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2015/12/10

執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫

今日は珍しく、展覧会巡りをした。「休日」というものを「とにかく休める日(何もしないでダラダラする日)」にするのではなく、「好きなことだけをする日」というのに

最初は森美術館《村上隆の五百羅漢図展》。話題になっているしツイッターやフェイスブックでCMがバンバンながれてくる力の入りよう。客層は年配の方も多く、仏教関係の方もちらほら見かけた。


メインの五百羅漢図に対して、おばちゃまたちが「一体何人いるのかしらねえ?」「あら〜これがやっぱり玄武なの、そぉ〜」とコメントを寄せているのを見ると、仏教美術の展覧会として、あるいは観光地でお寺にいくような感覚でここに来ているんだなぁ。ぼくは仏教美術はほとんど関心をもってこなかったし、「羅漢」の意味も会場で知ったほど無知なのだけど、とにかく感じたのは執念だった。

それは異様なデカさと手の混みようで、絵の具を塗りたくっているはずなのにつるっとしていて、コンピューターでつくったデジタル感がある。村上隆という執念に燃え、猛り狂うコンプレックスの炎が、「今この時代に必要な芸術」という大きな目標をもち、大きな組織を動かしながら生み出した五百羅漢図。その制作資料の展示を見ると「指示書通りやれ!ボケ!」と書かれたり「程度が低い!」という罵倒の言葉。「村上様からの指示書」というラベル。200人規模の管理生産体制は、絵師集団というか民主的とかそういうんじゃない厳つさがあった。そういう背景と、村上隆の執念と、絵の迫力とをあわせて、宗教と芸術がこの日本でまた新しく混在していっているんだなという、大きな力のうねりを体験した。

強い力を浴びてぷはぁと思いながら、ずいぶん前にFAIFAIの文美さんに教えてもらったFREY'Sのピザを食べて美味しいコーヒーを飲んで休憩。次に見に行ったのは21_21 DESIGN SIGHTの《建築家フランク・ゲーリー展》。


原宿のエスパス・ルイヴィトン《フランク・ゲーリー/ Frank Gehry パリ - フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展》を先々週くらいに見ていたので、もっと大きな展示なら楽しみだ〜と思って行った。なにより今回の技術監修を、オランダに行った際にお世話になったLUFTZUGの遠藤豊さんがやっているというのだから期待は大きかった。そしてその期待をはるかに超える、もう最高に楽しい展覧会だった。

冒頭は、フランク・ゲーリーの建築を内側から撮影した映像がぐるりと観客を囲うプロジェクション。「私は建築を内側から考えるのだよ」とゲーリー本人がいうところの、その内側から始まる。ほあ〜と見てしまった。撮影はLUFTZUGだった。

次に、フランク・ゲーリーの自宅の模型と、彼のマニュフェスト。「それが厄介だ」でおわるあたりがとても可愛いマニュフェストだ。


メインの展示室には、これまで手がけたプロジェクトの模型が、段階別に展示され、キャプションが施されている。ここがもう本当に楽しかった。

ねちこく、幾つも模型をつくる。考えて作って考えてつくってを途方もないほど繰り返す。普通だったら諦めたり「もうこんでいいや」ってなるところ、ならない。自分のアイデアを気に入って、嫌いになってを繰り返し、施行されて現実のものになった建築が自分の予想を越えながら、「ああすればよかった」が幾度も出てきて嫌いになるそうだ。そんな感情の抑揚と、模型と、プロジェクトの進行過程がリンクする展示構成もう見事。

これだけだと「天才って努力しててすごいね」ってはなしで終わりそうなのだが、天才たる所以は独創性だけでなくその設計手法にあった。「ゲーリー・テクノロジー」に関する映像はぜひ最初から最後まで見てほしい。独創的な造形だけでなく、人々が空間を経験することへの敬意、そして設計手法の合理化とコラボレーションの上質さ、楽しすぎて泣きそうになった。

あと気になったのは、ゲーリーが支援して立ち上がったという「Turnaround Arts」というプロジェクト。アーティストが学校にいく、というのは世界中にあると思うけれど、行政と民間企業とがタイアップして、大掛かりに展開しているみたい。

村上隆もフランク・ゲーリーも、ものすごい圧力で物を作り、それでいて高解像度だ。圧力と解像度が高く、歴史や社会と符合させながら物を生み出すクリエイターには足元には及ばないことがわかっていながらも、ゲーリーの展覧会は「自分にもできるかもしれない」と希望を与える内容だった。


最後に行ったのは《赤塚不二夫のビチュツ展》。こちらは16日の木曜日で終わってしまうので、駆け込んだ。『天才バカボン』や『モーレツア太郎』『レッツらゴン』などはぼくも小学生の頃から大好きだったマンガで、穴があくほど読んだし今も大好きだ。そんな赤塚不二夫へのオマージュ作品が多数。なかでも祖父江慎さんのブラックライトの仏壇と、アラーキーによるポートレートは優しい気持ちになれたなぁ。

