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2014/09/16

仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』



新宿シネマカリテにて、ずっと観たかった『大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院』を観る。

監督が最初に撮影を依頼してから16年後に「準備は整った」と許諾を得、撮影は6ヶ月修道士として迎え入れられて、ともに生活しながら撮ったという。とはいえ、1日に1時間程度しか撮ることができず、6ヶ月間でおよそ120時間。そのまま上映したいぐらいだっただろうに、その映像を169分に編集した。2006年公開の本作は、日本公開までにさらに8年かかった。

「沈黙」とは完全な無音ではない。この映画は終始、聞いたことのあるようでない音への驚きに満ちていた。そして仕草の美しさ。というか仕草の美しさとは、仕草の「音」の美しさなのかと、こんなにも思ったことはない。

例えば、コップを机に置くときのムード。コトリと静かにおくか、ゴンと思いやりのない音をたてるか。日々の仕草のムードを演出してるのは実は音なんだなと。

修道士たちの仕草は、幾度と無く繰り返され、無駄を省き、丁寧さを練り込んだ仕草。たとえば、青い服をきた老修道士が畑の土をぶあつく覆う雪をスコップですくう場面。土の表面を削らないように、雪だけをすくうように、丁寧にスコップを雪に差し込んでいくんだけど、うっかりほんの少しだけ土をすくってしまったとき、またスコップでその土だけをすくって畑に放ったのだ。また、靴を修理するとき、靴底と革を貼り付けるボンドを塗り、息を吹いて少し乾かすのだが、その息を吹きかけるリズムと長さ、丁寧さ!

ていうか、そもそもなんで修道院はあるのか、修道院のもろもろの行為の目的はなんなのかって考えたとき、最近読んだ本の一節を思い出した。

行動する者は勝利したいと欲する者だ。勝利する者は他者に苦しみをもたらす。行動を断念することだけが、幸福と平穏への唯一の方途なのだという憂愁。

でも、行動しないで生きるなんて無理だよなぁ。呼吸するし、のどが渇いたら水飲むし、お腹すいたら食べる。家がほしい、恋人がほしい、とか欲求は高まる。もしかしたら修道士という人たちは、すべての行動とそれによってもたらされる勝利を(可能な限り)断念しようとしているのだろうか。そしてそれらの仕草に祈りを練り込んで生きていこうとしている人たちなのかもしれない。

そしてそこには希望が漂う。神に近づける、慈愛に満ちた人間として生を終える。その希望に悲哀を見てしまうのはぼくが俗世の人間だからだろうなとか。映画をみるぼくらとは別の生き方を選んでいる人たちの姿は、人間が他者を苦しめることなく共に慈しみ、あわよくば楽しみ生きるには、人間の魂はどうあるべきかを静かに問いかけてくる。

ちなみに、ボンドで修理した靴は、週に一度だけ遊びにでかけるときに雪山で履く。スキーのように滑って遊ぶ修道士達の様に、遊びとはこんなにも瞬間の喜びなのか、と。他者とともにいかに生きるかという魂への問いから、一瞬だけ解き放たれる瞬間が遊びの美しさなのか、と。

まーとにかく約三時間、耳を澄ますべき映画。日々の自分の仕草の音をもう一度聞いてみようと思う。

2014/09/13

服をつくる、無数の選択、切実さ ー拡張するファッション展 その3

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて開催中の「拡張するファッション」展、関連企画として、先月FORM ON WORDSで服づくりのワークショップ《ファッションの時間[丸亀]:普段着》をやりに、四国へ。

FORM ON WORDS《ファッションの時間[丸亀]:普段着》
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「拡張するファッション展」 
©FORM ON WORDS

内容はこんな感じ。

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永遠に着たいほど気に入っているけれどほころびてしまった、年齢にあわなくなってしまった、好きだけどどうにもからだにしっくりこない。《ファッション時間丸亀]:普段着》は、参加者がそうした悩みを持つをもちよって新しい普段着につくりかえるワークショップです。模様やシルエットを変えていくだけでなく、スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど、自分日常ある一瞬ため「装置」を付け加えていきます。新しく付け加える素材には、《ファッション図書館[丸亀]》で集められた、物語を持つ古着を使います。複数物語を持つが素材となって、かけがえない自分日常1シーンためかたちができあがっていきます。
(「拡張するファッション」展ウェブサイト/http://www.mimoca.org/ja/events/2014/08/20/1199/より)

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参加者は中学生から大人まで。5日間連続のワークショップ。9月23日(火/祝)までそのアーカイヴが公開されていますよ!




