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2013/09/09

「社会参加」という言葉について

ずっと前から、この言葉には魅力を感じつつも違和感を禁じ得ない。「居場所づくり」という言葉もそう。子どもをはじめ、社会的弱者を孤独にせず、社会における”自己有用性”みたいなものを感じさせてあげようじゃないか、という大人の妙な恣意を感じるからだ。パターナリズム(温情主義)に基づいちゃったら、自発的な参加はありえないだろう。だからといって、これに代わる概念を思いつくわけでもないから、ぼくなりにこの言葉と向き合ってみる。


「社会参加」のフェーズ

「社会参加」…とりわけ「子どもの社会参加」「中高生の社会参加」について、仕事を通してぼくは考えている。児童館は彼らの放課後、つまりプライベートの時間のための場所なわけだが、公共施設であるからにはパブリックな場所でもある。この公私混同した状況が児童館の魅力であり難しさである。

「安心して遊べる場所を提供する」。これは児童館の一義的な役割である。このことが目的なのであれば、大人の見守りのもと、怪我や事故や事件を防ぎ、子どもは私的な欲求(ドッジボールしたい、ただだらだらゲームをしたい)を満たす場を提供することで児童館や放課後の遊び場の役目は終わる。

もう一段階高い次元に、「遊びを通した社会参加の経験を提供する」という目的がある。例えば、子どもがお店やさんを運営する「えんにち」やお化け役や小道具係になって客を驚かす「おばけやしき」などがこれにあたる。これは大人のファシリテーションのもと、子どもたちがある活動を通して普段そんなに仲良くない友達や知らない子と関わる機会、あるいは地域の大人という知らなかった他者と関わる機会を提供する。このとき、子どもは私的な欲求を越えて、多様な人々が交じり合う”社会”を構成する一員となる。

音楽の「バンド」を例にとって考えると、バンドメンバーと練習をしたりおしゃべりをしたりして過ごす時間はフェーズ1。ライブイベントへの出演を通して他のバンドと共演する場がフェーズ2だ。フェーズ2までいけば、音楽という共通項を通して、普段関わらない別の学校の子、あるいは年齢の異なる大人と場を共有することができる。仲間内でだらだらやることを越えて、他者に向けた表現を展開すること。これがある種の”社会参加”だとする。


「趣味の環」の限界

で、これこそが”社会参加”だ!とすると何が悲しくなっちゃうかというと、「音楽」という文化はハマればハマるほど、その文化の円環に埋没しちゃうと考えるからだ。いわゆる「音楽っぽいもの」の域を越えない。趣味の環に閉じる。すでにつくられてしまった円環のなかでの”社会参加”は、かりそめのものでしかないんじゃないか、というのがぼくの違和感だ。

本当は音楽って演劇とか美術とか文学とかにもつながる通路を持ってるし(というか芸術はなんだってそうだし)、それを通して人間の生きることを考え、あるいは新しくつくりかえることもできなくはない。もちろんそういうガチな表現活動へと展開することもアリだ。

「唐突につながってしまう」という社会参加のあり方

ぼくが考えてみたいのは、唐突で(最初は)無責任な社会参加のあり方だ。それはたとえばこんなかんじだ。

“ある日偶然、ミュージシャンを名乗る男に出会う。ボイスレコーダーを渡され、いくつかの声を録音する。楽しくなって遊んでいると「今日撮った声を、ぼくの曲に使ってもいい?」と聞いてくる。「いいよ」と言ってしばらく経ったある日、ラジオから自分の声が音楽にのって流れてきた…。”

これはあくまでたとえ話だが、ただ遊んでいただけ(日常)だけど、その行為は別の文脈に乗った瞬間に別の価値(芸術)に転換し、見知らぬ他者のもと(社会)に届けられていく。このミュージシャンの男が使う「芸術」というワープホールが、子どもの日常とその外側だと思っていた社会を裏側からぐるんと接続する。(アーティスト・イン・児童館はこんなようなことを考えたいと思って始めたプロジェクトで、その今子どもたちと職員の力でアーティストを召喚し、ワープホールを開けるための方法を考えているところだ。)

こうして、はじめは唐突な出会いからはじまった、ごくごく周辺的な社会参加の経験だが、次第にレコーディングから編集、楽器をつかった演奏、演奏会へとだんだんと踏み込んでいくことになればいい。(必ずしもそうしなければいけないわけではない)そして、演奏会の観客には子どもの親や友達もいれば、ミュージシャンのファンや巷で興味をもった見知らぬ他者も訪れる。

つまり、「社会参加」というからには、「予期せぬ他者」(ミュージシャンだったり、それまで関わったことのない観客だったり)との何らかの出会いが必要だろう、と思っているんだと思う。もちろん、セキュリティの問題があることは充分承知のうえで、それでもなお社会参加には必要だ。見知らぬ他者の存在が。さもなくばこのグローバリゼーションのなかで、子どもたちは大人が用意した”かりそめの社会”に埋没しちゃうんじゃないか、という危機感を覚える。


(おまけ)オリンピックと子ども

話は変わるけど、2020年に東京でのオリンピックの開催が決まった。もちろん、世界最大の祭典が生きているうちに自分が住んでいる街で観られることは、とても嬉しい。ぜひ新しくなった国立競技場に足を運んで、400メートルハードルを生観戦したい。


ただぼくが不安なのは、世界に向けて東京がいい顔するための、大人が考える”元気”の象徴として、子どもが使われるんじゃないか、ということ。(現に招致のためのプロモーションビデオには、悲しくなるほど”笑わされた”子どもたちがたくさん映っていた。)いやいや、元気とか文化とかってそういうんじゃないから。かりそめの元気の中に子どもを閉じ込めないでよ。私的な欲求がつもりつもったところに、一人ひとりの子どもの元気とか狂気とかがあって、そういうものが噴出されるのが表現だし、それはときに芸術だったり変なことだったりするわけで、そういうぞっとするものを回避して、何が元気だ、何が夢だ。オリンピックとパラリンピックが、多様な、見知らぬ他者への想像力を培うための祭典であるように。ぼくも微力ながらその当事者として関わっていきたいと思っている。関わることができれば、だけど。