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2014/03/14

終わりを遊ぶ、仕事、その後

ぼくが苦手なことの一つに「片付け」がある。あるアイデアを思いついて、ばーっと出して、とっちらかすのは得意なのだけど、そこから組み立てて綺麗に整理したり、片付けをしてもとの状態に戻したり、っていうのが下手だ。それでいつも人に迷惑をかけてしまう。

仕事というのは整理して他人の目に触れられるようにすることや、片付けをして終わらせていくことなのだと思う。アウトプットというのは物事が整理された状態であるものだし、何をいくつ終わらせ、区切っていったのか、という数えられる目安に対してお金がしはらわれるのだなぁとも。

そんな当たり前のことなのだけど、とにかく苦手なので克服しなければと思っているのか、先週、友達の家に遊びに行って、一緒にがーーっと片付けをし、押入れにうまい具合にスペースをつくり、新しい本棚をつくった。我ながら小洒落た本棚ができたとおもう。



終わらせること、については他にもいろいろ考える。たとえば今年の「放課後アートプラン」ではポストンというキャラクターをつくって子どもたちにいろんなアイデアをポストしてもらったんだけど、その役目を終えたポストンが解体されることになった。子どもたちに壊していいよ、というと、喜々としてボコボコにした。ヱヴァ破の弐号機みたいになって、最後は粉々になっていた。



壊す様子が楽しそうだったし、壊すことの意味合いが大人と全くことなっていて、これはあれだ、死体をハゲタカに捧げる鳥葬と一緒だ。人の肉が鳥に啄ばまれて空に散って行く、と考えるのと同じように、モノが子どもに遊ばれて彼らのエネルギーになっていく、と考えれば納得・・・

納得はいかない。子どもにも、慈しみとか感謝とか寂しさとかそういうものを感じてほしいと思ってしまう。が、同時に、人や物事の終わりを受け入れるときに、何かしらの儀式が必要だし、そこにはある種の「遊び」があるんだなぁという発見もあった。



世の中には子どもの工作から公共施設まで、作ることを目的につくられ、終わり方や片付け方がないままに生み出されたモノがたくさんあるみたいだ。終わりをポジティブに捉え、それが終わり、なくなった後の世界を考えるのは、想像力を必要とする。「リノベーション」も「リユース」も、一度終わりを迎えたものを新しくつかうわけだし。その終わりを面白く迎えることは創造的だ。

これまで、とにかく生み出すこと、つくることに血眼になっていたように思う。20代も後半にさしかかって思うことは、丁寧で面白い「終わり」をつくること、片付けることを仕事として据えて、これからをがんばっていこうということだ。



2014/03/05

ファッション、物語、戯れ ―拡張するファッション展

2月28日〜3月2日、水戸芸術館へ。「拡張するファッション」展に参加しているFORM ON WORDSとして、その最初のワークショップをするために。んだけど、まずこの展覧会が素晴らしくて大好きになってしまったので、そのことをかく。



ぼくは正直、この展覧会を見くびっていた。ファッションという思考の枠組みは強固なもので、それを崩せるのかな?「好きな人はすきだよね〜」という感じに終始してしまわないかな?と、心のどこかで思っていた。でも、それはぼくが間違えていた。

服を着たり着させたり、つくったりもらったりすることの間には物語があるし、その物語を自分の感覚で面白いほうに変えていける「そういうツールなんですファッションは!」みたいな強い波動を感じたし食らった。それは、この展覧会のもとになった本の著者である林央子さんがしなやかに手繰り寄せてきた文脈、林さんと並走して展覧会をつくりあげた高橋瑞木さんのタフネスなのだと思った。

「拡張するファッション」展は、90年代の写真の広まりや、雑誌やZINEなどのD.I.Yムーブメントから、生産者/消費者という二項対立を超えた、服を着ること、服を通して他者と関わることへの情念をかたちにした人たちの記録と現在を見せる展示だと思う。

