ページ

2013/05/18

解除するには「笑い」が必要


中村児童館でボランティア

今日は15時から18時まで、中村児童館でボランティア活動をした。ボランティア活動、っていう言葉自体がかなりへんてこりんっていうか、ほんと好きなように遊んでいただけだった。

今まで、なにかしら別の目的を持ち込んでいた自分にとって、児童館のボランティアという経験は意外としてなかったことに気づいたし、その視点で遊んでみるといろんなことに気がつく。

たとえば、

職員さんはコマやファイヤースティックなどの大道芸の練習を積んでいて、かなり上手い、

とか、

大人が率先してコマ回しとかやってると、子どもが真似したがって、みんながやる。で、最初にやってた大人はすっと抜けて、別の部屋で、別のことで何かを焚きつけて、また次にうつってる

とか、

いつもピーピーうるさい元気すぎる野鳥のようなあの子は、色彩感覚も抜群にいいが、ダンスも上手いし天使のように楽しそうに踊る

誰も大人がいない工作室では、5年生が3年生からカードゲームのカードを巻き上げようとしてる、

とか、

ぼくが隣にいても、気づいてないだろうとグイグイ攻撃する、

とか、

そういうナメた空気が醸成される要因は何かありそうだ、ふーむ

とか。

アージのスタッフとしては、「プログラム」とかいって理屈をこねることよりも、現場の「空気」をよくよく読み込むことを重視すべきだ。当然ながら。

あと、やっぱり快快の企画などで過去に一緒にイベントをやったことがある子とは、少し関係性が違う。共有しているモノが違う、っていうかそりゃそうだ。信頼関係や共通の思い出から、新しいなにかをつくろうよ!という空気が生まれる。そういう意味では、「祭り」はやはり必要だと思う。

Y時のはなしには出演していなかったけど、Nadegata の映画に出てたTくんとはちょっと特殊な、2人だけの遊びがあって、

ぼくがTをつかまえて、両腕をつかみ、片足を胴に巻きつけて「ロック」をする。
「なんだよ!」とTがいうと、ぼくは質問をする。たとえば「今日一番うれしかったことは?」とか。でそれが面白いと「ピンポーン」といってロックを外し、つまらないと「ブブー」といってロックをきつくする。もうこの遊びを続けてかれこれ2年か…w 

会うとかならず「は?だれだよおまえ、さわんなよ」と減らず口を叩いてから、「ロックしてみろよ」と挑発してくる。変なやりとりだよな。



今日の「ロック」の質問。

う:「今一番ほしいものは?」

T:「えー、うんこ」

う:「は?なんでほしいものなんだよ。」

T:「え、友達になげたい」

う:「は?」

T:「友達に投げたいの!」

う:wwww 「ブブー!」

T:「まじかよ」

う:「はい、今一番ほしいものはなんですか」(ロックをキツくする)

T:「えー、ちんこ」

う:wwwwww「は!?ちんこ一個あるだろ!」

T:「え、だってもう一個ほしい」

う:wwwww「ピンポーーーーーン!」

はーうける。理由の一個一個に創造性が見受けられるから、この遊びは彼とやっていて楽しい。

2013/05/17

廃棄/モノづくり/コミュティ その2

東京芸大でのレクチャー「アートコミュニティの形成 ー廃棄/ものづくり/コミュニティ」の第1回目へ。東京都美術館「とびらプロジェクト」のオープニングレクチャーでもあり、ミルグラフから出版される『クリエイティブリユース ー循環するモノ・コト・ヒト』の収録講演でもあるこのイベント、午前の部に産業廃棄物を取り扱う株式会社ナカダイの中台澄之さん、午後の部に「ファブリケーション」の世界的なネットワークをつくるFabLab Japan代表の田中浩也さんの登壇でした。

その1では、ナカダイさんのレクチャーについて書いてて、そして後半は、午後1時から「リペア・デザイン」と題して、FabLabの田中浩也さん。ぼくが通っていた大学の先生でもあって、「626」というカフェをぼくが所属していた加藤文俊研究室と、田中浩也研究室で協働運営していたことがありました。ちょうどその2008年ころ、FabLabの活動を知ったそうです。

