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2014/01/15

居場所、変化、移動

先週1週間、今年度実施している4つの児童館でのミーティング。この3ヶ月、子どもたちに「児童館でどんなことやりたい?」と聞くことを中心に、子どもたちの児童館の使い方や言語化されないニーズなどを丁寧に観察し、来年度にどんなプロジェクトをやるべきなのか、ずーっと考えてきていて、そのことを職員さんと共有した。

といっても各児童館ごとに課題は全然違っていて、その共通項をあぶりだすのは容易ではなかった。

たとえば1つの児童館は、子どもたちから「規制が多すぎる!」という不満が漏れでている。「児童館がつまんないって、最近評判だよ」という言葉も聞いた。みんなで使う場所なのだから、多少の規制というかルールはあってしかるべきだ。しかし、その調整はとっても難しい。

ここで考えるのは「居場所づくり」という言葉のルーズさだ。

そもそも「居場所」というのは、当人が心地よいと感じる場所のことであって、自分で探し、自分でつくるものだ。しかしこの「居場所づくり」という言葉をひらくと「大人が子どもに居場所をつくって与える」という意味になっている。居場所をつくって与えることと「管理」は紙一重で、その運営が管理に偏れば子どもから反発が生まれるのは当然。「居場所づくり」とは、ウラを返せば子どもの社会/政治参加のことである。丁寧な合意形成にもとづいて、みんなができるだけ自由に活動できるような空間/ルールをつくるという、大人の為政者としての手腕が問われる。

また別の児童館では「子どもたちがショッピングモール感覚で児童館を利用しているんじゃないか」という仮説がある。児童館での遊びコンテンツを消費しているだけで、自分たちでこの場所をつくる感覚というのが育まれていないのでは?というもの。

これも「子どもの社会/政治参加」ということと同じ問題だ。子どもが自分たちの意志によってこの空間が変化することを信じていないし、そんなこと望んでもいない。望んでいないのは、そうやってある物事が変化することの面白さを体験していないからだと思う。「変化への断念」「変化の成功体験の欠如」とも言えるかも知れない。「居場所」とは、利用する子どもたちの意志によってルールやコンテンツやハードウェアが変化する可能性を内包した「柔らかい空間」であるべきだと感じる。

もちろん、児童館および子どもの遊び場が、その場ごとのコンテンツを消費する"ショッピングモール化"しているという問題は別に新しいものではなく、これは解決するべきというよりも、うまく利用するほかない。「会員制度」の利用や意味付けを変えることで社会参加の体験をある種「商品化」する工夫も必要だと思う。

こんなような事を考えいてると、ひとつ「変化」というキーワードが浮かんでくる。

「変化」とは、ここに書いているような児童館という物理的な「空間の変化」だったり、ルールやコンテンツといった「内容の変化」、それにともなう子どもたちの「意志の変化」だったり、いろいろだ。「内容の変化」の場合は、児童館という場や、そこにあるモノの「意味の変化」もありうかも知れない。例えばそれはそれまで「机」だったものがあるときは「隠れ家」になったり「ステージ」になったりするようなそういう変化だ。

ただ、あるものをそのつくられた目的外で使用することは「マナーが悪い」とされる。「机は座るものではありません」というあれ。座りやすい位置にあるんだから座っちゃうのは自然な流れなのだけど、誰かが決めた「目的」がそれを制約しちゃう。話は変わるが「美術」は物と意味を解体して組み替えることをやっているし、そういうものに触れてきているので、「マナー」のあり方自体に疑問を投げかけざるを得ない。あるモノを別の目的に読み替えて使うこと、「マナー違反」と思っているモノゴトのなかにも、クリエイティビティのたねがあったりする。自由であることと、マナーを犯すことの区別をもうすこしゆるやかに考えなくてはならない。

さらに別の児童館では、子どもたちの意見を受け入れる「柔らかさ」は実現しているが、利用する子どもたちが固定化し、閉塞感をつくっている。中高生ともあれば、グループをつくり、壁をつくるものだ。これはある意味では仕方のないこととも言える。だが、排他性を回復するためには、ある種の「開かれ」というか「異質なものの介入」が前提となる必要がある。異質な他者や考え方が運ばれてくるルートの設計がいる。あるいは異質なものと出会うために、出て行くルートも必要かも知れない。これはずいぶん前から考えてる、旅路の設計のことだなぁと思う。

