆる材料が用意されている。どうやら空間もパーティー感たっぷりで、ジュースやお菓子もたっぷりらしい。子どものテンションをあげるための

そして進行はワールドカフェみたいに5つの議題を5つのテーブルで。参加する子どもたちは順番に巡っていく。きっと、とりとめもないことをぎゃーすか言い合ったり、絵を描き殴ったり、粘土で人形劇したりするんだろう。

「議会」という大人の仕組みを、子どもの世界、つまり遊びの文法に読み替えて展開する。混沌とした遊びの世界から立ち上がるアイデアを待つ。


「それってこういうこと?」大人がさしだす言葉とかたち

ぼくの想像では、子どもがリーダーシップをとってまとめていけるよう、大人は引いて見守っているんだろうと思っていた。ところが、このワークショップには大人がガッツリ参加する。

ワークショップの最中、図書館なら司書さんが、公園なら建築家が、それぞれテーブルを注意深く観察している。そして何度目かのローテーションののち、子どもたちの意見/表現を読み解き、つなぎあわせたアイデアを「それってこういうこと?」とスケッチを描いて提案する。

子どもたちの、点在するバラバラな意見/表現を、プロフェッショナルである大人がつなぎ、言葉やかたちを与え、高次の統合を遂げる。それを見て、「そうそう!」「違う、そうじゃない!」「ここはこうであーで」など、よりディティールについて議論が深まっていく。デコレーションは得意だが、土台・枠組みをつくるのが苦手な子どもに、やわらかい枠組みをさしだし、やりとりをしながら「提案」として練り上げられていく。


街に出て遊ぶ

そして、三つ目の驚きは、街に出て行うリサーチ。子どもたちと一緒にもっていくスーツケースの中には、カメラ、マイク付きのMP3プレイヤー、地図、写真を出力するためのプリンター、スケッチブックやペンなどの画材などが入っている。そしてそれらの使い方を説明するハンドブックも。

公園の利用状況について調べるために、遊んでいる様子の撮影や利用者へのインタビューを行う。コミュニティの調査の場合は、地図にマッピングをし、トルコ系移民の人はネコ、高所得者の人はクマなど、スタンプでキャラクター化していく。ハンドブックにはそうした使い方が書かれているそうだ。リサーチ自体がある種のゲームでありごっこ遊びであるようだ!


アートプロジェクトとしての参画

リサーチの遊び性をつなぐように、フォーラムでの発表では、大人みたいなパワポのプレゼンではなく、劇をつくったり、歌をつくったり、時にはラップで表現することもあるようだ。そんなのほとんどの子どもは恥ずかしがってやりたがらない。一体どうなってんの?という感じだ。

遊びという言葉を使ってきたけど、これは実際的で政治性をもった演劇とも言える。「子どもの権利条約」あるいはそれに基づく法律が「戯曲」で、子どもは俳優。「子どもの参画専門員」はその演劇をかたちにする演出家であり、ドラマトゥルクなのかも知れない。そう考えると、「子ども青少年フォーラム」はアートプロジェクトであるとも言える。

実際の政治のために、「遊び」を媒介に行政が子どもを包摂する。行政主導のアートプロジェクトの、一つの正しいカタチなんじゃないか。


社会参加は大人から

シンポジウムの最後に卯月先生がまとめの言葉で、「練馬にはプレーパークや旭ヶ丘アートスタジオ、アーティスト・イン・児童館のような子どもの参画を面白くつくりだすプロジェクトがたくさんある。これらをまとめる大きな仕組みがあれば、練馬もミュンヘンのように、子どもたちが楽しく暮らせるまちにもっと変わっていくと思う」というようなことをおっしゃっていた。

実現するためには、市民の声をあつめて、議会を通して行政の計画にするという壮大さがある。多くの人が面白がるような「参画」のコンセプトを、日本語で練り上げる必要がある。そして学校や家庭、NPOを巻き込んだ、緻密なゲームの設計も。 



とにかくミュンヘンの「子ども青少年フォーラム」の運営やその担い手が共有してるコンセプトやセンスが一体どうなってんの?と思うので、視察に行きたい!でも、視察したからといってこれを練馬で実施します!みたいなことをいう勇気はまだない。しかし、卯月先生の言葉から、参画はまず大人からなんだなと思った。ちょっとずつ、「なんかこういうこと議員さんに提案してみない?」というような気運が高まっていったらいいなぁと思う。














