今、アー児のスタッフ研修で「ワークショップの手法を学ぶ」というのをやっている。ぼくが昔Heu-LEっていうNPOで学んだ方法をベースにこれまで実践してきた経験をもとに、そのノウハウをみんなに頑張って伝えているところ。
前々回はその理論編と、簡単なワークショップとして、「リバースカメラ」というアプリをつかって逆再生でおもしろ映像をつくる、というのをやってみた。
今回は、並木くん、金子さんそれぞれにワークショップを考えてきてもらい、1時間ずつ実践をしてもらったあと、アー児におけるワークショップの意味とか役割ってなんぞや的なことを話をした。話してみて、やってみて気づくことはもちろんたくさんあって、こんなふうに付き合ってくれる二人に本当に感謝である。
並木くんは10kgの機材と数十枚のレコードを運び込み、「Hip Hopのトラックをつくる」というワークショップをやった。簡単なスライドも作ってきてくれて、しかもA Trive Called Questのドキュメンタリー映像で説明するなんていうシャレも聞いてて、いい感じの冒頭。
「トラック作りには音楽の知識は必要ない。いいなぁと思う8小節をサンプリングして、そこにビートを乗せる。それだけでできるんです」というシンプルな内容なのだけど、ソウルやファンクの曲から実際にサンプリングしてトラックをつくってみると、その歴史のつながりすらも体感できて面白い。
なにしろレコードにまともにさわったことがない身としては、針を落として回すと曲が流れる、という仕組みに興奮しちゃうし、パッドを叩いてビートができる感じとかおもちゃ感がすごいし、楽しんだ。
金子さんは「自分にはなんにもない・・・」と言いつつ、「今日の出来事をZINEにする」というこれもいい感じにシンプルな内容を考えてきてくれた。それぞれに今日の出来事を書いて、それをシャッフルして他の人の文章に挿絵を書く。しかもガーリーにマスキングテープや折り紙を使って!
みんなにとってきょうのトラックメイカー体験が新鮮だったので、みんながなんとなくターンテーブルの絵を書いていたので統一感がでていてよかった。
トラック作りもZINE作りも、普段やらないことをやってみて楽しめる、というのはワークショップのいいところだ。とにかくワークショップには、導入→アイスブレイク→制作→まとめ っていうおおまかな流れがあって、それをやってみようという話だった。
最近すごく思うのは、ワークショップ(という言葉は未だにあまり好きじゃないから積極的には使いたくないんだけど)の場には、そこに居合わせる人々それぞれの物語があって、そこで起きたことがその物語に多少の変化を与えていく。つまり、ワークショップは他者の物語に変化を起こすものなのだ〜ということだ。
そう考えたときに「ドラマトゥルギー」という言葉が浮かんだ。ぼくのイメージでは「物語を操作する」というような意味合いなのだが、友人であり、FAIFAIやチェルフィッチュのドラマトゥルクを務める優秀な男セバスチャン・ブロイに聞いてみたら、それにあたる直訳は無くて「脚色」「演出」「制作」「翻訳」の曖昧な集合体だという。
ぼくが聞いたことのある曖昧な知識は、ドイツはもともと翻訳文化で、イギリスやフランスの戯曲をドイツの状況に照らしあわせて上演するときに、どう翻訳するか、というのがドラマトゥルクの最初の役割だったと言われているそうだ。それはつまり、もともとある物語を、今・ここに合わせて操作していく、というのがその特徴ということだろうか。
一方で、アーヴィング・ゴフマンは、「ドラマトゥルギー」を社会学的観察方法として位置づけた。ある場所に集まる人それぞれに物語があり、そこに登場する人たちをキャラクターとして見立てて、物語論的に場を解釈するあり方のこと。ここには物語の操作という要素はほとんどなく、物語/演劇として現実を解釈する、という要素のほうがつよい。
ワークショップの場合、それを実施するために時間・空間・人(スタッフ+参加者)をそろえる、という「制作」的要素と、そこに参加する人それぞれがどんな物語をもっているかを考えるゴフマン的なドラマトゥルギーと、そこに参加する人たちにどんな影響を与えるか/彼らの物語をどう変えていくか、という演劇的なドラマトゥルギーのそれぞれの要素が絡み合っている。しかし、そこに集まる人々の物語を読み、さらにはそこに新しい要素を書き加えていく、という意味では「脚色」の要素もある。
人間はそれぞれの物語を生きていて、赤ちゃんは人間の物語の網目に生まれてくるのだ。そういう物語の網目にエフェクトを加えていくのは、演劇だろうがワークショップだろうがなんだって一緒なんだろうけど、そこでドラマトゥルギーが価値を発揮する。
