今年観た映画で、今年日本で公開された作品でもっともよかった3つをあげるならこの3作だな、という遊びをしたいと思います。
▶『her/世界でひとつの彼女』
まずは夏のはじめに有楽町で観た『her/世界でひとつの彼女』。スパイク・ジョーンズが監督脚本を手がけ、アカデミー賞脚本賞を受賞したこの作品は、人工知能をもったOS「サマンサ」と、妻と別れた孤独な中年男セオドアとの恋を描く。主演のセオドア役にホアキン・フェニックス、OSの声の出演にスカーレット・ヨハンソン、元妻役にルーニー・マーラ。
とにかく良かったのは、元妻とのデートシーンのフラッシュバックと、OSサマンサの「身体」であるスマートフォンを胸ポケットに入れてめぐるデートのシーン。その2つの対比。恋のはじまりに誰もが感じるあの擦り切れるようなスピード感で、何もかもが面白くて、お腹の底から身体が動いてしまうあの感じが、手持ちのカメラと素早いカット割で構成されている。ぼくのベストカットは、セオドアと元妻が出会った頃に、深夜の路上で、パイロンを二人でかぶってその先端でつつきあうあのカット。ほんの2秒なんだけど、それ見て泣けた。
手紙の代筆士であるというセオドアの設定にはアイデンティティの複数性が描かれ、声だけでのセックスシーンでは肉体を離れた肉感が表れてる。画面が真っ暗になって、声だけで交わす性愛の切迫感のすごさ。アーケイドファイアの曲も、Karen Oの主題歌を歌うところも、衣装も、川内倫子にインスパイアされたという画面の淡い光も、とにかく最高だった。
そして、「私もあなたも誰にでもなれちゃうから誰でもない」という現代的な孤独と「それでも誰かを好きになった過去のことは自分しか知らないじゃん!それって自分だけの歴史だしそれを肯定していいじゃん!」という切々としたラストの、元妻への「手紙」。
今年FORM ON WORDSで音声ガイドによる演出のショーというのをつくったこともあるし、付き合う前の今の彼女と観に行ったというのもあって、今年の夏を印象づける思い出の作品になった。
▶『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』
続いて9月に新宿武蔵野館でみた『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』。フランスアルプス山脈に建つ伝説的な修道院の、ドキュメンタリー。1984年の申請時には「いまはまだはやい」と断られ、16年後に「準備がととのった」という返信があった。撮影の条件は、照明なし、ナレーションなし、撮影には監督のみ、というもの。さらに撮影と編集に5年を費やした。かかった時間の途方もない重み。
この映画の感想は以前にブログで書いたので割愛するけど、この「沈黙」というのは単なる無音のことではなく、普段聞こえない音を聞くということ、生きる仕草の音を聞け!ということなのだという衝撃を受けた作品。3時間の切実な生と祈りの仕草の音は、荘厳でありながらあまりにも日常で、隣合わせで、聞こえてこない呼吸に耳を傾けろ、という素晴らしい作品だった。
▶『6歳のボクが、大人になるまで』
そして今年の文句なしベストになってしまったのは先日日比谷シャンテで観た『6歳のボクが、大人になるまで』。『ビフォア・サンライズ』『スクール・オブ・ロック』などのリチャード・リンクレイター監督が、12年かけて6歳の少年が18歳になるまでの物語を4人の家族を同じ役者で演じ続けたというすさまじい作品である。超派手展開があるわけではない、ささやかで、どうにもこうにもうまくいかなくて、なんとなく幸せってこういうのなのかなあみたいな、無数の事柄が通り過ぎて行く12年。
正直、この予告編を観ずに今やってる劇場に直行するのをオススメします。
すげえ!と思ったのが3つある。
ひとつは、主人公メイソンの6歳から18歳までのシナリオと、それを演じるエラー・コルトレーンの実人生が相互に影響しあってるんだろうなぁ、、、というリアリテイ。人の人生を描くとき、役者は演技をするけれど、演技を超えた彼の実人生の変化が、如実に画面に現れている!!!