2014/07/23

どうしようもなくやってしまうこと、魅力、自分のかたち

「がんばろうという意志をもって成し遂げたこと」のつみかさねを「実績」と呼ぶとすると、「どうしようもなくやってしまうこと」のつみかさねはなんだろうか。

それなしでは生きられないほど本人に必要なクセとか、習性とか、仕草とか、そういうたぐいのもの。どうしてか選んでしまっている服たち、どうしてか好きになってしまうこれまでの恋人たち、身体の芯をふるわせた映画たち、話すときにしてしまいがちな顔の角度、口の形、手の動き、などなど。

習性・傾向・クセなど、一見するととるにたらないものから、その個人の生きていくセンスが見えてくる。そしてそれは往々にして、他者に発見されながらかたちづくられていく。そしてそれが魅力であるとされればされるほど、その人間のかたちが美しく良いものになっていく。

他者は、どちらかというと、「意志をもって成し遂げたこと」よりも、「どうしようもなくやってしまうこと」に信頼をおき、また魅力を感じる。(同時にドン引きしたり、嫌悪したりもする)

でも、我々はどちらかというと「意志をもって成し遂げたこと」を美談とし、「どうしようもなくやってしまうこと」には恥を感じたり、無自覚だったりする。

「どうしようもなくやってしまうこと」に対する他者のまなざしを活用し、うまく自分をかたちづくっていくことの、なんとしなやかなことか。


2014/06/10

嘘、ロールプレイ、ムード

子どもと日々接するなかで思うことは、彼らは毎日倒錯した欲望にかられていて、嘘をついたり騙したり虚勢をはったり、人と違う姿でありたいと願うあまり他人に迷惑をかけたおしたりして、暮らしている。かと思ったら足並みを揃えたり、先生の言うことをちゃんと守るお手本のような子もいる。

子どもが事実をでっちあげているところに、何度か出会ったことがある。現実って幻想なんだっけ?とそのたびに思う。そっかぼくたちは世界を都合良く解釈して生きてるんだなとか。

ぼく自身にもそういうしょーもない嘘をついてしまった経験はごまんとある。それによってどんよりしていく気持ちを知っている。誠実に正直に嘘をつかずに生きていることの気持ちよさもよくわかっているつもりだ。だから、そういう嘘をつく子には嘘の持つ悪さを伝えたいと思っているし、そうしないほうが気持ちよく生きていけることをわかってほしいと思っているんだけど、そのことを話そうとすると、「先生」と「生徒」のロールプレイになってしまって、彼は「はい」「はい」といって話を聞いている(振る舞いをちゃんとしている)のだけど、ぼくの言葉は彼の心には響かない。「説教」という日常にありふれてしまった場面の再生でしかなくて、そこで交わされる言葉には情動はない。あるいはぼくが情熱的に語ったとしても、説教されモードにすぐ入ってしまって、彼の心は動かない。というジレンマがある。

「一つの嘘を隠すには、約30の嘘が必要だといわれているんだ」

というのは、『約30の嘘』っていう映画のセリフで、それだけしょうもなく罪を重ねてしまうことになっていくし、その小さな重なりは、自分の体を少しずつ重たくしていくし、なんか嫌な臭いがするようにもなってくる。

そうなってほしくないので、彼には何か別の体験が必要なんだなと思う。虚勢のために生きなくても、自分がおもしろいと思うことに没頭したり、自分がいいと思えるものをいつだって信じられるようになったり、そういうことが。それは大人が彼に経験を与えるっていうことじゃなくて、むしろ誰かとの偶然の出会いや関係性の中で開かれていくものだろうから、そういった出会いが彼にあることを願うばかりだ。

そういえば今日の帰りの池袋の構内で、壁に寄りかかって話す男女を見かけた。よくある光景だけど、多分その二人はまだ付き合ってなくて、でもお互いのことを素敵だなと思っていて、それを伝えあおうとしているラブ始まっちゃいましたムードがとにかく濃くて驚いた。

恋愛は顕著だよな、関係性の中で開かれる新しい自分みたいなのと、そこが未知だけど楽しくなっちゃう感じ。とにかく面白くてグルーヴィーな恋愛にはいつだってムードがあるし、それがなくなったら情動の交換のない、停止したロールプレイがあるだけなんだろう

ウォン・カーウァイの『花様年華』はとにかくそのムードを描いた映画だけど、妙に観たくなってしまった。

2014/06/04

子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1

森美術館で先週末からはじまった「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」。子どもを題材にしたアーティストの仕事から、子どもという存在の意味を問い直す素晴らしい展覧会。

ぼくはいま、この展覧会の関連企画「子どもキャプションプロジェクト」の企画の手伝いをさせてもらっていて、それがすごく楽しいけど超難しい。ただでさえ難しい作品のキャプションを書くという作業を、子どもに任せようというのだから、そのプロセスをワクワク楽しくつくるのはなかなか大変だ。

