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2015/09/25

野生のメディアセンター ーYCAM《think things》展のおぼえがき

9月16日から17日、山口情報芸術センターYCAMに遊びに行ってきた。YCAMとはいろんな関わりがあるし、いまでは去年までアーティスト・イン・児童館で活躍してくれてた金子春香さんがファシリテーターとしてYCAMで活躍中でもある。


ぼくは初めて行ったときから山口が好きで、仙崎のヤリイカも、ヒラソも、マフグやトラフグのアラも、スーパーで安く手に入っちゃう感じとか、温泉とか、あとは獺祭にとどまらない日本酒の数々(五橋が好き)とか、あとカマボコがめちゃくちゃおいしいとか。今回も魚類を食い散らかしてきた。

それに加えてYCAMは、やっていることが独特でクセのあるところが好きだ。ん〜!なんかいい時期だし!現在開催中の《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展を見に行かないわけにいかない!ということで休みをもらって行ってきた。
http://thinkthings.ycam.jp

前回行ったのは2013年で、そのときの記事はこれ。「遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて」http://takashiusui.blogspot.com/2013/11/ycam.html

10周年記念祭では「life by media」というプロジェクトで、商店街で住民と関わりながら様々なアーティストが関わっていた。そして2年後の今回行ってみて、fablabができていたり、食の拠点形成のムーブメントがあったり、YCAMがハブになって、人々の生活圏のなかに新しいカルチャーの拠点が膨らんでいっているのを感じた。

エデュケーターの菅沼さんは、「これまではYCAMのラボとアーティストがある意味クローズに作品制作をしてきたけど、これからは生活する人々に対してオープンにしていくほうが面白いと思うし、公共施設としての役割はそこにあると思う」と話していた。



《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展はその意味で、遊ぶことが生活することである子どもたちを中心に、ユーザーと共同で展示内容を生成していく場だった。YCAMのスタッフがつくったヘンテコな道具(振動によって数字をカウントするボール、光が当たると音がなるボール、棒の先に玉が付いているものなど)を使って、来場者が遊びを考える。考えた遊びのルールや注意点などを記述して「あそログ」をつくる。つくったログは会場とウェブサイト上で共有される。仕掛け、生成、アーカイブがぐるぐると循環する仕組みになっている。



たとえば、光が当たると音がなるボールを使って、光と音の鬼ごっこをつくる。その鬼ごっこに名前をつけて「あそログ」に登録。そうすると次に遊ぶ人たちがそのログを読んで鬼ごっこのルールを発展させる。そうやって遊びがどんな風に進化していったのか、「あそログ」から生態系を読み解くことができる。




ここではYCAMのラボスタッフの人たちが考えた、シンプルな仕掛けのアイテムが並び、その名前がどれもかわいい。スイッチを押すとシンバルやスネアドラムが鳴る「スイッチ虫」とか、転がすと数を数える「なかまんボール」とか、棒の先端に玉がついている「おおわきぼう」とか、ラボスタッフの名前にちなんだものも多い。



「あそログ」は、ネット上で読んだだけではなんのことが書かれているのかよくわからない。わからないがなんだか子どもたちが一生懸命丁寧に書いているので読んでしまう。会場で読んでいると一般名称ではない名前が使われ、ツールとユーザーの間に特別な親密さが生まれているのがわかる。まるで古代文字を読み解いているような、ある部族の村に迷い込んだような気分になる。



このツールたちのなかでも面白いのは「インプット」と「アウトプット」の可視化、外在化があるところだ。たとえば数字を10まで数える、とか、音がなる、とか。

児童館とかで鬼ごっこをして遊んでると
「タッチしたよ!」
「ぴろーん、されてないよ〜」(ほんとはされてる)
「したよ!」
「されてないですー」(ほんとはされてることもわかっている)
「したってば!」→泣き

みたいなことってよくあって、こうやってルールを守らないとぐずぐずになることがよくあるけど、これらのツールは遊びのなかのインプット(タッチ)とアウトプット(タッチされた)を客観的に判断可能にするんじゃないかな、とか。実際は誤作動のようなものも多いかもしれないし、その様子は見ていないからなんとも言えないけど、遊びを堕落しないようにする効果がありそう。

遊びの中でユーザーのメディアリテラシーが高まっていく、というのは、野生のメディアセンターYCAMならではだ。

「展覧会+ワークショップという形式を使って最先端のアート作品を市民に伝える、みたいなことってもう古くて、これからはワークショップでコミュニティでボトムアップだ!」という感じもなんだか気持ち悪くて、結局はフレームを作っている人の知恵と経験と技術のトップダウンと、それを使う人たちのボトムアップの拮抗の中にしか物事は生まれないと思うし、そのことを体感した。



会場内には夏休みの子どもたちのエネルギーによって増殖した700枚ちかくの「あそログ」が展示されていて、いずれも変な名前が使われ、ルールの説明文がヘンテコだ。それがthink things展の独特の世界観をつくっていた。 

展覧会ってアーティストの作品を集めて鑑賞するものがある、という感じの枠組みだけど、ここでの鑑賞者には3つくらいの層があって、ひとつは遊びを作る子どもたちのような存在。そしてそれを引き出す二次的なユーザー。そしてそれを読んだり見たりして楽しむぼくのような一番外側のユーザー。

あ、でももうちょっと言い方を変えると、「おおわきぼう」や「けいなボール」も、作品の一部だと言える。ただし、一見ランダムに並べられているそれらを即座に組み合わせて遊びを創出していく子どもたちの様は、レディメイドを引き合いに出すまでもなく、ツールを使うこと、ツールの流用、誤読、ブリコラージュの創造性なのだなぁ、と。

ぼくのような一番外側のユーザーというか鑑賞者にとっては、この展覧会のコンテンツは主に子どもたちが作り出した「あそログ」、ということになる。

ここらで一回あそログをぱーっと読んでほしい。http://asolog.ycam.jp

これらには誰か特定の個人に権利が帰属するものではなく、CC0*というコードが使われている。食べログ的な集合知であり、独特なツールとその読み替えの実践のエスノグラフィーでもある。

※CC0とは、インターネット時代のための新しい著作権ツールで、制作物について有している著作権やそれに隣接、関連する権利を全て放棄し、公共財(パブリック・ドメイン)とすることができる

この展覧会の枠組みと、あそログと、スタッフログを読み込んでいけば、カイヨワの『遊びと人間』を凌ぐ遊び論に発展しそうな予感に満ちてて素敵だ。

カイヨワは本を読んで、遊びとは純粋な消費であり、遊びは日常から隔離された閉域である、という点についてはほんとにそうか?とは常々疑問だった。think thingsは、フリーカルチャーの起源としての遊びに着目して作られた展覧会なのかな、とか、山口にファブラボができたことや、メイカーフェアが開催されていることは遊びの生活圏への解放を、さらに加速させるのを予感させる。



しかし、一方で、この展覧会の枠組みが東京で実現できるだろうか、と考えるといろいろ不安だ。何かにつけてクレームを警戒してしまう東京で、こんなオープンネスを実現できるだろうか。山口だからできた、とは思わないけれど、YCAMが山口という場所で10年以上かけて積み上げてきた文脈があるから、できたんだろうなと。

展覧会は9月27日の日曜日で終わってしまうけれど、この後の展開をどんな風に考えているのか、山口で何が起きていくのか、またみなさんに会って話を聞ける日を楽しみにしている。

*関連する記事はこれ
遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて
glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(1)