変化の可能性と、移動の可能性。この二つが空間を面白くしていくし、そこに居る子どもたちを育てていく要素だと思う。

「変化」と「移動」、これは2014年の、重要な意味を持つ言葉だ。



2014/01/07

思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開

ぼくが生涯一度しか読んでなくて、でも大好きな小説に舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』がある。


アメリカ人探偵ディスコ・ウェンズデイは孤児として生まれ、迷子専門の探偵として東京の調布に住んでいる。またの名を踊場水太郎(本名:ウィリアム・イーディ)。依頼人に頼まれて見つけたけど引き取りてがいなかった梢(6歳)と住んでいるんだけど、あるとき急に17歳の梢(?)が、6歳の梢の中に入り込んで、未来からきたとかどうとかで、ひょんなことから福井県にある「パインハウス」にふっとんでしまった梢を救うために、名探偵たちの連続自殺事件という難解事件の解決に挑む・・・

みたいな話なんだけど、中巻ぐらいからとにかく情報過多で、なんのことかよくわからないことが次々と起こっていく。ただ、ディスコがひたすらに梢のことを救おうとしていて、わけのわからない出来事の洪水を泳ぎきろうとする意志の力だけがはっきりと感じられる。2000ページぐらいの超超長編なのだが、後半そのスピードは加速し、ディスコは時空をしっちゃかめっちゃかに行き来して、なんとか梢に辿り着こうとする。

そしてその素晴らしい書評が載ってるブログを見つけた。

イワンの末裔 ――『ディスコ探偵水曜日』と舞城王太郎

ここで引用されている一文。

「作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。――物を作るとか創造することって全てが経験で得た知識を組み合わせてるだけじゃなくて、どこかで、ゼロから何かを生み出してるんですよ」

"思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開"

なんというか小さな小さな奇跡が、ここにあるんだと思う。子どもに絵を描いてもらっているときに、ときおりこの「思っても見ないもの」が現れる。その瞬間の、ある子に対して貼っていたラヴェルを思い切り引きちぎられ、立ち現れたものが理解できなくて戸惑い、ゆさぶられ、ときめいてしまうあの感じをつかまえたいといつもどこかで思っているんだなぁと、今この文章を読んでいて思った。










2013/12/26

大きな文脈、規制、OSの設計

12月23日(月・祝) 

アサヒ・アートスクエアで開催されていた山城大督さんの個展「VIDERE DECK」に行く。「時間」を主題にしていたこの展示、オートマチックでループされる12~13分の時間のなかで、子どもが世界を認識する過程、他者に伝えること、刻まれる時間などが描かれる。エモーショナルな、小さな世界とその肯定感はとてもここちよい。敷かれたカーペット、そしてどこから入ってもいい時間のループ。時間とは、直線的につづいてくものではなく、ひとつの円環であり、放射線状にのびる形象なのだなぁ〜とぼーっと感じ入る。

ただ、正直ぼくはこの展示には既視感をおぼえてしまった。どこかで観た/聞いたような感覚というか。見終わって思ったのは、なんかもっとやばくて狂気を感じるものを期待していた。

あと、なぜ今この時代、この場所で、このアーティストの映像や時間、小さな生活についての展示をやる意味があるのか。その言葉がものたりなく感じた。アサヒ・アートスクエアのディレクターの坂田さん、あるいは運営委員会のみなさんの大きく出たステートメントを読みたかった。(というか、それがなかったので、なんだか業界内の報告会のようで居心地が悪かった。)

今、この時代に、この実践は何を問うているのか…。その大きなコンセプト/思想/文脈を語る勇気が、アーティストを扱う場には必要なんだと改めて感じた。


12月24日(火)

この日は児童館へ。前澤Pと、萌ちゃんと、縣さんと4人で児童館の工作室にいくと、イベント開催のためにいつもの居場所を追われたゲームホリック男子たちがうようよと集まっていた。

「はろー」といつもぼくとカードゲームの対戦をして遊ぶ子に声をかけると、「おう、うっすん」と元気がない。聞けば、明日からカードゲームの持ち込み・使用が禁止されるそうだ。理由は盗難があったから。翌日に緊急子ども会議が開催され、そこでゲーム禁止について審議するという。

「これでまたひとつ規制が増えた…」と嘆く子どもの姿に、ぼくはとても悲しくなってしまった。

「新しい大人が来るたびに「◯◯禁止」規制が増えるし、「あいさつをしなさい」みたいな標語も増える。そういうのがほんとにウザい。空気ワルくなるし。だから最近みんな児童館つまんないって言ってるし、実際人も減ってるよ」