ワークショップを企画するには、コンテンツはもちろん、その場に集まる人々の物語を読み解く感覚がいるというのは、近頃日々考えているところ。
つづく
前々回はその理論編と、簡単なワークショップとして、「リバースカメラ」というアプリをつかって逆再生でおもしろ映像をつくる、というのをやってみた。
今回は、並木くん、金子さんそれぞれにワークショップを考えてきてもらい、1時間ずつ実践をしてもらったあと、アー児におけるワークショップの意味とか役割ってなんぞや的なことを話をした。話してみて、やってみて気づくことはもちろんたくさんあって、こんなふうに付き合ってくれる二人に本当に感謝である。
並木くんは10kgの機材と数十枚のレコードを運び込み、「Hip Hopのトラックをつくる」というワークショップをやった。簡単なスライドも作ってきてくれて、しかもA Trive Called Questのドキュメンタリー映像で説明するなんていうシャレも聞いてて、いい感じの冒頭。
「トラック作りには音楽の知識は必要ない。いいなぁと思う8小節をサンプリングして、そこにビートを乗せる。それだけでできるんです」というシンプルな内容なのだけど、ソウルやファンクの曲から実際にサンプリングしてトラックをつくってみると、その歴史のつながりすらも体感できて面白い。
なにしろレコードにまともにさわったことがない身としては、針を落として回すと曲が流れる、という仕組みに興奮しちゃうし、パッドを叩いてビートができる感じとかおもちゃ感がすごいし、楽しんだ。
金子さんは「自分にはなんにもない・・・」と言いつつ、「今日の出来事をZINEにする」というこれもいい感じにシンプルな内容を考えてきてくれた。それぞれに今日の出来事を書いて、それをシャッフルして他の人の文章に挿絵を書く。しかもガーリーにマスキングテープや折り紙を使って!
みんなにとってきょうのトラックメイカー体験が新鮮だったので、みんながなんとなくターンテーブルの絵を書いていたので統一感がでていてよかった。
トラック作りもZINE作りも、普段やらないことをやってみて楽しめる、というのはワークショップのいいところだ。とにかくワークショップには、導入→アイスブレイク→制作→まとめ っていうおおまかな流れがあって、それをやってみようという話だった。
最近すごく思うのは、ワークショップ(という言葉は未だにあまり好きじゃないから積極的には使いたくないんだけど)の場には、そこに居合わせる人々それぞれの物語があって、そこで起きたことがその物語に多少の変化を与えていく。つまり、ワークショップは他者の物語に変化を起こすものなのだ〜ということだ。
そう考えたときに「ドラマトゥルギー」という言葉が浮かんだ。ぼくのイメージでは「物語を操作する」というような意味合いなのだが、友人であり、FAIFAIやチェルフィッチュのドラマトゥルクを務める優秀な男セバスチャン・ブロイに聞いてみたら、それにあたる直訳は無くて「脚色」「演出」「制作」「翻訳」の曖昧な集合体だという。
ぼくが聞いたことのある曖昧な知識は、ドイツはもともと翻訳文化で、イギリスやフランスの戯曲をドイツの状況に照らしあわせて上演するときに、どう翻訳するか、というのがドラマトゥルクの最初の役割だったと言われているそうだ。それはつまり、もともとある物語を、今・ここに合わせて操作していく、というのがその特徴ということだろうか。
一方で、アーヴィング・ゴフマンは、「ドラマトゥルギー」を社会学的観察方法として位置づけた。ある場所に集まる人それぞれに物語があり、そこに登場する人たちをキャラクターとして見立てて、物語論的に場を解釈するあり方のこと。ここには物語の操作という要素はほとんどなく、物語/演劇として現実を解釈する、という要素のほうがつよい。
ワークショップの場合、それを実施するために時間・空間・人(スタッフ+参加者)をそろえる、という「制作」的要素と、そこに参加する人それぞれがどんな物語をもっているかを考えるゴフマン的なドラマトゥルギーと、そこに参加する人たちにどんな影響を与えるか/彼らの物語をどう変えていくか、という演劇的なドラマトゥルギーのそれぞれの要素が絡み合っている。しかし、そこに集まる人々の物語を読み、さらにはそこに新しい要素を書き加えていく、という意味では「脚色」の要素もある。
人間はそれぞれの物語を生きていて、赤ちゃんは人間の物語の網目に生まれてくるのだ。そういう物語の網目にエフェクトを加えていくのは、演劇だろうがワークショップだろうがなんだって一緒なんだろうけど、そこでドラマトゥルギーが価値を発揮する。
ワークショップを企画するには、コンテンツはもちろん、その場に集まる人々の物語を読み解く感覚がいるというのは、近頃日々考えているところ。
つづく