ぼく自身とファッションのことを考えると、まず、ぼくはファッションを自分の生きるうえでの大事なものだと思っていなかった。そして、この展覧会が見せる90年代の熱量をリアルタイムでは感じてきていない。大学生になってから知ったスーザン・チャンチオロをコロコロしたかわいい名前の人だなぁぐらいにしか思ってなかったし、ミランダ・ジュライをソフィア・コッポラと混同してたし、コズミックワンダーを好きな人はすきだよね〜ぐらいにしか思ってなかった。


服を着ることへの自我が芽生えた中学生や高校生の頃はもういわゆるゼロ年代半ばで、原宿にいってラグタグに行って、フラボアやズッカやツモリチサト、リバースやバウンティハンターを買うの?買えないでしょ…といって古着屋に行く、という時代だった。コズミックワンダーやヒステリックグラマーの台頭してきた時代は、ぼーっとした小学生でしかなかった。

なにより「ファッション」というものを遠ざける感覚が自分にはあった。あるモノを持っている、まとっている、あるコトを知っている、というステータス消費のサイクルにハマっているだけじゃん!呪われてるだけじゃん!ていうかお金かかりすぎるじゃん!というような感覚をもって、ファッションのことを見ていた気がする。

しかし、この「拡張するファッション」展を観て、ぼくはここに参加する作家たちが、ひたすらに、誰かのために服をつくることや、誰かが服を装って、生きて、変わっていく姿を見ること、それを丁寧に、それでいてセンス全開にして楽しみ、慈しんでいることを知った。

この展示の始まりにあるホンマタカシさんの部屋は、ファッションというものが「コレクション」のような制度によって発信されていくものだけでなく、人々による服の着方/遊び方によってつくられていくものとして、ファッションの民主化の始まりとして位置づけられている。

「こういうの楽しいと思うし素晴らしいと思うんだよね」と発信していく人々が、大きな制度に依存するのではなく、日常的実践からカルチャーを創造していくたくましさとかろやかさが、ホンマさんの写真や、その後につづく「Purple」や「Nieves」「Here and There」といった無数のZINEから感じられる。

スーザン・チャンチオロの部屋には、彼女の日頃のスケッチとそれを映像化したものが溢れるように貼りだされている。メモ、スケッチという日常の手癖のなかに、他者に装いを与えること、その物語への詩情を感じる。

横尾香央留さんは、他人から預かった服の"お直し"をするのだけど、柄に合わせたり合わせなかったりしながら、ちょっとした遊びとしてきのこを生やしたりしている。服やそれを着る人の物語の、終わらない戯れの予感がある。

ここに参加している作家たちは、ファッションの魅力をよく知っている。ある意味では半分呪われていることを自覚していながら、そうじゃない、自分の感覚を信じて生きることを可能にする手立てとしてファッションがあることを、強く願っているんだなぁと。

個人的にここ1年ぐらい、ぼくはあらゆる場面で「まぁそんなもんでいっか」とか「誰かやってくれるっしょ」みたいな怠惰な態度で生きていたと思うし、「こういうことをしたらドキドキする」とか「このワクワクは他人にも共有できるはずだ!」みたいな感覚を閉ざして、最低限のタスクだけをこなそうとするような、そういう生き方をしてきていた。だからこそ、この展覧会のなかにあるモノゴトの熱量には食らったんだろうなと思う。




FORM ON WORDSもまたその名の由来の通り服にまつわる「ことば」を集め、それを「かたち」にしていくプロセスのなかに「遊び」を取り入れることで、物語の読み方を複数化することに腐心している。


今回のメイン展示「ファッションの図書館」は、ファッション誌やファッション史の陳列ではもちろんない。個人の装いにまつわる物語=ことばの蓄積をつくりだしている。手前味噌だけど、強烈なリアリティだった。例えば亡くなった人の服とそれにまつわることば、かつて子どもだった誰かの服やその思い出など、目前にその服があると、そうした物語が自分たちの身の回りに無数にあることを、がっと思い出させられる。そういえばぼくの今日着ている服も、あの人から選んでもらったやつだったわ。その服を着ていることに、別の意味があることを思い出す。

