「非常識なことが大切だって言っているんです。常識っていうのはしようがないから無理してつくってるんだからと、こう言っとるんです。
常識っていうのは全部学習でできてるんです。国家も、友情も、恋も、セックスも、全部学習。逆に学習しなくていいものっていうのは、呼吸とかね、屁とかね。
そういうんじゃないものは、全部おぼえるんですよね。おぼえるってのはどっかに無理があるんだなこりゃぁ。落語っていうのはそういう無理を解放してあげるって考えてるのは私だけですけどね。」
という話のまくらで始まる、立川談志の「粗忽長屋」。これをなんとなく聞き流しながら作業をしていたんだけど、ぐーっと引き込まれてすっかり感動してしまった。この噺、人の生き死にだけじゃなく、自分と他人との区別という常識的なことを、ぐるんぐるんぶん回して行くと、ふっと新しい事実が浮かびあがってくるすげえ噺だ。
浅草観音のまえで人だかりができていて、主人公の八がそこをかき分けていくと、隣の長屋に住む親友の熊公が行き倒れて死んでる。死体の引き取り手がないっていうんで、それを「当人に確認させよう」と、長屋にクマ公を呼びにいくと、戸口にいる。クマをつれて八は観音様の前で言う。
「いつも言ってるだろう?自分の生き死にぐらいはっきりしといておくれよ!おれはいつも顔洗うときは鏡の前で自分の顔を見てんだよ。おめぇはそれやってねぇだろ?おれは俺のことを知ってるし、おまえのことも知ってる。そのおれがいうんだから、ここで死んでるおまえはおまえだよ!」
自分の死体を抱きかかえながら、これはおれだ!と叫ぶクマ。「いやぁだけど変な気持ちになっちゃったな・・・」と少し間をおいて、
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」
というサゲがどしーーんとキマる。
最近、アートってなんだろう、っていう話を真剣にしていて、アートというのはこのサゲのような体験なんじゃないかなぁと思ったわけです。おぼえてきたものの全部がまぜこぜになって外れていったさきで、突拍子もない新しい現実が浮かびあがる。今まで常識だと思っていたことが、全然違うかもしんない、ということに突き当たる。なんどもわからなくなるから、アートは魅力的なんだろうなぁと思う。
いやあしかしいい噺だ、「粗忽長屋」