この展覧会では、子どもとはあらゆる文化・国・政治・あの世とこの世を、その状況下に翻弄されながらたくましく自由に行き来する「媒介者・間を行くもの(=go betweens)」ととらえられている。複雑な世界を生きていく子どものたくましさに希望をみる、そんな展覧会だ。キュレーターの荒木夏実さんをはじめ、スタッフのみなさんの熱量をがつーんと感じる。

だが一観客として見てみたときに、正直、ちょっと子どもの孤独、自由、想像力という部分にフォーカスをしすぎていて、作品の別の側面の魅力が見えにくくなっちゃってないかな、と感じるところもある。なんでもかんでも子どもはすごい!と肯定しているように見えなくもない。メッセージを可能な限りシンプルにした結果なのだと思うけれど。

子どもは神秘的だ!子どもはたくましい!子どもは孤独だけど自由だ!と声高に大人はうたいたくなるものだしぼくもそうだけど、それらは大人の願いとも言えるし、期待とも言えるし、勝手な幻想とも言える。その幻想が子どもをよい方向に導くこともあれば、抑圧したり、大人が用意した方向性に迎合させてしまって、彼らの意志を奪うことにもなってしまう。子どもに対して何かを願うことは、難しく、繊細な問題だ。

もうひとつ、ほぼ全ての作品に、子どもが被写体として登場する。だからこそ、その子どもが誰なのか、その意志がどうあるのかが気になる。アーティストの内なる子どもの姿なのか、その子自身の代替不可能な個人としての生きる意志を記録したものなのか、あるいは「子ども」という表象を扱っているのか。

子どもたちとスタッフが共作した「地獄」のオブジェの前で子どもがその紹介をする山本高之さんの《どんなじごくへいくのかな》や、女子中学生のエスカレートしまくった悪ふざけを記録した梅佳代さんの《女子中学生》は、そこに映る子どもとアーティストのグルーヴィーな共犯関係を感じる。

フィオナ・タンの《明日》、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《エイト》などは、子どもを被写体として割り切っていて作家の子どもへのエモーションを画面上からは排除している。そのある種の冷たさが、かえって子どもという表象が持つ力強さを描き出している。もちろん、制作の舞台裏では、子どもたちとアーティストの親密さがあるに違いないのだけど。

一方でぐっと近づいて撮った記録もある。在日韓国人の家族のポートレイトとそのインタビューを記録したキム・インスク《「SAIESO:はざまから」シリーズ》、アスペルガー症候群をもつとされる男の子が母親にしたインタビューにアニメーション映像をつけたSTORY CORPS《Q&A》などは、ヘッドフォンから流れてくるその声の震えから、複雑な状況を生きる代替不可能な個人の意志と、それに凛として寄り添うアーティストの関係を感じて、うっかり涙ぐんでしまう。

とにかく26組のアーティストの作品からは、子どもたちが複雑な状況を生きることへの深い情愛と、その状況をたくましくかろやかに、想像力豊かに生き抜いていくことができるだろうという強い希望を感じる展覧会だった。子どもも楽しく遊べるような参加体験型の作品をあつめた「こども向け」の展覧会とは異なる。大人と子どもも、自分の中の子どもと大人が揺れ動く。

と、まぁこんなふうに書いたぼくの感想は、どうしたって26歳男子の視点でしかないし、現在の展覧会のキャプションは大人向けに、大人が用意したものである。そこにクサビを打つような、まったく別の物語を開くような言葉を、子どもたちにつくってもらえるのか、どうなのか。それはこの後のキャプションづくりのワークショップにかかっているし、どうにか面白くしたい。

2014/05/26

ワークショップのドラマトゥルギー その1

今、アー児のスタッフ研修で「ワークショップの手法を学ぶ」というのをやっている。ぼくが昔Heu-LEっていうNPOで学んだ方法をベースにこれまで実践してきた経験をもとに、そのノウハウをみんなに頑張って伝えているところ。

前々回はその理論編と、簡単なワークショップとして、「リバースカメラ」というアプリをつかって逆再生でおもしろ映像をつくる、というのをやってみた。

今回は、並木くん、金子さんそれぞれにワークショップを考えてきてもらい、1時間ずつ実践をしてもらったあと、アー児におけるワークショップの意味とか役割ってなんぞや的なことを話をした。話してみて、やってみて気づくことはもちろんたくさんあって、こんなふうに付き合ってくれる二人に本当に感謝である。