「WebからFabへ」というコンセプト。ブログやSNSを通じて「総表現者時代」と呼ばれて久しいが、言葉や情報だけでなく、モノづくりの領域まで民主化しているといいます。それは、PC上で設計したものを、3Dプリンターやレーザーカッターで切り出し、それを組み合わせることで、例えばiPhoneケースからイスや机まで、まるで工場でつくったようなクオリティで作り出せてしまう。


「ホモ・ファベル(=工作人)」という言葉にも使われている「Fab」は、「つくる・組み立てる」ということを意味しています。

で、田中さんが主宰している「FabLab」というのは「市民のためのデジタル工作室」ともいうべき場所で、世界各地にFabLabという名称の場所がたくさんある。先進国の都市だけでなく、インドの西側、道路も舗装されていないし電気もろくにまわっていないようなところにも、FabLabはあるといいます。http://fablabjapan.org/

そこで、小学生がインターネットの電波を受信するためにレーザーカッターと木片をつかって作った「Fab-Fi」は、その村の各家々で使われている、というエピソードが示唆的だったのは、必要な分だけつくりだすことができる、ということ。工場だと、1000とか10000とか生産して、それを全部使いきらなければなりません。

また、面白かったのはアムステルダムのFabLab(http://fablab.waag.org/)のことで、もともと古くなった邸宅をアーティストがスクウォット(不法占拠)してFabLab的活動をしていた場所を行政が認め、今では市民の仕事後の溜まり場になっている、という。「リペア・カフェ」と題して、家庭で不要なものを持ち寄って別のモノにつくりかえるワークショップなど、まるで部活のようにいろんな活動が展開しているみたいです。

中でも注目したのは、高齢者や障がい者の人たちから”使いにくい日用品”についての意見(というか不満)を聞き出し、その人が必要としている者をつくりだす、という活動。「リモコンにボタンが多すぎて困るのよ!チャンネルと音量の上下と、電源の3つだけでいいわ」という意見に対して、本当にそういうリモコンを3Dプリンターとaudinoでつくりだしてしまう、みたいな。

「クリエイティブリユース」に則した話では、「リペア」という言葉が使われていました。樹脂や木材から新しくつくりだすことだけではなく、すでにある役目を終えたものを、別の用途につくりかえる。紹介されたKevin Byrdのテーブル(http://blog.ponoko.com/2011/09/29/designing-for-exhibitions/)は、元の状態に戻すのではなく、別の面白さを付け加えるというFab的な文化を象徴していました。

面白いなぁ、と思うのは、この活動がまるで大人たちにとって「遊び」のようだ、ということ。みんなで集まってワクワクしながらものをつくって、自分の生活を面白くしていくこと。自分でつくったものを人に見せたり使ってもらったりするのは素朴な喜びに満ちてる。自分でつくった食べ物とかもそうだけど。

そうやって醸成されていくのは「文化」なわけで。人の溜まり場が生まれ、そこからモノゴトが生まれ、人の生活が少しづつかわっていく。遊びの欲動が集まると、文化になるんだ…。と感じ入ってしまいました。

で、田中さんがFab的な活動の一つの課題としてあげていたのが、日本の「製造物責任法(Product reliability)」。メーカーが製造した物は、解体をしてはいけない、という法律があることでした。

実際、インドネシアのFabLabで作られていた、「寝たきりのおばあちゃんに寝返りをさせるためのベッド」などは、日本の壊れた洗濯機から抜き取られた部品が多く使われていて、日本の製品はそういう部品の宝庫だそうです。そういう行為を、田中さんは「ハック」と呼んでいました。

PL法のロジックは、製品の解体の過程で人が怪我をしたり、万が一人命を落としたりした場合、メーカーが責任を取れないにも関わらず、メーカーのせいにされても困るから、ということ。