人が服をまとったすがた・かたちは、無数の選択の結果


参加者(というかぼくも含めて)ほとんどが服づくりの素人。ミシンの使い方ぐらいはちょっと経験がある程度。ぼくもワークショップをしながら、「服をつくる」という行為のその片鱗を、初めて経験した。進行役でありながら、恥ずかしくも服づくりの素人であるぼくは、進行役/参加者と2つの立場でここにいた。

これから書くことは、服づくりの経験がある方からしたら、そんな基本も知らないのかよ、というレベルだし、まがりなりにもファッションブランドに関わる人間としては恥ずかしい発言の数々に違いない。でも、驚いたことなのだから、嘘をつかずに書きます。



服づくり、というか物事をつくること全てに共通することなのだと思うけど、いま、この時代、ある場所にその風景があること、それはつくる人、買う/選ぶ人、着る/使う人、といった複数の役割の、無数の選択の結果なのだ、ということ。

服をつくる過程には、人がその服をまとったすがた・かたちをもたらすために無数の選択がある。つくる人による、形、生地、色、縫い方の選択。着る人による、着方、着ていく場所の選択。あるいは服とどのようにして出会うか。

その選択の道すじが、そのムードを微細に仕立てあげていく。選択とその結果起こる出来事と相関して、やわらかさ/かたさ、重さ/軽さ、明るさ/暗さ、おかしさ/真剣さなどを綯い交ぜにした現在の人々の風景をつくっている。






ミシンを使うまでの準備と、平面が立体になること


ワークショップの中で、最初に驚くのはその工程。ぼくには服づくりというと、布を切って縫う!ぐらいのイメージしかなかった。それが実際に作業をしてみると、その部分ごとに多様な工程があり、一つの部分にもいくつもの工程がある。パターンをとり、生地にチャコペンで書き写し、布の地の目を意識しながら布を切り、縫いしろを折り曲げながらまち針で止め/仮縫いし、ミシンで丁寧に縫い、ロックミシンで端を始末する・・・・・・といういくつもの工程がある。専門家いわく「縫製がうまいひとは、ミシンの使い方が上手なのももちろんだけど、縫うまでの準備がうまいんです。」と。

そしてなにより!布という平面を立体にするわけなので、平面で切ったかたちと、できあがるかたちは違うのだ!その違いを予め把握しながら形を考え、切らなくてはならない。ミシンを使うまでに、やらなきゃいけないことがたくさんあるのだ!FORM ON WORDSの中で服づくりの専門性をもつ竹内さんはこの「工程」のボキャブラリーが豊かだ。豊かすぎて「これもできるしああもできるし」となって判断できなくて「どれがいいですか?」と参加者に委ねまくる。(そこがいい結果をもたらす)




服づくりの技術を身につけるには本で学ぶより手本を見るより、何度も繰り返しつくるのがよいと感じた。はじめはわけがわからないまま、指示を得ながらつくっていくのだけど、経験を積んでくると、どんな素材を使ってどうやって型をとり、どうやって縫いあげたら仕上がりが綺麗になるか、を考えるようになる。無数の選択の結果が服の「かたち」をもたらしていくのだということに気づく。



気づかれないディティールがつくりだす全体のムード


その「かたち」は、もちろん生地の切り方や縫い方によっても変わってくるんだけど、ものすごく些細な部分へのこだわりが全体に影響する。抽象絵画の、たった一つ新しい色を加えるだけで全体のムードを変えてしまうのと同じように。





