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2014/06/04

子ども、複雑さ、意志 ーゴー・ビトゥイーンズ展 その1

森美術館で先週末からはじまった「ゴー・ビトゥイーンズ こどもを通して見る世界」。子どもを題材にしたアーティストの仕事から、子どもという存在の意味を問い直す素晴らしい展覧会。

ぼくはいま、この展覧会の関連企画「子どもキャプションプロジェクト」の企画の手伝いをさせてもらっていて、それがすごく楽しいけど超難しい。ただでさえ難しい作品のキャプションを書くという作業を、子どもに任せようというのだから、そのプロセスをワクワク楽しくつくるのはなかなか大変だ。

この展覧会では、子どもとはあらゆる文化・国・政治・あの世とこの世を、その状況下に翻弄されながらたくましく自由に行き来する「媒介者・間を行くもの(=go betweens)」ととらえられている。複雑な世界を生きていく子どものたくましさに希望をみる、そんな展覧会だ。キュレーターの荒木夏実さんをはじめ、スタッフのみなさんの熱量をがつーんと感じる。

だが一観客として見てみたときに、正直、ちょっと子どもの孤独、自由、想像力という部分にフォーカスをしすぎていて、作品の別の側面の魅力が見えにくくなっちゃってないかな、と感じるところもある。なんでもかんでも子どもはすごい!と肯定しているように見えなくもない。メッセージを可能な限りシンプルにした結果なのだと思うけれど。

子どもは神秘的だ!子どもはたくましい!子どもは孤独だけど自由だ!と声高に大人はうたいたくなるものだしぼくもそうだけど、それらは大人の願いとも言えるし、期待とも言えるし、勝手な幻想とも言える。その幻想が子どもをよい方向に導くこともあれば、抑圧したり、大人が用意した方向性に迎合させてしまって、彼らの意志を奪うことにもなってしまう。子どもに対して何かを願うことは、難しく、繊細な問題だ。

もうひとつ、ほぼ全ての作品に、子どもが被写体として登場する。だからこそ、その子どもが誰なのか、その意志がどうあるのかが気になる。アーティストの内なる子どもの姿なのか、その子自身の代替不可能な個人としての生きる意志を記録したものなのか、あるいは「子ども」という表象を扱っているのか。

子どもたちとスタッフが共作した「地獄」のオブジェの前で子どもがその紹介をする山本高之さんの《どんなじごくへいくのかな》や、女子中学生のエスカレートしまくった悪ふざけを記録した梅佳代さんの《女子中学生》は、そこに映る子どもとアーティストのグルーヴィーな共犯関係を感じる。

フィオナ・タンの《明日》、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー《エイト》などは、子どもを被写体として割り切っていて作家の子どもへのエモーションを画面上からは排除している。そのある種の冷たさが、かえって子どもという表象が持つ力強さを描き出している。もちろん、制作の舞台裏では、子どもたちとアーティストの親密さがあるに違いないのだけど。

一方でぐっと近づいて撮った記録もある。在日韓国人の家族のポートレイトとそのインタビューを記録したキム・インスク《「SAIESO:はざまから」シリーズ》、アスペルガー症候群をもつとされる男の子が母親にしたインタビューにアニメーション映像をつけたSTORY CORPS《Q&A》などは、ヘッドフォンから流れてくるその声の震えから、複雑な状況を生きる代替不可能な個人の意志と、それに凛として寄り添うアーティストの関係を感じて、うっかり涙ぐんでしまう。

とにかく26組のアーティストの作品からは、子どもたちが複雑な状況を生きることへの深い情愛と、その状況をたくましくかろやかに、想像力豊かに生き抜いていくことができるだろうという強い希望を感じる展覧会だった。子どもも楽しく遊べるような参加体験型の作品をあつめた「こども向け」の展覧会とは異なる。大人と子どもも、自分の中の子どもと大人が揺れ動く。

と、まぁこんなふうに書いたぼくの感想は、どうしたって26歳男子の視点でしかないし、現在の展覧会のキャプションは大人向けに、大人が用意したものである。そこにクサビを打つような、まったく別の物語を開くような言葉を、子どもたちにつくってもらえるのか、どうなのか。それはこの後のキャプションづくりのワークショップにかかっているし、どうにか面白くしたい。