並木くんは10kgの機材と数十枚のレコードを運び込み、「Hip Hopのトラックをつくる」というワークショップをやった。簡単なスライドも作ってきてくれて、しかもA Trive Called Questのドキュメンタリー映像で説明するなんていうシャレも聞いてて、いい感じの冒頭。


「トラック作りには音楽の知識は必要ない。いいなぁと思う8小節をサンプリングして、そこにビートを乗せる。それだけでできるんです」というシンプルな内容なのだけど、ソウルやファンクの曲から実際にサンプリングしてトラックをつくってみると、その歴史のつながりすらも体感できて面白い。


なにしろレコードにまともにさわったことがない身としては、針を落として回すと曲が流れる、という仕組みに興奮しちゃうし、パッドを叩いてビートができる感じとかおもちゃ感がすごいし、楽しんだ。

金子さんは「自分にはなんにもない・・・」と言いつつ、「今日の出来事をZINEにする」というこれもいい感じにシンプルな内容を考えてきてくれた。それぞれに今日の出来事を書いて、それをシャッフルして他の人の文章に挿絵を書く。しかもガーリーにマスキングテープや折り紙を使って!


みんなにとってきょうのトラックメイカー体験が新鮮だったので、みんながなんとなくターンテーブルの絵を書いていたので統一感がでていてよかった。






トラック作りもZINE作りも、普段やらないことをやってみて楽しめる、というのはワークショップのいいところだ。とにかくワークショップには、導入→アイスブレイク→制作→まとめ っていうおおまかな流れがあって、それをやってみようという話だった。

最近すごく思うのは、ワークショップ(という言葉は未だにあまり好きじゃないから積極的には使いたくないんだけど)の場には、そこに居合わせる人々それぞれの物語があって、そこで起きたことがその物語に多少の変化を与えていく。つまり、ワークショップは他者の物語に変化を起こすものなのだ〜ということだ。

そう考えたときに「ドラマトゥルギー」という言葉が浮かんだ。ぼくのイメージでは「物語を操作する」というような意味合いなのだが、友人であり、FAIFAIやチェルフィッチュのドラマトゥルクを務める優秀な男セバスチャン・ブロイに聞いてみたら、それにあたる直訳は無くて「脚色」「演出」「制作」「翻訳」の曖昧な集合体だという。

ぼくが聞いたことのある曖昧な知識は、ドイツはもともと翻訳文化で、イギリスやフランスの戯曲をドイツの状況に照らしあわせて上演するときに、どう翻訳するか、というのがドラマトゥルクの最初の役割だったと言われているそうだ。それはつまり、もともとある物語を、今・ここに合わせて操作していく、というのがその特徴ということだろうか。

一方で、アーヴィング・ゴフマンは、「ドラマトゥルギー」を社会学的観察方法として位置づけた。ある場所に集まる人それぞれに物語があり、そこに登場する人たちをキャラクターとして見立てて、物語論的に場を解釈するあり方のこと。ここには物語の操作という要素はほとんどなく、物語/演劇として現実を解釈する、という要素のほうがつよい。

ワークショップの場合、それを実施するために時間・空間・人(スタッフ+参加者)をそろえる、という「制作」的要素と、そこに参加する人それぞれがどんな物語をもっているかを考えるゴフマン的なドラマトゥルギーと、そこに参加する人たちにどんな影響を与えるか/彼らの物語をどう変えていくか、という演劇的なドラマトゥルギーのそれぞれの要素が絡み合っている。しかし、そこに集まる人々の物語を読み、さらにはそこに新しい要素を書き加えていく、という意味では「脚色」の要素もある。

人間はそれぞれの物語を生きていて、赤ちゃんは人間の物語の網目に生まれてくるのだ。そういう物語の網目にエフェクトを加えていくのは、演劇だろうがワークショップだろうがなんだって一緒なんだろうけど、そこでドラマトゥルギーが価値を発揮する。

ワークショップを企画するには、コンテンツはもちろん、その場に集まる人々の物語を読み解く感覚がいるというのは、近頃日々考えているところ。

つづく








2014/05/13

ファッション、物語、戯れ ー拡張するファッション展 その2


4月の終わりから水戸に滞在して、GW。水戸芸術館で開催中の「拡張するファッション展」でFORM ON WORDSの新作発表会「ジャングルジム市場」にて、ファッションショー「試着」を開催してきた。

FORM ON WORDSでは、今回の展示のために300着の古着とそれにまつわるエピソードを集めた。そしてそれをもとに、その物語を体験するための装置をつくるワークショップを実施。60近くのアイデアを13着に集約し、デザイナー、パタンナー、ニッターの方々と共に制作をした。

