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2016/11/17

発達心理学 覚書


この2週間ぐらい、発達心理学に関する文献をガサガサと読み漁っている。といっても『まなざしの誕生』『意味から言葉へ』『感覚と運動の高次化からみた子ども理解』という3冊をぐるぐる読んでいるだけなのだが、なんとなく見えてきたことがある。とはいえ素人の考えだから批判もあろうが、ひとまずここではザーッと感じていることを覚え書きする。

1つは、ピアジェの発達理論はむちゃくちゃ面白いんだけど、他者との情動的交流という明確に欠点もあるということ。ピアジェの理論にもとづいたツール開発は、個人ー物の探求は触発するのだけど、個人ー物ー社会の探求までは触発しないのでは?ということ。

『感覚と運動の高次化からみた子ども理解』に書いてあった面白い事例として、トランポリンで遊ぶ児童の例がある。 


トランポリンを大人に揺らしてもらって遊ぶ子どもは、床面の揺れや体の上下によって前庭感覚や固有受容感覚が刺激されることを楽しんでいる。ピアジェでいえば「二次循環反応」を楽しんでいる、ということが言えるのだと思う。しかし著者の宇佐川さんは「(トランポリンを揺らし)続けていくうちに、目を閉じたり自分の手をみつめてケラケラ笑い、よりうちに閉じこもるような感じになっていく」と記述した。このとき、「情動が内にこもってしまう、もしくは自己刺激的な興奮状態になるかもしれない」と判断され、子どもの顔の正面に自分の身体と顔をもってきてトランポリンを強くゆすったり、1・2・3で顔を突き合わせてトランポリンをゆするなど、感覚刺激に対してセラピストが介入し、感覚刺激が単なる自己刺激ではなく相互的な関係になるようにセッションをしたという。
 

『意味から言葉へ』の骨子は、「人は複数の人間どうしが織りなす意味の脈絡=物語を生きる」ということであり、他者は赤ちゃんの意味形成の媒体であり、赤ちゃん自身の生きる物語のなかの登場人物である、というところ。この、赤ちゃんが他者を介してどうやって物語を形成していくのか、というところがこの本の白眉だ。例えば、生まれたての赤ちゃんにとってお母さんの乳房は「もの」であり「ひと」性をおびていない。自分とは異なるもう1人の主体(=他者)の一部と捉えられるようになるまでには、まだいくつかの階梯を要する。 

つい最近、杉本博司さんの「ロスト・ヒューマン」を見に行ったのだけど、そこにあったメインの展示〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉は杉本さん独自の見立ててでオブジェクトとテキストによって世界の終末が描き出されていた。「物」と「語り」で「物語」なのだが、杉本さんの展覧会は物語という時間性をもつものが瞬間に圧縮されたような感覚になる、不思議な物語体験だった。もし仮に、ぼくらに「物」と「語り」から物語(個人もしくは複数の他者の行為と情動)を想起する能力が備わっているんだとしたら、それはどのようにして育まれてきたのだろうか。

とかくまあ「物語」という言葉が好きなので、赤ちゃんに対するこういう解釈が好きだ。親以外の他者が、赤ちゃんの物語の登場人物になるためには、物心がついてから再登場するしかないだろう。物心以前の登場人物は赤ちゃんの人生にどう介入するんだろうか。そういえば物心という言葉にも「物」って入ってるな。