そんなふうにして物語を預かったFORM ON WORDSがどんな風に服/かたちをつくっていくのか。ワークショップの過程は後半に続く。







2014/01/21

スポッチャ、快楽、反復

1月17日(金)「スポッチャ」のリサーチということでラウンドワンスタジアム板橋店に行ってきました。

ボーリングにわざわざ行く…ということで思い出すのは、小学生の頃「みんなでボーリング行こうぜ!」と企画して、わくわくして前日寝られなくて、当日も朝早く起きちゃって、で、ヘトヘトになって帰ってくるあの感じでした。が、大人になってからいくアミューズメントは全然体験でした。

光が丘の児童館での子どもたちの様子を見ていて、大人が名目としてかかげている「子どものコミュニティづくり」とか「居場所づくり」とか「健全育成」とか、そういう活動よりも、設備があってそれを使って遊べるという機能のほうが当然重視されているわけです。高い天井があり、バスケができ、外ではフットサルもできる、みたいな。なぜ「スポッチャ」に行きたくなったかというと、その感覚で思い切り遊べる場所といえば「スポッチャ」なのでは?と思ったからです。

そして行ったことがなかったので、アージの企画コーディネーターであり、遊び魔人並木くんはじめ5人で行ってきました。



▶株式会社ラウンドワン


ウェブサイトによると、株式会社ラウンドワンは大阪に本社があって、ラウンドワンは全国に111店舗、北米に3店舗(山形、茨城、富山、福井、滋賀、鳥取、島根、長崎を除く)。全国どこに行ってもあるイメージだし、ボーリングといえばラウンドワンとさえ思うレベル。

会社の経営状況を調べてみると、一時は収益率が下がっていたみたいだけど最近では学生を中心に時間帯による料金プランの違いで「割安感」を打ち出すことで業績を回復しているみたいです。CMやチラシなどの広告量によって業績が左右される、ともありました。あ、それなら行こうかなと思わせる料金プランと広告で勝負してる。

ただ、メインはやっぱりボーリングで、サブとしてのスポッチャだそうです。料金はまた別途必要ですが、ボーリングがけっこう待ち時間が長いらしく、その間スポッチャで時間をつぶす、という使い方があるのだとか。



▶遊んでみる




ラウンドワンスタジアム板橋店に到着して、まずは受付。会員証をつくる。フリータイムで大人は2300円、学生はそのほぼ半額の1200円!!!やっぱり学生がメインのターゲットなんですね。

入るといろんなブースがあって、いろんな効果音が方方から鳴っているあのゲーセンの感じ。この感じか…と思いながら周りをみると結構中学生が多い。ダブルデート的な感じの。


ぼくら5人もまとまりなくランダムに遊んでいく。最初はガンシューティング、次にゴルフ、そんで「筋肉番付」のあのバスケのフープが動くフリースローのやつ、キックターゲット・・・・


まぁ普通だったらゲーセンで200円ぐらいいれてできるゲームが、空いていればやりたい放題。確かにいろんなスポーツを擬似体験できるし、振ったこともなかったゴルフクラブを振ったりもできて、いい機会。

で、卓球でひとしきり対決したあとはビリヤード。対決できるし、スリルあるし、まぁある程度楽しいは楽しい。


そして、やたらと喉が乾く。身体動かすし空間が乾燥しているのもあるし、ジュースが欲しくなる。で、自販機に行くとなんと200円…!なるほどね、と思いながらやむを得ずボトルのコーラを買う。炭酸と甘さが喉に広がって潤すので、うまい。



屋上階に行って、バスケやってるのを横目にバッティングコーナーへ。あらゆるコンテンツの中で最高はこのバッティングでした。なんてたって(空いていれば)やりたい放題!!!!! 80km~130kmの球をバカスカ空振りできまくれるわけです。


一緒にいった友達は、15ゲームぐらいやってました。ぼくも10ゲームぐらいしたかな。普通のバッティングセンターでやったらそれだけで3000円ぐらいだから、これだけで元はとれてます。(が、おかげで腰とか肩とか変なところが筋肉痛)



あとはバレーボールやテニス、フットサルができる場所もある。本来のコートよりもやや縮小されていて、素人が遊びやすいように設計されているのかなあ?ガチでやるというよりは、あくまで擬似的な感じ。


