盗賊と判官の時代劇たる冒頭から、それは次第に3億円事件や浅間山荘など昭和の様々な事件とよく似ていく。西洋絵画のボトルやグラスが酒を飲むシーンに使われ、額縁は壁や牢獄にかわっていく。自由は銃になり、妙は見ようになり、お願いは希望になる。っていう話だった。
ダブルミーニングと韻とメタファーと駄洒落の応酬でわけわかんなくなるんだけど、目の前で役者の身体が動き、いろんな表情をするので、なんとなく見えてくるのは善悪とか真偽とかがくるくる回るなかで一生懸命みんな生きてる感。
絹代さん、大きな仕事をしている、、、しかも学生たちを鼓舞してここまで持ってったのかよすごい、、、と震えた。ステートメントのこの一筆がマジで歌舞伎のようにキレ!バシッ!って感じで最高感あった。観劇後にもっかい読んで唸った。
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劇中で魅力的だったのは猫の「お願い」という役。「わたし」という一人称でありながら登場人物たちのことを「彼ら」として、観客に向かって表現しつつ、物語の登場人物として「あなた」と呼ばれもする。ただし、猫なので言葉が通じないから、物語の筋を変えようと思っても変えられない。その愛情と悲壮が魅力的なキャラクターだった。
これ、舞城王太郎が『淵の王』で使った2.5人称っていうやつで、その前触れがここにあったのか〜と驚いた。妊娠、という事態を通して物語に介入する『カノン』の猫と、最後の最後に意志の力で物語に介入する『淵の王』の語り部は、意志があったのかそうでないのか、が違うけど。
なんで『カノン』がこんなにも今っぽいって感じたかって、いろんなメタファーやダブルミーニングによって信念や意味がすり替わって善悪が転倒してしまうのって、オリンピックロゴの例を出すまでもなく、何が本当に問題だったのかはうやむやになったまま人が傷ついていくこの時代のムードそのものだなと。
あとは、目の前で起こっている出来事を気ままに眺める2.5人称の猫が、最後に偶然の事態を通して物語に影響していく様。テレビの向こうで起こっていることを無責任に眺めている群衆が、不意に責任を負うことの予兆。もしくはそうなっちまえ!っていう作家の欲望のようにも思える。
今回は猫がその不意の責任を担っていたけど、僕ら観客に憑依してもおかしくない役柄だ。2.5人称的な役回りを、観客が担うような演劇をこれからもっと見たいと思った。
これはよくある「参加型」「わたし、あなた、みんな」みたいなのは違うと思う。介入したくてもできない!という悲壮さが2.5人称にはある。それを乗り越えて物語に介入しようとする意志とハプニングが、この形の美しさなんだろうなーと思う。
野田さんの演劇を生で観たの初めてだったし、戯曲のこともほとんど知らなかったし、役者さんのこともほぼほぼ知らなかったので、なんの先入観もなく見ていたら、随所に絹代さんらしいこだわりが見られて嬉しかった。