と言うのは小5女子。「うっすんだって、ボール握るの禁止にするじゃん」と言われてはっとした。あれはドッジボールを楽しくするために、それはやめて、と言ったのだが、その真意(ボール握らないほうがドッジボールが楽しくなる)というのはあんま伝わってなかったんだなぁ…。

で、4人でその女子グループの話を聞いていると、児童館への不平や不満がこんこんと湧いて出てくる。まぁ実際どっちもどっちというところもあるんだけど、この状況は全然いいとは言えない。職員さんと子どもたちの和解というか、相互に許し合って、いい児童館を一緒につくろうと約束しないと、この状況は変わらない。



12月25日(水)

この日はアージの理事会+企画コーディネーター会議+忘年会。

理事会では、来年度から着手する人材育成事業の内容についてと、自由な活動と小さなリスクを許容する「寛容性の空間」をつくるためのルールや合意の場の形成をしなければならないということを話した。そのためにプログラムを組んでいく。

子どもたちが自由に活動をするための、子どもと親、地域住民、児童館職員などそれぞれが合意していく場。そのうえで、子どもたちが自由に素材を使って創作を楽しめる環境をつくる。これはいわば、合意の場があり、ルールを生成し、素材の開放・企画立案を可能にする"OS"。そこに様々な表現の技法をもちこむ"アプリケーション"の導入。あるいは、立法・行政・司法のミニマルで創造的な形であるともいえる。

企画コーディネーター会議では、おのおのの現場で感じていた「毒」をばーっと吐き出した。児童館(あるいはその背後にある社会)が子どもにかけてしまっている規制のこと。「居場所」とその「排他性」のことなど。

来年の企画もまた、一筋縄ではいかないだろうと思う。








2013/12/23

キラキラ、ダラダラの質、見せるもの

放課後アートプラン関連企画オープン児童館「放課後体験ツアー」「中高生クッキングバトル」の2つのイベントが無事終了した。イベント終わって深夜まで並木くんとセバと飲む。セバが、言語の構造からみる日本語ラップの魅力について語ってて、それが面白かった。

昨日の昼間は、ゆう杉並にいって中高生主催の「アクティブフェスタ」に行ってきた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『By the Way』のコピーや、ライムスターの「ウワサの真相」の元ネタになってるCreamの曲とかを演奏する高校生たちのライブが超かっこよくて、驚いた。高校生たちが放つキラキラをたっぷり食らった。

何よりよかったのは、ゲームサークルの子たちがスマッシュブラザーズの大会をやっていたり、鉄道の会の展示があったり、NERDな子たちの輝き。鉄道の会の展示には、どこかの電車を見に旅行にいったときの写真が展示されていて、彼らの青春の記録に胸を打たれた。

ゆう杉並では、高校生たちが自分たちで自分たちのためにイベントをやっていた。「これをやりたい!」という気持ちが集まっていた。しかしおとといの「中高生クッキングバトル」は構造が全然違う。これは職員とアージスタッフが強い思いをもって実現し、そこに中高生たちに乗っかってもらったかたちだ。いわば彼らをお膳立てしてステージにあげ、小学生や大人に向かってパフォーマンスさせている。「ちょっとめんどいな」と思っていた子もいると思う。当日はテンションぶちあがってたけれど。

児童館では、何もやりたくない、ダラダラしたい、めんどくさい、という気持ちが渦巻いている。そこで「何かやろう!」と持ちかけても、「えーやだ」となるに決まっている。

このことをどう考えるかがアージの企画のキモ。どの児童館に行ってもこの状態だから。

何もしない、ダラダラするということはダメなことなのか…?というのがひとつ。何もしていないということはない(息はしている)のだから、このダラダラの質、というのが問題だと思う。

もうひとつは、何かやろう!と呼びかけなくても人間の行動を喚起する手法はあるということ。やろう!と言われなくてもやりたくなる環境というのがある。たとえば、イベントが終わったあとの工作室は、余った食材が山盛りになっていて、それを使って男子たちがこぞって料理をつくっていた。材料を開放することで、つくりたくなるし食べたくなる。