今回のワークショップでは、日常生活における様々な場面を想像し、その1場面のためだけの服をつくっていった。スマートフォンをいれて音楽を聞くためポケット、縫い物をするとき針山になる袖、近所レザーショップで買ったアクセサリーを飾るためボタンなど。日常のワンシーンも、微細に考えてみると、様々なことが浮き彫りになる。そのとき自分はどうするか、どこにどんなものをつけるか、ほんとに些細な部分だけど、服のディティールが変わっていく。あーそうなのか、服のデザイナーはこうやってほとんど人には気づかれないようなところに気を配り、雰囲気をつくっていくんだなぁ…と。



切実で小さな決意たち


とかまぁそんなふうに服作りってすげぇなと素人まるだしの驚きをおぼえながらぼくはワークショップの進行をしていたのだけど、もっともグッと来たのは参加者ひとりひとりの「切実さ」だった。今回の参加者のなかにはまったくの素人(like me)から縫い物やファッションが好きな中学生、そして服作りのプロとしての技術をもっている方までいろんなひとがいた。FORM ON WORDSのサポートはあるけれど、全員、自分が普段それを着ている姿を想像しながら自分で服をつくるわけなので、一つ一つの選択に「このやり方でかわいくなるかな?」「間違えやしないだろうか」「変ではないか」という不安がある。


そんな切実な迷いと不安を前に、一人ひとりが自らの美的直観をもって、よし、やろう、と小さく決意していく様。やったことのない初めてのこと、できあがるまでうまく想像できない未知のかたちを目指して、一つ一つ乗り越えながらやっていく様。「自分がなにやってるのかわからんくなる」とか「このやり方はあってるんだけど、もっとおもしろやりかたがあったんじゃないか」とか「これ以上手を加えていびつになるのはいやだ」とか。でもそうやっていくうちに、個人のなかにあった未知のセンスが服を通して浮き彫りになって、自分のかたちになっていくのが少しずつ見えてくる。

「ファッション」のすごく嫌いな部分は、本当はその人らしいいろんな好みがあって、それを丁寧に愛していくことはいいことなのに、そういう個性を否定するかのように「こういうのがいい」「こういうのがモテです」「こういうのは非モテです」と提案し、人々のバラバラな美的感覚の方向性を強引に束ねてしまう欺瞞的な力をもっているところだ。そういう大きな方向性にノレない人は(ぼくもそうだったが)服を選んで着ることが億劫になっていく。あるいは服のブランドや値段といったものにだけ価値を見出し、それが似合うとか似合わないとかはどうでもよくなってくる感じ、そういう中高生を何人か見ている。



今回のワークショップは、そもそも何も手本がない状態から立ち上がっていく。既製服を買わず、自分でつくるということは、そういう「ファッション」の提案する美的な方向性に頼ることができない状態に自分を追い込む。信じられるのは自分が言語化できる範囲の自分の「好み」と、それがかたちになったときに「こうなったらいいな」というおぼろげなイメージでしかない。そのおぼろげなイメージに向かって、小さな不安を乗り越えながら、そしてFORM ON WORDSのささやかな提案と他の参加者のセンスに小さく後押しされながら、つくっていくみんなの姿が勇ましく見えた。

もちろん!ワークショップとしては反省点がありちらかしてるし、ぼくももう少し日常的に服づくりしようかなとか色々考えている。しかし、永遠に着たいけれど着られなくなってしまったものをもう一度新しくするための技術を学べ、その挑戦ができるきっかけを人は求めていて、このワークショップを通してつくっていける展望が見えた。





最後に謝辞を。

ワークショップの機材・備品の準備から飲み会、そしてみなさんご自身の服づくりまで(!)一週間みっちりお付き合いくださった丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の古野さん、平山さん、林さん、宇川さん、佐藤さん、みなさんの機敏なサポートのおかげで、得難い経験をすることができました。またMIMOCAに遊びに行ける日を楽しみにしています。

そして参加者のみなさん、今回の経験がこれからの生活に役立つことを願っています。またどこかでお会いできますように!

