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2011/10/22

穴を掘れ、底を抜け

空間と、メタファーと、機能について。

名前からは、その機能や内容は伝わらない。例えば「原っぱ」。名前それ自体は「草が生えている場所」というだけである。「原っぱ」は、メタファーを与えることで機能がうまれる。「野球場」にも「サッカー場」にもなる。ある空間にメタファーを与えることで、機能を生みだす。公園、みちばた、壁。町の中には、メタファーをあたえたほうが面白くなる場所がたくさんあるわけだ。

穴を掘る遊びについて

"穴掘り"は夢中になる。穴を掘る、その行為自体がおもしろいのであって、それがどこにつながっていようと関係ない。が、掘っているときにもしかしたら、「どこかにつながっているかもしれない」「もし、どこかにつながっていたら」というようなことを想像しているかもしれない。"穴掘り"をメタファーとして、夢中になって穴を掘っていたら底が抜けて、ふと別の世界・時間につながってしまう。そういう"穴掘り"のための環境を現実にする。


2011/10/19

経験に"問"をしかけるために

子どもの経験に"問"をしかける。あれは一体なんだったんだろう?と問い直すときが、何度も何度も訪れるような、マルチプルな経験をのこす。子どもに関わるものにおいては、そういうワークショップ、アートプロジェクトがいいと思っている。

そのためには、その経験に"快"があったほうがいい。楽しかった、気持よかった、面白かった、興奮した、そういうたぐいのポジティブな感情だ。でもそれだけじゃいけない。

山本さんのプロジェクトを通じて思うのは、子どもの意志、自分で考えることが必要だということだ。彼らが選択した経験であることだ。しかし、そこには親の意志や先生の意志が少なからず介入する。親、先生、児童館職員、子どものまわりにいる大人の、マルチプルな経験をのこすためのネットワークがいる。

自分で選んだことが、楽しかった、面白かったとしたら、それはまた思い出したくなる経験になるだろう。ただ、それは誰かや何かへの"憧れ"であっていいのかな、とは思う。ファッションに憧れる、ショーに憧れる、あるいはそこにいる大人に憧れる。そういう大人になりたい、そういう業界に行きたい!と思った時点で、ブルデューの言う再生産の構造に組み込まれるんじゃないかな、と思う。感動は自分でつくった何かに対してあるべきで、大人は憧れようとする子どもの視線をはね返すか、煙に巻くほうがいいだろう。しかし、子どもに受け入れられると大人は嬉しいのだ。それはとても難しい。


ところで、「マルチプルな経験」のヴィジュアル・イメージは、『エヴァンゲリヲン新劇場版・序』の「ラミエル」だ。忘れているときは正八面体をしていて、外部の刺激(敵の攻撃)によって、思い出す(反撃する)ときにかたちを変える。そんな感じだ。








主体か、メディウムか

ー"声"の向こうに"壁"が見える 《Referendum ー国民投票プロジェクト》

《Referendum ー国民投票プロジェクト》のキャラバンカーとフォーラムを観てきた。

キャラバンカーの中で鑑賞できる中学生たちのインタビュー。福島と東京の中学生の"声"は、自信をもって言えているものと、とまどいうろたえているものと、そして用意されたようにスムーズに答えているものがあった。自信をもって言えている部分は、個人的な習い事や趣味のこと。それ自体は彼らが自分の身体から離れた所で起きていることに対して、自覚をもって何かを言える、政治的な主体になりえていないことをあらわしてる。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と思うような中学生の表情・たじろぐ仕草が焼き付いてはなれない。彼らを戸惑わせる質問と、彼らの個人的な生活のあいだにはへだたりがある。映像を見ていて浮き彫りになるのは、その"へだたり"だ。あるいは想像力をさえぎる"壁"と言い換えてもいいかも知れない。彼ら中学生はその"壁"を前景化させるメディウムである。"壁"が前景化したところで、映像化し"中断"しているのがこのDVDたちであるように見えた。

キャラバンカーが東京をめぐり、福島に戻った時、福島と東京の中学生のメディウム同士が出会うとき、その"壁"の秘密に出会えるのだろうか。この一ヶ月、目が離せないプロジェクトになってきた。