このことに対して田中さんの提案は、メーカーとユーザーというコミュニティの中で、責任を相互に承認し、解体したり改造したりする「自由」の領域を確保する、のがよいのでは?と言うことでした。

たしかに、子どもの怪我は、常にそこで遊ばせた親の責任でもあり、子どもの責任でもある。子どもと親とが相互に責任を承認しあっていれば、問題はない。まぁ子どもの問題の場合は、間に学校が入ってきて教師の責任を親が問い詰める、ということはよくある。だから難しいのだけど。

そう、ここでもう一度面白いなぁと思ったのは、「遊び」から「文化」へと発展していったものに対して、「制度(法)」が書き換えを迫られる、ということ。生活をよりよくしたい、という欲動が集まって文化が生まれ、活動が広がる。それを制度が抑圧するか、放ったらかしにするか、あるいは整理するか。

「遊び」から「文化」が生まれ、それに突き上げられるようで「制度」が書き変わっていく。抑えきれない楽しさや面白さへの欲求が躍動し、社会の空気はおろか、制度まで書き換えていく。これがムーブメントってやつか。

そしてこの草の根的な活動の繁殖が社会を変えていく構造は、最近の傾向でもある。人びとの欲求は集積し、ある種の文化の様相を成す。ここで考えたいのは、「制度」の応答力を高めていくことです。「行政はいろいろうるさいからだからもう民間で自由にやればよくね」ということでは、ヤバイ。

何がヤバイかというと、行政が嫉妬してそういう自由を刈り取りに来るから。そういうムーブメントの面白さを行政がよりよく理解し、よりよい市民社会のために応答し、制度を守るのではなく書き換えていく力こそ、この変化の時代に問われていると思いました。

次回、明後日の講演がたのしみです。



2013/05/14

廃棄/モノづくり/コミュニティ その1


東京芸大でのレクチャー「アートコミュニティの形成 ー廃棄/ものづくり/コミュニティ」の第1回目へ。東京都美術館「とびらプロジェクト」のオープニングレクチャーでもあり、ミルグラフから出版される『クリエイティブリユース ー循環するモノ・コト・ヒト』の収録講演でもあるこのイベント、午前の部に産業廃棄物を取り扱う株式会社ナカダイの中台澄之さん、午後の部に「ファブリケーション」の世界的なネットワークをつくるFabLab 鎌倉主宰の田中浩也さんの登壇でした。モノがぶっ壊れていくプロセスと、構築されていくプロセスの話がシンクロして、面白くて、もう前のめりで話を聞いていました。

「使い方を創造し、捨て方をデザインする」と題して、最初は中台さんのレクチャー。株式会社ナカダイは産業廃棄物の処理や再利用を手がける会社で、廃棄や埋め立てのほかに、在庫品のリサイクルショップへの卸など事業内容は多岐にわたります。(株式会社ナカダイ website http://www.nakadai.co.jp/

その中で、特に話題を集めているのですが、いらなくなったモノの可能性を引き出す「モノ・ファクトリー」「マテリアル・ライブラリー」「工場見学」などの活動です。(その様子はAXISの「ナカダイの産業廃棄物日記」に詳しいです。http://www.axisjiku.com/jp/column_nakadai/

ぼくも昨年の4月に工場見学をさせてもらいに行ったのですが、とにかくモノの量が圧倒的。シャンプーが1t入ってたプラスチックのケースとか、鉄の塊とか、破砕したガラスの山とか…。終末処理場感がたまりません。

産業廃棄物の処理の工程を、一般の人にもわかりやすく解説していきます。ガラスは色別に粉砕して、ラベル(紙)や、キャップ(アルミ)や、針金などの不純物を取り除き、100%ガラスにして溶かして再利用する。プラスチックも同様。木材はチップにし、紙は溶かしてすいてトイレットペーパーに。処理の過程で出た、もうリサイクルできない残渣は、1000度以上の焼却炉で焼かれるか、山を切り開いてつくった埋立地に埋めてられます。毎日30tの廃棄物が工場に集まるということで、その写真一つ一つも超ダイナミック。

