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2015/05/22

縦横無尽に跳ねまわる感情、Mommy

昨日、ずっと観たかった映画『Mommy』を観てきた。感情のうねりに乗ったまま2時間、映画ってこんなにもいろんなことできるんだと、ワクワクしたり緊張したりして物語に乗っていた。



多動性障害を持つ少年スティーヴとその母の物語。うれしいときは周囲をドン引きさせるほど過剰に動き、ふざけたいときは他者との親密さの垣根を容易に飛び越え、唐突に、ほとんどなんの前触れもなく激昂する、そんなスティーヴの感情の渦にぶつかりながら必死に彼を愛そうとする母親と、そのうねりのなかで自分を解き放っていく隣人カイラ。何が起こるか先を読めないこの関係性は、終始緊迫しているんだけど、生活の中の刹那に現れる幸福感は、長くは続かないことがわかっているから擦り切れるように美しかった。

この物語は、どうやったって「うまくいく」ということがありえないだろう世界での、希望と選択と行動の物語だった。そして、いまこの時代の物語とは、「うまくいかない」ということが根底にあって、そのなかにある刹那の喜びとか激しい苦難とか、そういう情緒の躍動自体なのかもしれない。

思いもよらないことが、準備なしに次々と巻き起こっていくなかで、登場人物たちは感情のおもむくままにあたり砕けるように行動を選択していくんだけど、どうやったって「うまくいく」なんてありえないんだけど、どうやったって信じているのは希望で、それは愚かでもろく、それでいてタフな人間の業であり業の賛歌なんだなぁと思いながら、何度も泣いた。

こういう物語を描くために、「うまくいくなんてありえない」ということを前提に据えることの困難さがあって、ともすれば不幸自慢みたいな陳腐な悲劇になるだろうし、「うまくいく」という方向に安易に逃げたくなってしまうかもしれない。うまくいくわけない現実の中で希望を信じるって、一体何で、どうやってやるのか、「なんとかする」ということをどうやって行動して形にして現実と関わっていくのか。シチュエーションを設定し、そのなかで出来事と情緒を縦横無尽に跳ねまわらせながら、希望のことを描くなんて。

ただ呆然とするばっかりだったけれど、1つ確かだと思ったのは、物語をつくるということは感情を扱うということで、人の感情を逆なでしたり快楽を与えたり怯えさせたり優しさでつつんだりすることなんだろうなと。そしてそれは、どうしようもなく切実な何かから言葉になっていくんだろうなということだった。

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