混雑して並んでいるときのために「1人1ゲーム」「1組10分」などのルールが決められている。あとは、近隣への配慮とか、禁止事項とかも最低限だけど書かれている。


ひとしきり身体を動かした後はゲームコーナーで「湾岸ミッドナイト」でカーレースをしたり、なんか変な画面に向かってボール投げて敵を倒すやつやったり、パンチングマシンをしたり「太鼓の達人」をやったり・・・・

全ゲームフリーで遊べる!のだけど、最新のゲームではなく型落ちしたゲーム機を使っているみたいですね。普通だったら1回100円とか200円とかだけど、お金がかからないのでお得感がすごい。


▶ 児童館とスポッチャ

児童館とスポッチャを比較すると、そう違いはないと感じます。しかし、種目ごとに空間が区切られ、使用時間の目安があり、ペアもしくはグループごとに遊べる、という安心感がスポッチャにはあると感じました。


児童館は、空間が区切られていないし、使用時間の目安もない。整理されない混沌とした空間のなかで、子どもたちは工夫して場所を見つけ、遊んでいます。ただ、縁日やお化け屋敷などの催事は、利用者が考え、空間をつくることができる。これは児童館の強みです。スポッチャには"ハレ"がない、あるいは常に"ハレ"。児童館は"ハレ"と"ケ"の区別がある。

ただ、"ケ"の日がただのカオスになってるときがあるので、スポッチャを参考に、空間の使い方を整理することはできるんじゃないかなと感じました。



▶ 興奮と退屈のアップダウン

児童館とスポッチャは、こんなふうに比較できる。ただ、ぼくがスポッチャで感じたのは、なんというかやってもやっても退屈する感じでした。ゲームの最中は、一瞬のスリルとか、勝ち負けの競り合う感じとかを楽しめるが、次、次、とゲームや遊びをこなしていくたびに、心の奥底で退屈が晴れない…。

あ、この感じはあれだ、児童館で子どもたちがいろいろ出来る遊びがあるのに「ねぇなんかやることない?ひま〜!!!」と不満を言っているあの感覚だ!!!

と強烈に気付いたのです。ぼくも小学生の頃、同じメンバーで同じ場所でずーっと遊んでて、飽きてるんだけど言い出せない、なんか新しいことないの〜と退屈する感覚を味わっていた。そうか、この感覚を彼らは日々味わっているのか…それは結構キツイ。

2000円払ってフリータイム。閉じられた環境のなかの、溢れるコンテンツ。カーレースやシューティング、キックターゲットやビリヤード、おまけに漫画喫茶もある。それぞれに、それぞれ遊びの世界が開かれているのだけど、一つ一つの世界でスピード感やスリルや競り合いの昂揚があって、そこから抜けるとcalm down。この繰り返し。

3時間もそのアップダウンを繰り返していたら、ゲームの昂揚に身体が慣れてきて、別の感覚が欲しくなってくる。で、ちょっと一息つこうと思って、割高だけどコーラとフライドポテトを買ってたべる。このすべて用意されている感じの充足感と閉塞感。

ここで退屈を強烈に感じたこのとき、ぼくが欲しくなったのは、新しい驚きとか、見たこと無いものとか、これは一体なんだ!?とわからなくなってしまう感じとか、そういうトリップ感でした。



▶ 「快楽」と「楽しさ」

チクセントミハイという人が『フロー体験 喜びの現象学』という本の中で「楽しさ」と「快楽」について以下のようなことを言っています。

"「快楽」とは単に期待が満たされたり欲求が充足されたりする"均衡回復"であるのに対して、「楽しさ」とは期待を超え、事前には想像していなかったことを達成したときに生じるものだ。"


ぼくは「快楽」ではなくこの「楽しさ」が欲しくなったんだと思います。そしてそれはそういう欲望のあり方をぼく自身が培ってきているからであり、そうじゃない人はそうじゃないわけで。

学校や仕事や生活のなかで日々たまっていく鬱憤がある。なんかしたい、なんかもっと別のこと、別の感覚が欲しい!と興奮量が増大していく。で、それを満たしてくれる「快楽」の体験は、興奮量を減少させ、また日々の生活に向かわせてくれる。

