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2012/06/18

福祉、普通、抜け道

「福祉」というものは、集合知的にあぶりだされた「普通」という基準から溢れ出ちゃった人たちを「保護」「管理」することを主な役割としている。「普通」から見捨てられた境遇の人々を、受け入れる優しさのシステムであり、収容し管理し表に出ないようにする冷酷なシステムでもある。

児童福祉においても「普通」に迎合していくことが、あまりにもしんどい作業である場合がある。親との信頼関係が築けない、家に帰れない。学校にいくと自分がなぜここにいるのか、所在のない気持ちになるしストレスしかないから行きたくなくなる。そうして行き場を失くしてしまった子どもたちがあまりにたくさんいて、「児童相談所」などは彼らのケアを担う。それは、彼らを守るシステムであり、同時に覆い隠すシステムでもある。実は「福祉」には、見捨てられた境遇の人々を「保護」「管理」することで「普通」を強化する作用があるように思う。彼らを見捨てた「普通」という価値基準を疑い、解体し、新しい価値基準をつくる作用を持つべきだと思うのだけど。

固定化した「普通」を解体し、フレキシブルで常に異物を受容/変容する社会を作り出すためには「ノイズ」が必要で、小さなノイズは福祉のシステムにかき消されてしまうから、ノイズは小さなものでも、そのノイズの発信源は強く孤独なものでなければならない。

強い発信源であるために必要なものは、恥ずかしげもなく言えば勇気と希望だと思う。学校にいく、とか、家にかえる、とか、そういう「普通」に(一部)迎合するというしんどい作業を乗り越えるためには、それを乗り越えよう、という勇気と、それを乗り越えれば何かが待ってる、という希望が要る。

では、どうすればその勇気と希望を持つことができるか。それは、普通とは別の「楽しさ」の基準を持つこと。その基準を持つためには、普通から逸脱した快楽のありように出会うこと。「わからなさ」によって得られる安心があると思うのだ。「普通じゃねーよw」「狂ってるw」と思うものとしてアートがぼくは一役買っていると思うのだ。

犬も歩けばカメラに撮られる監視社会は、名前や顔や行為や言葉を収集し、管理する。この「包囲のシステム」と、そこから逃れるための「抜け道のシステム」があってよくて、それは「普通」という価値基準に迎合できなくなってきた人たちが、別の価値基準に遭遇する仕掛けのことである。ぽっかり空いた穴の中に入るように。