最後の最後に、このワークショップの試作にご協力くださった、央子さん、大菅さん、お二人のお陰で見えた課題が、このワークショップに活かされました。

みなさま、本当にありがとうございました。




2014/09/08

美術展、子ども、参加 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その2

森美術館で8月31日まで開催されていた「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」展に、ぼくが関わった「子どもキャプションプロジェクト」の成果物が展示されていた。

この展覧会については以前にこちらで書いている。→「子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1


想像していた「子どもがかいたキャプション(作品解説文)」というよりは、「こどもの感想つぶやき(まとめ)」というような印象だった。ワークショップ自体も、小学校の鑑賞プログラムと一緒にやったので、そういうアウトプットになってしかるべきだと思う。

今回のワークショップに関わって、その成果物を見て思うことは、ワークショップにおいて、子どもなど参加者は「共同制作者」なのか「サービスの対象者」なのか、ということ。

子ども向けのアートのワークショップにはいろんなタイプがある。ひとつは、アーティストの手法を体験・模倣・学習する機会。彫刻、絵画、音楽などさまざまであるがアーティストの特徴的な制作の手法を模倣させるもの。あるいは、簡単でだれでもできる敷居の低い工作。持ち帰れる飾りものや日用品を簡単につくることができる。美術館で「夏のこどもフェア」的なものがそうだ。(ここには結構多くの家族連れが集まるらしく、来場者数を稼げるという事情もあるらしい)そして、日常的に行われているのが展覧会の鑑賞ツアー。学校向けのプログラムで、学年単位で来館し、子どもたちに美術館のスタッフが作品の魅力を伝えるツアーを実施するようなかたち。

他にもいろんなモノがあると思うが、その多くは、アーティストの仕事/(主催者が考える)アートの価値を子どもに対してわかりやすく翻訳してあげるための手段/サービスだと思う。つまり、子どもは「お客さん」以上の立場には成り得ない。

唯一、アーティストと子どものガチンコ制作だけが、子どもを「主体的な」参加者であると捉え、新しい作品の共同制作者という立場で迎えている。それは作品制作のために、子どもが持つ楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ感、過剰さなどが合わさった質感が、作品のコンセプトをより強いものにし、目指すべきムードを演出するために必要なものである場合に限る。

今回の「子どもキャプションプロジェクト」は、作品ではなく展覧会という一つの物語/文脈/構成に、子どもたちがその楽しさ、稚拙さ、不安、一生懸命さ、悪ふざけ、過剰さなどをもって参加することができる、可能性のあるフレームだと思った。結果的に「子どもの感想つぶやき」のまとめのようなかたちになったが、ワークショップのしつらえ次第では、子どもたちが作品の資料から物語を構成し、自分たちの目で作品を解説するプロジェクトにもできたかもしれない(ものすごく時間とコストがかかることだけれど)。

子どもが大人に対して作品の意味を翻訳するということを起こしうるのが、ワークショップの本当のポテンシャルなんだと思うが、どうか。こうした子どもと展覧会が関わるプロジェクトの、今後に期待しつつ、自分にもできることをかんがえていきたい。


2014/08/27

ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み




8月20日(水)、練馬まちづくりセンター主催のシンポジウムに参加させてもらった。その主軸は、ドイツ・ミュンヘンで行われている「子ども青少年フォーラム」の話を、その運営を担当されている「子どもの参画専門員」であるヤーナ・フレードリッヒさんの講演。

ドイツでは「子どもの権利条約」に則って、遊び場を新設・改築するときは必ず子どもの意見を取り入れることが法律で制定されているらしい。こうした背景からおこなわれている「子ども青少年フォーラム」は、遊び場や図書館のような公共施設、交通や地域コミュニティの課題など、様々な課題について子どもたちが議論し、大人に議会で提案し、可決されれば大人がそれを実現させる、かなり実際的な活動だった。ヤーナさんたち「子どもの参画専門員」は市役所の公務員であり、行政がこの活動をNPOと協働しながら主催している。

「子ども青少年フォーラム」のプロセス

おおまかなプロセスは、こんなかんじだ。

まず、広報活動。リーフレットを配布したり、学校に出張授業にいったりして、「子どもの社会参画」の意味を伝える。そこで関心をもった子どもたちが放課後の時間にワークショップに参加する。

ワークショップでは、まちの様々な課題について議論が行われる。問題を解決する具体的な提案を子どもたちがつくっていく。たとえば公園の改築案や、交通事故の問題解決についてなど。