溜まっていった鬱憤があり、居てもたってもいられなくなるとき、映画を観たり音楽を聞いたりお酒を飲んだりゲームをしたりして、「快楽」の体験がその均衡を回復しているのでしょう。そういう意味では必要なものなのだと思います。

例えば、児童館で「新しいことを考えよう!」と言うと、「特に何も新しいことしなくていいよ」と言われることも多いです。この興奮量のアップダウンを安定して体験できることが、彼らの日常を支えているのかも知れません。



▶ あらためて、児童館とスポッチャ

まず重要だと思うのは、児童館では「快楽」のためのプログラムと「楽しさ」のためのものを区別して考え、「快楽」の体験を丁寧に提供することだと思います。

混沌とした状況では、「快楽」がほしくてもそれを手に入れられないで、ますます鬱憤が溜まります。しかし、整理された状況であれば、それは安定して手に入るのだということをスポッチャで学びました。

一方で、「楽しさ」のためのプログラムとはどんなものなのだろうと考えると、「何が起こるかわからないけど何か起こりそうな場」をきちんと用意することなんじゃないかと思っています。勝手に使っていい食材がたくさんあるとか、触ったことのない画材や道具があるとか。自分たちでどうにもできてしまう「自由」が保証されていることなのかなぁとか考えています。

スポッチャにはその「自由」はなかった。ただ、児童館にはその「自由」を作る余地があります。

あれーこれって結局は、前の記事で書いた「変化と移動の余白」ということと同じじゃないか。もうだいたい見えているのだから、もうちょっとシンプルに言語化できないものかと、自分の言葉のセンスを嘆きながら、仕事を進めていきます。



▶ おまけ



おまけですが、このあとボーリングをして、最後に激辛ラーメンで有名な「中本」の本店に行ってきました。ぼくがたべたのは普通の蒙古タンメン(6辛)なのだけど、一緒に行った並木くんは「ちょっとチキり(躊躇し)ました」と言いつつつけ麺(9辛)を頼んでいました。

並木くんにうけた忠告は「食べ始めたら水を飲んではいけない」「麺は絶対にすすらない(気管支に入ったら終わり)」の二つ。

集中して汗だくになりながらヒーヒーいいながら食べる。そして翌朝はカプサイシンフィーバーのおかげでお腹を下す…。

なんというか、自分の身体をちょっとイジメながら欲を満たして楽しむあたり、スポッチャ的というか、なんかそういう消費文化なんだなぁと感じたのでした。


2014/01/15

居場所、変化、移動

先週1週間、今年度実施している4つの児童館でのミーティング。この3ヶ月、子どもたちに「児童館でどんなことやりたい?」と聞くことを中心に、子どもたちの児童館の使い方や言語化されないニーズなどを丁寧に観察し、来年度にどんなプロジェクトをやるべきなのか、ずーっと考えてきていて、そのことを職員さんと共有した。

といっても各児童館ごとに課題は全然違っていて、その共通項をあぶりだすのは容易ではなかった。

たとえば1つの児童館は、子どもたちから「規制が多すぎる!」という不満が漏れでている。「児童館がつまんないって、最近評判だよ」という言葉も聞いた。みんなで使う場所なのだから、多少の規制というかルールはあってしかるべきだ。しかし、その調整はとっても難しい。

ここで考えるのは「居場所づくり」という言葉のルーズさだ。

そもそも「居場所」というのは、当人が心地よいと感じる場所のことであって、自分で探し、自分でつくるものだ。しかしこの「居場所づくり」という言葉をひらくと「大人が子どもに居場所をつくって与える」という意味になっている。居場所をつくって与えることと「管理」は紙一重で、その運営が管理に偏れば子どもから反発が生まれるのは当然。「居場所づくり」とは、ウラを返せば子どもの社会/政治参加のことである。丁寧な合意形成にもとづいて、みんなができるだけ自由に活動できるような空間/ルールをつくるという、大人の為政者としての手腕が問われる。