ファッションショーは、演出・構成にFAIFAIの野上絹代さん、音楽にOpen Reel Ensembleの佐藤公俊さん、難波卓己さん、映像に中島唱太さんをそれぞれ迎えるという超贅沢豪華布陣。

絹代さんが作った演出では、13着の服それぞれに、服それ自体を主人公にした物語があり、一つの服の始まりから終わりを描いている。音声ガイドによって13人それぞれの参加者をリアルタイムで振付をしていく。人口音声が服の語りを読み上げ、絹代さんの肉声による振付がされる。絹代さんらしい人への愛情とギャグセンスと適度な無茶ぶりが込められていて、聞いてて楽しい音声ガイドが出来上がっている。

音楽もまた、13着それぞれの服の形状やエピソードをもとにした曲がついていて、13のシーケンスが場面の展開に合わせてミックスされていく。各回ごとに音楽の展開や重ね方が異なり、コミカルなときもあれば、しっとりと泣かせるときもある。現場でも13の要素で普通人が気付かないような薄い音を流すなど、本当に細かく演奏してくれていた。

映像は、4ヶ所にしかけられたGoProが撮影し、リアルタイムでスイッチングしていくことで、全体を把握しづらいジャングルジムという構造を明らかにしていく。ちょっと湾曲したGoProのレンズが、四角いジャングルジムをスタイリッシュに映し出す。ショーが終わるとすぐにその様子が再生され、参加者のリフレクションや、物語の謎解きのヒントとなる。

そしてショーに出演するモデルは、本番10分前までに参加の意志をもって集まる一般の参加者だ。中にはパフォーマンスの経験を持つ人もいるが、ほとんどが素人だ。そして、自分がどの服を着るか、どんな物語を体験するか、始まってみないとわからない。稽古なしのいきなりの本番を、どう生きるか。そんなショーになっている。

この内容のショーを、5月3日と4日の2日間、全8回上演した。104人のモデル、およそ400人のオーディエンスを迎えたショーをつくるまでの日記をまとめた。



◯4月28日

4月28日に水戸入り。BUGHAUSチームとともにジャングルジム組み上げ。まず、タテ6本×横6本の36本の縦軸をグリッドの交点に置いていく。



そしてひとまず横軸を仮止めし、そこから図面に合わせて横軸を取り付けていく。クランプを締めるバリリリリリという音が部屋中に響き渡る。2階層目が見えてくるところまでは組み上がった。




初日の夜からバンバン飲む下町のアート大工たち。一人ひとりがBUGHAUSでどんな仕事をしたいかを話してたなあ。ぼくはビールをもらいながら演出に関する編集作業。そして寝るときも楽しそうに準備。ほんとに仲いいなこの人ら。



◯4月29日


29日は、2階層目の床板を付ける作業から。あゆみ板を乗せて、バンセンで止める。その上にボードを乗せてビス打ち。出来上がった2階層目に乗って、今度は3階層目を積み上げていく。このあたりから高所作業が入ってくるので、かなり怖くなってくる。



照明、音楽、モデルが加わると、一体どうなるのだろうか。素人ながらなんとか必死に想像をして、棟梁に相談をして3階の配置を変えてもらうことに。広間の空間が大きくとれるように、3階から見渡せるように変更をした。しかし、全員で取り組むと作業は思いの外順当に進み、予定よりも早く終わったのでBUGHAUSチームは引き上げ!


夜は、一人でビールを飲みながら受付周りやら図面やらを作り直し。

◯4月30日

30日から照明や展示位置の作業が始まる。同時進行でファッションショーの演出の構成をつくる絹代さんとのやりとりやら、服作りの確認やら、展示位置の当て込みやら。単管で組まれたものの真ん中に浮かせてみると、服が幽霊みたいに気配を持って見えてくる。いい感じだ。

夕方には映像担当の中島くんも来てくれて、機材を運び込んでくれていた。プロジェクションの位置も当て込んで、いいかんじ!そして、この日は少し早め(といっても21時)に切り上げて中島くんとロイホへ。新しくつくったAR絵本を紹介してくれた。


ちなみにこのARとはAugmented Reality、訳すと「拡張現実」。カメラをかざすと、そこにないはずのモノが浮かび上がる。まるでゴーストのように。奇しくもこの展覧会のタイトル「拡張するファッション」とは異なる文脈の「拡張」の、中島くんは専門家である。この拡張と、展覧会の拡張が一致したら面白いね〜と、話す。

