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2012/12/06

乗り物のこと

『Y時のはなし』の公演が無事に終わりました。おわってみて考えているのは、乗り物のことです。

昔から『天空の城ラピュタ』に出てくる巨大なゴリアテに憧れてて、あれに乗ってる人たちはなんだかんだみんな楽しそうだし、あんな巨大な鉄の塊が宙に浮くなんて、なんて自由なんだろうと思っていた。

子どもたちの遊びのノリ/快快のグルーヴは重なりあって、まるで建物ごと宙に浮かすかと思うほど。物語は航路。グルーヴは動力。そして劇場は乗り物。操縦室は、どこだろうね。児童館がゴリアテのように、宙に浮いていろんなところに行けたらいいのに。

かわいい子には旅をさせろというけれど、乗り物はメディアだし、メディアは乗り物なわけで、子どもたちがメディアを使いこなせる環境は、あらためて必要だなぁと思う。メディアというのは、言葉であれ、演劇であれ、映像であれ、紙であれ。

旅というのは素敵なもので、身体を多面化するし、想像力を拡張する。

重要だと思うのは想像力で、地球上のどこへでもいけてしまうし、どの地域のようすも見れてしまう今だから。例えば来年、サハラ砂漠で暮らしているかもしれないし、アラスカに行くこともあるかも知れない。ロマンチシズムじゃなくて、このことを皮膚が想像できるかどうか。

例えば、風船に手紙をつけて飛ばしたら、見知らぬ誰かから返事が来たとする。見知らぬ他者とのやりとりが身体に残る。見知らぬ他者ともつながりうるという可能性が実感を帯びて身体に落ちてくる。旅することはそういう感覚を身体に蓄積させていくことでもあって、それはつまり、多様な他者と自分の関わりを想像できるようになっていくことだったりする。

乗り物は、身体そのものを別の場所に運んでいく。手紙は、自分の身体の内側を紙に憑依させて別の場所に運んでいく。メディア/乗り物にのって旅をする体験の蓄積は、想像力を拡張させたり充実させたりする。そうすると、予想だにしない事態にもしなやかに応答していけるようになる気がする。

子どもたちを「乗り物」に乗せること。子どもたちと「乗り物」をつくって動かすこと。なんかこれは企画のヒントになりそうな気がする。




2012/11/25

Y時制作日記(3)

今日は集中稽古でした。

光が丘なかよし児童館の子たちと、中村児童館の子たちの合同練習。ドッジボール大会のときみたいにディスり合うかと思ったけど、互いのパフォーマンスを認め合っていた。そして仲良くなっていった。

子どもたちと快快が1つのカンパニーになってY時のはなしを作り上げている。

放課後の、特別なY時。子どもたちが登場すると、舞台袖にいる快快メンバーがやんややんやとはやしたてる。こーじさんとゴリラの対決の白熱っぷりに押されて高まる子どもたち。このグルーヴ。

子にんぎょたちの、一人ひとり考えたきらきらの魔法。

ロボたちの、恥ずかしがりながらの努力。

楓馬センパイのカエルの暴走。

「カエルー!この剣を見ろー!」「うるせぇ!」

大爆笑。

お祝いダンサーズの決死のステップ。

あー、本番2日間、たった2日、だけど2日。どんな奇跡が起きてもそれは単なる奇跡じゃなくて、物語はずぅっと変わり続けるんだなぁ。



2012/11/22

Y時制作日記(2)

今日は中村児童館の第一学童で稽古。ひとしきり昨日のカエルの話題で笑う笑う。
ぼくは昼過ぎまで結局「しおり」の制作。しおりを渡したことによって、世界観が広がる広がる。

そのご、文美さんの車で光が丘へ移動。6時間授業のあとでくたくたに疲れた男子たちは集中力を欠くが、なんとかやり通した。絹代さんもつかれ気味だったけど、すごいなぁあのひとタフネスの人だわ。そして、ここでも「しおり」はモチベーションになっていた。

そのあとデコの準備を淡々とやっていた梨乃さんの手伝いをしてた中1男子から恋を告げられて悶絶したりして。

そういえば昨日面白かったのは、稽古場として使わせてもらっていた学童クラブの子どもたちに篠田さんが「誰ー?」と問いただされていたときのこと。

「誰〜?」
「今度劇やる人だよ」
「え〜?おばさん?」
「そうだよ」
「きゃはは、ほんとはおじさんなんじゃないの?」
「おじさん、でもある」

えー!!と思って。「おじさんでもあり、おばさんでもあり…」アイデンティティが複数で複雑すぎる。さすが練馬の一角獣、バンコクの蜃気楼こと篠田千明。この話ときどき思い出し笑いします。

Y時制作日記(1)

快快『Y時のはなし』の制作が全部で11日間のリハーサルのうち、3日が終わった。快快の集団制作のグルーヴが高まって、子どもたちにも波紋し、すごいことになっている。

今日、ずっと習い事があって参加できない、と言っていた子が申し込み用紙を持ってきた。これは、①11月24日(土)・25日(日)の集中稽古および12月1日(土)・2日(日)の本公演に参加できること、②肖像および著作を快快の作品として使うこと の2点を承諾してもらうための手紙でアー児が用意したものなのだけど、この子はこの手紙を見せながら、お母さんに習い事を休ませてもらえるように交渉したのだとか。この手紙は単なる手続きだけじゃなくて、子どもたちが自分でスケジュールを選択するための交渉材料にもなっていることが想像できる。だから子どもにもわかる内容でレイアウトしたり、イラストくわえたりして一手間することが重要になるだろうな〜と思う。

あと今日印象に残ったのは光が丘なかよし児童館でのやりとりで、ツイッターでも言ったけど、これ。



今日光ヶ丘なかよし児童館で出演する小6男子とその友達の女子のやりとりで、「そうた君も出るの?」「そうだよ」「誰にやれって言われたの?」「やれって言われたっていうか、やるって言った」って言っててグッときたよ。



自分の意志でここにいることちゃんとわかってるし、多少恥ずかしい思いをするかもしれないことを、人のせいにしてない。こんなにもすぐ人のせいにする大人が多いのに、おまえ!と思ったらもうぐーっとくる。



あとは、100%夏休みのころからカエル役をやりたがっていた楓馬が、ついにそのカエル役のために生まれてきた自身のカエル性を爆発させたことです。もうこれは見てもらわないとわかんないなぁ。

どうにかして見たい風景があって、そこに何とか辿り着けそうだという希望が見えていて、全力で向かっているんだけど、その風景に出会い触れることができたとしてもたったの2日間で終わってしまう。見たい風景とは結局日常からすこしだけ浮遊するための場であって、2日間の限られた時間の幻で、それに魅了されたからまたそれを追いかけるんだろうな。


2012/11/11

公共文化施設のコミュニティ・プログラム


今日は世田谷パブリックシアターで「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」と題したシンポジウムへ。

考えたことは、「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」に関わる人たちの「必要」とはなんだろうか、ということ。

第1部のテーマは「(コミュニティ・プログラムの)目的・対象・方法」。

公共文化施設に対して、まず税金を払うという関わり方をしている市民、区民、都民の「(潜在的な)必要」というのがあって、それにエクスキューズすることが公共文化施設の仕事の一つとなる。会田さんが言っていたように、公共施設の事業は行政の政策と不可分なものであって、プログラムを作る人がただ単に自分の興味関心でつくっていていいわけではなくて、議会での審議を経て提示されている自治体の政策方針とか、政策内容とか、施設に求められるものや自らが掲げるミッションと、プログラムをかみ合わせていくという作業がいる。

プログラムに参加する人びとの「必要」というのは、「これに参加すればこういう効果が得られる」とか「こういう知識を学べる」とか「こういう快楽が味わえる」ということだけでなく、「あたらしいものに出会う」という好奇心を満たすことであると考えてみる。しかし、好奇心の強さやベクトルは人それぞれだし、いろんな好奇心の有り様に応答していくこともまた、プログラムを考える側の仕事になっていく。

わけのわからないものに出会ったときに、それをしりぞけ思考停止させるのではなく、それに対して取り組むことが創造力だ、という会田さんの話にはすごく共感したし、わたしたちはどうしていったらいいのか、ということを美術や科学や演劇やメディアアートを通して、議会とは違う在り方で考えることができる場がコミュニティ・プログラムだとする野村政之さんの考え方にも。人びとが文化を更新していく創造力をもって未来というわけのわからないものに向かっていくためのコミュニティ・プログラムなのであって、そのために人が集まる場をつくり、集まった人びとがモノゴトをつくることを楽しめるような工夫をする。

個人の好奇心からだけでなく、仕事に関わる「必要」もある。たとえば学校の先生達は、鑑賞教育が組み込まれたときから芸術作品を鑑賞する、ということを身をもって子どもたちに伝えることが必要になり、よりよい鑑賞教育の方法を模索しているという。東京都現代美術館の郷さんは、アーティストの訪問事業に加え、先生たちの研修会に美術館の一室を提供したり、先生が無料で展覧会を鑑賞できるプログラムを実施したりして、この先生たちの現状に積極的にコミットしている。

そして最後に、プログラムをつくる側の「必要」というのはなんだろう、ということ。自分もそうだから、自分の「必要」を語るとすると、まず前提として自分がいいと感じる芸術を信じているし愛していると思う。そしてそういう芸術が人びとにエフェクトしたり、人びとからエフェクトされて芸術が変容していく風景をみたい、という「必要」、というか欲望がある。とくにそれが子どもであり、子どもの遊びによって芸術が変容しより奥ゆきを増していくプロセスに興奮するし、その興奮は生きていく上でもはや「必要」だということ。

あらかじめ定まっている未来などなく、いま・ここにあるのは、すでに生まれた人やモノゴトと、これから何かが生まれるという予兆であって、できることはそれを予想すること。そして、それを形にするのはほかでもない人びとの意志や行為だし、その形の価値はどんな文脈におき、どんな言葉や数字を与えるかでいかようにも変化する。人びとの必要というより意志を知り、何を為しているかを知るために、プログラムをつくる人間はよく耳をそばだてておかなくてはなるまい。そうして集めた情報や感じた気運から、人びとと何を為したら面白いかを想像し、すでにそこにあるモノゴトや文脈とすりあわせながら、それが実現するための時間を組み立て、空間に人やモノをあつめ、出来事を生み出し、その後に言葉や数字をあたえていく。面白い仕事だなぁーと思う。手仕事やフットワークによるプログラミング。

とはいえ、アーティスト・イン・児童館としては自治体の政策についてのリサーチも足らないし、ミッションももうすこしバージョンアップしたほうがいいし、文脈の整理も甘い。ドラマツルギーが要る。来年はいろんな情報を収集し、文脈をつくる作業に1年を充てて考えたい。