リサーチでは、様々なキットの入ったスーツケースを持って、現場の視察を行う。子どもたちが街に住む人に取材をし、ワークショップで生まれた提案をブラッシュアップしていく。このスーツケースの中身については後述します。

そしてフォーラム。こうしてつくられてきた提案を審議する。大人の議員もいて、子どもたちに現状を説明したり、子どもたちの提案について質問をしたりする。こうしたプロフセスを経て、子どもの提案の可否が問われる。可決された提案は、その場でその担当の大人が、子どもたちによって決められる。「実現させます!」ということを、大人が子どもに約束する。

こうして、子どもたちのアイデアが取り入れられることで子どもが楽しく暮らせる街になり、また自治の感覚が育まれることでよりよい民主主義的な政治が市民によって行われることになる、というわけだ。


「子どもの社会参画」って説教くさいしつまんなそう

とはいえ、日本語で「子どもの社会参画」と聞くと、なんとなく説教臭い感じがするし、大人の都合に付き合わされてる子どもの姿を想像してしまう。最初にこの話を聞いた時、中学生のころにあった「子ども議会」のようなものを思い出した。役所の議会で子どもたちが遊び場の課題や、いじめの問題などについて作文を発表するというようなイベントだったと思う。

その作文は提案ではなく、なにか施策として実現されるわけではない。学級委員的な「いい子」が学校の代表として選出され、予め先生とつくった作文を読み上げるという感じのやつだった。子ども自身が楽しくてやっているというよりは、大人の都合に我慢して付き合っている、それをやると学校代表っていうステータスになる、みたいな。

しかし、ミュンヘンの事例はそうではなかった。写真で見る子どもたちは楽しそうに、そして責任感のある表情をして活動をしていた。なぜ・・・?その謎をとくカギは、講演と、その後の懇親会でヤーナさんに直接聞いた話にあった。

ここから先は、ぼくの間違いだらけの理解と解釈というか妄想含むので、正しいものとは違うかもしれません。


誰かと共に生きる物語世界へ

まず最初の驚きは、子どもに社会参画の意味を伝えるリーフレットにあった。「社会参加にはこんな意味があります」と説教するのではなく、子どもが社会に参加するということの意味を、書き込み方のゲーム絵本によって伝えている。



絵本はドイツ語で書かれていたし、ヤーナさんの英語を読解しきれなかったぼくの憶測でしかないことをお許しください。

シャイで自分の意見があまり言えないという設定の主人公を、読者に置き換えるために名前、性別、性格を書き込む欄がある。そしてこの絵本には子どもの友だちとしてドラゴンが登場する。これは、子どもの「不安」「ワクワクする気持ち」「言葉にならないアイデア」など、言語化されない感情を象徴している。その都度、読者は自分の感情を空欄に書き込み、このドラゴンとうまく対話しながら、友だちと付き合い、環をつくっていく過程が物語になっている。

誰もがもつ言語化できない感情を共有しながら他者とともに生きていく。「参画」という政治的な意味合いをもつ以前の、人間の社会のコンセプトをこの絵本によって、しかも書き込みによって参加させながら伝えていく。ここからすでに、子どもたちによってつくられる物語は始まっている。

ライプチヒの絵本工房でも思ったことだけど、ドイツにはファンタジーと政治をつなぐ文学性がそもそも土壌としてあるんだなという感じだ。なるほどミヒャエル・エンデの育った国だ。


「政治の仕組み」を「遊びの仕組み」に読み替える

そして2つ目の驚きは、ワークショップだ。ぼくが想像していた子どもが順番に手を上げてお行儀よくしなきゃいけない感じとはおよそ違った。

テーブルにはなんでも描きまくっていい模造紙が敷かれ、ペンやクレヨンなどあらゆる画材、粘土やブロックなどのあらゆる材料が用意されている。どうやら空間もパーティー感たっぷりで、ジュースやお菓子もたっぷりらしい。子どものテンションをあげるための

そして進行はワールドカフェみたいに5つの議題を5つのテーブルで。参加する子どもたちは順番に巡っていく。きっと、とりとめもないことをぎゃーすか言い合ったり、絵を描き殴ったり、粘土で人形劇したりするんだろう。

