3月16日(土)、17日(日) 「小金井アートフルアクション!」のシンポジウムに出演させていただきます。16日は、東京学芸大学でデザイン教育を実践されている正木賢一先生と。17日は、多彩なゲストのシンポジウムに。今年度の《Y時のはなし・イン・児童館》や《放課後メディアラボ》の活動紹介、児童館という場所の可能性について話をする予定です。
お時間があるかた、アートフルアクション!にご興味をお持ちの方、ぜひぜひご来場ください。なお、16日は13:45から山本高之さんと、Art Center Ongoingの小川希さんのトークも!こちらオススメです。
====
3月16日(土)session 7 [16:00-16:45]
放課後のユートピア
―児童館というコミュニティ
臼井隆志(NPO法人アーティスト・イン・児童館理事長)
×正木賢一(東京学芸大学准教授/NPO法人アートフル・アクション理事)
====
3月17日(日)session 12 [18:15-20:15]
アートが学校にはいるとき
―芸術文化活動と地域社会の今後
[挨拶]稲葉孝彦(小金井市長)
港大尋(作曲家/ピアニスト)
臼井隆志(NPO法人アーティスト・イン・児童館理事長)
鎌田尚子(小金井市立南小学校図工科教諭)
鉄矢悦朗(東京学芸大学准教授)
正木賢一(東京学芸大学准教授/NPO法人アートフル・アクション理事)
森司(東京アートポイント計画ディレクター)
====
ということで、今プレゼン内容を考えているところ。明日の1時に小金井、ということは12時には電車に乗らなきゃ。
プレゼン内容を考えるにあたって、これは話したほうがいいかな〜と思っているのは、こういうふうに子どもと何かやりたい、と考えるようになったきっかけのこと。よく聞かれるし、自分でもなんだったけってよく思うから。
以下、回想。
高校2年生の頃に腰痛で走れなくなって(陸上部だった)、そのころまでは大学でも陸上を続けたいと思っていたけれど、腰痛で限界を知って、それまで好きでいつかやりたいと思っていた映画製作の仕事を目指そうと思った。それで、美大に行こうと決意した。
子どものことを考え始めたのは高校3年生のとき。友達と将来なりたい仕事の話をしていたときに
「おれは慶応の法学部にいって弁護士になる」とか
「埼玉大にいって先生になる」とか
「立教の経済にいって銀行で働く」とか
立派な将来を語っていて、すげーオレ具体的にそんな将来像ないわ…って思ってビビったんだけど、そのとき強烈な違和感を抱いた。わかるけど、なんかそれってほんとにお前の言葉なの?って思うような、変な感じ。
なんか大人たちが想定したわかりやすい「未来」とか「社会」とかいう幻想が憑依して、彼らにそういう言葉を語らしめているような、そんな気がしてすごく不安になった。
みんな将来の夢語るときは、ゾンビになっちゃうんだ!おれはこんなふうになりたくない!いやだー!みたいに思って、当時の彼女に友達の批判を言っていた。(今思えばよく聞いてくれたよなあんなきつい話…)。
で、その頃だ。子どものことを考え始めたのは。彼らにそういう幻想が憑依していったのは、一瞬ではなくきっと長い時間をかけて、だ。これは何か幼少の頃に原因があるのかもしれない…。ん?ていうかもしかして、これが「教育」の成果なのか・・・!?と思って、がびーーーーん!!!!!と頭の中で何かが炸裂したような感覚になった。
自分の意志や欲望が、社会のそれにハッキングされて、意志を失った言葉が身体を支配していくような、そういう恐怖を感じた。これは、そうじゃない子ども、つまり、自分の意志を持ち、社会の期待を裏切って、別の夢を見る子どもに出会わなければ、出会いたい、と思ったのが高校3年生の頃だった。(自分自身が17歳とかで、不安定きわまりないにもかかわらず)
子どもたちが何か「共通の夢」を見させられようとする。これが「教育」なるものなのか。もしかしたらそうかもしれない。「別の夢を見る」そのためには何か方法が在るのかもしれない。