あと、離婚した実父がポテトを食べながら性の話を高校生の娘とするときに、ふいに現れる女性。その人は父がちょっと気になってる感のある人で、その様子をみて、親父を小馬鹿にしたように、それでいて安心したように、他者として父を眼差しているメイソン(主人公)の表情を見て、「なんだその顔は!」と慌てていう父。そのワンシーンにぼくは泣いた。他者としての家族、役割を演じ合う家族。恋人を持つ父が、ふいに父という役割を脱いだ、一人の男に見えた瞬間にぼくはたまらなく愛おしくなって、涙が出た。
そして、ネタバレになるから言えないけど、ラストのお母さんのあのセリフ。12年、演じ続けた。映画の中でも外でも、母親役をやった、、、というこの事実がドンとくる。
ぼくはこのラストはもちろん、その余韻をひくようにエンドクレジットでも、ああこれだけの人が12年の月日を過ごしたのか、映画/フィクションの中で、あるいは撮影や制作の現場/リアルの中で…と思ったらまた涙が出た。ようは3回泣いた。
児童館に関わって8年。小学校1年生だった子が、もうすぐ高校生だ。ぼくもまだ大人になったといえんのか、いえないだろう、という感じだけど、自分の姿と、児童館で出会った子どもたちの姿も重ねていたのは言うまでもない。
あとなんだろう、『リアリティのダンス』もすごくよかったし、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』も超絶楽しかった。あと『バルフィ 人生に歌えば』も『her』にならぶ恋のフラッシュバック/カット割りでかなりよかった。
それから今年公開じゃないけど8月に目黒シネマで観た『この空の花 長岡花火物語』は、生涯で一番泣いた映画だった。『この空の花』『長岡映画』と、いくつものタイトルがスクリーンに写されただけで、この映画の持つ複層性を感じて涙腺が開き、そのあとはもう終始涙流しっぱなしで、思わずそのあと長岡に旅行に行ったほどだった。なんだろう、映画を観て泣くっていうのがクセなのかな…。
今年は、去年よりもたくさんいい映画に出会った気がする。また来年出会う映画も、楽しみだ。
▶『her/世界でひとつの彼女』
まずは夏のはじめに有楽町で観た『her/世界でひとつの彼女』。スパイク・ジョーンズが監督脚本を手がけ、アカデミー賞脚本賞を受賞したこの作品は、人工知能をもったOS「サマンサ」と、妻と別れた孤独な中年男セオドアとの恋を描く。主演のセオドア役にホアキン・フェニックス、OSの声の出演にスカーレット・ヨハンソン、元妻役にルーニー・マーラ。
とにかく良かったのは、元妻とのデートシーンのフラッシュバックと、OSサマンサの「身体」であるスマートフォンを胸ポケットに入れてめぐるデートのシーン。その2つの対比。恋のはじまりに誰もが感じるあの擦り切れるようなスピード感で、何もかもが面白くて、お腹の底から身体が動いてしまうあの感じが、手持ちのカメラと素早いカット割で構成されている。ぼくのベストカットは、セオドアと元妻が出会った頃に、深夜の路上で、パイロンを二人でかぶってその先端でつつきあうあのカット。ほんの2秒なんだけど、それ見て泣けた。
手紙の代筆士であるというセオドアの設定にはアイデンティティの複数性が描かれ、声だけでのセックスシーンでは肉体を離れた肉感が表れてる。画面が真っ暗になって、声だけで交わす性愛の切迫感のすごさ。アーケイドファイアの曲も、Karen Oの主題歌を歌うところも、衣装も、川内倫子にインスパイアされたという画面の淡い光も、とにかく最高だった。
そして、「私もあなたも誰にでもなれちゃうから誰でもない」という現代的な孤独と「それでも誰かを好きになった過去のことは自分しか知らないじゃん!それって自分だけの歴史だしそれを肯定していいじゃん!」という切々としたラストの、元妻への「手紙」。
今年FORM ON WORDSで音声ガイドによる演出のショーというのをつくったこともあるし、付き合う前の今の彼女と観に行ったというのもあって、今年の夏を印象づける思い出の作品になった。
▶『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』