また別の児童館では「子どもたちがショッピングモール感覚で児童館を利用しているんじゃないか」という仮説がある。児童館での遊びコンテンツを消費しているだけで、自分たちでこの場所をつくる感覚というのが育まれていないのでは?というもの。

これも「子どもの社会/政治参加」ということと同じ問題だ。子どもが自分たちの意志によってこの空間が変化することを信じていないし、そんなこと望んでもいない。望んでいないのは、そうやってある物事が変化することの面白さを体験していないからだと思う。「変化への断念」「変化の成功体験の欠如」とも言えるかも知れない。「居場所」とは、利用する子どもたちの意志によってルールやコンテンツやハードウェアが変化する可能性を内包した「柔らかい空間」であるべきだと感じる。

もちろん、児童館および子どもの遊び場が、その場ごとのコンテンツを消費する"ショッピングモール化"しているという問題は別に新しいものではなく、これは解決するべきというよりも、うまく利用するほかない。「会員制度」の利用や意味付けを変えることで社会参加の体験をある種「商品化」する工夫も必要だと思う。

こんなような事を考えいてると、ひとつ「変化」というキーワードが浮かんでくる。

「変化」とは、ここに書いているような児童館という物理的な「空間の変化」だったり、ルールやコンテンツといった「内容の変化」、それにともなう子どもたちの「意志の変化」だったり、いろいろだ。「内容の変化」の場合は、児童館という場や、そこにあるモノの「意味の変化」もありうかも知れない。例えばそれはそれまで「机」だったものがあるときは「隠れ家」になったり「ステージ」になったりするようなそういう変化だ。

ただ、あるものをそのつくられた目的外で使用することは「マナーが悪い」とされる。「机は座るものではありません」というあれ。座りやすい位置にあるんだから座っちゃうのは自然な流れなのだけど、誰かが決めた「目的」がそれを制約しちゃう。話は変わるが「美術」は物と意味を解体して組み替えることをやっているし、そういうものに触れてきているので、「マナー」のあり方自体に疑問を投げかけざるを得ない。あるモノを別の目的に読み替えて使うこと、「マナー違反」と思っているモノゴトのなかにも、クリエイティビティのたねがあったりする。自由であることと、マナーを犯すことの区別をもうすこしゆるやかに考えなくてはならない。

さらに別の児童館では、子どもたちの意見を受け入れる「柔らかさ」は実現しているが、利用する子どもたちが固定化し、閉塞感をつくっている。中高生ともあれば、グループをつくり、壁をつくるものだ。これはある意味では仕方のないこととも言える。だが、排他性を回復するためには、ある種の「開かれ」というか「異質なものの介入」が前提となる必要がある。異質な他者や考え方が運ばれてくるルートの設計がいる。あるいは異質なものと出会うために、出て行くルートも必要かも知れない。これはずいぶん前から考えてる、旅路の設計のことだなぁと思う。

変化の可能性と、移動の可能性。この二つが空間を面白くしていくし、そこに居る子どもたちを育てていく要素だと思う。

「変化」と「移動」、これは2014年の、重要な意味を持つ言葉だ。



2014/01/07

思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開

ぼくが生涯一度しか読んでなくて、でも大好きな小説に舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』がある。


アメリカ人探偵ディスコ・ウェンズデイは孤児として生まれ、迷子専門の探偵として東京の調布に住んでいる。またの名を踊場水太郎(本名:ウィリアム・イーディ)。依頼人に頼まれて見つけたけど引き取りてがいなかった梢(6歳)と住んでいるんだけど、あるとき急に17歳の梢(?)が、6歳の梢の中に入り込んで、未来からきたとかどうとかで、ひょんなことから福井県にある「パインハウス」にふっとんでしまった梢を救うために、名探偵たちの連続自殺事件という難解事件の解決に挑む・・・

みたいな話なんだけど、中巻ぐらいからとにかく情報過多で、なんのことかよくわからないことが次々と起こっていく。ただ、ディスコがひたすらに梢のことを救おうとしていて、わけのわからない出来事の洪水を泳ぎきろうとする意志の力だけがはっきりと感じられる。2000ページぐらいの超超長編なのだが、後半そのスピードは加速し、ディスコは時空をしっちゃかめっちゃかに行き来して、なんとか梢に辿り着こうとする。