で、第2部は「地域と子ども」がテーマ。だったはずが、第1部とほとんど同じテーマになっていたような気がする。こういう場で質問するのは苦手というかあんまりやったことないのだけど、「ワークショップという言葉がたくさんでてきたけど、ワークショップはサービスと考えていますか?それともクリエーションだと考えていますか?」という質問と、「地域の子どもたちに施設をどのように活用してほしいと思っていますか?」と聞いた。

「ワークショップはサービス。そうでなければ市民に作品に奉仕してもらうかたちになる」と言い切った柴幸男さんは鮮やかで、なおかつ「ワークショップじゃなくても、地域のなかに作家の存在があって、創作の現場があるだけでいろんな影響や効果があると思う」という話には頷いた。どうやってその効果を測定すればいのか、また、どうやってその影響を効果的に生み出すことができるのかはまったくわからないけれど、アージにトライできる重大な部分な気がする。

大変刺激になった一日でした。明日からまた走る。

2012/11/10

不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。


今日はこーじさんの中村小劇場。Y時のはなしの夢のシーンの稽古をする、ってことになったんだけど、1人途中でやりたくなくなっちゃった子がいた。最後は結局やってたけど、彼らの意志のありようを、もう少し作りこんでいきたいなぁと思う。

アーティスト・イン・児童館の企画に参加する子どもたちは、何かを予感して唐突に決意をする。面白そうという予感とか、やってみたいという希望の根拠は整理ないくらいいろいろある。裏を返せば、あんまりない。



しかし、そのあとに、予感したこととは違っていたり、不安になることもあったりとかして、彼らの気分はこれまた唐突に重たくなったりする。子どもたちにとっての「気分」とは、自分では制御できない自分の外側からところから訪れるものだと思う。何かを楽しみにしているときはグルーヴに流され、何かに不満をもっているときは得体の知れない重さに沈められていく。大人は、経験を参照したり、言葉を駆使したりして、「これが原因で落ち込んでいるから、こういうふうに考えよう」とか、「こういうことが自分にとって楽しみなんだな」と感情を言葉を使って整理することができたりする。子どもはそれができないからダメというわけではなく、そういう言葉の使い方じゃない生き方を体現しているという意味で。


彼らの身体に流れたりのしかかったりする、なんだかわからない気分だか気運だかに翻弄されながら、快快のメンバーは彼らの意志を信じて、一緒に舞台に立つ場面を想像しながら、制作をすすめている。子どもたちが舞台に立たないことを選択するかもしれないし、環境が彼らの意志に関係なく可能性を断つ場合もある。風邪をひいちゃったりとか、家族の用事とか、どうしてもやりたくなくなっちゃうとか。一度決意したらもう出演する以外の未来はない!というわけではなくて、そこは環境や本人の意志に委ねられる。ここに義務はなく、あるのは彼らの意志と、それを叶える/叶えないを決める環境であり、それを運命と呼んだりもするわけで。


その先に何があるのかといえば、舞台に立ち人に観られるという経験が待っている。もちろん、その経験が至上のものだ!というわけではなく、もしそれがかなわなかったとしても、今回はできなかったけど次回は、とか、観客として楽しむとか、彼らの人生に多様な可能性と経験を与えていることにほかならない。次回はやりたい!という雪辱にも似た気持ちを持つことは希望だし、自分は観客のほうがいいやという気持ちは見る目を養うし、演劇なんて大嫌いだ!という感情はそれを抱えて生きる人にしか見えない風景をもたらす。どれも、どうなっても、いいことだ。


舞台に立ちたいという意志をもち、環境に選ばれた子どもたちは、ホールに現れた百何十人の観客のまえで自分の身体をつかって表現をする。これは彼らにとって日常の遊びからのワープの体験であり、それはいつもの教室や家や遊び場とは違う、いったいなんだかわからない価値体系の中に居ることになる。面白おかしいコスチュームを着て大きな声でヘンテコなセリフをいうことは、日常では奇妙で忌避されることであっても、舞台ではそれが賞賛される。遊びの中でウケ狙いで芝居めいたことをやることはあったとしても、舞台ではそれをガチンコでやらなきゃいけない。舞台でもウケを狙うが、それはオフザケではなくガチ。


それに加え快快というチームの面白さは木村覚さんの言うように(※)、"役者が「役者」であることから半分降りて当人として舞台上に上がっているようにも見える"ところにある。児童館では快快のメンバーは(個々人が強烈な個性を持つことは間違いないが)子ども向けにキャラづくりも特にしていないし、稽古をするときでも、役になりきっているというよりは、その役を演じている本人、として演劇をしている。児童館の子どもたちは、役者として舞台に立っている山崎皓司や野上絹代や竹田靖ではなく、友だちなのか先生なのかよくわからない大人として出会っていて、そういう不思議な間柄で仲良くなっている。そういう大人たちが舞台にたって演劇をしているものだから、たぶんそこが舞台なのか児童館で遊んでいるのの延長なのか、明確な分別がないままに公演を終えることになるだろう。


舞台というよくわからない価値体系の場所と、日常の遊び場が入り交じっていき、そしてそれが作品として見知らぬ他者に見られたり批評されたりするという不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。またひょんなきっかけで彼らの前に旅路が開かれることがあるかも知れないし、もう無いかも知れないし、旅がしたくなったら自分で旅に出るかもしれない。

いま、快快プロジェクト『Y時のはなし』は本番3週間前を迎え、軽いも重たいも楽しいも不安も、うねりながら12月1日の初日に向かっている。気がする。

臼井隆志



※快快『りんご』:artscapeレビュー/プレビュー

2012/11/05

終わるということはとてもいいこと。


11月2日。アサヒ・アートスクエアで撤収作業をした。みんなで作業をすると、終わるから気持ちがいい。なんか009のキャッチコピーが「終わらせなければ、始まらない」なんだけど、プロジェクトもそうで、終わるということはとてもいいこと。その後浅草でハマくんと餃子をたべて、そのながれでシオリと新宿でグラタンをつつきながらビールを飲んで、夜行バスで仙台へ。


11月3日。文部科学省主催のフォーラムでポスター展示。3.11以降の復興に向けた教育活動が多く、東北の、未だ揺れ動くそしてますます窮屈になる空気のなかで、活動する人たちの意気込みを感じた。

11月4日。まちづくりセンターの助成金の中間報告。《放課後メディアラボ》についてのいろんなプランが浮かぶ。


11月5日。絹代さんの「FAIFAIの親子DEダンス」の二回目。進化した親子ダンスで、10数組の親子が参加した。とっても良い風景でした。そしてそのあとは池袋のファミレスで3時間ミーティング。色々決まってきたよー。

『Y時のはなし』快快×アーティスト・イン・児童館
チケット予約はじまってます。

2012/11/01

終わったあと何にどうつながっていくかまで想像して



《Form on Words: ネクスト・マーケット「ジャングルジム市場」》がなんとか無事に終わって、ほっとしてたら今日は朝起き上がれなくなった。

イベント一個かたちにしたからって喜んでるようじゃだめで、そのイベントが終わったあと何にどうつながっていくかまで想像して、備えておけるぐらいの仕事っぷりが、マネジメントとしては理想なわけで。

そんなわけで、続く《Y時のはなし・イン・児童館》はそのあたりも意識したいと思っているんだけど、広報のこととか児童館行事との兼ね合いのこととか、わりとあらが出てきてる。もっとシンプルに、目標を設定して軽やかな頑張り方できるように、思考をきりかえにゃなー、と思う一ヶ月前。

でも、やりきってみると必ず次に繋がる、というのは経験的に知ってるから、その経験と感触をたよりに、やりきるための神経を高めていくしかないわな。久しぶりに400mハードルやってたころの、中盤の切り替えみたいな気持ちになってる。

ナイロビやパリとスカイプで話したりして、今週はなんだかインターナショナル。自分の仕事も、ヨーロッパにもっていったら面白がってくれる人けっこういるんじゃないかな〜と最近イメージしてて、実際にヨーロッパで仕事したいなと思い始めた近頃。

まぁまだまだ未熟だけども、再来年ぐらいには一回ヨーロッパで仕事したいな〜。

2012/10/20

コミュニケーションの連鎖に、小さな変革が


今日は快快DAYで、こーじさんの「中村小劇場」。中村児童館で出演する予定の子どもたち+αと、ゼロから演劇をつくる。こーじさんはあんどーなつのインタビューを読んで、彼らがどこまでできるのかを知りたいということと、快快が指示を出すんじゃなくて彼らが考えたアイデアを作りこんでいく方法を試してみたいということで、こんな企画に。すごく良かったし希望がみえた。


「演劇をやろう!」っていう呼びかけと、なんだかんだで考えてたのが死に方だったりして、なんだか『りんご』と重なるところがたくさんあった。館内放送で「これから、中村小劇場はじまります。やりたい人は工作室へ〜」って言って、わーっと工作室に集まってくる。途中からよしくんとけんじろうも来て、悪役がまとまっていく。しょうえい、さえ、ちっひーにまいまい、そしてひなたは確実にやるき。そこにいたタクミとユウは一年生で、なんだかもちもちしてたけど本当に最後までやるんだろか、と思っていたけど、やりきったし王子役の死に方は見事だったなー。タクミはどこでやる気になったのかわからないけど、怖い話を読んであげたりして、「うっすん読むのうまいね」って言ってきたり、すごく頭のよさそうな顔してて「よーじ」のモデルになった子はこんな感じなのかなぁとか想像する。「よーじ」はもうちょっとやんちゃかなぁ。そういえば、100%夏休みが終わって児童館に行って、なんとなくキャッチボールしてたのがあの子だったな。

子ども一人ひとりのやり方とかモチベーションとかあって、しょうえいなんかはとにかく戦いたいというか自分の強さ誇示したがるし、けんじろうはどんどん変なことやってくるし、ちっひー、まいまい、さえにいたっては、私たちはY時に出る!っていう自覚だけははっきりしてるくせにいざ芝居してっていうともっちもちでもう立ってらんないくらい照れる。ひなたには強い誇りと自信があって、演技らしい演技をやはり確実にこなしていく。よしくんは安定のパフォーマンス力で、気の利いたセリフをアドリブで言ったりする。タクミは甘えん坊だけど、文美さんと舞台装置をぬりぬりし、しかも剣をもって唐突に舞台に立ち、そのままなぜか王子役になって最後までやってのけた。


15時から説明とアイデア出し。
「はい、やりたいこと言ってくださーい」
「はい!殺し合いがやりたい!」
「はい!森があって、お城があってそのなかに・・・」
「さえはなんかやりたいことないの?」
「えー、妖精、妖精」
「えー、カイトがピストルやりたいってー!」
「そ、そんな事言ってねぇよ!もうやらねぇよ!」
「そういう話なら、姫がいるでしょ」
「宝がいるんじゃない?」