今回一番響いたのは、中台さんの「モノの最後は埋めるとき」という言葉でした。様々な廃棄物の活用方法があるけれど、それはモノが埋められるまでの時間を延ばすことなのだ、と言います。リサイクルの資源となるのは半分ぐらいで、あとは全部不純物。モノファクトリーで活用されるマテリアルは全体の0.1%ぐらいだ、と言います。廃棄されたもののほとんどは、埋め立てられる運命にある。

児童館でも毎日ゴミが出てて、有料だったり、紙の分類が厳しかったりする。しかし、とりあえず言うとおりに分類しているけど、それがどういう運命を辿るものなのか、子どもも大人もよく知らない。

中台さんの言う「捨て方のデザイン」をぼくたちが生活に取り入れていくために有効な方法は、ゴミの物語を可視化し、身近にそのプロセスを体感することではないかと思いました。分類され、破砕され、またより分けられ、最後に埋め立てられるゴミたちの物語。写真で見るよりも、ミクロなスケールで体験できるようにしておくことはできないのでしょうか。

例えば、公民館や学校などに、小さい破砕機と埋め立て地とかがあって、ゴミがどのような運命を辿るのか、どれぐらい捨てると、どれぐらい埋め立てすることになるかがわかるようになっている、とか。

しかし、それをやるためには許可が必要で、産業廃棄物処理法という法律をしっかり守らなければなりません。中台さんは、これを義務教育のなかで教えるべきだ、と言います。確かに、私たちが「捨て方のデザイン」を実践するためには必要な基礎知識かも知れません。ちょっとよく勉強してみたい。

ある人にとってはいらなくなったものでも、他の人にとっては価値あるものかもしれない。一つの役目を終え捨てられたものを、一直線に埋め立ててしまうのではなく、別の可能性を多方向に広げていく。このことは、「福祉」における「ソーシャルインクルージョン」と共通した考え方であると思います。それは子どもや高齢者や障がい者の生活方法を限定して、閉じ込めてしまうのではなく、何らかの社会的実践につなげると、普通の大人には考えもつかない新しい魅力を引き出すかも知れない。まるで「マテリアルライブラリー」に並ぶモノたちのように。

しかしまぁ「ソーシャルインクルージョン」と銘打った活動は、「弱者を社会に包摂します」という政治的なアクションの色合いが強すぎて、ちょっと圧迫感を感じてしまう、というのが正直なところ。「クリエイティブリユース」という言葉も同様に、その言葉が使われなくなるぐらいごく普通の文化として、日常的実践へと馴染んでいくべきです。

中台さんのお話と、続く田中浩也さんのお話は、圧倒的な量の廃棄物を前に、われわれはそれを使うこと、修繕することを日常の実践としてやっていくべきだ、こうすればできる、という力強い提案でした。

もっともっといろんなことできるっしょ!というヨッコイショ感が、とってもエネルギッシュな中台さん。第三回「産廃サミット」が、9月に赤坂のPlus株式会社のショールームで行われるようです。「廃棄物を言い訳にしないデザイン募集」というコンペティションも行われています。6月18日〆切。ご興味のある方は応募されてみては。

(その2へ続く)

諦められない面白いこと

今日は、『Y時のはなし』のDVDの編集をお願いしている鈴木佐衣子さんとミーティング。時間はかかっているけれど、少しずつ少しずつ、形になっています。

昨日は、「アートコミュニティの形成 廃棄/モノづくり/コミュニティ」のレクチャーにいってきて、ナカダイの中台澄之さん、FabLabの田中浩也さんの話を聞いてきて、知的興奮にあふれたのち、こどもまつり終了後の三原台児童館の打ち上げにおじゃましてきました。

レクチャーの知的興奮のことはまた後日書くとして、なんで三原台の打ち上げに混ぜてもらったのかというと、お世話になっているカバちゃんと話したかったからで。カバちゃんは、ぼくが初めて東大泉児童館にいったときに担当職員だった方で、あと3年で還暦を迎える超ベテラン職員。その彼に、最近の心境の変化を報告しなきゃ、と思って。