そしてその素晴らしい書評が載ってるブログを見つけた。

イワンの末裔 ――『ディスコ探偵水曜日』と舞城王太郎

ここで引用されている一文。

「作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。――物を作るとか創造することって全てが経験で得た知識を組み合わせてるだけじゃなくて、どこかで、ゼロから何かを生み出してるんですよ」

"思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開"

なんというか小さな小さな奇跡が、ここにあるんだと思う。子どもに絵を描いてもらっているときに、ときおりこの「思っても見ないもの」が現れる。その瞬間の、ある子に対して貼っていたラヴェルを思い切り引きちぎられ、立ち現れたものが理解できなくて戸惑い、ゆさぶられ、ときめいてしまうあの感じをつかまえたいといつもどこかで思っているんだなぁと、今この文章を読んでいて思った。










2013/12/26

大きな文脈、規制、OSの設計

12月23日(月・祝) 

アサヒ・アートスクエアで開催されていた山城大督さんの個展「VIDERE DECK」に行く。「時間」を主題にしていたこの展示、オートマチックでループされる12~13分の時間のなかで、子どもが世界を認識する過程、他者に伝えること、刻まれる時間などが描かれる。エモーショナルな、小さな世界とその肯定感はとてもここちよい。敷かれたカーペット、そしてどこから入ってもいい時間のループ。時間とは、直線的につづいてくものではなく、ひとつの円環であり、放射線状にのびる形象なのだなぁ〜とぼーっと感じ入る。

ただ、正直ぼくはこの展示には既視感をおぼえてしまった。どこかで観た/聞いたような感覚というか。見終わって思ったのは、なんかもっとやばくて狂気を感じるものを期待していた。

あと、なぜ今この時代、この場所で、このアーティストの映像や時間、小さな生活についての展示をやる意味があるのか。その言葉がものたりなく感じた。アサヒ・アートスクエアのディレクターの坂田さん、あるいは運営委員会のみなさんの大きく出たステートメントを読みたかった。(というか、それがなかったので、なんだか業界内の報告会のようで居心地が悪かった。)

今、この時代に、この実践は何を問うているのか…。その大きなコンセプト/思想/文脈を語る勇気が、アーティストを扱う場には必要なんだと改めて感じた。


12月24日(火)

この日は児童館へ。前澤Pと、萌ちゃんと、縣さんと4人で児童館の工作室にいくと、イベント開催のためにいつもの居場所を追われたゲームホリック男子たちがうようよと集まっていた。

「はろー」といつもぼくとカードゲームの対戦をして遊ぶ子に声をかけると、「おう、うっすん」と元気がない。聞けば、明日からカードゲームの持ち込み・使用が禁止されるそうだ。理由は盗難があったから。翌日に緊急子ども会議が開催され、そこでゲーム禁止について審議するという。

「これでまたひとつ規制が増えた…」と嘆く子どもの姿に、ぼくはとても悲しくなってしまった。

「新しい大人が来るたびに「◯◯禁止」規制が増えるし、「あいさつをしなさい」みたいな標語も増える。そういうのがほんとにウザい。空気ワルくなるし。だから最近みんな児童館つまんないって言ってるし、実際人も減ってるよ」

と言うのは小5女子。「うっすんだって、ボール握るの禁止にするじゃん」と言われてはっとした。あれはドッジボールを楽しくするために、それはやめて、と言ったのだが、その真意(ボール握らないほうがドッジボールが楽しくなる)というのはあんま伝わってなかったんだなぁ…。

で、4人でその女子グループの話を聞いていると、児童館への不平や不満がこんこんと湧いて出てくる。まぁ実際どっちもどっちというところもあるんだけど、この状況は全然いいとは言えない。職員さんと子どもたちの和解というか、相互に許し合って、いい児童館を一緒につくろうと約束しないと、この状況は変わらない。



12月25日(水)

