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2010/10/16

10/15 渋谷UNIT

ovalの活動再開記念ライブに行ってきた。

でも、この日一番よかったのはICCで展示を予定している渋谷慶一郎さん。ノイズなのだけど、それはある世界を想起させる精度の高い構成になっていて、全く新しい音楽を聴いている気分になった。車か飛行機か、あるいは体自体がどこかを高速で移動しているかのような体験をした。

音楽の体験は、皮膚や内臓で、直接振動を受け止めるものだから、それは強度が高い。翻って美術は視覚から。皮膚や内臓が反応するのは、視覚から情報を解析し、記憶の中の何かと結びついて別の感覚を想起させてから。目ではなく身体全体が反応するまでに「消化」する時間が必要。音楽のほうがわかりやすいのだ。だから音楽のマーケットが大きいのだろう。

一緒に行った山城さんは「音楽ええなぁ、うらやましいし、さびしいし、なんか悲しくなってきたわ。」「美術じゃこんなかっこええこと無理なんかなぁ、なんかほんまにおれもかっこいいことしたいわ」と言っていた。だからといって美術も負けてられん!強度の高い体験をつくりたい。

2010/10/15

10/13 中高生VSアーティスト [Open Meeting 1st]

10/13 wed.
『中高生VSアーティスト 遊びと美術のネクスト・ステージ』

エアーズのパフォーマンス、あんどーなつの不思議な部屋、それを盛り上げるナデガタ中崎さん山城さんのスキル、野田さんの空間とお客さんへの配慮、そして中高生を最後に魅了した山城さんの訴えかけ。極めつけは卓也の「おれたちにも何かできるとおもう」という言葉。もっと時間がほしかった。反省点はもちろんたくさんあるけれど、でも、成功と言っていいと思う。

ぼくはこの日、ナデガタの真髄は「演出」にあると感じた。言葉、マイク、ギャグ。それはある種、人の心を高ぶらせ、何かしたい!とそそのかす技法。24 OUR TELEVISIONでも、「カメラ」という道具によってその妙技は見事に発揮されていた。でもそこにあるのはイタズラ心(もっと強く言えば悪意)だけではなく、現実が想像を超えることへの希望でもあるように思う。

中村児童館の連中には、その技法を十分に盗んでもらいたい。それを使って新しい遊びを編み出し、拡散させていってほしい。

児童館という施設への貢献ももちろん考えたい。職員、保護者、ボランティアサークル、中高生、小学生、幼児という現在の児童館利用者の縦の階層と、児童館を利用しない中高生、小学生、関係性を持たない地元住民という児童館の外側のコミュニティがある。つながる回路を組み立てるか、巻き込む"台風"を作りだすか、彼らの悪ふざけには、ある運動と構造が内包しているはずなので、そこから導きだしていきたい。

さらに、ナデガタが演出し、中村児童館の連中が応答した出来事が、展示され、公開されるとき、人に分かりやすいショックを与えるものになっていてほしいと思う。「こんなことしちゃっていいのかよ・・・」と、観客が罪悪感すら覚えるほどの何かになっていてほしい。それが売れるものになっていれば、もっといい。

2010/10/12

10/10 六甲ミーツ・アート(後編)



そんな中で、「OFF COURSE HILLS」は異彩を放っていた。レジャー施設の中で、TDLやUSJのアトラクションのような見立てで、観客は何か面白いものがあるのかな、と迷いこんでいく。


その元レストランの中に「かつてある夫婦が経営していたレストランに、戦国時代から5人がタイムスリップしてきて・・・」というフィクションのストーリーが埋め込まれている。チャプタごとに物語が展開していくのか、と期待しながら歩いて行くと、どうでもいいしょうもうない話に期待を裏切られる。









チャプタごとの情景描写も、イスを積み上げて「山」や「馬」をつくっていたり(でもそれが川俣正やマルセル・デュシャンへのオマージュだったり)、ペープサートのアニメだったり、このあたりの"即席感"は彼らの特徴。ナデガタの作品を見ているといつも「くったくただな!」という感想を抱く。形がクタクタになっていて、原型は想像しないとわからないようになっているのだ。そのクタクタをどこまで見せて、どこまでカッチリ型にするか、そのバランスが彼らの作品の決め手のように思える。


今回、この作品は実は3重の層になっている。
①:「夫婦と戦国時代のサムライたちのドタバタ話」
②:「その伝説を追いかけたヒロシ(8歳)の話」
③:「ヒロシを追体験する観客の話」
・・・この入れ子構造が作品としての批評の対象になりそう。


でも実はこの構造はどのメディアにも埋め込まれている。例えば自伝やドキュメンタリのように「事実」を描写したものでさえ持っている構造だ。ある「事実」(①)を、描写・演出する誰か(②)がいて、それを読む私たち(③)が居る。だれもある事実をありのままに体験することはできず、②の色眼鏡を掛けて見なければそれは成立しない。


描写、演出され、追体験できるものはすべて、「事実」として捏造できちゃうのかもしれない。裏をかえせば、演出されたものの中に「事実」はどこにも存在しないのかも知れない。


とまぁ考えてみたけれど、ぼくが建物の中に居合わせたお客さんは、他の作品同様「ふぅん」という感じ。「学園祭みたいだな」「なんだかよくわかんない」「なんでこんなことしてんだろう?」「しょーもねー・・・」とつぶやきながら建物の中を歩くお客さん達。


美術作品に対して、こう斜に構える人たちばかりだけど、オーディエンスとのコミュニケーションは難しいなと。本筋となる物語(①)の構成がもっとしっかりしていて、限りなくホントっぽい話になっていれば、作品の批評性を彼らも受け取ることができたんじゃないかな。この作品の仕組みが分かってこそ楽しめるはずだし、アトラクションだと思って迷いこんでしまった人が、その仕組に気づいて「はっ」とする瞬間をもっと見たかった。

 


リテラシーのある人だけが「はっ」となる作品にあんまり面白さは感じ無い。誰もが「ガーン」と喰らうような作品がぼくは好きだ。




10/10 六甲ミーツ・アート(前編)

10/10 夜行で日帰り、六甲・大阪旅行へ行ってきた。


目的はNadegata Instant Partyの新作「OFF COURSE HILLS」を観ること。今回はライブをせずに、フィクションだけで"出来事"を作っているとのことで、そりゃ新境地だから見てこなきゃ、というわけだ。








それにしても、六甲山自体がとても素晴らしい観光地。聞けば、平日は全く人がいないそうだけど、この日は移動のバスも超満員で大繁盛。カップルと家族ばかり。こんなに人がいて、面白い施設が沢山あるなら、アートで客寄せなど必要あるのかな?と思ってしまうほど。遊びに来ることが目的で、偶然アート作品に遭遇するお客さん達。足を止めてみてみるものの、「ふぅん」となんとなく納得したふりをして通りすぎていく。あぁ、レジャーにアートは敵わざりけり。などと思ってしまった。
でも、アート作品によってハッピーな雰囲気が増していたのは確かだし、それはそれでよかたと思う。





 
 


→後編に続く