「議会」という大人の仕組みを、子どもの世界、つまり遊びの文法に読み替えて展開する。混沌とした遊びの世界から立ち上がるアイデアを待つ。


「それってこういうこと?」大人がさしだす言葉とかたち

ぼくの想像では、子どもがリーダーシップをとってまとめていけるよう、大人は引いて見守っているんだろうと思っていた。ところが、このワークショップには大人がガッツリ参加する。

ワークショップの最中、図書館なら司書さんが、公園なら建築家が、それぞれテーブルを注意深く観察している。そして何度目かのローテーションののち、子どもたちの意見/表現を読み解き、つなぎあわせたアイデアを「それってこういうこと?」とスケッチを描いて提案する。

子どもたちの、点在するバラバラな意見/表現を、プロフェッショナルである大人がつなぎ、言葉やかたちを与え、高次の統合を遂げる。それを見て、「そうそう!」「違う、そうじゃない!」「ここはこうであーで」など、よりディティールについて議論が深まっていく。デコレーションは得意だが、土台・枠組みをつくるのが苦手な子どもに、やわらかい枠組みをさしだし、やりとりをしながら「提案」として練り上げられていく。


街に出て遊ぶ

そして、三つ目の驚きは、街に出て行うリサーチ。子どもたちと一緒にもっていくスーツケースの中には、カメラ、マイク付きのMP3プレイヤー、地図、写真を出力するためのプリンター、スケッチブックやペンなどの画材などが入っている。そしてそれらの使い方を説明するハンドブックも。

公園の利用状況について調べるために、遊んでいる様子の撮影や利用者へのインタビューを行う。コミュニティの調査の場合は、地図にマッピングをし、トルコ系移民の人はネコ、高所得者の人はクマなど、スタンプでキャラクター化していく。ハンドブックにはそうした使い方が書かれているそうだ。リサーチ自体がある種のゲームでありごっこ遊びであるようだ!


アートプロジェクトとしての参画

リサーチの遊び性をつなぐように、フォーラムでの発表では、大人みたいなパワポのプレゼンではなく、劇をつくったり、歌をつくったり、時にはラップで表現することもあるようだ。そんなのほとんどの子どもは恥ずかしがってやりたがらない。一体どうなってんの?という感じだ。

遊びという言葉を使ってきたけど、これは実際的で政治性をもった演劇とも言える。「子どもの権利条約」あるいはそれに基づく法律が「戯曲」で、子どもは俳優。「子どもの参画専門員」はその演劇をかたちにする演出家であり、ドラマトゥルクなのかも知れない。そう考えると、「子ども青少年フォーラム」はアートプロジェクトであるとも言える。

実際の政治のために、「遊び」を媒介に行政が子どもを包摂する。行政主導のアートプロジェクトの、一つの正しいカタチなんじゃないか。


社会参加は大人から

シンポジウムの最後に卯月先生がまとめの言葉で、「練馬にはプレーパークや旭ヶ丘アートスタジオ、アーティスト・イン・児童館のような子どもの参画を面白くつくりだすプロジェクトがたくさんある。これらをまとめる大きな仕組みがあれば、練馬もミュンヘンのように、子どもたちが楽しく暮らせるまちにもっと変わっていくと思う」というようなことをおっしゃっていた。

実現するためには、市民の声をあつめて、議会を通して行政の計画にするという壮大さがある。多くの人が面白がるような「参画」のコンセプトを、日本語で練り上げる必要がある。そして学校や家庭、NPOを巻き込んだ、緻密なゲームの設計も。 



とにかくミュンヘンの「子ども青少年フォーラム」の運営やその担い手が共有してるコンセプトやセンスが一体どうなってんの?と思うので、視察に行きたい!でも、視察したからといってこれを練馬で実施します!みたいなことをいう勇気はまだない。しかし、卯月先生の言葉から、参画はまず大人からなんだなと思った。ちょっとずつ、「なんかこういうこと議員さんに提案してみない?」というような気運が高まっていったらいいなぁと思う。