この日も夜は一人。もういいや早めに寝よう、と思いつつ作業をしていたらふと値落ちしていて、再度起きたら時間は2時半。宿泊させてもらっていたレジデンスは古い昭和のお家なのだが、この日は雨が強くてバタバタ音がして、しかも奥の部屋でガタンと音がする…。こわい…。



服を展示して幽霊みたいだの、ARはゴーストだのと言ってたもんだから自分のなかで幽霊を想像する力がたくましくなっていたみたいで、こわい、、、とにかくこわい!ひとりで一時間半ぐらいガクブルしていた。朝のニュースが始まったら気持ちが落ち着いて、寝ることができた。

◯5月1日

5月1日、この日は西尾さんが朝から会場入りする。やはりFORM ON WORDSのメンバーが一人でもいてくれるだけで、だいぶ進む。一人よりも二人のほうがいい。服の展示の位置の再編集と、ショーのシミュレーション、キャプション用のデータの作成など。

夜は「中華の鉄人」へ。お店のなかが無音で、おれと西尾さん、あとの二組は不倫カップルで不倫の話と承認欲求の話をずーっとしてる…。疲れた身体で、一生懸命プロジェクトの話をしようとするわれわれ。

夜はレジデンスに戻って寝る。この日は怖くない。




◯5月2日

5月2日、FAIFAIの絹代さん、Open Reel Ensembleの佐藤さん・難波さん、映像の中島さん、そしてFOW西尾・竹内・濱・臼井イン・ダ・ハーーーウス!!!!イエスYES YOOOOOO!!!!!!という感じで緊張しつつも超嬉しい。さらには京都から服の制作サポートに新庄さんが加わる。

しかし、喜びもつかの間。このあと怒涛の、いや、地獄のリハが始まる。



まず、午前中は絹代さん、西尾さん、臼井で展示位置と小物の展示の確認。OREの二人には音声ガイドのデータをつくってもらい、再編集してもらう。映像の中島さんは機材をチェックし、買い出し。竹内さんは今回発表される新作の服の修理や修正、濱くんは13着が生まれた経緯を見せるシートをデザイン。各自が明日の本番に向けてガツガツ作業していく。

お昼ごはんは近くのKEISEIデパートで買ったお弁当をみんなで食べる。「服作りをする人は、やっぱり体力に自信があるんですよ、ブルーカラーワークなんで」と真顔で語る竹内さんに、佐藤さんが「あ、だからそんなにがっちりした体型なんですね」と聞くと「いや、これは太ってるんです」と返すもんだから全員がずっこけるというなごやかな昼休み。


午後一番で初めてのリハーサル。1週間前のリハではまだタイムラインを合わせることができていなかったから、ドキドキ。水戸芸のスタッフさん、FOWメンバーで試してみる。終えてみた実感は、これは、まだまだだ!!!ということ。小道具の位置、振付の文章の修正、物語が交差する位置の修正、大掛かりな作業をしなければならなくなる。



絹代さんにタイムラインの位置を確認してもらう。ぼくはひたすらそのサポート。やばい、合わない…。焦りが募る一方で、時間はどんどん過ぎていく。今回のタイムラインは後半部分で14分。44個のセルから成り立っていて、合計572個のセルを操って構成している。っていうとうひゃーだなやっぱり

最初18時と言っていたリハーサルも、開始のめどがたたない。18時を過ぎ、閉館時間になってから、スーザン・チャンチオロの展示室にパソコンを持ち込んで、音声ガイドの再録を進めていく。スーザンの作品に見守られて、どんどん作業が進んでいく。

最終的にリハが可能になったのは、夜12時。終了後にいろいろ検討をして、最後はなんと深夜1時…。水戸芸のみなさんにはほんとに迷惑をかけてしまって、もうぼくは心臓が痛かった。これだけ作業に滞りがでるのはスムーズに進むように、事前に何が必要かを予測して段取を組むことができていなかったからだと責任を感じた。


「プロジェクトの質は担当者の手腕で決まる」という言葉があって、ぼくは今回のプロジェクトの担当者だった。作業がスムーズに進むように、段取を組み、的確にパス回しをする役だった。しかし、それができていなかった。ぼくの手腕のなさを、みんなの才能と気合になんとかカバーしてもらったけど、その結果がこの深夜…。

とはいえ、なんとかなるだろこれで!というレベルには到達した。リハを終えたとき、13の時間軸が交差する。ある種の感動があった。


その後帰ってきて深夜3時。腹が減ったので素麺をゆでてみんなで食べる。ビールも飲む。うちの竹内が今回のショーはいい。こういうのがやりたかった、などと終わってもないのに言ってるので、まだ事故があるかもしんないっすよ!とか言いながら、ひとまず寝ることに。


