新宿シネマカリテにて、ずっと観たかった『大いなる沈黙へ ーグランド・シャルトルーズ修道院』を観る。
監督が最初に撮影を依頼してから16年後に「準備は整った」と許諾を得、撮影は6ヶ月修道士として迎え入れられて、ともに生活しながら撮ったという。とはいえ、1日に1時間程度しか撮ることができず、6ヶ月間でおよそ120時間。そのまま上映したいぐらいだっただろうに、その映像を169分に編集した。2006年公開の本作は、日本公開までにさらに8年かかった。
「沈黙」とは完全な無音ではない。この映画は終始、聞いたことのあるようでない音への驚きに満ちていた。そして仕草の美しさ。というか仕草の美しさとは、仕草の「音」の美しさなのかと、こんなにも思ったことはない。
例えば、コップを机に置くときのムード。コトリと静かにおくか、ゴンと思いやりのない音をたてるか。日々の仕草のムードを演出してるのは実は音なんだなと。
修道士たちの仕草は、幾度と無く繰り返され、無駄を省き、丁寧さを練り込んだ仕草。たとえば、青い服をきた老修道士が畑の土をぶあつく覆う雪をスコップですくう場面。土の表面を削らないように、雪だけをすくうように、丁寧にスコップを雪に差し込んでいくんだけど、うっかりほんの少しだけ土をすくってしまったとき、またスコップでその土だけをすくって畑に放ったのだ。また、靴を修理するとき、靴底と革を貼り付けるボンドを塗り、息を吹いて少し乾かすのだが、その息を吹きかけるリズムと長さ、丁寧さ!
ていうか、そもそもなんで修道院はあるのか、修道院のもろもろの行為の目的はなんなのかって考えたとき、最近読んだ本の一節を思い出した。
行動する者は勝利したいと欲する者だ。勝利する者は他者に苦しみをもたらす。行動を断念することだけが、幸福と平穏への唯一の方途なのだという憂愁。
そしてそこには希望が漂う。神に近づける、慈愛に満ちた人間として生を終える。その希望に悲哀を見てしまうのはぼくが俗世の人間だからだろうなとか。映画をみるぼくらとは別の生き方を選んでいる人たちの姿は、人間が他者を苦しめることなく共に慈しみ、あわよくば楽しみ生きるには、人間の魂はどうあるべきかを静かに問いかけてくる。
ちなみに、ボンドで修理した靴は、週に一度だけ遊びにでかけるときに雪山で履く。スキーのように滑って遊ぶ修道士達の様に、遊びとはこんなにも瞬間の喜びなのか、と。他者とともにいかに生きるかという魂への問いから、一瞬だけ解き放たれる瞬間が遊びの美しさなのか、と。
まーとにかく約三時間、耳を澄ますべき映画。日々の自分の仕草の音をもう一度聞いてみようと思う。