この2週間ぐらい、発達心理学に関する文献をガサガサと読み漁っている。といっても『まなざしの誕生』『意味から言葉へ』『感覚と運動の高次化からみた子ども理解』という3冊をぐるぐる読んでいるだけなのだが、なんとなく見えてきたことがある。とはいえ素人の考えだから批判もあろうが、ひとまずここではザーッと感じていることを覚え書きする。
1つは、ピアジェの発達理論はむちゃくちゃ面白いんだけど、他者との情動的交流という明確に欠点もあるということ。ピアジェの理論にもとづいたツール開発は、個人ー物の探求は触発するのだけど、個人ー物ー社会の探求までは触発しないのでは?ということ。
『感覚と運動の高次化からみた子ども理解』に書いてあった面白い事例として、トランポリンで遊ぶ児童の例がある。
『意味から言葉へ』の骨子は、「人は複数の人間どうしが織りなす意味の脈絡=物語を生きる」ということであり、他者は赤ちゃんの意味形成の媒体であり、赤ちゃん自身の生きる物語のなかの登場人物である、というところ。この、赤ちゃんが他者を介してどうやって物語を形成していくのか、というところがこの本の白眉だ。例えば、生まれたての赤ちゃんにとってお母さんの乳房は「もの」であり「ひと」性をおびていない。自分とは異なるもう1人の主体(=他者)の一部と捉えられるようになるまでには、まだいくつかの階梯を要する。
とかくまあ「物語」という言葉が好きなので、赤ちゃんに対するこういう解釈が好きだ。親以外の他者が、赤ちゃんの物語の登場人物になるためには、物心がついてから再登場するしかないだろう。物心以前の登場人物は赤ちゃんの人生にどう介入するんだろうか。そういえば物心という言葉にも「物」って入ってるな。