◯5月3日

そして迎えた初日。お客さんが実際に空間に訪れる。ジャングルジムの中に入って遊び、服を試着していく。予想だにしなかった着方や遊び方をしていて、オーディエンスとはなんと迫力のある存在なのだろうかとぼくはあっけにとられてしまった。

ショーの初回。朝なのであまり集まりが良くない。その場にいたお客さん、子どもやそのお母さんに声をかけ、13人に集まってもらう。和気あいあいとした雰囲気のなかで、初回がスタートした。

指示がスルーされてしまう事が多く、全く予想していたものとは違った。うわ、これ、全然思い描いたとおりにいかないかもしれない・・・・・・・・あと7回この調子だと、や、やばい・・・。

水戸が終わって直後に新作のリハに入っている忙しい絹代さんに電話をして、どうしたらいいかアドバイスを仰いだ。なるほど、指示をよく聞くように、ということと、物語部分を楽しんでもらうということと、他の人がどんな物語を体験しているかよく見てもらうということ。

2回目。お客さんも多く集まり、会場の緊張感が増していく。初回の反省を活かし、参加者によくよく指示を伝える。音声ガイドとなるiPodの操作でミスが続くか、3度めになんとか一斉スタートが成功。2回目のショーが始まる。果たしてうまくいくのか…。

手に汗をびっしょりとかきながら、照明を動かす。始めの指示、試着をみんなが始める。次の指示、深呼吸が一斉にはじまったとき、ぼくはこのショーがうまくいったことを知った。あとは参加者を信じるだけだった。

赤ちゃんが泣き始める。歌を歌う人がいる。星座が服に水をかける。動物が加藤になつく。ビッグウェーブの声がこだまする。てるてるが動物を応援する。加藤の服とおじいさんが花と杖を交換する。時間の神様が137億年経過を告げる・・・

知っていたけれど見たことのなかった物語が目の前で生まれていった。嬉しさで震えた。



そんなこんなで初日を終えて、夜はみんなで1回体験してみることに。中島さんが「赤ちゃん」、佐藤さんが「星座」、難波さんが「加藤」、西尾さんは「ラブストーリー」、竹内さんは「キノコ」、濱くんは「花」、ぼくは「まち針」。絹代さんがここにいないのがやっぱり寂しい。

チームのメンバーが実際に体験してみるというのはだいぶ面白かった。「キノコ」は山を登りながら歌う、という設定があるんだけど、竹内さんは「おれなら絶対中島みゆきのファイトをうたいますけどね」と豪語していたにも関わらず「おかーをこーーえーーいこおおおおよーーーー!」と絶叫してるし、佐藤くんは無重力表現が太極拳の動きだし、西尾さんは寒がる動きしてるし、中島くんの泣き方は「おんぎゃー、おんぎゃー」だしそんな泣き方あるかいと思って、知っているとなおさら笑えた。

写真は初日が明けて、ジャングルジムのメインスポット「交差点」から天井を見上げる様子。



夜は中華料理屋でビールと餃子を楽しむ。作業を残したままだったけど、楽しい会食だった。おもに竹内さんのプロポーズ秘話と、DJをやっていたころにズブズブ系ミニマルでフロアから300人を去らせたという伝説の話だったけども。


◯5月4日

この日から本格的に導入した服選びのための適性診断。Yes/Noに合わせて服を選んでいく。まるで占いのように服の適性が決まっていく感じは、かなりいいぞ!と思いながらやっていた。不思議なことにキュレーターの方は「ラブストーリー」もしくは「加藤」になっていく。

11時、10分前になっても参加者はゼロ…。え!ゼロ!となってテンパったものの、なんとか13人集まり、まったりしっぽりいいテンションのショーができる。

13時の2回目はiPodのスタートがなかなか切れず…。このアイポッドシャッフルの人力同時スタートがなかなか難しく、どうしても止まっちゃったり巻き戻してなかったりでうまく行かないこともある。この回もなんとかスタート。

15時の回は会場が超満員。うわさによると90人近くが入っていたとか。その超満員の前で、みなさんなんと一発スタートをキメた。しずかに、スムーズにショーが始まる。OREの二人が奏でる静謐な環境音の中、一人ひとりが「試着」を始める…。

ショーが終わり、ライトアップをすると、会場中に拍手が響く。90人の拍手はさすがに大きい。モデルのみなさんも、充実した顔で出口に集まってくる。まるで劇の上演を終えた役者のように。あぁ、この人達はたった30分前に出会ったばかりなのに、1×13の物語/人生をはじまりからおわりまで体現してきたんだなぁ、と、船の乗組員を迎えるようなそんな気持ちだった。