とかいって思い思いのことをいい、次にグループ分けをして、泥棒チーム、姫チーム、妖精チームにわかれて小道具をつくる。剣、王冠、羽。んでこれをつくってるときにオルガとブランカが現れて、みんなヨーロッパ人の赤ちゃん初めて見た!かわゆー!ってなって、とにかく小道具をバタバタと作る。それをつくったら、今度は稽古。

「はい、じゃあみんなは妖精だから、宝守って。なんか言って。」って言ってこーじさんの丸投げすごい。妖精たちはパタパタしながらてれってれで「恥ずかしい!どうしていいかわかんない!」とか言う。はいはいってなって、「はい、じゃあここで泥棒出てきて」っていったら男子たちが調子にのって出てくるが、とにかく罵声を飛ばして自分で笑ったりとかして全然進まない。照れるわやりすぎるわ途中から入ってくるわでバッタバタ。お前らもっと後ろに下がれよ!とか、この線からそっちに出てくるな!とか、距離が近いよ!とかこーじさんがいろいろ指示を出すけど、お客さんだったら「別にお前が面白いのであってこっちは面白くねーよ」的な気分に簡単になっちゃう感じの雰囲気。そうこうしてるうちにもうすぐ五時になってしまって、学童クラブの子たちは帰らなきゃいけない!となると、早く本番をしなければ。

というわけで暗転して、スポットライトで照らして、劇が始まる。

出来上がったのは、
「一人の王さまがお城に暮らしていて、宝物を守る妖精がいて、そこに泥棒が現われ、宝物が奪われてしまう。
剣士と一緒に王様が森の中にいくと、泥棒たちが酒盛りをしていて、お宝を帰して欲しければおまえらの城にいる2人の姫を連れてこいという。
翌朝、王様と剣士が姫を連れて森へいくと、泥棒が泥酔して寝ていて、目が覚めたら喧嘩を売られる。
姫をよこせばお宝をやってもいいが、その前に剣士と対決させろ!と言われ、剣士と泥棒のボスが戦う。
ボスも子分も何とか倒すんだけど、闘いで傷ついた剣士も死んでしまう。
姫たちが実は剣士の事好きだったのに、って言って泣く。
そしたら妖精たちが剣士を生き返らせて、かわいそうだからっていって泥棒たちも生き返らせる。
助けてくれたのはあなたたちですか?とかいって泥棒は王様に仕えることになる。
おしまい」
みたいな話。

なんか思ったのは、稽古のとき、他の子がやってるのをみてあーだこーだと口出しする子がたくさんいることや、なぜか客席に座ってたのに悪役のことを殴り始める子とか、けんじろうはなぜかダンボールの鎧?を着てたのでみんな殴りやすかったんだろーな、とにかく口や手がでる。もっとこうやってセリフ言うんだよ!みたいに上から目線でやじを飛ばす。「おい、そんな事言うならおまえあとで見せてみろよ!」とこーじさんがショウエイに言うんだけど、ショウエイはやってやんよ、みたいな感じでこれまた喧嘩腰。でも実際舞台に経つとまたぜんぜん違うダメな所が出てくるんだけど。とにかく、演じてる子に対して、じれったいのか歯がゆいのかなんだかわからないけど、自分のことを憑依させてしまうらしい。身を乗り出してやじを飛ばしてたもんなぁ。人がやってるのを観る、次に自分でもやる。その繰り返しなんだと思う。

彼らは今日、シナリオ、小道具や衣装、舞台装置、そして稽古をたったの2時間でやり、最後にはお客さんも入れてスポットライトを浴びながら演じきった。演劇のプロセスを2時間に濃縮したものを経験した。この積み重ねなんだろ~なーきっと。今は未だ、シナリオに関して言えばなんか見たこと在るような話を真似してつくっただけだけど、そのうち《Y時のはなし》がこうやって子どもたちとふれあう中で生まれた物語なのだということを、実感したり想像したりしてもらえたらいいなぁと思う。とにかく、あとに2回ぐらいは中村小劇場で稽古かな?2回やったらかなりレベル上がりそう。

お客さんとして発表を観る子もいるし、職員も観る。みんなやりたくなってしまうかもしれない。そうやって演劇をつくるという空気が館内に充満すると、表現すること、演劇することに抵抗がなくなってよりクオリティの高い表現をしたいとみんな思い始めるはず。小さい劇場のハコができたことで、児童館のコミュニケーションの連鎖に、小さな変革が起きた気がする。変革の積み重ねで、演劇をつくる空気に変質していくはず。

けんじろうに「今日の反省点は?」と聞いたら、「えーと、剣士と戦うところの場面が長すぎる。もっと死に方を工夫しなきゃ」とかいってまともなことを言う。よしくんしょううえいはなんて言ってたかなぁ。快快リーダーよんちゃんは、「まだまだ全然だめ!」とおもいっきり駄目出し。「どうしたらうまくできますかー!」ってけんじろうふざけて聞いてたけどまんざらではない様子。演技って恥ずかしいけど、普通に自分もやるってなったら恥ずかしいけど、どうやったら恥ずかしくなくなるんだろう。毎回反省会したらおもしろそうだな。あーなるほどね、リフレクションなんだね自分がやることも、他の子がやることも、あるいは大人がやることも。

絹代さんがなかよし児童館で「ウルトラバトル」を、こーじさんが中村で「中村小劇場」を、そしてゆいさんが東大泉で小道具作りをはじめる。東大泉もなんかそういう設定作ってあげれるといいな。各地で起きてる小さいイベントが12月1日2日でつながっていく。サードプレイスのプロデュース、にふさわしい感じになってきた。楽しみだなぁ。

2012/10/19

サワースウィートで微炭酸

今日は、Y時のはなしのフライヤーの入稿が終わって、天野さんお疲れ様でした。
午後一で中村児童館にスケジュール調整に行き、ちえちゃんとのミーティングは楽しく、りきって子のことを話したりした。

その後チャリンコのパンクを直しにいって、その待ち時間にマックで本読みながら待ってた。『ディスコ探偵水曜日』は運命と意志と時間と空間と子どもと未来と過去をめぐる謎の話で、読んでて励まされることこのうえない。

自転車に乗ってすすすっと光が丘に向かい、こちらでも日程調整。職員の小林さんといろいろ話してて、彼女が6年間で培ってきた関係性のなかで、Y時のはなしの企画に一押ししたい高校生に連絡をとってくれた。高校生にはっきり物を伝える姿勢とか、「来なさいね」ってお母さんみたいに言う感じとか、すごくリスペクト。


来週実施する企画。ポスターは快快の野上絹代さん。

演劇部で演劇をやっているという高1のゆうさちゃんと話をする。ウェブで快快のこといろいろ調べてくれたみたいで、かなり興味を持ってた。「学校で薬物乱用防止のキャンペーンの劇をしなきゃいけないんだけど、なんとかこっちに参加できるようにします!」って言ってくれたり、まわりのこに「ねぇねぇ!演劇やろうよ!」って誘ってくれたり、なんか高校生の集まりの企画つくったりしてるらしい。ムードメーカー。

高校生たちのあのサワースウィートで微炭酸な感じ、あの感じのなかでまた企画ができることを、本当に嬉しく思う。これからの一ヶ月が本当に楽しみだ。


が、そのまえに!Form on Wordsの大一番、「ジャングルジム市場」がある。光が丘から外苑前に移動し、古田さん、みぃちゃんもえちゃんと打ち合わせ。アージによる演出がもろもろの鍵になりそうだ。アー児チーム、まさかのパフォーマンス体験ですね、楽しみです。



アサヒ・アートスクエアの巨大な空間を使って楽しめることを、これまた大変嬉しく思う。現場で、実際に物事が動いていく感じ、たしかに理想通りできなかったらどうしよう、っていう焦りもある。任意のチームだから、だいぶグズグズだったり、無責任だったりすることもある。60万円という予算規模で、最大限に力を発揮できたか?と言われればそうではないと思う。でも、確かにモノゴトは動いてきた。そしてここまできた。

来週あたま、いよいよジャングルジム市場の棟上げです。


2012/10/11

時間をつくる、意志

人は「時間が・・・」というときに「時間がない」「時間があれば・・・」というけれど、時間とは人の意志でつくりだすものであって、あらかじめ定められているわけではないということ。

誰かに会いたい、とか、どこどこに行きたい、とか、そういう意志があって、はじめてその場所に行ったり人に会ったりすることができる。これは、他の予定を押しのけてでも時間をつくるっているわけで、時間があるから(暇だから)というわけでは決してない。

ただその選択肢が過剰になりすぎて、どの選択肢も悪くないんだけど選びきれない!という場合もある。そういう時に人は「予定が合わなくて」「時間がなくて」と言う。

しかしそれは、そこに行くことを選ばなかった、という自分の過去の決定のせいなのであって、誰かが決めた予定によって妨げられたわけではない。全部自分で決めているということ。時間は全部自分でつくっているということ。

何故こんなことを書くかというと、最近ぼーっとどこかへ行く事が増えて、何か考え事をしたり書物をしたりすることが随分と減ったから、それは一体なんでだろうと考えた時に、動きたいという意志があり、動くために時間をつくろう、という気持ちがあるからだと気づいたからです。

2012/10/10

ゴールまでの距離がわかるほうが、走るスピードがあがるように。

アサヒ・アートスクエアでの3日間のワークショップが終わった。
参加して下さったみなさん、貴重な時間をありがとうございました。

ぶっちゃけこのプロジェクトは、参加してくれる子どもや大人の労働力をもらい、そのかわりに面白い出来事をつくって体験してもらう、という経済でやっているので、参加者に「持ってかえってもらうもの」は経験でしかないから、参加者はぱっとメリットが思い浮かばないかもしれない。

「巨大なジャングルジムができるよ」とか「子どもたちがつくったものを売るよ」とか、面白そうなことを言っているけど、いまいちピンとこない感じがある気がする。正直言って、ぼくもピンときてない。

BUGHAUSのみなさんや、蓮沼執太さん、そしてForm on Wordsのメンバーがいろいろものや事をつくっていく過程を見て、逆に「あ、こういうふうになるんだー」「こんなふうになったら面白そう!」という想像力の広がりをつくってもらっている。