あとはやったことのないことへの不安感をどう減らし、手を出しやすくするか。ドッジボールは面白いけど、話し合いは面白くない(面白くないものしか経験したことがない)。やったことのない初めてのことにどう取り組むかは人類の課題だし、それこそが創造性だと、アージでは考えている。

そして、そうやって子どもらのモチベーションを上げる過程をつくっていくことと同時に、お客さんにどう見せるか〜というのも大きな問題。もっと映像のクオリティ上げるとか、彼らの日常の振る舞いを見せるものに変える「枠組み」を作っていかなければならない。

しかし、その専門性はぼくたちマネジメントチームがもつべきものではなく、外注するべきかなぁとも思う。演出とオペレーションは分けたほうがいいと思うし、その点は悩み。

2013/11/29

ティーンエイジ、過酷な夜、夜のツアー

最近考えてるアイデアなんだけど、実現できるかわからないけど書いてみる。


まず企画の背景。

児童館で小学校高学年〜中高生を中心に話を聞いていると、けっこう彼らの夜は過酷なんだなぁということを考えざるをえない。「お母さんが働いていて11時まで帰ってこなくて、そこからモスバーガーを食べに行くんだぁ」とか「もう5日連続モスバーガーなんだけど」とか。児童館の閉館時間が終わったあとも家に帰らずに公園でたむろしてたりとか、ゲーセンに直行したりとか、そんな光景も目にする。

家が居づらい、とか、ちゃんとご飯をつくってくれてないとか、家庭環境の難しさに出会うのだ。聞いた話では、給食を食べに学校に行っている子もいるらしい。1日に1食、給食だけを食べている。その食べ方が異常だから保健室の先生が対応したら、その事実がわかったそうだ。

こんな話はもしかしたら見えていないだけで巷にあふれているのかもしれない。映画『誰も知らない』は20年以上前の実際の事件をモチーフにしているけれど、ああいうことはそれから至る所で起きているのだろう。程度の軽いものも含めて。

寂しいし、お腹も空いているし、親とうまくいってなくて家にはあんまりいたくないし、でもずっと友達と遊ぶわけにもいかないし・・・。家にいることが我慢することになっちゃってるのかもしれないなぁと思う。


で、課題。

この微妙な夜の過ごし方を変えていくことができたらいいのにと考える。退屈しない。夜出歩いていい。人と関われる。あわよくば一緒に御飯が食べられる。


ここで企画の参考例。

ぼくが敬愛しているアーティストグループ「Mammarian Diving Reflex」がとてもおもしろいプロジェクトをやっているのを思い出した。『Nightwalk With Teenagers』というシンプルなタイトルのプロジェクト。夜の散歩をしよう、というこれ。(詳しくは、MDRのプロジェクトを経験して育ち、自らプロジェクトをつくるようになったYoung Mammalsの1グループ「The Trontonians」が主催しているみたい。詳細はこのブログに。http://www.thetorontonians.blogspot.ca/p/nightwalks-with-teenagers.html

10代中頃の少年少女たちが、ある街の夜の散歩ツアーを企画する。地元の子達が組んだツアーを、他の街のティーンエイジャーたちや一般の人たちに参加してもらう、というプログラム。

この内容を読む限り想像できるのは、若者の目線を知るのは大切ですね、みたいな教訓めいたもの。でもこのプログラムが提供しているのは多分その視座に限らない。コンセプト文にも書いてあるが、10代の少年少女たちと大人との間にあるバリアをぶっこわすことがねらいになっている。

(プロフィールに「dance on the street, start fights with drunk guys, take photographs, draw penises, ・・・」などと書かれていて、この「The Trontonians」がワークショップ時代のストリートカルチャー/ヒップホップを担ってる感がすごい。)

そもそも10代の少年少女たちが微妙に社会の「ヨソモノ」として扱われていること。そして夜の街を出歩くというネガティブに見える行為をツアーで体験することで、その奇妙な魅力と高揚感を味わえることなど、いろんな演劇的な仕掛けがしてあるだろうな〜と思われる。参加してみたすぎる。



で、提案。

この『Nightwalk With Teenagers』に「夜警」「防犯」みたいな意味をつけて、東京でもできないか、ということ。練馬にも夜出歩いてる少年少女たちはちらほらいる。彼らをオーガナイズしてこのプロジェクトのメンバーになってもらって、企画をつくることで夜の時間がひとつの枠組みに変わる。一緒にご飯食べるのも企画の途中に入れる。さらに地元の人にそのツアーに参加してもらえれば交流のきっかけにもなる。コンビニで出会った時に、わけわかんなくて怖い他者じゃなくなる。