高圧力・高解像度のクリエイターというよりは、赤塚不二夫は軽やかさと徹底した遊び心なんだよなあと思いつつ、それをさささっと表現する絵の上手さなんだよな〜とか思いながら、「バカは死んでも治さないのだ」って至言が頭のなかに響いた。

今日見たどの展覧会も感情を動かされる内容だった。彼らのような大物には足元には及ばないとわかっていながら、奮い立つものがあった。妥協のない執念のようなものは、ぼくも持てるはずだ、とか。

なんか最近暗い話題ばっかりだし、きつい世の中だし非正規雇用だし年金もらえないだろうしいろんな心配事もたくさんある。だからこそこういうクリエイターの執念の炎が世界を照らすことを、考えていいんだと。










2015/12/09

飲み込めない想い、ワークショップ、笑い ー映画『恋人たち』

もう二週間前になるが、橋口亮輔監督の『恋人たち』を観に行った。トレイラーも見ず、職場近くのテアトルの看板だけで、下のコメント

"飲み込めない想いを飲み込みながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして"人間の感情"を、ちゃんと描きたい。"
ー橋口亮輔

これを見て、あ、必見と思って仕事終わりに駆け込んだ。そして、その予感は的中した。ぼくはこの映画を観てよかったあーーーー!!!と思った。その理由は、ワークショップから生まれた作品であること、そこに自分がいると思えること、聞こえない相手へのモノローグの3つ。



映画を作るワークショップを、プロアマ問わず様々な役者の人たちと一緒に実践した、という話は荻上チキさんの「session 22」で知った。橋口監督にはそれ以前にプライベートでとても辛いことがあって、社会的に立ち直れないかもしれないとどん底だった時期に、人に誘われて始めたワークショップがカムバックのきっかけだったという。その内容の一部は、 橋口亮輔の「まっすぐ」というエッセイに詳しい。

ぼくも子ども向けのワークショップをつくる仕事をさせてもらっているけれど、このエッセイに書かれているような、他人の人生をえぐるエチュードをするようなものはまだできていない。本当は他人の人生を変えてしまうほどの磁力を持った場がワークショップなのだろうと思いながら、自分にはまだまだだと思うし、そんな責任も取れていない。

そんなみみっちいぼく自身と比較するまでもなく、橋口監督はその「他者の人生をえぐるようなワークショップ」に身を乗り出し、自分自身の人生をえぐりながら恢復し、映画に向かったのだろうと思う。そうしてえぐられ、恢復していった監督や参加者の人生が映画というバゲットにレバーペーストのように塗りたくられ、観客は苦味とともに希望を味わう。そのためのメディアとしてワークショップがあったのだ。ああ。

※以下、ネタバレ注意

そんなたくさんの人の人生が塗りたくられた映画のなかに、ああ、自分がいるなぁと、我々は感じざるを得ない。愛する妻を亡くした若い男、旦那と姑との生活を送る主婦、やり手のゲイの弁護士の3人が主人公なのだけど、彼らが他人に対して耳を閉ざすこと、情けなとわかりながら行動できない悔しさ、幻に救いを求める滑稽な姿・・・役者のえぐられた人生は、観客の人生も、えぐっていく。

そしてクライマックスの一連のシークエンスは、3人の主人公が、耳を閉ざしてしまった恋人たちへのモノローグへとつながっていく。「飲み込めない想いを飲み込んでる人たちの"人間の感情"」が、やりきれない状況のなかで、そしてそれぞれに聞こえない他者に向かって吐露するシーンは涙なしに観られなかった。

他にこの映画の良かったところは、懸命に生きる人の滑稽さが、どうしようもなく笑えてしまうところだ。水曜日の映画デーで、男女ともに1100円で見られるテアトルには仕事終わりのいろんな年齢の人が集まっていて、随所で笑いが起きていた。温かみのある劇場の雰囲気も、最高だった。

以下、笑えたセリフ集
「ほら、静電気ないんだよ」
「そりゃそうだ」
「ほんとやだ〜」
「いいものいっぱい入ってる。そうだね。自然ってすごいね」
「あれ、回んないなこれ」
「それが今の旦那なんだけど」
「先生、泣いてくれてるんですか〜?」

そう、裏切りや理不尽さ、やりきれなさのなかで傷付いた重たい人生は、ふとした笑いで軽やかになってしまうのだ。ぼくが一番笑ってそして泣いた黒田の言葉「笑うことは大事だよ」に、そうだよね、と思うのだ。

今の時代感とか、黒田の名ゼリフ集とか、語り口はいくらでもあると思う。未見の方はぜひ。観た方は一緒に飲みましょう。