想像力が広がることは、モノゴトの推進力にもなる。ゴールまでの距離がわかるほうが、走るスピードがあがるように。


というわけで、月末にあるForm on Words ネクスト・マーケット「ジャングルジム市場」、お見逃しなく。

http://www.formonwords.com/

2012/09/30

約束、あるいは願いごと

子どもたちと、「約束」をすることが多い。

「来週の金曜日、アニメつくるから来てね」

「8月の20日にファッションショーやるから、絶対来て!」

「わかった、金曜日ね。来たらポテチおごって。」

こんな会話を児童館ですることがよくある。

「約束」というのは「願いごと」に似ている。願い事は、それが叶うかどうかはわからない。誰かが叶えてくれるわけでもなければ、自分の願うことがすべて実現するわけではない。豊穣な選択肢の中で、お互いの意志の交わるところに、「約束」と言って想像した未来が形になって現実になる。

こちらはプロジェクトを成功させたい一心で活動をしているけれども、子どもたちの放課後には「習い事」や「家族の用事」や、友だちとの別の約束や、さまざまな選択肢にあふれている。その中から、このプロジェクトに参加することを選ぶ、というのは気持ちの強さと、そこで関わる大人への信頼を要する。

安易な約束は、苦々しい義務を生むだけ。信頼関係と、楽しそうなものへの期待のもとの約束は、心強く、心地良い。いい約束をし続けたいと思う。


2012/08/26

昂揚、会話


今日は中村小学校の芝生の校庭でキャンプ企画。館長とちえちゃんとイベントタイムだけ見学に行った。写真は「えだまめ王子」のライブ。

夏休みの最後を、校庭で、家族で、キャンプ。みんないるし、夜でも会えるし、こりゃァ楽しいだろう。みんなテンションが高まってた。中学生とかも、スカしてたけど、気持ちは昂揚してたはずだ。



《100%夏休み》で出演してたウィングらいまやシールドりょうすけ、泥のしょうたろうも来てて、お父さんお母さんとも話ができた。

小一男子がきゃっきゃ言って走り回ってる中で、りょうすけは

「ファイファイのさぁ、こーじとか、しんちゃんとか、しろーとか、みんな元気?今何してるの?」

しんみりと聞いてくるので、

「みんな新しい作品つくってて、稽古がんばってるんだよ」

と言うと、

「へー、新しいのなんだ。観に行きたいな。おれ、本番も絶対がんばるから、練習始まるとき言ってね」

と。なんか別にそんなたいしたことじゃないんだけど、こういう会話が嬉しくてやってんだなーと思う。「会話」ね、「会って話す」っていうことね。

完膚なきまでにいい企画にしてやろうと思った。12月の、Y時のはなし。



2012/07/23

子どもあそびばミーティング

YCAMに3度めの訪問。毎回美味しいお刺身食べて、日本酒飲んで、たくさん話して知識を得て、楽しいことばっかりな仕事もこれで最後。詳しくは今度まとめて書きますわ。

子どもにアイデアを考えてもらい、そのアイデアによって公園の機能をアップデートしていく、ということをするんだけど、子どもにアイデアを考えさせるとき、評価の対象になるのは、2種類ある。1つは大人がやってることのきちんとした「再生産」。滑り台がある、砂場がある、ブランコがある、といったようにデフォルトの公園を再現する能力。もう1つは、放ったらかしの「自由」。公園にワニがいる、ドラゴンがいる、魔法の杖がある、みたいに非現実的で実現性のないアイデアを描いたものが「独創的」という理由で評価されるか。そのどちらかが多いんだけど、ぼくはどちらもしょうもないというか面白くないと思っていて、「再生産(=規制)」でも「自由(=放棄)」でもない、「ひずみ」を生み出す仕組みを考えたかった。ヘンテコかつ具体的なアイデア。その表出のシステムを「大喜利」という形式を組もうとしてたのが今回の子どもあそびばミーティングでした。これについてはまた今度。

その「ひずみ」にこそ希望や未来がある、ということを、ぼくは実践し続けていきたいと思っているし、そのための実践の数々であると思っている。今すぐに認められる、とか、今すぐにわかる、とか、そういうものはすでにある定式に当てはめられてて、新しいものにはなりえてない、というのはもうよくわかられていること。

誰かにほめられることよりも、驚かせることのほうが価値あることだということを、どうやったらシェアできるかな。いいね、なんて誰にでもいえる。

2012/06/26

glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(2)


山口情報芸術センターYCAMにて開催中の教育普及展「glitchGROUND」。公園型インスタレーション「コロガル公園」の使い方を考える「子どもあそびばミーティング」のプロジェクトのファシリテーターを担当しています。そのレポート2回目。

子どもあそびばミーティング
ー 想像力とD.I.Y、大人と子どもの契約の場

コロガル公園で遊ぶ子どもたちが、自身の遊び場の環境を考えるためのミーティングを開き、コロガル公園内の新たな機能を提案します。ファシリテーター(司会進行)は、地域の児童館にアーティストを招聘し、子どもとアーティストとの出会いの場を生み出すプログラム「アーティスト・イン・児童館」の代表・臼井隆志さんです。
(glitchGROUND展特設サイトより)

子どもたちが公園の新しい使い方を考え、それをYCAMのテクニカルチームが実現していく。夢のようなアイデアも、YCAMのテクノロジーによって実現してしまうかも知れない。みんなの「夢」がつまった公園の実現、というわけだ。

とはいえ、どんな夢も叶うわけではなく、実現できるアイデアにも限りがある。子どもたちの限りなく自由でいい加減な発想を引き出し、それをテクニカルチームのみなさんが実現できるレベルに落としこんでいく、その間を調整するのがぼくの仕事である。



― 環境・ハードウェアを変化させる



スピーカーやマイク、振動子、LED照明などが備え付けられているだけですごいと思うのだが、実はこの公園のポテンシャルはそんなもんではなく、本気を出せばプロジェクションマッピングやレーザータグ、モーションセンサーなども導入できてしまう、とのこと。部屋を暗くしてプロジェクションマッピングによる「遊具」をつくりだしたり、モーションセンサーを装備したボールを使った遊びなども考えられる。

鬼ごっこやかくれんぼなどによって公園のソフトウェアをつくりだすことはこれまでにも経験してきたかも知れないが、公園のハードウェア自体を変化させる、というのは一体どういうことなのか、ぼくもまだわかりきっていないのだけど、ということは、子どもの想像の範囲を超えたことであることもたしか。やったことのない新しい経験がこのミーティングでは待っている。


― 子どもたちからアイデアを引き出す 想像、提出、契約

公園の「環境」自体を変化させる、というやったことのないことを、子どもたちと一緒にすすめるにはどうしたらいいのか。既存の公園やテーマパーク、ゲームセンターなどのアイデアを参照した意見が生まれることは想像に難くない。面白い技術が導入されているからといって、アミューズメント化させてしまうのではなく、あくまでこの公園は、新しいメディアの使い方を編み出す、D.I.Y精神にあふれた場所であってほしい。というか、そうでなければ、この公園のユーザーである子どもたちはつくられた環境を消費するだけになってしまう。つくることによる学びを生起するためには、それじゃいかん。

とかグネグネと考えながら、6月8日(日)の14時に、「子どもあそびばミーティング」の初回がスタートした。以下はその内容の紹介。

  ①イマジネーションとアイデア ― 「暗号」から連想・拡散する


まずはじめにやってもらったのは、連想ゲームのようなもの。コロガル公園にはいくつか
のアーカイヴがあって、その中に「こんな公園があったらいいな」というアイデアシートのアーカイヴがある。「すべり台がほしい」「坂道にロープをつける」「地下に穴がある」など、公園の環境自体を新しくつくりかえる多種多様な妄想が描かれ、記録されている。



今回は、その中から"解読不能"なアイデア(?)が描かれたものを選別し、ミーティングに参加した子たちにそこから具体的なアイデアを連想してもらった。例えば、2〜4歳ぐらいの子が描いたであろう色とりどりの描きなぐりを、「スイッチを踏むと、光のもじゃもじゃが追いかけてくる仕掛け」というように解読する。アイデアのソースを、子どもたちの経験から、アイデアシートに変えることで、よくわからないけど新しいアイデアを引き出すことを狙った。それらのアイデアをスタッフが模造紙に書き込んでいく。


  ②コロガル公園の隠れ機能の紹介


次に、コロガル公園に埋め込まれたそれぞれの「シーン」の説明と、真っ暗にしてプロジェクターで映像を投影できることなど、「こんなことができます」という機能の紹介。途中からあきちゃったし、なにしろ魅惑の坂道だらけなので、子どもたちは静かに話を聞くなんて無理。走らずにはいられない。この機能紹介は最初の緊張してるときにやっても良かったかなー、と反省。

  ③アイデアからプランへ ーまとめ、発表


最終的にグループを3つにわけて、①で出したアイデアをもとにプランをまとめて発表してもらった。子どものプランに対して、YCAMのテクニカルチームにもどうすれば実現できるか、を質問していく。「いや、それは無理だよ?」と子どものプランを拒否する場面もあって、笑えた。最終的には「自分の姿が見えるおばけ屋敷」「ワニが出てくる足湯」「バンジージャンプの映像を投影した飛び降り台」「一箇所からしか読めない文字」など、具体的?で変なアイデアがいっぱい出てきた。子どもたちとのミーティングはここで終了。


  ④実装にむけて ー大人の時間



ここから、子どもたちのアイデアをどうやって実現するか、テクニカルチームとエデュケーターチームのミーティングが始まる。子どもたちが考えたプランを、技術的・時間的に実現できそうな内容に改変していく。


と、こんな感じ。実際に採用されたプランを知らないし、どうなったんだろう。次回に訪れるのが楽しみです。

いろいろ考えたけど、たぶん、「ファシリテーター」がいなくてもこのミーティングでやろうとしていることが実現できるのが一番いいんだと思う。環境が子どもたちから意見というか意志を可視化し、それを誰かがアイデアにまとめ、実際に作業をする大人に提出し、コンセンサスをとって実装していく。環境が、意志、アイデア、提出、契約、実装をアフォードしていけるのであれば、子どもを中心に、同心円状の組織ができあがり、新しい形の自治が見えてくる気がする。

とにかく、次回に訪れるのが楽しみです。

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YCAM教育普及展「glitchGROUND」5月19日〜8月12日
10:00~19:00
入場無料 火曜日休館
山口情報芸術センターYCAM

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子どもあそびばミーティング第2回
7月8日(日)14時〜15時30分




2012/06/24

glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(1)


6月8日〜6月10日にかけて、山口情報芸術センターYCAMへ。

ここで行われている教育普及展「glitchGROUND」のプロジェクトに参加しています。会場内に設置された、音響、照明、映像などの装置が埋め込まれたインスタレーション型の公園「コロガル公園」の使い方を、子どもたちと一緒に考える「子どもあそびばミーティング」の進行をするのがぼくの今回の仕事でした。レポートをまとめて書くのが難しそうなので、感じたことのメモというかなんというか。