続いて9月に新宿武蔵野館でみた『大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院』。フランスアルプス山脈に建つ伝説的な修道院の、ドキュメンタリー。1984年の申請時には「いまはまだはやい」と断られ、16年後に「準備がととのった」という返信があった。撮影の条件は、照明なし、ナレーションなし、撮影には監督のみ、というもの。さらに撮影と編集に5年を費やした。かかった時間の途方もない重み。
この映画の感想は以前にブログで書いたので割愛するけど、この「沈黙」というのは単なる無音のことではなく、普段聞こえない音を聞くということ、生きる仕草の音を聞け!ということなのだという衝撃を受けた作品。3時間の切実な生と祈りの仕草の音は、荘厳でありながらあまりにも日常で、隣合わせで、聞こえてこない呼吸に耳を傾けろ、という素晴らしい作品だった。
▶『6歳のボクが、大人になるまで』
そして今年の文句なしベストになってしまったのは先日日比谷シャンテで観た『6歳のボクが、大人になるまで』。『ビフォア・サンライズ』『スクール・オブ・ロック』などのリチャード・リンクレイター監督が、12年かけて6歳の少年が18歳になるまでの物語を4人の家族を同じ役者で演じ続けたというすさまじい作品である。超派手展開があるわけではない、ささやかで、どうにもこうにもうまくいかなくて、なんとなく幸せってこういうのなのかなあみたいな、無数の事柄が通り過ぎて行く12年。
正直、この予告編を観ずに今やってる劇場に直行するのをオススメします。
すげえ!と思ったのが3つある。
ひとつは、主人公メイソンの6歳から18歳までのシナリオと、それを演じるエラー・コルトレーンの実人生が相互に影響しあってるんだろうなぁ、、、というリアリテイ。人の人生を描くとき、役者は演技をするけれど、演技を超えた彼の実人生の変化が、如実に画面に現れている!!!
あと、離婚した実父がポテトを食べながら性の話を高校生の娘とするときに、ふいに現れる女性。その人は父がちょっと気になってる感のある人で、その様子をみて、親父を小馬鹿にしたように、それでいて安心したように、他者として父を眼差しているメイソン(主人公)の表情を見て、「なんだその顔は!」と慌てていう父。そのワンシーンにぼくは泣いた。他者としての家族、役割を演じ合う家族。恋人を持つ父が、ふいに父という役割を脱いだ、一人の男に見えた瞬間にぼくはたまらなく愛おしくなって、涙が出た。
そして、ネタバレになるから言えないけど、ラストのお母さんのあのセリフ。12年、演じ続けた。映画の中でも外でも、母親役をやった、、、というこの事実がドンとくる。
ぼくはこのラストはもちろん、その余韻をひくようにエンドクレジットでも、ああこれだけの人が12年の月日を過ごしたのか、映画/フィクションの中で、あるいは撮影や制作の現場/リアルの中で…と思ったらまた涙が出た。ようは3回泣いた。
児童館に関わって8年。小学校1年生だった子が、もうすぐ高校生だ。ぼくもまだ大人になったといえんのか、いえないだろう、という感じだけど、自分の姿と、児童館で出会った子どもたちの姿も重ねていたのは言うまでもない。
あとなんだろう、『リアリティのダンス』もすごくよかったし、『ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー』も超絶楽しかった。あと『バルフィ 人生に歌えば』も『her』にならぶ恋のフラッシュバック/カット割りでかなりよかった。
それから今年公開じゃないけど8月に目黒シネマで観た『この空の花 長岡花火物語』は、生涯で一番泣いた映画だった。『この空の花』『長岡映画』と、いくつものタイトルがスクリーンに写されただけで、この映画の持つ複層性を感じて涙腺が開き、そのあとはもう終始涙流しっぱなしで、思わずそのあと長岡に旅行に行ったほどだった。なんだろう、映画を観て泣くっていうのがクセなのかな…。
今年は、去年よりもたくさんいい映画に出会った気がする。また来年出会う映画も、楽しみだ。