「形だけ真似してて、中身がないね」
みたいな、枠と中身の話はよく聞くけれど、中身というか、もっと言えば筋とか骨だと思う。
例えば皮膚だけあってもラブドールみたいにしかならないわけで、骨とか筋とかそれを働かせようとする思考の自由とかがあって初めて身体が動くように、たとえ形を真似たとしても、筋や思考を通せるか、というのがキモなわけだ。ようは真似たものを自分のものにできるかって話。
最近、同僚にヨガマスターがいるので、ヨガを教わっている。太陽礼拝っていう基本の流れがあって、幾つかのポーズの組み合わせを教わった。
わりと毎朝ヨガの、その太陽礼拝を実践してるのだけど、例えばダウンドッグとか、コブラのポーズとか、やってはいるけどなんだか腑抜けた感じになるので、同僚に見てもらった。「掌の4点を地面にしっかり押し付けて」とか「無理に顎をあげるんじゃなくて、胸を開いた結果、顎があがるくらいがちょうどいい」とか、ディテールの指摘をもらっただけで、俄然効果が上がったのだ。
ヨガのポーズは作用反作用の法則でできていて、ポーズがカチッとキマると、使う筋肉とその反対も作用し始める。しまりのなかった筋肉にスッと筋が通るのを感じ、身体が熱くなり、それでいて無理のないリラックスを感じるのだ。
こういうのって、ヨガだけじゃなく何にでも言えることで、例えば服のデザインも、襟の仕上げ方ひとつで、全体の雰囲気が崩れたり締まったりする。ワークショップも、ある一言で参加者の振る舞いが変わる。それによって面白くもなるし、活動に火がついたり鎮火したりもする。
全体の中の極小の一点。散りばめられた点たちそれぞれに全体が集約される。
形を真似るというときの「形」のなかにはこのような無数の極小の「細部」があるわけで、形の中の細部が全てスススッとつながり、統一されつつ自由であるような状態を目指すと。禅のような話である。
そして、学ぶということは、この「筋の通る瞬間の感覚」を培い、あらゆる場面で味わうことなのだろう。