2014/07/23

どうしようもなくやってしまうこと、魅力、自分のかたち

「がんばろうという意志をもって成し遂げたこと」のつみかさねを「実績」と呼ぶとすると、「どうしようもなくやってしまうこと」のつみかさねはなんだろうか。

それなしでは生きられないほど本人に必要なクセとか、習性とか、仕草とか、そういうたぐいのもの。どうしてか選んでしまっている服たち、どうしてか好きになってしまうこれまでの恋人たち、身体の芯をふるわせた映画たち、話すときにしてしまいがちな顔の角度、口の形、手の動き、などなど。

習性・傾向・クセなど、一見するととるにたらないものから、その個人の生きていくセンスが見えてくる。そしてそれは往々にして、他者に発見されながらかたちづくられていく。そしてそれが魅力であるとされればされるほど、その人間のかたちが美しく良いものになっていく。

他者は、どちらかというと、「意志をもって成し遂げたこと」よりも、「どうしようもなくやってしまうこと」に信頼をおき、また魅力を感じる。(同時にドン引きしたり、嫌悪したりもする)

でも、我々はどちらかというと「意志をもって成し遂げたこと」を美談とし、「どうしようもなくやってしまうこと」には恥を感じたり、無自覚だったりする。

「どうしようもなくやってしまうこと」に対する他者のまなざしを活用し、うまく自分をかたちづくっていくことの、なんとしなやかなことか。


2014/06/10

嘘、ロールプレイ、ムード

子どもと日々接するなかで思うことは、彼らは毎日倒錯した欲望にかられていて、嘘をついたり騙したり虚勢をはったり、人と違う姿でありたいと願うあまり他人に迷惑をかけたおしたりして、暮らしている。かと思ったら足並みを揃えたり、先生の言うことをちゃんと守るお手本のような子もいる。

子どもが事実をでっちあげているところに、何度か出会ったことがある。現実って幻想なんだっけ?とそのたびに思う。そっかぼくたちは世界を都合良く解釈して生きてるんだなとか。

ぼく自身にもそういうしょーもない嘘をついてしまった経験はごまんとある。それによってどんよりしていく気持ちを知っている。誠実に正直に嘘をつかずに生きていることの気持ちよさもよくわかっているつもりだ。だから、そういう嘘をつく子には嘘の持つ悪さを伝えたいと思っているし、そうしないほうが気持ちよく生きていけることをわかってほしいと思っているんだけど、そのことを話そうとすると、「先生」と「生徒」のロールプレイになってしまって、彼は「はい」「はい」といって話を聞いている(振る舞いをちゃんとしている)のだけど、ぼくの言葉は彼の心には響かない。「説教」という日常にありふれてしまった場面の再生でしかなくて、そこで交わされる言葉には情動はない。あるいはぼくが情熱的に語ったとしても、説教されモードにすぐ入ってしまって、彼の心は動かない。というジレンマがある。

「一つの嘘を隠すには、約30の嘘が必要だといわれているんだ」

というのは、『約30の嘘』っていう映画のセリフで、それだけしょうもなく罪を重ねてしまうことになっていくし、その小さな重なりは、自分の体を少しずつ重たくしていくし、なんか嫌な臭いがするようにもなってくる。

そうなってほしくないので、彼には何か別の体験が必要なんだなと思う。虚勢のために生きなくても、自分がおもしろいと思うことに没頭したり、自分がいいと思えるものをいつだって信じられるようになったり、そういうことが。それは大人が彼に経験を与えるっていうことじゃなくて、むしろ誰かとの偶然の出会いや関係性の中で開かれていくものだろうから、そういった出会いが彼にあることを願うばかりだ。

そういえば今日の帰りの池袋の構内で、壁に寄りかかって話す男女を見かけた。よくある光景だけど、多分その二人はまだ付き合ってなくて、でもお互いのことを素敵だなと思っていて、それを伝えあおうとしているラブ始まっちゃいましたムードがとにかく濃くて驚いた。

恋愛は顕著だよな、関係性の中で開かれる新しい自分みたいなのと、そこが未知だけど楽しくなっちゃう感じ。とにかく面白くてグルーヴィーな恋愛にはいつだってムードがあるし、それがなくなったら情動の交換のない、停止したロールプレイがあるだけなんだろう