もちろん夜の世界は不思議なので、予想だにしないリスクにあふれているんだろう。でも、なんかできないかなぁ…。

ひとまずの目標はトロントにいってこのプロジェクトを体験したいということだ。(というか彼らのプロジェクトのことを聞きに、ぼくはこの6月にドイツに行ったのだ。まるでおっかけだ。)

2013/11/27

記号消費、ショッピングモール、ネオ公民館

今日知り合った地元密着系カフェの経営者の方から聞いた、お客さんでくる若いママたちの態度がすごい話。

お弁当持ち込んで何も注文しないわ、子どもがキッチンに入り込んでも叱らないわ、他のお客さんの迷惑になっても謝らないわで、やりたいほうだいなんだとか。

「そういうの注意しないんですか?」と聞くと
「怒らせると集団でつぶしにかかってくるからねぇ…」との答えが。

「え!?なんで!?」と理由をきくと、どうやらツイッターやフェイスブックでやたらめったらひどく書くらしい。たぶん「あのカフェは子どもをもつ母親に優しくない」みたいな感じなのかなぁ。そこに「私もそうでした」とビンジョウされて「それはひどい!」と共感を集めちゃったときにはもう炎上。お客さんが近寄らなくなっちゃう、ということがあるそう。共感マーケティングのダークサイド、といったところなのかな。

で、さらにおもしろいのが、そういうお母さんほど有名人の子育てに関する講演会や、「情操教育」を謳ったコンサートなどにせっせと足を運ぶとか。きっと"知育玩具"とかも買いまくってるんだろうなぁと想像する。(でも、造形ワークショップとかやってもあんまり興味を示さないのだとか)

「正しい子育て」という記号を追いかけ、それを子どもに体験させることでちょっとした安心感を得る、終わらない記号消費なのかもしれない。そういう記号消費の体験が子どもを育てているのが実態なのかもしれない。

でも、子育てってうんちにまみれたりげろ吐いたり、人間のプリミティブな部分と向き合うことに必然的になるんじゃないのかなぁ?そういう記号消費の裏には、子育てのしんどさとか、ある種の"ファッション化"した子育てのあり方とか、あるんだと思う。考えさせられる。

結局、ショッピングモール的な匿名文化がそれを育んでるんだろうなぁと感じる。とここまで書いたところで、突然『思想地図β』のショッピングモール特集のことを思い出したので、さっそくamazonでポチった。

歯止めの効かない「消費」の敷衍、世界のフラット化に抗うことはきっとできない。そんな郊外で必要なのは、ショッピングモールの仮面をかぶった複合的な「ネオ公民館」なのかなぁと思う。

それは例えば、1階がカフェ、地下がパーティーホール、2階に保育所・学童保育・高齢者のデイケアセンター、3階がワークショップスタジオみたいな感じの。

SHIBAURA HOUSE」のコンセプトはそれに近いものを感じる。民間企業がこんなかっちょよくて近未来的な空間をつくるのが容易でないことはわかっているつもりだけれど、可能性を信じてみたい。




2013/11/18

遊び、メディア、自治 ―YCAMコロガルパビリオンにて


YCAM10周年記念祭で設置された「コロガルパビリオン」。これは、ナナメに伸びる床やミニマルな山やジャングルジムでできた抜群のアスレチック感に加え、マイク、カメラ、LEDなどさまざまなデジタル機能が埋め込まれた公園型パビリオン。

遊び方を「習う」のではなく、子どもが身体をフルに使って遊ぶことで「生み出していく」というのがコンセプト。「子どもあそびばミーティング」というワークショップを通して、子どもによる新しい装置や使い方の提案、YCAMのテクニカルチームによる実装がなされ、子どもの意見によってアップデートされていく。

この映像をごらんいただければ、コロガルパビリオンがどんな場所か、一目瞭然。


Korogaru Pavilion from YCAM on Vimeo.
「コロガルパビリオン」
山口情報芸術センターに隣接する中央公園に設置された仮設の半屋外型メディア公園。斜面や飛び降り台といった身体的な要素と、照明や音響といったメディア的な要素が分け隔てなく存在し、相互に影響しあって子供たちが新しい遊びを創出するための基礎となります。遊具の使い方を習うのではなく、自ら考え創造しながら遊ぶという公園です。
http://10th.ycam.jp
http://www.facebook.com/YCAM10th