YCAM教育普及 
―メディアを使う、知識のアップデート

YCAMの教育普及活動は、YCAMで制作/発表されるさまざまな作品を鑑賞するという経験が、より高い価値のものになるように、作品のテーマに沿った鑑賞方法を創出し、常に新しいミュージアム体験の設計に努めています。また、「表現」「身体」「コミュニケーション」「社会」といったYCAMが重要視する要素と「メディアテクノロジー」の関係性に注目し、メディアリテラシー教育につながるような、オリジナルワークショップの研究開発もおこなっています。開発したワークショップはパッケージ化し、山口市内を中心に国内外の文化施設/教育機関で積極的に実施しています。
(YCAM4月プレスリリースより)


ケータイで写メを撮りあう鬼ごっこのような遊びをつくる「ケータイ・スパイ・大作戦」、検索エンジンの使い方を学ぶ「Search'n Search」、様々な身体の動きのデータベースをつくる「コトバ身体」など、人間の身体と、日常的に使われているケータイやインターネットの関係性、あるいは監視社会やデータベース化された世界をテーマにしたYCAMのワークショップはどれも個性的。YCAM InterLabで開発された技術や、メディアアートやサウンドインスタレーションの展示内容と関連づけながら開発されていくワークショップは、ドキュメント冊子に用意するものやプログラムがまとめられ、他の施設(メディアセンターや学校など)でも実施できるようになっている。
※内容は「glitchGROUND」展のウェブサイト、またはドキュメント冊子「YCAM WORKSHOPS」に詳しい


- メディアと出遇う体験、日常へのフィードバック

ケータイ、データベース、サウンド・・・新しいメディアやテクノロジーは次々に登場し、ぼくたちの生活に流入してくる。入り込んできたものをいかに使いこなすか。ワークショップでの体験が日常にフィードバックされ、メディアを使うこと・知識を備えることが楽しい、もっと知りたい!という感覚を強めていくように設計されている。「ケータイ・スパイ・大作戦」での体験などは、日常への影響も色濃いはずだ。

そして驚くべきは、YCAMのワークショップはその対象年齢が「小学校4年生〜一般」と幅広いこと。エデュケーターの菅沼さんいわく、「新しいメディアの使い方を学ぶのに、おいも若いもない。共に使い方を学ぶ場が大事」とのこと。確かに、iPHONEなんかは子どものほうが操作に慣れるのが早く、大人が逆に教わっていたりする。新しいメディアにおいては、教える/教えられるの関係は逆転している場面も多くなってきている。


- 知識のアップデート、プラットフォーム

さらに興味深いのは、先にも述べたように、YCAMだけの特別なものではなく、他の施設でも実施できるような仕組みになっていることだ。パッケージ化され、どこでも汎用できる「オープン・ソース」になっている。ワークショップ自体がある種の「ルール」や「プロセス」をつくっていくものであるため、ワークショップの内容自体も、実践が重ねられ、フィードバックを得て、アップデートされる仕組みになっている。単なるコンテンツではなく、ある種の集合知をつくっていくための「プラットフォーム」の設計にもなっている。

こうしたYCAMのエデュケーションチームが創りだしてきた、新しいメディアとの遭遇の「体験」、あるいはメディアの使い方をアップデートしていく「プラットフォーム」が集約されたものが「コロガル公園」である、と思った。そしてそれはワークショップのような時間が限定されたイベントではなく、恒常的に設置された「環境」として提出されている。



「コロガル公園」 
ーメディアと出遇う、環境のアップデート

いま、私たちを取り巻く自然や社会といった「環境」がゆっくりと、しかし大きく変わろうとしています。そうした変化を見極めながら、「教育」も変化していかなければなりません。この展覧会のタイトル「glitchGROUND」は、私たちを支えている大地(GROUND)に、亀裂や断崖など(glitch)が現れている状態を示しています。このような不規則性や不安定性を、忌避し、排除するのではなく、所与のものとして受け容れること。YCAMの教育普及活動ではこうしたスタンスが、私たちを取り巻く環境で生きていくための想像力や身体感覚を生み出す糸口になると考えています。この展覧会では、こうしたスタンスへと誘う創発的な〈環境〉として、大規模なインスタレーションを制作/発表します。
(YCAM4月プレスリリースより)


天井が高い17m四方の部屋の中に、複数の「波」が入り組んで配置され、子どもたちは坂道をすべりおちたり、走り回ったりしている。天井からは巨大な球体の照明が吊り下がる。LEDとスポットライトによって空間の色や配置が変わり、埋め込まれたスピーカーからビープ音や音声が聞こえ、床は埋め込まれた振動子によってブルブルと震える。トンネルの中に空いた小さな穴をのぞくと、公園全体を俯瞰した映像に出遇う。

音響(録音/再生)、照明、カメラ、プロジェクター、Wi-Fiなど、あらゆる道具が埋め込まれたこの公園。来場者が連日おおく、入場規制もかかるほど話題を呼んでおり、子どもたちの走り回る足音や声で賑わっている。室内にあるため、天候などの影響は受けないが、プログラミングされた様々な「シーン」(振動子が震える、マイクで会話できる、ころがるようなビープ音が鳴る)が切り替わることで空間は常に変化する。

- 編み出される使い方 

ぼくが公園を見ていたときに、坂道に開けられた「穴」が実はマイクとスピーカーであり、その関係に気がついた小学生がいた。入力を試し、出力を確認する。ぼくもマイクのところに行って声をだし「聞こえた?」と確認してみると、うん、と頷く。「あー、あー」「ばーか、ばーか」と単純な声が録音され、別の場所で再生される。そうすると、その様子を見た別の子がその行為を真似し始める。こうして、ある発見が伝播し、空間の使い方が変わっていく。


「遊具」の新しい使い方を発明したり、誰かの発明を真似したりするのは、普通の公園でもよくあるし、多くの人が経験したことがあるだろう。コロガル公園では、それがアナログな遊具だけでなく、音声や映像をも含む。それは「ケータイ」に内蔵された様々な機能を、分解し、「環境」として組み直しているように感じた。ワークショップのように決められたプロセスに「従う」のではなく、遊びながら、ころがりながら、出逢ったメディアの使い方を「編み出す」のがこの空間の特徴である。

様々な道具が埋め込まれた環境で遊ぶことで、子どもたちはメディアと遭遇する。その「発見」と「真似」の連鎖によって遊び方/知識は伝播し、アップデートされていく。知識のアップデートだけでなく、環境それ自体のアップデートをも可能にするのが「子どもあそびばミーティング」ということになる。

ミーティングの内容については、また次回。


- おまけ

山口県は魚が超うまくて、タイの煮付けは美味しすぎて叫びました。牡蠣とか、烏賊とか、鱚と梅肉の唐揚げとか。あとは揚げだしのナスも美味しかったし、鱧の湯引きなんてもうふっかふか。また魚食べるの楽しみだなぁ・・・・



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YCAM教育普及展「glitchGROUND」5月19日〜8月12日
10:00~19:00
入場無料 火曜日休館
山口情報芸術センターYCAM

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子どもあそびばミーティング第2回
7月8日(日)14時〜15時30分

2012/06/18

福祉、普通、抜け道

「福祉」というものは、集合知的にあぶりだされた「普通」という基準から溢れ出ちゃった人たちを「保護」「管理」することを主な役割としている。「普通」から見捨てられた境遇の人々を、受け入れる優しさのシステムであり、収容し管理し表に出ないようにする冷酷なシステムでもある。

児童福祉においても「普通」に迎合していくことが、あまりにもしんどい作業である場合がある。親との信頼関係が築けない、家に帰れない。学校にいくと自分がなぜここにいるのか、所在のない気持ちになるしストレスしかないから行きたくなくなる。そうして行き場を失くしてしまった子どもたちがあまりにたくさんいて、「児童相談所」などは彼らのケアを担う。それは、彼らを守るシステムであり、同時に覆い隠すシステムでもある。実は「福祉」には、見捨てられた境遇の人々を「保護」「管理」することで「普通」を強化する作用があるように思う。彼らを見捨てた「普通」という価値基準を疑い、解体し、新しい価値基準をつくる作用を持つべきだと思うのだけど。

固定化した「普通」を解体し、フレキシブルで常に異物を受容/変容する社会を作り出すためには「ノイズ」が必要で、小さなノイズは福祉のシステムにかき消されてしまうから、ノイズは小さなものでも、そのノイズの発信源は強く孤独なものでなければならない。

強い発信源であるために必要なものは、恥ずかしげもなく言えば勇気と希望だと思う。学校にいく、とか、家にかえる、とか、そういう「普通」に(一部)迎合するというしんどい作業を乗り越えるためには、それを乗り越えよう、という勇気と、それを乗り越えれば何かが待ってる、という希望が要る。

では、どうすればその勇気と希望を持つことができるか。それは、普通とは別の「楽しさ」の基準を持つこと。その基準を持つためには、普通から逸脱した快楽のありように出会うこと。「わからなさ」によって得られる安心があると思うのだ。「普通じゃねーよw」「狂ってるw」と思うものとしてアートがぼくは一役買っていると思うのだ。

犬も歩けばカメラに撮られる監視社会は、名前や顔や行為や言葉を収集し、管理する。この「包囲のシステム」と、そこから逃れるための「抜け道のシステム」があってよくて、それは「普通」という価値基準に迎合できなくなってきた人たちが、別の価値基準に遭遇する仕掛けのことである。ぽっかり空いた穴の中に入るように。

2012/06/05

記憶、着床、生息

山本高之さんと、南田中児童館へ。去年11月につくった《きみのみらいをおしえます》の映像をみんなに見せた。 

彼女たちは自分たちがどんな「占い」をつくったのか憶えていたし、他の人の占いも紹介するくらいだった。半年の時を経て、記憶がしっかりとした質感をもって、彼女たちのなかに息づいているのだということを、強く感じた。

彼女たちは、自分の「意志」で、このよくわからないプロジェクトに参加し、作品をつくりあげた。その意志は山本さんが引き出したものであり、その意志に基づいて山本さんとぼくらと「契約」をした。経験を自分の物にする、ということを前提にプロジェクトに挑んだ、ということだ。

「占いをつくる」という意志は、「占いをつくる」という一連の出来事を、自分の中で呼吸し続ける記憶に変える。意志によって出来事は着床し、生息する記憶になる。

しかし、この意志というのもすこぶる曖昧なものだと思ってしまう。やってんのかやらされてんのか、本当のところはどうなんだろう?という疑問がずっとある。

吉野弘の詩「I was born」は、生まれるということが受動態であって、人は自らの意志で生まれでたのではなく、誰かに生まれたのであって、そもそも受動的な生を生きるということ。その前提に経って、なお「意志」とは何か。

