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2015/02/03

自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて

「男の子を意のままに操るビッチから弟を救わなきゃ!」舞城王太郎の新たなる代表作。


すべてを分かち合う仲が良すぎ? な香緒里と友徳の姉弟。夫の浮気と家出のせいで、沈み込みがちな母・由起子。その張本人である父・和志は愛人・佐々木花とのんびり暮らしている。葛藤や矛盾を抱えながらもバランスを保っていた彼らの世界を、友徳のガールフレンド・三輪あかりが揺さぶりはじめて――。あなた自身の「物語」っていったい何? 優しくて逞しい、ネオ青春×家族小説。

http://www.shinchosha.co.jp/book/118637/

舞城王太郎の『ビッチマグネット』を読んで思ったことは、いろんなことが起こる自分の物語を誰がどうやって編集するの?ということだった。カウンセラーの診断テストの4つの選択肢に全部⑤をつけて自分で返すシーンは白眉だった。

この世界には物語の類型がたくさんあって、ただ自分はそのどれに当てはまるんだろう、っていう不安があるとする。その不安をかき消すために、人は他人に自分を編集してもらい物語化してもらうことを求めるのだとする。

そういう意味での編集業はこの世にあまねくある。占星術師は星と星座の関係で、医者は身体と症状の、スタイリストは服と身体の関係で、「こうなってるとこう」っていう型をちょっとずつつなげてその人が安心する物語に編集するサービスなのかもしんない。そしてそれぞれには占星術、医学、流行という形が違うオーソリティーがある。権威とその翻訳者によって自分がある類型に編集される快楽みたいなのが昔からあってそれは宗教もそういうたぐいのものかもしれない。

あるいは自分を愛してくれる人もまた編集者だとする。でも、私の物語を編集するのは、身近な他者か、あるいは縁遠い権力か、という話かといえばそうでもなくて、予想外のことを引き受けながら自分の物語をたえず構築しながら生きていかなきゃいけなくて、そんな強い意志なんてどこから芽生えるのかといえば、何かに支えられるしかなくて、その何かというのがオーソリティーなのかパートナーなのか、という話にまたぐるりと戻ってくる。
類型化されてパッケージになった仮初めの安心/物語を買うことに対して、いやだいやだいやだーと抵抗することもできて、じゃあでもそういう人はバラバラになって物語化できない自分を生きていく分裂症疾患みたいに扱われるしかないのか?そんなの辛くて耐えられない。私は私の物語を生きるんだ!と言っても、それは偶然と意志の相互作用によってできるもの(『ディスコ探偵水曜日』)だから、コントロールなんてできない。コントロールできると思ってるとしたら、それはどうにもこうにも他者を傷つけ、潰しているだろうし、ある種のオーソリティーになるしかない。組織のお偉なのか、DV親父なのか、その形も規模も様々だろうけど。


「時間というのは田畑のように四角く区切られたものではなく、本来は草むらのように前後左右の感覚のないものなのだ」

というのは過去に誰かが言ったことばで、ベンヤミンだったかクロフォードだったか二人とも言っていたかもしれないけど正確な引用じゃない。ただ面白いのは、時間に方向やカタチを与えるのは決まっていたことじゃなくて人間の意志なのだということだ。時間割というのは決まっているものじゃなくて誰かが決めたものだし、いろんな都合でそうなったりしているのだ。

現代美術のキュレーティングはいつだって芸術の歴史と社会の歴史のなかにぼうぼうと広がるいろんな作品や事柄の読み替え/作り替えだし、この流れがあってこう!っていう提案でもある。そう考えると、自分の物語を編集するときの拠り所は実は他者や権力だけでなく歴史の中にあって、あるいは自分でもできるんじゃないの〜と思う。でもそれでもまた、他者と歴史と権力とその3つのものに取り囲まれながら、愛されたり従わせられたり、自分で選んで孤独になったり誰かと一緒にいる中で勝手に見えてきた感じになったり、そういうのがいろいろあって物語のつぎの展開がぼんやりと見えてくるんだろうなと思う。

人は自分の人生の占い師でありスタイリストであり医者なのかも知れないから、占いやスタイリングはしてもらうんじゃなくてその手法を学ぶほうがよくて、それでもどうやったって自分の人生のことはわからなくて不安になるから、人や歴史や時にはパワーを借りて物語の大筋を一緒に考えてもらうのがいいんじゃないかなとか思ったり思わなかったり。