そしていよいよ最終公演。13人の参加者/モデルのなかに、林央子さんもいる。最後の回なのにぼくはすっかり緊張してしまって、ハラハラしながら適正診断をしていく。その結果、なんと央子さんが「加藤」の服に!!!いや、でもこれはこれで正しい、むしろ最も美しい回答だと思う。と、自信をもってみんなを送り出した。

最終公演が終わり、拍手の中で参加者/モデルを迎える。こんな風にみんなが気持ちよくでてくるところを最後まで想像できなくて不安だったときのことを思い出し、ぐっと涙が出そうになるのをこらえる。参加者同士で記念写真。その後、映像の前で振り返りながら、のんびりと見つめる。



正直ショーには、まだまだツメられる要素がたくさんある。今回が失敗だったわけではない。しかし、可能性がまだまだある。もっといいものが作れると思うから、みんなとこの方法で再度挑戦したいと思う、ということを、みんなに伝えたら、よろしくと答えてくれた。


OREの佐藤さん、難波さん、マネージメントの高石さんと別れ、メンバーが待つ控室に向かう途中、エントランスホールいっぱいにひろがるパイプオルガンの演奏が聞こえた。次の日のためのリハーサルだったのかもしれない。名前も知らない曲を聞きながら、なんだかんだいってよくがんばったんだな、なんとかなったんだなと思ったら涙が溢れてきた。その後すぐに高橋さんが来たから泣いてたのちょっとバレたかなどうかな。

とにかく嬉しかったのは、モデルとして参加してくれていた人たちひとりひとりが音声ガイドに従いつつ、自分なりに一生懸命に動いていたことだった。ただそれだけのことで、人が可愛いと思ってしまったことだった。人生とは稽古なしのいきなりの本番なのだ。無数の選択肢を前に、わからないことだらけの世界を、人のせいにせず、意志の力で楽しむのだ。

ほんとに、このデンジャラスな企画を一緒に作ってくれた絹代さん、佐藤さん、難波さん、中島さん、ジャングルジムをバリバリ組み立ててくれたBUGHAUSのみなさん、展覧会における重要なポジションを託してくれ、制作に寄り添いつづけてくれた水戸芸術館の高橋さん、廣川さん、大森さん、寺ちゃん、そして本展の原案の林央子さん、本当にありがとうございました。

「拡張するファッション」水戸芸術館の会期は18日(日)まで。FORM ON WORDSの新作コレクションは「ジャングルジム市場」にて試着できます。最終日はコズミックワンダーのファッションショーがあります。そして6月には香川県は丸亀市、猪熊弦一郎美術館に巡回します。

会期終了まで、くれぐれもよろしくお願いします。

2014/04/24

ファッション、ブルーノート、aiko

服、というかファッションについて話をしていて、何かぼくはずいぶんと勘違いをしていたんだな、と感じました。

ファッションというのは、雑誌や広告代理店によって作られたコードを消費するための手段だと思っていた。でも、そういうことじゃないんですね。そのときその次代に人が感じてるいろんなことが反映されまとわれる装いの"感じ"のことであり、それを構築するデザイナーの時代感をつかもうとする尽力のかたまりなんだなということでした。

例えば今現代において80'sファッションを参照してる人は、今この時代にそれをやってる意味とかがなんかしらあるわけで、それを掘り下げると、以外に2014年が見えてくる、とかそういうことなんですね。

ファッションとは時代の空気感である、というとあまりにも陳腐であるし、今この時代にそれを着ていることのリアリティなんです、というと???という感じだが、具体的につくった人の苦労や過程が見えると、そのリアリティというのがいろんな微細で無数の情報でできてんだなと感じる。現代はとくにそのリアリティ/人々の美学が見えづらい、ということもあって、デザイナーもパタンナーも縫製工場も、苦労しているそうです。

でもとにかくそれでもファッションデザイナーは、今街をゆく人たちのリアリティを敏感に考えながら、服をつくっている。

なんかわかんないけど、ぼくはこのエピソードを聴いて唐突にaikoの歌が聞きたくなった。あの、変な音を外す感じ(菊地成孔さんは某番組で「ブルーノート・スケールをまともにできるのは、久保田和伸かこの人ぐらいでしょ」と評していました。)と、それがなんか感じさせる男とか女とかを超えた人間の感情の複雑のあちこちいく感じを味わわせてくれるな〜と思った。

aikoのカバーするスピッツの『チェリー』が、びっくりするぐらい複数のアイデンティティでできてて、すごくよかったので、ぜひ聴いてみてください。