バンコク滞在記(3)

帰国からかれこれ半月が経ってしまったわけですが、はやいはやい。もう今月は7月だと思うことにした。

滞在中の記憶もぼんやりしてきちゃったのだけど、バンコクについたらいろんな人が恋をしていて、聞けば、ねずみやゴキブリも路上でメイクラブしてたみたい。暑くてあんまりなにも考えたくなくなってくると、ぼーっとしてきて、そんななかで生活したり制作したりしていくうちに、確かに、そういう冷たくてしっとり気持ちのいいミストみたいな感覚が欲しくなってくる。男性からも女性からも、「Do you have boyfriend or girlfriend ?」と聞かれる。ジェンダーフリーというかボーダレスなのが普通で、ゲイとかレズとかバイとかほんとうになんでもいいというか、そういう人達が分類されていないところ。


人は、揺らいでいるものや分類不可能なものに魅力を感じるというけれど、そういうぼんやりして境界がなくなって、あらゆるものと溶け合っていくような、そういう快楽に身をゆだねるようなところがある。バンコクの空気感。そういう中でポップで、それこそ極楽浄土のような絢爛だけど味わいのある仏教美術のように、カルチャーが育まれていくんだなぁとのんきに感じていた。


もちろんぼくが計り知れないほどのダークサイドもあるわけで、小学生ぐらいの子が売春や麻薬のディーラーをやっているような現実もあるし、階級や暮らしの違いもあるし、当然いろんな問題がある。もはや問題が溢れかえりすぎていて、問題視されない環境になっているのかもしれない。



しかしバスを使ったり屋台で安く済ませたりすれば生活費がほとんどかからないということがもう本当に魅力的だった。危ない目にあってないから、かもしれないけど、とにかくまた行きたいと思うし、きっと行くだろう。



バンコクでは、普段東京ではやらないようなことも思い切ってやってきたし、バンコクで友達になった人はむしろそれする奴って思ってるかもしれないし、そういうキャラチェンジみたいなのもあっていいのかもしれないと思いながら、未踏の領域に踏み出す快楽をつかまえにまた旅をする時間をどこかでつくらなくては。たった8日、されど8日。

2012/05/17

バンコク旅行記(2)

バンコクの路上はいろんな音にあふれている。車の音、食事する人々の会話、部屋から漏れ聞こえる音楽。公共の場とは静かで慎重であるべき、というような考え方はなく、溢れだすプライベートが混淆のサウンドスケープをつくりだしている。

初日のSuper Normalでのパーティーでも、隣のマンションではクラシックをがんがんかけてて、こっちの庭ではギターとカフォーンをかき鳴らしていた。暑い国だから風通しを良くすることが当たり前で、外のものが中に入ってくることを受け入れる気質があるのかもしれない。


聞けば、自動車の運転のルールもめちゃくちゃで、2車線なのに4列になって車が走ってたり、飲酒運転しても罰金だけで済んだり。屋台の店舗だって椅子だって道路にはみ出している。

食事のタイミングは決まっていないと前回書いたけれど、一人暮らしの部屋にキッチンがないのはデフォルトらしい。自炊の文化はほとんどないという。屋台のおばちゃんはそっけないんだけど、それは人々の食事をつくっているカァちゃん的な役回りであるからかもしれない。路上にキッチンがあり、食卓があるのだ。


2日目に篠田さんの家探しに同行させてもらった。こっちではネットや不動産屋で物件を探す文化はほとんどなく、空き物件の前にぶらさがっている看板に電話をして家を見せてもらうそうだ。

不動産屋や路上の規制のように、一括して管理するシステムがほとんどない。人々の生活実践のうねりを上げるエネルギーは、誰か権力が規制したところで止まらない。自己増殖する都市の迫力を、わずか1週間で強烈に体験した。



バンコク旅行記(1)

5月8日から15日までの一週間、タイ・バンコクに行ってきた。



目的は、見に行けなかった快快《SHIBAHAMA》の残り香を匂いに行くことと、バンコクに移住した篠田千明さんがどんなことをしようとしているのかを見に行くこと。そんでもって、がばっと遊んでくること。《SHIBAHAMA》の経験は、それは驚くほどバンコクに食い込み、バンコクの人たちをエンゲージしてた。見られなくて本当に残念だったし、詳細も知らないのだけれど、その残り香をかぐことができた。



人口はだいたい800万人。気温は年間通じて30度以上。すごく暑くてぼくもばてた。路上には屋台がところせましと並び、豪勢なタイ料理がずらりとならぶ。パッタイ、カオソーイ、ガパオ、カオトン、そして色とりどりのフルーツが40バーツ(100円ぐらい)で買うことができる。自炊の文化はほとんどなくて、食事の時間(シャワーの時間も!)決まっていないそうだ。お腹が空いたら食べて、シャワーは浴びれるときに浴びる。



滞在させてもらっていたのはSuper Normalというオフィス。建築からグラフィックまでクリエイティブまでを引き受けるデザインチーム。この2階が快快のレジデンスになっていて、そこにお世話になった。快快は集団制作というスタイルをとっているけど、集団生活も慣れている感じで、すっごく居心地がよかった。


8日に到着すると、そこはパーティー会場。快快のメンバーや《SHIBAHAMA》のスタッフをしていたタイの人たち集い、氷水を入れた桶にシンハービールをたっぷり冷やしている。蓮沼執太さんやイトケンさんも来ていて、慣れない海外旅行の不安を終えて、ほっと一安心。チョリソーやスナックを食べながら話をしていると、「表彰式」がはじまった。プラスチックダンボールにデコレーションして寄せ書きした「表彰状」を、活躍した人たちに快快から手渡していく。

明け方までパーティーは続く。篠田さんは酔いつぶれて、こーじさんは犬と話をしていて、タイ人たちはギターとカフォーンを取り出してタイポップスを歌って踊って、これでもかってぐらいビールを飲み続ける。



つたない英語で話してみて、バンコクの人に《SHIBAHAMA》どうだったかを聞いていた。「SHIBAHAMA makes people "engage"、あんなに人を巻き込む演劇は見たことがない。前半はどうなることかと思ったけど、のめり込んだ」みたいなことを言っていた。"Join"でも"involve"でもなく"engage"という単語がぴったりだと思ったのは、ぼくも大阪でSHIBAHAMAを見た時に、背後から囲い込まれるような強烈な力を感じたからだ。会場に入った瞬間に、客席とステージがひっくりかえることはもう契約されていて、飲み込まれるような空間の力がそこにあった。バンコクでどんな"engage"が起こってたのか、体験できなかったけど、この日のパーティーにもその匂いは強くのこっていた。

2階のソファーで目が覚めた時はすっかり朝。バンコクの初日はこうして明けていきました。



2012/04/30

見捨てられた、遊び、D.I.Y

今月からいよいよ活動がはじまった「クリエイティブ・リユース」に関係するプロジェクトに参加していて、そのことを考えている。

廃棄物を新しく生み変える「クリエイティブ・リユース」と、いわゆる"マイノリティ"の人々を社会の構成員として包み込む「ソーシャル・インクルージョン」は、似た構造を持っている。"見捨てられた境遇"に置かれた人や物を、"社会"に適合するようにデザインしなおしたり、参加のかたちをつくったりする。

よく批判として言われるのは、"社会"は自明のものとしてあるのか?自己批判がないんじゃないか?ということ。確かにそのとおりで、そもそもその"社会"自体がおかしいんじゃないか?システムの作り直しをしないと、と頑張っているわけだ。

ぼくがはっきりと嫌いといえるものに「ファッション」があって、これは衣服のこともしめしつつ、"流行"という言い方もできる。「クリエイティブ・リユース」も「ソーシャル・インクルージョン」も、なんだか"オシャレ"みたいになっちゃって、ある固定的なイメージができあがっていて、それを謳うものは自らそのイメージに縛られている、ような気がしている。それはある「言葉」が生まれたときからの宿命で、それに備わっていくイメージをどうやって乗り越えていくかは、実践次第だと思うのだけど。

そこで重要なのは、「遊び」あるいは「D.I.Y」という文化の有り様なんじゃないか。「クリエイティブ・リユース」も「ソーシャル・インクルージョン」も、課題は"見捨てられた"物も人も、当たり前にそばにいて、そういう人や物と関わらざるを得ない状況をいかにして組み立てるか、ということ。どうしていいかわからない状況を乗り越える方法として「遊び」あるいは「D.I.Y」の作法があるんじゃないかなー、と思う。

ではその作法とは何かー、という話はまた今度。


2012/04/16

法人、血肉、働き方

気づいたら10日もブログをさぼっていた。新年度に入って働き方が変わり、まだなれない感じである。ゴールデンウィークに香川でワークショップをし、その直後にバンコクに遊びにいくことが決まっていて、4月中にやらなきゃいけないことがたんまりある。

今年度から、高野萌さんに専属スタッフになってもらった。彼女は去年のことばのかたち工房Proからの付き合いで、その後のアー児のプロジェクトももろもろサポートしてくれている。ぼくの働き方(?)はたぶんむちゃくちゃで整理されていないので、多分戸惑っているとおもうのだけど、スイッチが入ったら猛然とすすむタイプなので、その時を待つ。

それはさて置き、自分の生活環境を整えていく方向で、活動をしていかにゃなぁと思う。NPO法人をつくったら、税金関係や保険関係もうまくいきゃそっちで全部できるわけでわざわざ個人でやらなくて良くなる。「法人」とはやはり人造人間なので、逐一メンテナンスしてやらないとすぐに血肉が腐りそうな感じがするのだ。

2012/04/05

音楽、バラバラ、グルーヴ

3月31日に、UNITに「Brandt Brauer Frick」というユニットのライブに行った。ミニマル・ミュージックの系譜なんだけど、ジャズっぽい音も、聴いたことないパーカッションのリズムも、入ってくる音がかっこよくその重なりだけでグルーヴをつくりだすからホントすごい。そしてライブはめちゃくちゃ楽しい。

《全児童自動館》の制作・上映の過程と、Terry Rileyの「In-C」という曲の構造が本当によく似ている、と感じている。1つの短調な連音から始まり、別の連音が合わさっていく。途中から現われたり、消えたり、介入してきたりして、グルーヴが現われ、方々に広がっていく。



「蓮沼執太フィル」が3月20日の「MUSIC TODAY」で演奏していたのを聞いて知った曲なんだけど、聞いていて、この感覚知ってるぞ、と思っていた。それは児童館に流れる、中高生の複数の「気分」が、うねりをあげて当日に向かっていたあの過程だなぁと。

ひとつのコミュニティの作り方として、リーダーシップを誰かが発揮して一つの方向に導くのではなく、バラバラな意志が収束したり、拡散したりしながら、それぞれが調律していく方法がある気がしている。その豊かな「知性」をどうやって開こうかと思案している。

