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2011/04/02

2011/04/01 移動・移転・移住


東京にどれだけの人が疎開して来て、どんな生活するのかを考えてる。でも一方で、東京も離れたほうがいいんじゃないかとも思ってる。

今回の震災で困っているのは、想像力が乏しくなっていること。「当面のところ安全です」みたいな報道を信じようとしているから、東京を離れる、移住するということを想像できなくなってる。と、書いていて気づいたけど、この災害以前から東京から離れるということを想像できなくなっていた。これまで3年間地元の練馬でプロジェクトを続けてきたし、これからもーとか考えてたし、今もそれにしがみついてるところ。日常を守ろうとしてるんですよね。でも、移住先と移動手段は探せばあるんだから、全く想像できないはずがない。今、被災地では16万人の人が避難所生活を送っている。別の避難所に写る人や、移住する人も多くいるはず。移住するということを想像しリアルに感じる手段がほしい。

よく考えれば、去年の夏ごろから、ぼくのキーワードは「移動」だった。移動することの想像力を子どもと共有できるかどうか、これにチャレンジしたかったのだった。

2011/03/31

大久保児童館によせて

大久保児童館に絵本を届けに行った。そのことを書こうと思う。

大久保児童館との出会いは、2年前に「大久保アートプロジェクト」の企画をしている小山さんという方から「大久保児童館で〈アーティスト・イン・児童館〉を」ということで声がけしていただいたことから始まる。結局その企画は実現しなかったのだが、歌舞伎町の裏手に多国籍の子どもたちが集まる場所があるという話は印象に残っていた。

それから一年も立たないうちに、大久保児童館のことがまた頭に浮かんできた。キッカケは演劇ユニット「Port B」の高山明さんから、新作《完全避難マニュアル》の企画に呼んでもらったことだった。都市の様々な場所をめぐるツアーパフォーマンスという形式の演劇をつくる「Port B」の新作は、インターネットの診断サイトから山手線各所に設けられた「避難所」に誘うというもの。高山さんからのオーダーは、出会いカフェや喫煙所、モスクやお墓、シェアハウスやネットカフェなど、人が「ある時間」を過ごす場所が設定されている。その中に「子どもの居場所」をつくりたいという内容。それを聞いて思い浮かんだのが、新大久保駅から徒歩10分のところにある「大久保児童館」だった。

歌舞伎町の裏、コリアタウンの奥。保育園、ことぶき館が併設する築40年の複合施設の3階にこの児童館はある。中国、韓国、タイ、フィリピンなど、アジアを中心とする多様な国の子どもたちがこの場所には集まっている。マンガを読んだりボール遊びをしたりできるところは普通の児童館なのだが、夕方からは各国の言葉に合わせた日本語教室が行われている。

美術家の蓮沼昌宏さん、担当コーディネーターの佐脇さんとともにアイデアを出し合い、児童館職員の沖さん、美濃部さん、館長にも参加してもらいながら企画を作っていった。この児童館は2箇所以上の「避難所」をめぐった観客のみ入場が許される場所となり、そこではこの《完全避難マニュアル》をテーマにした絵本『新山手線ものがたり』をつくることになった。観客とスタッフがこれまでにめぐった避難所のことを児童館の子どもたちに語り、絵と言葉を書くという想定。しかしいざプロジェクトが始まってみると、制作に没頭する大人と、その周りで手伝ったり茶化したりする子ども、という関係が出来上がっていった。小学校1年生の子たちが特に興味をもっち、中には日本語がまだ上手く扱えない子も多くいた。

この企画の中でひときわ目立っていたのは、初めて会った時から蓮沼さんやぼくによじ登って離れなかったHくん。彼は絵本の企画が始まって以来、とにかく表現をしまくった。絵の具やシールや木工ボンドや粉を思うままに操り、人の絵に手を入れ、紙が破れるまで筆をこすりつけ、ダメ!と言われることも難なくやってのけた。Hの表現はとどまるところを知らず、他の子どもたちも彼に触発されて、手に絵の具をつけたり、紙に直接チューブを絞たりし始めた。Hやその周りの子どもたちが観客やスタッフが書いている絵に手を入れるものだから、キレイにまとまった絵よりも、彼らの遊びの痕跡を残した絵が多くなった。ぼくたちはこの企画で、子どもたちの日常に小さな裂け目をつくりだしていたし、同時にぼくたちの想定を揺るがされうろたえを体験していた。そしてそのうろたえは、想定を超えるキッカケとしての価値を持っていた。

ところが、期間中《完全避難マニュアル》は観客とリピーターが増え続け「新大久保駅の避難所」としての最後の日(11月26日)は、30人近くの観客がこの場所に押し寄せた。絵本をつくっていた小さな部屋には入り切るはずもなく、ホールでボール遊びを提案した。「カイセンドン」と言われる戦争を模した遊びも、異様なほど盛り上がった。しかしその盛り上がりは、描いていた絵を崩されるうろたえや、突然フィリピン語で始まった喧嘩に出会うような小さな驚きを、全くかき消してしまった。Port Bの作品の、そういう少し説教くさい感じは嫌いじゃなかったのだが。この児童館との関係はひとまずここで途切れていた。

この途切れを編み直すために担当の佐脇さんと一緒に、散らかった絵本をまとめて綴じることにした。放っておけばそのまま終わらせることもできたが、どうにもそれはしたくなかったのだ。時間も予算もないので編集は一切せず、80枚以上の絵をスキャンしてサイズを統一して出力し、駅ごとにまとめて綴じた。そして絵本の原本は、今日3月30日子どもたちの手に渡した。先の震災で中国や韓国に戻ってしまった子が多く、3人にしか手渡せなかった。「避難所」と名付けていた場所から別の場所に「避難」するなんて皮肉だが。表現をしまくったHは自分が描いたものと自分が気に入ったもの(蓮沼さんやぼくのものも含まれる)を30枚近く選びだし、大きな袋に入れて持ち帰っていった。Hは目に止まったものはじっくりと見渡し、何度も絵を見返していた。「これおれのだ」とあの時間を思い出しながら、「これ誰が描いたんだっけ?」とあの場所に来た人たちとの関係を確かめながら、丁寧に選んでいった。



少し長いテキストになったが、最後に。

この児童館は、明日3月31日で閉館する。総合福祉センターに統合され、老朽化したこの建物は取り壊される。都市を象徴する場所新宿の裏手にあり、様々な国の言葉を飛び交わせながら子どもたちが遊ぶこの場所は、明るい未来を見せてくれる場所だった。閉館と取り壊しは本当に寂しい。《完全避難マニュアル》のスタッフとして「避難所」と勝手に呼んでいたが、震災のあとには子どもたちに変わらぬ日常を与え、迎え入れるこの場所は紛れもない「避難所」になった。しかし、子どもたちは震災後に自分の国に一時的であれ帰国したし、この場所を利用していた子どもたちは閉館後、別の児童館、別の遊び場へとちりぢりになっていく。絵本のことと地震のことと閉館のことを無理やり繋げるつもりはないが、閉じてしまい、無くなってしまうもの、途切れてしまうことをいかに引き受けるかを問われている気がしているし、綴じた絵本はそれを再び開き、編み直し、組み立て直す何かになると希望を持っている。Hが絵をもって帰ったことは、その希望を開いている。