そう思っていたときに出会ったのが、アートだった。美大に行こうと思っていたぼくは美大受験のために予備校にかよったのだけど、そこで出会ったヘンテコな人たちはヘンテコで、出会ったことのない変な欲望を持つ人達だった。今でも一緒に仕事をさせてもらっている西尾美也さんは、このとき予備校の先生をしていた。変で面白いな〜と思ったけど、自分がアーティストになる、というのはなんかちょっと違った。で、そんな気持ちで芸大の先端を受験したら落ちた。超落ち込んだしふてくされた。(ちなみに半年後に慶応大学の環境情報学部のAO入試も面接までいって落ちた。)
浪人していた年、ビル・ビオラの個展が森美術館でやっていた。1人で初めて美術館に行った。人間が水に飛び込む姿を逆再生していたり、大量の水を浴びるのをスーパースローで再生したりして、人間の身体を幻想的に描き出す作家で、その作品にずいぶんと見入ってしまった。そこに「別の夢を見る」そのための方法のヒントがある気がした。しかし、それは答えではなかった。
アートって超面白いけど、なんだか「インスタレーション」とか「サイトスペシフィック」とかっていう美術用語がすでにあって、その文脈をズラしたり更新したりするためのもので、具体的に教育に介入してる印象はあんまりなかった。
教育系でワークショップを実践している団体や個人のもとで、ワークショップのお手伝いをいろいろとさせてもらった。目的と方法を完璧に落としこむ、戦略をそこで学んだ。いま思えば、ここで進行表の作り方や、企画の立て方、目的と方法の一致のさせ方など、かなり実践的な事を10代のうちから学ばせてもらっていた。今でもお世話になった方々にはすごくすごく感謝している。
しかし、そうした経験のなかで思ったのは、「子どもってこういうもの」っていう想定をすでにしていないか?ということや、「ワークショップ」というイベント自体が美術館や特定のスペースで開催されていて、保護者が電車や車で子どもを連れてこないと子どもは参加できない。つまり、子どもが自分の意志でワークショップを選択しているとは必ずしも言えない。大人の都合の中で展開していて、ぼくがびっくりするような「別の夢をみる子ども」には出会えないのだ。そういう子がいたとしても、変な奴として変なやつ扱いされている。アートだとか表現だとか、変なことに価値がある場所なのに・・・!
子どもが自分で選択して行ける場所で、なおかつアートというか表現活動が入り込めそうな場所…ということで自分の経験を思い出したり人に相談したりしているうちにいきあたったのが、児童館だった。
このとき、大学1年生。1年浪人してるから、20歳になる年。
あれからもう6年。
「20歳のころからやってる方法なんて、もう通用するわけないじゃん。別の方法に変えるべき時期なんだよ。そういう時期って一気にくるんだよ」
と、今日りのさんに言われた。変化しなければならない。ここで変化できなければ、終わるだろうな本当に。
で、「別の夢を見る子ども」には出会えたのだろうか?
うん、たくさんいるなぁと思う。彼らが描く絵や、書き間違えた言葉や、時折言う大人味たいなこと(を言おうとして変な言い回しになってること)を聞くと、ほっとする。ああ、こういうところにいくつもの別の夢がある。早くから社会が見る夢に憑依させられてる子どももいて、大変そうだなと思うけど、まだ取っ払える。一度取っ払ってから、あえてその夢に乗ってみよう、と思うならいい。
彼らがみている別の夢は、社会が未だ必要だと思っていない、未知なる知性。そこに形が与えられ、社会的な知性になっていく変化の過程をみること、つくりだすことが、アージをやっている喜びだ、というとなんか抽象的だけど、うまく言えないから難しくいうとこういう感じだ。
さっき「アートって…」と批判めいたことを描いたけれど、アーティストも別の夢を見て、そして社会にそれに共感し、協働する人と共に、未知なるものを新しい知性として提示する。だからぼくはアートを尊敬しているし好きだ。
子どもとアーティストの方向性は同じだよね、ってみぃちゃんが昔言っていて、すごくはっとした。はたから聞いたら耳タコな言説かもしれないけれど、質の違う響きだった。
あーなんかこの感じ、うまく伝えられないかなぁ。
明日のトーク、うまくいくかなぁ。