中村児童館の高校生が今日、「ちっちゃい子も、小学生も、中学生も高校生もいて、大人もいて、年齢も学校もバラバラの人が集まって一つの空間が成り立っててスゴイ」と言っていた。ぼくもこれスゴイと思う。今年のプロジェクトは、近代が生み出したいくつもの「分断」を乗り越えて、大きなグルーヴをつくっていく。それは児童館という壁を超えて広がるうねりであってほしいと願う。その方法論として、「音楽」はとても近いと思っているのです。






2012/04/03

想像していなかったこと、質感を持った空気

ここ一週間で、想像していなかったことがたくさん起こった。 それは、思わぬうねりだったり、通りすがりの決意だったりして、 空気が急に重さを持ったみたいに、質感を持って体の中に入ってきた。 想像通りにことが進むことに慣れてしまうと、 想定外のことが面倒になる。 慣れない不安や、知らない恐怖を抜ける悦びを知ると、 想像していなかったことを悦べる体になる。

2012/03/27

円環、フィールドワーク

フィールドワーク、とか、客観、とか、そういう言葉と共に大学生活を過ごしてきたけど、2011年度のプロジェクトは、それらの言葉を疑うところからはじまったように思う。

いろんな人々の活動やコミュニティのことを「円環」と捉えるとすると、ある円環を一歩外側から見る、みたいなことって実はあり得なくて、客観的と思っていたポジションも実はその円環運動の中に組み込まれている、と考えることにしている。

フィールドワーカーは現場に影響を与える。現場を変える。その変化の当事者であるべきだー、ということは前もこのブログに書いた。

客観的、ということは全くあり得なくて、複数の主観があるのみ。フィールドワーカーも、主観のひとつ。それまでその場になかった新しい主観であり、それまでその場にあった役割と、新しい役割の間のステップワークでしか、フィールドワーク的な眼差し、記述はありえない。

円環は常にふくらんだりしぼんだりしている。外側も内側も、実は無いんじゃないか説。

2012/03/25

振る舞い、変革、I LOVE YOU

ずっと買ったまま観れていなかった、快快『My name is I LOVE YOU』のブダペスト版を観た。

言葉とお金と身体と、人と人とが関わるときに、間に入ってくるもののせいでズレて、ズレて、そして「I LOVE YOU」の名が言えなくなっていく。



なんだろう、演劇なんだけど、現実の再構築に見えてくる。ぼーっと見てると、ぼくらが生活している社会の仕組みそのもののように、役者はシンプルに振舞っているように見える。

じゃんけん大会をやったり女体盛りを食べさせたりして観客をステージにあげていく『SHIBAHAMA』や、高校生の甘酸っぱい経験自体を"売り物"にする『いわきの高校生インザ蚤の市』みたいに、観客の振る舞い自体を変えてしまう作品もある。こういうと月並みだけど、快快は文化人類学の言うところの"振る舞い"としての演劇に、かなりストイックに向き合ってるんだなぁーと思う。しかもポップで、ノレる。

人が集まる場所にドラマがあるし、つたのように絡まる時間があるし、その前提には、関係を操作する空間がある。絡まる時間はグルーヴを生むし、人々の集まりは人生を小さくでもたしかに変えていく。そういう小さな変革を生み出す空間を編むのが演劇なら、ぼくもノリたい。

しかし、そこでも「I LOVE YOU」の名は言えなくなっていくんだろうな。本当のことは、ズレてズレて、言えなくなっていくんだろうな、と思うと強烈に切ないのだけど、でもそれを受け入れながら、4月からの一年を頑張っていこう!と思ったわけです。


2012/03/20

地下通路、カンパニー

今日は快快の篠田さん、あにーさん、文美さんとミーティングだったんだけど、いやーノッたノッた。これは拡散した。アイデアがいろんなところから出てきて、泣くかと思った。

《全児童自動館》のアフタートークで司会をしてくれた篠田さん。あのとき、中高生から「次」を期待する声が生まれたのは大きかった。それを受けて、今日の広がり。嬉しい、嬉しい。

「アーティスト・イン・児童館」はアートスケープにも書いたけど、小説『夏の庭』的な、なんていうかな、異質なものとの邂逅を期待する世界観だった。今日のミーティングで、映画『アンダーグラウンド』みたいな、地下通路を堀り、張り巡らすような、世界の別のレイヤーをつくるイメージに変わった気がする。思いがけず「カンパニー」という言葉が僕の中でシンクロした。

これは一大プロジェクトだ。寝て、起きたら企画を整理しよう。

2012/03/19

離合集散、ノリ、知性

全児童自動館、本番が終わった。そのレポートを書けと言われたら恐ろしく時間が掛かりそうなので、また今度。

中高生たちの繊細で過剰な感情に触れ、もう回線ショートしっぱなし。運営面でも3ヶ月前ぐらいから感じていた「思考停止しそうだな…」という不安は見事に的中。一週間前のぼくは本当につかいものにならないディレクターだったなと反省しています。何がそうさせたのか、単純に想像力の欠如と確認の怠り。ダメっぷり。

一方で、今回のプロジェクトを通して見えた光明は、合意形成とコミュニティのあり方が、全然未知のものになっていたことだった。登録されたり、管理されたりして出来上がるコミュニティとは違い、個人の意志と友人同士の約束によってできている離合集散型のコミュニティ。意思の確認や意見交換ではない、「空気」の読み合いと「ノリ」による合意形成。それはもはや新しい知性。バカにできない。


2012/03/12

旅路の開き方

制作の渦中にいて、今考えてることを上手く言葉に出来ないけれど、とにかく書いておくためにこのブログをやってるわけで。



今日は、海を目指して電車にのった。普段会ってる場所から離れたところへの「旅路」を開いた。この「旅路」はもう一つ、参考となる将来像を示した、ということでもある。将来こうなりたい、という像ではなく、こういう可能性もあるんだ、という体験として。

プロジェクトは、「旅路」を開くためのメディウムになることができる。内側から外側へと関係をつくりかえていく。外側にはただやみくもに広がる「楽しいこと」があるわけではなく、プロジェクトという「手段」がある。その手段をどんな目的に使うかはその人次第だが、その手段によって想像力の範囲の射程の外に出ていくことができる。そうして「旅路」は開けていく。


3月11日14時46分そのときは、ビックカメラのテレビの前で迎えた。黙祷が場所をつつんだ。多くの人々がその時間を同期し、多くの死と喪失と結びついた。鳥肌がたった。その内側の強い連結を感じたけど、外側に出ていく手段は持ち得ないのか。旅路は開けないのか。

2012/03/09

偶然、接触、応答

ナデガタのプロジェクトの制作が佳境に入っています。そんなこんなでアートスケープでブログを書いたり、制作に立ち会ったりする日々なわけですが、よくわからない大人バンザイだなと。

中村児童館の中高生たちとはほんとに個人として仲良くなってきてるし、すごく好感を持ってるし、みんな面白いと思ってる。でも世代も違えば環境も結構違うわけで、共有できるものがそんなに多いわけでもない。だからまとってる空気も違うし、それはお互いにわかってる。

アートスケープにも書いたけど、今回のプロジェクトに関わったところで、メジャーデビューできるわけでも、受験や就活で有利になったりするわけじゃない。誰かにほめられるか?と言ったらそうでもない。じゃあ何のためにやるかっていったら、自分の感覚を信じて、自分で考えてもらうために、異物になることでしかない。その異物性とはすなわち作品が面白いということでもある。

今プロジェクトに関わっている子たちはここで偶然、この異物に接触してしまい、自分もその一部になってしまうわけだけど、それ自体は全然悪いことじゃなくて、人生は稽古なしのいきなりの本番なのだから、その異物との接触に応答し、乗りこなしてほしいなと思う。すべての偶然の出会いを断つのではなく、応答し、使いこなしていけるリテラシーのようなものとは一体何かーとか考えると、それは柔らかい身体の使い方でしかないような気がしてる。


2012/02/26

時間をつぶす。時間をつくる。

児童館は時間をつぶすための場になってほしくないなぁと思う。
アトラクションは、時間をつぶすための時間をわざわざつくっている。児童館がそうなってほしくないなぁと思う。

時間をつくる、というのは2つの意味があって、1つは予定をあける、という意味。
もう1つは出来事や状況をつくる、という意味。「時間をそだてる」とも言えるかもしれない。

前者は、時間がスケジュール帳のようにグリッドにわかれていて、その1マスを何かの目的のために空けておく、という考え方。これは、その1マスが塗りつぶされることを期待していて、その時間を塗りつぶす、片付ける、という思考につながっていく。ひとつひとつ消えていくタスク処理の快楽を味わうためにこのグリッドの時間の考え方は有効。

後者は、時間を蔦のように伸ばしていくイメージ。ある出来事が生まれ、つながり、派生していく。失敗すればその時間は枯れ、伸びない。出来事から別の出来事へと連鎖をつくり、未来も過去も縦横無尽に移動する思考を生む。こんなふうに方々に伸びていく時間のつくり方・そだて方を知っているのが演出家であったり、美術家であったりする。音楽家もそう。それぞれ別の方法だけど、芸術家は「つぶす」とは別の感覚をもって、他者との間にある時間を育て上げている。

なんか今日話していて、児童館を開いていく、今のこの《全児童自動館》は、児童館に観客をつけ、育てていく活動にもなっていくんじゃないかなと思った。ナデガタの方法は、普通の素人の仕事を面白く見立てる。今回は中高生がその見立てられる側、になるわけだけど、その見立ての技術をしっかり見ておいてほしい。そして大人のお客さんがたくさん来る(呼ぶ!)から、大人がどういうところを楽しんでいるのかをよーくチェックしておいてほしい。そして、これから大人を楽しませる/驚かせる/裏切るものをつくっていく方法を、実践してほしいと願う。第二回全児童自動館があるとしたらほんとみんながつくったらいいよ。ぼくも応援するし。

壁に守られた、時間をつぶすための場所は少なくなっていく。そこでの時間をつくり、そだてていく主体はだぁれ?という話になってくる。




2012/02/13

子どもと政治、経済、インターネット(3)

この間のWi-Fiのはなしの続き。

児童館職員をしている友人に話してみたら「Wi-Fiを開放すると、たぶん貪るようにゲームをするだけで、他の遊びができなくなってしまう」という意見をもらった。もちろん彼女もインターネットに否定的なわけではなく何か良い使い方があれば、ということを思っているのだけど、妙案がない、というのが実際のところらしい。