館長から、先日の館長会でのプレゼンには「横文字」が多くて、カッコつけるな、と注意を受けました。それに付け加えてカバちゃんからは、「臼井くんの言葉を、児童館の言葉に翻訳しないと、伝わらないしもったいない」と。ぬあーーーーたしかにカッコつけてたっていうか、なんかもうまとまらない方向性をとりあえずつくろった借り物の言葉になってたかも…!と思って、ぬあああーーーー!と内心思いながら。

それでも、なかなかどうして諦められないことがある。から、いまこの活動をしてる。それはなにかというと、ぼくは子どもの遊びの風景がつまらなくなってしまうことが、たまらなく哀しい。

子どもだけで遊べる場所が少なくなって、大人のサポートが必要だから、公共がその役割を担おうじゃないか!と言って40年ぐらいまえにたくさんつくられたのが児童館。大人が率先して面白い世界に子どもを誘う、まるで異界の門だった児童館に対して、幼心にぼくはそのトキメキを憶えている。

しかしまぁ世間の目は優しくなくて、個人情報、アレルギー、トラブル、匿名のクレームなどなど、楽しいことしようっていう気持ちを萎えさせる波状攻撃は、ソフトに、しかし確実に、チクチクと、職員たちのやる気をそぎ落とし、いろんなことを「できない」構造へと取り囲んでいった。

でも、ぼくは、ナメんなって思われるかもしれないけど、職員と、子どもと、保護者と、地域の住民とが「そういうことやったら面白いかもね」という予感を共有していって、もし何か起きたときは責任を共有しようと相互に承認し合いながら、モクモクと面白い出来事が沸き上がって弾けて散らばっていく様を見たい。どうしてもそれを諦められない。若いねとか言われても!知らんわ!確かに若いけどもう26だからそこまで若くもないわ!

大人が面白いことを諦めて、子どもがその姿をみて、あーあと思いながら、世界の広がりはゲームの中だけで感じられる。全然夢とか希望とかなくね?

別に夢や希望をもってみんなで頑張ろう!みたいな気持ちはない、っていうか一つの理想や夢をみんなで共有する時代は完全に終わって、それぞれ見てる夢が違う時代になってるので、みんなで頑張るって行っても方向性バラバラで、まとまったとしても一時的じゃんそれは。でも、一時的にでもぐわっと盛り上がる瞬間をやっぱり美しいと思ってしまうし、その盛り上がりが冷めた夢の跡には、次の予兆がどこかでもう始まってるし。

とにかく「面白さ」というのは、予想を超えたことがおきたときに生まれるもので、はっとする驚きの中にこそある。しかしまぁ悪い方に予想を超えると怪我とか事故とかトラブルとかになっちゃうんだけど、「こんな面白いものに出会えると思ってなかった!」という予想を超えていく躍動感が、子どものいる環境にあってほしいものです。

もうもはや「遊びがつまんなくなってなんちゃら」とか言ってる場合じゃなくて、考えるべきは「文化」のこと。それは狭義の映画やら演劇やら音楽やらのことではなくて、人との関わり方や、働き方や、生き方のこと。40年前にできた社会システムは老朽化してるんだから、それにしたがって生きてたらしんどくなるのは必須。でも法律とか制度とかは簡単には塗り変わらない。でも空気は変わっていく。湧き上がる欲動というか、民意というか、人びとのあんなことやこんなことをしたいという気持ちがつくる文化のほうが健全なわけで、法律とか制度はそれを抑止するべきものではない。そのエネルギーによい流れを与えるもんだろう。

児童館というのは、もろもろの制度と、子どもたちの遊びの欲動と、ちょうどその狭間にいる。制度の側に立って子どもを規制するか、子どもの側に立って制度を批判するか、そのどっちでもある。だから面白いし、そのへんてこなポテンシャルを、諦められない。

はーなんか熱くなって書いてしまいました。ちゃんちゃん。