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2013/07/22

子どもの文化環境、風穴、空気の入れ替え

自分が考えていることを、ばーーーーっと吐露したくなることがあって、このブログはそういうときのためにあります。考えがまとまらないとき、仕事のやり方に迷っているとき、どばーーーーっと言葉にすると、ふっと突き抜けるときがあったり、なかったり。

まず、いまやってるNPOの仕事で「子どもの放課後の文化環境をつくる」と言っているのだけど、具体的には何をどうやって!?という話。児童館にアーティストを呼んで、そこから作品が生まれるようにする、というのはこれまでやってきた活動だけど、この活動をインストールするだけの、合理的な仕組みがまだない。ぶっちゃけていうと文プロのプロジェクトとその予算と児童館職員のみなさんの良心におんぶにだっこで企画をやらせてもらってただけなのだ。これまでの恩を返すためにも、よりよい児童館運営に貢献したいし、文プロの「NPOを育成する」というミッションに叶うように自立したい、と思ってる。でも、どうやって?というところであがいてあがいて、という今。迷いもあるし、失敗ばっかりで、自分でも大丈夫かなと心配になる、ということは周りにも不安を蔓延させているのかもしれない。

大局を考えると、昨日の参院選の結果を見ても、自民党の改憲案を見ても、国の教育方針が右寄りになって、教育はますます学校偏重になっていきそうな気がする。このあいだドイツに行ったけど、ドイツは学校が昼前で終わるから、放課後の教育環境の充実は必須。いわゆる生涯学習とか社会教育とか言われるような場所や施設がたくさある。もちろん児童館も劇場もその一つ。日本は授業時間がどんどん延びていて、習い事に通う割合も増えている。学校が終わっても「時間割」は続く。塀に囲われて、やることなすこと指定されていく。そうなったら、放課後ののびのびした遊びと異質なものと出会う自由の時間はどこへいくのか。児童館は、塀と塀の間にある、習い事と学校と家の、ごくごくわずかなスキマになりつつある。そのスキマからどこに導けるか。子どもを囲う塀に風穴を開けられんのか。

が、児童館以外にも放課後の行政サービスはたくさんあって、学童保育や授業後の教室や校庭を開放する「放課後子ども教室」、ほかにも区民館や図書館も、「放課後の居場所」だ。この中で、通う義務がなく、なおかつ「子どもの放課後の居場所」に目的が特化しているのは児童館だけだ。図書館は通常の図書貸出業務+子どもの居場所。放課後子ども教室は通常の授業+放課後の居場所、というように「+放課後」というのが施設の基本。そのなかで児童館が何を担えるのか~というのも気になるところ。

でも、これは小学生に限定した話で、児童館の対象年齢は0~18歳なので、「未就学児とその母親(0~5歳)」と、「中高生(13歳~18歳)」という対象もある。というか、今後はこの2極がメインになろうとしている。

普通に考えたら、この幼児と中高生対象の施設って、おかしなことになる。中高生が全力でバスケで大暴れしている横で、ヨチヨチたちが遊んでいるってこと…!?なんてカオス。幼児向け、中高生向け、と時間を区切って運営するならわかるけど、それを同じ職員が企画をつくって運営する、っていうのも大変だ。

オランダも日本と同じように、学校が夕方までガッツリ。でも、中身がぜんぜん違う。誕生月で学年が変わるからたえずクラスの人が入れ替わるし、授業も時間割にしばられないプロジェクトベースなものばかり。ぼくが会った子は今、みんなで演劇をつくるプロジェクトの最中らしい。学校が解放区的にうまく機能している印象。もちろん、オランダの教育システムにも、保護者がたくさん協力しなきゃいけない、とか、学校の先生が忙しすぎて鬱になりがち、とか、いろいろ大変だという噂も聞く。

日本でも三鷹市などが「コミュニティ・スクール」を推奨して、地域住民が学校運営に参加するシステムをつくりだしているみたいだ。NPO法人アフタースクールは、放課後子ども教室のなかで「市民先生」として住民による授業を実現した。大工さんが秘密基地つくったり、生花の先生がめちゃかっこいい花の生け方教えたり。学校が地域コミュニティをつくり、地域コミュニティが学校をつくる。この理念は素晴らしいし、ぜひもっとよい実践をつくりまくってほしい。

しかし、「学校」という枠組みとそのオルタナだけでは、子どもたちのほとばしる欲求は満足されない気がする。図書館でも、放課後子ども教室にしても、大人が子どもに何かを教える/見守るという構造は変わらない。ぼくが子どもの頃に嬉しかったのは、大人として扱ってもらえるふとした瞬間であり、子ども向けに用意されたものでない文化に触れたときだった。例えば、ゴジラ映画の制作の裏側を知ったときで、近所の大学生にエロのことを教えてもらったときで、ミシェル・ゴンドリーのPVに震えたときだった。ぼくを「子ども」として閉じ込める塀に裂け目をつくり、そこから吹き込む風に触れ、その向こうに広がる別の景色を見た時だった。

「子ども向け」のあらゆるサービスは、時に彼らを「子ども」の枠組みに閉じ込める。子どもに向かうのではなく、子どもが向かう先を目指すような、そういう時間をどうやったらつくれんのかねえ。と、このことをうまく言えずに、ここまで来てる。というか、本当に面白いものは、子どもも大人も震えるのだ。 エロとか、ミシェル・ゴンドリーとか。「対象」を定めて、そのカテゴリーの人だけが楽しめばいいのか、いや、そうではないだろう。

とにかく、放課後という草原が、どんどん目的ごとに区画整備され、自由な余白を失っていく。空間的にも、時間的にも、そして空気的にも!!!!子どもが遊ぶ声が騒音になることや、アレルギー、食中毒、まちなかをうろつくナイフを持った若者、切りつけられたとウソをつく子ども、インターネット犯罪、個人情報の漏洩。あらゆるアラーム鳴りまくりの厳重警戒区域になってる。

そんななかに、ボスッと風穴を開けて、空気を入れ替えたいと思う。表裏をひっくり返すように、厳重警戒区域を一瞬だけでも虹色レインボーにしたいと思う。

最近ぼくは貧乏人のくせに子どもがほしいと思っていて、だけどこの空気の中で育てんのはなんかやだ、と思う。ほとばしる命のかたまりが、この空気の中でブスブスしてしまうのは耐え難い。


と、こう書くと「なんかやだ」がモチベーションってことになるんだけど、実際そう。でもそれじゃぁ共感してもらえないし、建設的じゃない。「こうしたらもっとよくなる」という理論の組み立てが必要なことはもちろん、なにより自分の気分が虹色レインボーを求めてなければそうはならないのだ。

あああ、なんかもっと楽しいことしたい!!!!がぼーーーん!!!!