子どもたちの行動習性は完璧にマーケティングされていて子ども(とその後ろにいる親、大人)は巨大なマーケットになっている。カードゲーム、ポータブルゲーム機が容赦なく畳み掛けることで、子どもは「消費する身体」として教育されていく。ゲームにハッキングされた彼らの生活と、どう付き合うかが児童館職員の課題にもなっている、ということ。

確かに無条件にWi-Fiを開放しただけでは、ゲームの巣窟(それはもうこんな感じ)になるのは目に見えているだろう。ぼくの中で「うごメモ」にはとても好感をもったけど、「モンスターハンター」はどうも好かない。実際にやってみたけど、つかれるだけでハマらなかった。一体この差は何なのだろう。たぶん、クリエイティブ・コモンズとか「n次創作」と言った考え方、運動を支持しているからじゃないだろうか。

この話をするとまた長くなりそうなので、続く。

2012/02/09

子どもと政治、経済、インターネット(2)

昨日は《全児童自動館》のネタ出し会議をした。あっちゃこっちゃに話は飛ぶし、途中でいなくなったり、いきなり話に入ってきたり、しらけたりわめいたり…いやいや、楽しいんですけどね。まとまりも段取りも何もないなと。

そんな混沌の会議の前に、インターネット大好き中学生と話していたとき、ふと「児童館にwi-fiあったらどお」と聞いてみた。「最高っす!」「スマホ(使うのが)楽ー」「ケータイ持ってなくてもiPod touch使えるよねー」と口々にいい反応。それが実現可能か?というとかなりシビアな問題だ(前回の「リスクA」に関わる)と思うけど、彼らにとってのwi-fiのオアシス感はすごい。

話していた子が「うごくメモ帳」というDSのフリーソフトでアニメーションをつくっているのを見せてくれた。初音ミクの曲のPVを二次創作したものだった。わざわざワークショップなんてしなくても、タッチペンでアニメ作れるし、「うごメモ」のサイト内で作品を発表してる。インターネットに向けて発信ははじまってるし、つくる、描くという技術をここで学んでいる。

例えば児童館にWi-Fiがあったとして、ここで作ったアニメや映像をアップロードできるサイトを用意しておけば、ネット上でD.I.Yの映像祭を開催できる。2010年に山口情報芸術センターで行われた「Creating Our Own Media」は子ども対象ではないけど、その先行する事例で、参加者を「表現者」にする仕組みとして、シンプルかつユニーク。

空間がメディウム化して外とのつながりを持ったとき、児童館は明らかに保護される場所から実践する場所に変わる。大人も保護の対象としてでなく、小さな主体として彼らを眼差しうる。「んー、じゃあ学芸会は表現の実践じゃないの?」と今思ったけど、学芸会は見せる対象が先生と親、というふうに了解されてる。その対象が不特定多数に想定される、あるいは全く相手が想定されない場合、表現のベクトルが違うから子どもは「子ども」を演じなくなるんじゃないかな。

そんなことはどうでもよくて、実際に子どもが撮った映像は相当面白いはずだ。映像祭「coom」、児童館でも開催してみたい。


2012/02/05

子どもと政治、経済、インターネット(1)

今日は中村児童館でフライヤーの写真撮影。「顔は映らないから!」という条件で30人超の中高生に協力してもらったけど、

最近中高生とmixiでやりとりをすることが多くなった。発見されて、マイミクになって、twitterと同期してたつぶやきにコメントが来るようになって、「明日やるよー」とか呼びかけると反応してくれるし、「中児わず!きょうもたのしかったー」とかつぶやいてくれてる。

単純に、みんな徐々にこの企画のこと楽しみ始めてくれてるなーと嬉しくなっていたところだったのだけど、ふとこれは、面白い/重大な問題をはらんでいるんじゃないか?と考えた。それは一体何か。

mixiは一応クローズドなSNSだし、15才未満はできないように規制されているけど、それでも個人は特定可能だ。彼らはほとんど無自覚なまま、いろんな人と共有できる喜びに従うまま、個人の名のもとに「小さな主体」として行動している。これは『リトル・ピープルの時代』で宇野常寛さんが言っていることでもあるけれど、SNSは誰もが「小さな父(政治的・経済的意思決定者)」になってしまうこの時代を象徴するシステムだ。

子どもとインターネットの問題を考えるとき、子どもがインターネットに関わるリスク(リスクAとする)を挙げることは容易にできる。個人が特定されることで犯罪に巻き込まれる可能性が増加する、個人の肖像権を侵害される二次使用がなされる、など。しかし、子どもがインターネットに関わらないリスク(リスクBとする)を挙げることは容易ではない。メディアリテラシーが育たない、新しいコミュニケーションの仕組みに身体がなじまない、など、より複雑な問題になってくる。

ぼくは子どもがツイッターをやることなどは賛成だし、どんどんやれーという考え方なのだが、それによって「小さな父」にならざるを得ない人々は、公私の区別がなくなり、複数の居場所が均質化していくようになると、アイデンティティが硬直し、すごく生きづらくなるんじゃないか、と思うわけです。息苦しいというか。その予防策として、ナデガタを児童館に招待して、今はよくわからなかったとしても別のグルーヴ感を憶えさせておくのはよいことだと思っているのですが、予防するも何も彼や彼女たちは「リトル・ピープルの時代」におけるグルーヴの捕まえ方を自ら編み出していくのでしょうけれど。

あれ?なんか書きたかったことと違ってきたな。いずれにせよ、公私混同の状況の中に、「子どもとアーティストが出会う」という出来事も飛び込んでいく事になるだろうと思っています。

続く。


2012/02/02

児童館、あやふや、可能性

中村児童館でチラシのサンプルを作ったのち、館長とあんどーなつと飲みに行った。館長、ごちそうさまでした。



今月7日にある研修会の打ち合わせをしながら、現状のことを色々教えてもらった。児童館は目的があやふやな場所で、なかなかその活動価値をPRしにくい、という課題の話をしていたけど、たしかになぁーと思う。民営化や、ボランティアや中高生との関わりなど、変化の時期だねーという話をした。ぼくはそのあやふやさに可能性を感じてるんだけど、たしかに言葉にしづらい。

アー児は見方によっては中途半端で、アーティストにとっては、アート界での評価にはあんまり繋がらないかも知れないし、児童館の人には理解してもらえないかも知れないし、どっちらにも得にならないかもしれない、という意味では、すごくリスクが高い。エッヂの効いたプロジェクトをやりすぎると破綻するかもしれない。

やり方を変えていく必要を感じている。確かに、変化の時期だ。

2012/01/25

2年、皮切り、弔い

昨日、今日と、アサヒ・アートスクエアでミーティング。2012年10月に、Form on Wordsの大きなショーを開催します。2008年に東大泉児童館ではじまったこの企画が、5年後にこんなふうになるとはまさか想像せず。

AASの運営委員のみなさんも、Grow Up に選ばれている蓮沼執太さんも、それぞれ個人の名の下にキャリアを積んできた人たち。力を持った個人が、役割を分担して出来事を創り上げていく感じ、ドキドキするし、すごく緊張しています。

明日はNadegata Instant Partyの制作説明会で、すごく楽しみ。児童館の中高生と「映画/お祭り」をつくる、というわかるようでわからないこのプロジェクト、その皮切りは明日ですよ。

いい企画に育てるためには、2年、3年は軽くかかるなぁというのが最近の実感です。あと最近思うのは、アー児の企画でつくられたものや映像が収まる場所がないなーということ。練馬区には現代美術・演劇・映画・音楽に造詣の深い施設が少ないので、廃校になった小学校とかそういうふうになったらいいのに、っていうかつくりたいなーぐらいに思っています。終わった時間、使い終わった作品を弔う場所がほしいのです。ネガティブな意味じゃなくて、そうすることで新しい時間が拡散していくと思うのです。山口に旅行にいって、金子みすゞ記念館をみてうっかり思ったことでした。


2012/01/14

交わりの現場をつくる

今日はアーティスト・イン・児童館オープン・ミーティング2011の第3会でした。新設するNPOのコンセプトについて、参加者の皆さんから意見をもらいました。


子どもの放課後と、アーティストの探求をつなぐこと。ひいては、アート業界と地域教育業界の間にいきいきした回路を開くことが、活動のミッションになっていくでしょう。教育のためにアートを利用するのでもなく、アートのために子どもを材料にするでもない。その両方を引き受けながら、あたらしい作品/アクションの実践をつくっていく。

◯◯と××をつなぐ、とか、出会わせる、と唱う活動って具体的にどんなかな?って想像したら、シンポジウムとか書籍とかウェブでの何かが多い気がします。

コンセプト上で交わらせるのではなく、2つの異質なものを現場で交わらせていく活動。その現場で生まれたもの、そこから引き起こされた変化を紡いでいく機能をシンポジウムとか展覧会とかウェブサイトが担うイメージ。プロジェクトをつくっていくことと、プロジェクトが波及するためのネットワークをつくっていくことを一つの軸の上に置いていく。

もうすこし、コンセプトに整理が必要です。その「ネットワーク」のなかには人や団体や施設だけでなく、お金のことも入ってきます。お金の流れ。今ある仕組みを組み替えて、可変性に富んだネットワークをつくること。次回はそのへんの話をしていきます。

次回:
オープン・ミーティング2011第4会
1月26日(木)19:30~ @3331Arts Chiyoda 302

2012/01/07

文化の共有、環境の移動

新年あけましておめでとうございます。なんとか七草粥を食べるまえに、今年初投稿です。

今年はどんな年になるでしょうか。さっきスカイプで活動についてのインタビューをしてもらっていて、「広報をする際、現在の時代感に即して使っているキーワードなどはありますか?」と質問されて、「シェア」と「異文化交流」と答えました。

ひとつめの「シェア」は、「経験をシェアする」「ノウハウをシェアする」っていうときに使います。「子どもに◯◯を伝える」、というようなことはほとんど考えていないことに気づきました。ある時間、経験をシェアする。子どもと、アーティストと、職員さんと、ぼくたちと。その経験をどう捉えるかは、自由にしてくれ。という心持ち。

ふたつめの「異文化交流」は、その都度言い方を変えているけれど、普段触れ合わない大人としてのアーティストが児童館に居る、ということは、児童館の文化を変えるということであり、アーティストにとっては子どもという異文化と共存することになるわけで。外国まで行かなくても異文化交流できるじゃん、というスタンス。文化を「環境」と言い換えてもいいかも知れません。

ほんと、自然に言葉を引き出してれる素敵なインタビューでした。見習わなくちゃ。鈴木さん、ありがとうございました。

文化の共有、環境の移動、か。なんとなく今年はこのあたりの言葉をカギに活動展開していきたいと思っています。2012年の活動に向けたステートメントっぽいはまた後日。というわけで、本年もよろしくお願いします。