空間としては、去年の「コロガル公園」の検証と建築ユニットassistantが設計に加わったことで格段にパワーアップしていた。建築の特徴としては、二つの円形の空間があり、走り回る「速い遊び」とよじのぼる「ゆっくりな遊び」といった遊びの速さ、光の入り方、ウチとソトなどが対比された構造になっている。



面白かったのは「子どもあそびばミーティング」を通して、2つに分かれた空間をつなぐアイデアがいろいろ生み出されていたこと。片方でスイッチを押すともう片方から突風が噴き出る仕掛けや、それをモニタリングできる仕掛けなど、見えない2つをつなぐデジタルなメディアとフィジカルな遊びがリンクする。

そもそもデジタル=メディアではなく、人と人、人とモノ・コトを媒介するモノ自体が「メディア」と捉えることができる。その意味で言えばお金とか法律とかもある種のメディアになる。(商店街で展開されていた「LIFE by MEDIA」のプロジェクトは服や特技といった貨幣以外のモノを交換することで場が成り立つものだった)

コロガルパビリオンでは、その「法律」すなわち「ルール」にまつわる部分がとても興味深い。この公園の大きな特徴として、プレーパークと同様の「自分の責任で遊ぶ」「それ以外は自由」というルールを採用し、それを承認した上で入場させている。この責任の所在が全面的にYCAM側になってしまうと、危機管理が厳しくなり、子どもの遊びの自由さ/創造性を制約することになる。うらをかえせば、個人の責任で行われる遊びは創造性と自由度が高い。

もちろん喧嘩は起こるし事故や怪我もある。そういう諸問題に対応しつつ、子どもの遊びの可能性を拡張していくために「プレーリーダー」の存在がある。彼らが媒介になって子どもの遊びづくりをサポートし、またそれが他の子にもシェアされ、ゆるやかに連帯していく。もちろん、遊びだけでなく、喧嘩が起きた時の仲裁や、トラブルが発生したときの対応など、子どもたちが自分で考えられるように促していく。プレーリーダーはそこで生み出された遊びやルールのデータベースとして機能しているようにも感じた。(毎週1回、鍋を囲みながら会議をしている彼らの影の努力があってのこの機能だけれど)

プレーリーダーがサポート役となって、さまざまな遊び・ルールが生み出されていく。そこに「子どもあそびばミーティング」を通した公園機能のアップデートがある。これによって、自分たちの遊び場を(大人の協力を得ながら)自分たちでつくる、という「自治」が展開されているらしい。自分たちがよりよく遊ぶために、装置や企画をつくり、法をつくり、仲裁の仕方/されかたを学んでいくこの場には、行政・立法・司法のプリミティブな芽生えがあるのかもしれない。




更に面白いことは、会期の終盤になって、本物の行政を動かすための「運動」が生まれ始めているということだ。コロガルパビリオンはYCAM10周年記念祭における仮設建築として施工しているため、12月1日の会期終了とともに無くなってしまう。それを「署名運動」によってコロガルパビリオンを存続してもらおうと運動を起こした女の子がいる。




小学3年生の彼女は、署名用紙をお父さんに作ってもらい、YCAMのコピー機で印刷し、公園に設置している。周りの友達や来場者に呼びかけ、署名を集めている。これまでコロガルパビリオンの内側/遊びの中で経験されてきた「自治」がその枠を飛び出し、ついには本物の行政を動かすかもしれない。

こんな風に、子どもたちが自分たちの遊び場を(大人の協力を得て)自分たちでつくりだす、というコンセプトは「冒険遊び場」から生まれ、歴史は長い。しかし、メディアセンターが教育普及の一環でこの取組を始めた、というところに新規性がある。公園の新しい価値を問いなおすと同時に、メディアセンターや美術館自体の公共性のあり方を問い直す実践になっていた。

ぼくらが取り組んでいる《放課後アートプラン》においても、この事例が参考になる部分は少なくない。ルールや使い方を子どもたちとともに決めること。子どもたちにとって、そのほうが楽しい遊びができる!という実感があること。子どもたちのこんなことやってみたい!という「意志」と、自分で考えてつくる!という「責任」が喚起され、それを大人のサポートによって実現させていくこと。"環境づくり"がポイントになっているぼくらのプロジェクトにおいて、このコロガルパビリオンはひとつの重要なモデルケースになる。