ー意思決定をする子どもたち 山本高之プロジェクト《きみのみらいをおしえます》

同時に進行している、自分が今、学びながら実践しているプロジェクト《きみのみらいをおしえます》。山本さんは、「占いを自分でつくってみて」と投げかける。そこに、子どもがつくった見本は見せない。世界各地の占いの例を見せて、身近な素材でそれをどうやってつくるか、その方法は示さない。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と子どもたちは思っていたはずだ。占いのルールの作り方や小屋の作り方、衣装の作り方は、スタッフの提案や子どもたちの閃きをもとにつくられたものだが、それらはすべて「どうしよう」という戸惑いを経て生まれたものだ。こうすればできるよ、という方法を指定されたものではない。

想像力の射程範囲内の、少し外側にゴールが設定されている。がんばらないと辿りつけない。少しずつ、つくりながら、想像力を拡張していく感じだ。想像力の限界と、その先にあるゴールの間の余白で、彼らの知っているイメージ・知識が総動員される。そこで、イメージのコラージュができあがる。子どもたちはメディウムになって、彼らに誰かが与えたイメージや知識を反映する。

しかし、山本さんは、その想像力の拡張を、撮影することで"中断"させる。もっと練習したり、クジや占いの文言のバリエーションを増やすこともできるが、ある程度で"中断"させているのだ。しかし、この"中断"によって、新しい時間が生まれる。それは映像になった自分の姿をウェブサイトや展覧会で観るときだろう。フレームで切り取られることによって、別の「占い遊び」だと思っていたものに意味合いが付与される。こうして、子どもたちの経験は、「遊び」「撮影」「展覧会」「インターネット動画」というように、メディウムの連鎖の中を移動する。実際に制作していた時とは違う、経験の拡張がすすむ。

一方で、子どもはここで意思決定者でもある。何をつくり、どんなふうにするかは彼らが決めている。彼らが決めた「あなたの運勢」を、他者に伝えるリスクと快を両方負うことになっている。決して政治的な意志決定でないとしても、彼らは決定し、伝えることを、日常的に実践している主体であるようにも見える。主体としての子どもと、メディウムとしての子どもが同居している状態をつくりだしている。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクトを運営しながら、観客としてPort B《Referendum》を体験する。その間で、考えたこと。





2011/10/17

文脈化しにくい「思い出」

「子どもらしさ」を乗り越える方法を考えたいと思っている。

言葉、建物、プログラム。この3つがうまく合わさって、子どもは子どもらしさを、学生は学生らしさを、老人は老人らしさを手に入れていく。「らしさ」に基づいて自分を文脈化し、語ることができる。

人を言い表す「言葉」がある。「わたし」「あなた」「高齢者」「障碍者」「子ども」「学生」「社会人」などなど。それらの言葉を使ってアイデンティティを記述する。その言葉を補完する「建物」がある。「学校」「老人ホーム」「オフィス」とかそういうもの。これらにしたがって、所属・所在を記述する。こうして自分以外の人が、この人が誰だかわかるようにするための仕組みが出来上がっていく。そして、その枠組みの中で物語を生む「プログラム」がある。学校なら授業、オフィスならデスクワーク、老人ホームなら、お遊戯、という具合だ。ぼくは、ここでこんなことをしたよ、あんなことをして楽しかったよ、と語るネタになる部分だ。ネタを組み立てて文脈にしていく。

ここでの問題は、ネタが用意されている、ということである。そしてそれは、「楽しかった」「◯◯だった」と語られることを予定している。修学旅行の「思い出づくり」とかまさにそれ。「思い出」は「らしさ」をつくりだすシステムの重要な要素だ。

アー児を通してぼくは、参加した人のために、語るためのネタを用意している。それが「思い出」になるといいなと思っている。しかし、それは「子どもらしい思い出」との距離をとって、文脈化しにくい「思い出」になるよう仕掛けている。

子どもは、子どもらしくない自分の要素(文脈化できない要素)に気づいて、オシャレをしたり、音楽の趣味を変えたり、旅をしたりして「別の文脈」を引き寄せて、少しずつ大人になっていく。

アーティストの作品は、もちろん子どもらしくない。その中に自分の「思い出」の断片があるとしたら。その断片に、どんな文脈を引き寄せるのかは彼ら次第。面白い大人になってほしい。