ウォン・カーウァイの『花様年華』はとにかくそのムードを描いた映画だけど、妙に観たくなってしまった。

2014/06/04

子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1

森美術館で先週末からはじまった「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」。子どもを題材にしたアーティストの仕事から、子どもという存在の意味を問い直す素晴らしい展覧会。

ぼくはいま、この展覧会の関連企画「子どもキャプションプロジェクト」の企画の手伝いをさせてもらっていて、それがすごく楽しいけど超難しい。ただでさえ難しい作品のキャプションを書くという作業を、子どもに任せようというのだから、そのプロセスをワクワク楽しくつくるのはなかなか大変だ。

この展覧会では、子どもとはあらゆる文化・国・政治・あの世とこの世を、その状況下に翻弄されながらたくましく自由に行き来する「媒介者・間を行くもの(=go betweens)」ととらえられている。複雑な世界を生きていく子どものたくましさに希望をみる、そんな展覧会だ。キュレーターの荒木夏実さんをはじめ、スタッフのみなさんの熱量をがつーんと感じる。

だが一観客として見てみたときに、正直、ちょっと子どもの孤独、自由、想像力という部分にフォーカスをしすぎていて、作品の別の側面の魅力が見えにくくなっちゃってないかな、と感じるところもある。なんでもかんでも子どもはすごい!と肯定しているように見えなくもない。メッセージを可能な限りシンプルにした結果なのだと思うけれど。

子どもは神秘的だ!子どもはたくましい!子どもは孤独だけど自由だ!と声高に大人はうたいたくなるものだしぼくもそうだけど、それらは大人の願いとも言えるし、期待とも言えるし、勝手な幻想とも言える。その幻想が子どもをよい方向に導くこともあれば、抑圧したり、大人が用意した方向性に迎合させてしまって、彼らの意志を奪うことにもなってしまう。子どもに対して何かを願うことは、難しく、繊細な問題だ。

もうひとつ、ほぼ全ての作品に、子どもが被写体として登場する。だからこそ、その子どもが誰なのか、その意志がどうあるのかが気になる。アーティストの内なる子どもの姿なのか、その子自身の代替不可能な個人としての生きる意志を記録したものなのか、あるいは「子ども」という表象を扱っているのか。

子どもたちとスタッフが共作した「地獄」のオブジェの前で子どもがその紹介をする山本高之さんの《どんなじごくへいくのかな》や、女子中学生のエスカレートしまくった悪ふざけを記録した梅佳代さんの《女子中学生》は、そこに映る子どもとアーティストのグルーヴィーな共犯関係を感じる。

フィオナ・タンの《明日》、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《エイト》などは、子どもを被写体として割り切っていて作家の子どもへのエモーションを画面上からは排除している。そのある種の冷たさが、かえって子どもという表象が持つ力強さを描き出している。もちろん、制作の舞台裏では、子どもたちとアーティストの親密さがあるに違いないのだけど。

一方でぐっと近づいて撮った記録もある。在日韓国人の家族のポートレイトとそのインタビューを記録したキム・インスク《「SAIESO:はざまから」シリーズ》、アスペルガー症候群をもつとされる男の子が母親にしたインタビューにアニメーション映像をつけたSTORY CORPS《Q&A》などは、ヘッドフォンから流れてくるその声の震えから、複雑な状況を生きる代替不可能な個人の意志と、それに凛として寄り添うアーティストの関係を感じて、うっかり涙ぐんでしまう。

とにかく26組のアーティストの作品からは、子どもたちが複雑な状況を生きることへの深い情愛と、その状況をたくましくかろやかに、想像力豊かに生き抜いていくことができるだろうという強い希望を感じる展覧会だった。子どもも楽しく遊べるような参加体験型の作品をあつめた「こども向け」の展覧会とは異なる。大人と子どもも、自分の中の子どもと大人が揺れ動く。

と、まぁこんなふうに書いたぼくの感想は、どうしたって26歳男子の視点でしかないし、現在の展覧会のキャプションは大人向けに、大人が用意したものである。そこにクサビを打つような、まったく別の物語を開くような言葉を、子どもたちにつくってもらえるのか、どうなのか。それはこの後のキャプションづくりのワークショップにかかっているし、どうにか面白くしたい。