この日はアージの理事会+企画コーディネーター会議+忘年会。

理事会では、来年度から着手する人材育成事業の内容についてと、自由な活動と小さなリスクを許容する「寛容性の空間」をつくるためのルールや合意の場の形成をしなければならないということを話した。そのためにプログラムを組んでいく。

子どもたちが自由に活動をするための、子どもと親、地域住民、児童館職員などそれぞれが合意していく場。そのうえで、子どもたちが自由に素材を使って創作を楽しめる環境をつくる。これはいわば、合意の場があり、ルールを生成し、素材の開放・企画立案を可能にする"OS"。そこに様々な表現の技法をもちこむ"アプリケーション"の導入。あるいは、立法・行政・司法のミニマルで創造的な形であるともいえる。

企画コーディネーター会議では、おのおのの現場で感じていた「毒」をばーっと吐き出した。児童館(あるいはその背後にある社会)が子どもにかけてしまっている規制のこと。「居場所」とその「排他性」のことなど。

来年の企画もまた、一筋縄ではいかないだろうと思う。








2013/12/23

キラキラ、ダラダラの質、見せるもの

放課後アートプラン関連企画オープン児童館「放課後体験ツアー」「中高生クッキングバトル」の2つのイベントが無事終了した。イベント終わって深夜まで並木くんとセバと飲む。セバが、言語の構造からみる日本語ラップの魅力について語ってて、それが面白かった。

昨日の昼間は、ゆう杉並にいって中高生主催の「アクティブフェスタ」に行ってきた。レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『By the Way』のコピーや、ライムスターの「ウワサの真相」の元ネタになってるCreamの曲とかを演奏する高校生たちのライブが超かっこよくて、驚いた。高校生たちが放つキラキラをたっぷり食らった。

何よりよかったのは、ゲームサークルの子たちがスマッシュブラザーズの大会をやっていたり、鉄道の会の展示があったり、NERDな子たちの輝き。鉄道の会の展示には、どこかの電車を見に旅行にいったときの写真が展示されていて、彼らの青春の記録に胸を打たれた。

ゆう杉並では、高校生たちが自分たちで自分たちのためにイベントをやっていた。「これをやりたい!」という気持ちが集まっていた。しかしおとといの「中高生クッキングバトル」は構造が全然違う。これは職員とアージスタッフが強い思いをもって実現し、そこに中高生たちに乗っかってもらったかたちだ。いわば彼らをお膳立てしてステージにあげ、小学生や大人に向かってパフォーマンスさせている。「ちょっとめんどいな」と思っていた子もいると思う。当日はテンションぶちあがってたけれど。

児童館では、何もやりたくない、ダラダラしたい、めんどくさい、という気持ちが渦巻いている。そこで「何かやろう!」と持ちかけても、「えーやだ」となるに決まっている。

このことをどう考えるかがアージの企画のキモ。どの児童館に行ってもこの状態だから。

何もしない、ダラダラするということはダメなことなのか…?というのがひとつ。何もしていないということはない(息はしている)のだから、このダラダラの質、というのが問題だと思う。

もうひとつは、何かやろう!と呼びかけなくても人間の行動を喚起する手法はあるということ。やろう!と言われなくてもやりたくなる環境というのがある。たとえば、イベントが終わったあとの工作室は、余った食材が山盛りになっていて、それを使って男子たちがこぞって料理をつくっていた。材料を開放することで、つくりたくなるし食べたくなる。

あとはやったことのないことへの不安感をどう減らし、手を出しやすくするか。ドッジボールは面白いけど、話し合いは面白くない(面白くないものしか経験したことがない)。やったことのない初めてのことにどう取り組むかは人類の課題だし、それこそが創造性だと、アージでは考えている。

そして、そうやって子どもらのモチベーションを上げる過程をつくっていくことと同時に、お客さんにどう見せるか〜というのも大きな問題。もっと映像のクオリティ上げるとか、彼らの日常の振る舞いを見せるものに変える「枠組み」を作っていかなければならない。

しかし、その専門性はぼくたちマネジメントチームがもつべきものではなく、外注するべきかなぁとも思う。演出とオペレーションは分けたほうがいいと思うし、その点は悩み。