東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を今更ながら読んだ。ネットは絆を強くし、リアルは弱い絆でつながっている。特定のコミュニティ(
=「村」)に固執するのではなく、複数のコミュニティをあるていど無責任に渡り歩き、偶然性に身を委ねながら「観光客」としてできることを実践していくべし、という現代の人生論。
ぼくはこの本の内容に素直に共感した。ぼくは責任感というより自己顕示欲が強いからか「村」みたいなものに固執する癖がある。それが悪いことだとも思わないけど、その一方で「あるていど無責任」ということが可能な社会だというのもなんとなく知っている。
例えば飲み会もそうだろうなと思う。計画的に設計された飲み会はあまりにも退屈で、なんとなくいい加減に集まった飲み会がやたらと楽しかったりする。呼んだり呼ばれたり、みんなあるていど無責任に適当に集まってきて、コミュニティが横断されていくのはいいことだと思う。「せねばらなない」な〜んてこたないのだ、という気になってとても楽だ。
ただ、飲み会ではなく仕事だとしたらそう簡単にはいかない。「観光客としての生き方で働く」って例えばフリーランスのライターや編集者、デザイナーの人を思い浮かべる。フリーランスで生きていけるのはやっぱり強い個人で、ぼくはそういう人たちをとても尊敬している。観光客的フリーランスで働いて生きていくには、安定した技術と、新しい場所や取り組みを恐れない勇気がいる。
『弱いつながり』では、観光は「表層を撫でるだけ」だけど、その場所についての本を何十冊読むよりも強い体験になる、ということが書かれている。観光に期待しすぎてはならず、その場所にいって表層を撫でることの感度をあげていく、みたいな話。この話にやたら共感できたのには理由があった。
思い返せば大学時代に所属していた加藤文俊研究室が実践していたこともそういうことだった。この本よりも以前から『キャンプ論 あたらしいフィールドワーク』というかたちで提案している、旅のかたちがある。
=「村」)に固執するのではなく、複数のコミュニティをあるていど無責任に渡り歩き、偶然性に身を委ねながら「観光客」としてできることを実践していくべし、という現代の人生論。
ぼくはこの本の内容に素直に共感した。ぼくは責任感というより自己顕示欲が強いからか「村」みたいなものに固執する癖がある。それが悪いことだとも思わないけど、その一方で「あるていど無責任」ということが可能な社会だというのもなんとなく知っている。
例えば飲み会もそうだろうなと思う。計画的に設計された飲み会はあまりにも退屈で、なんとなくいい加減に集まった飲み会がやたらと楽しかったりする。呼んだり呼ばれたり、みんなあるていど無責任に適当に集まってきて、コミュニティが横断されていくのはいいことだと思う。「せねばらなない」な〜んてこたないのだ、という気になってとても楽だ。
ただ、飲み会ではなく仕事だとしたらそう簡単にはいかない。「観光客としての生き方で働く」って例えばフリーランスのライターや編集者、デザイナーの人を思い浮かべる。フリーランスで生きていけるのはやっぱり強い個人で、ぼくはそういう人たちをとても尊敬している。観光客的フリーランスで働いて生きていくには、安定した技術と、新しい場所や取り組みを恐れない勇気がいる。
『弱いつながり』では、観光は「表層を撫でるだけ」だけど、その場所についての本を何十冊読むよりも強い体験になる、ということが書かれている。観光に期待しすぎてはならず、その場所にいって表層を撫でることの感度をあげていく、みたいな話。この話にやたら共感できたのには理由があった。
思い返せば大学時代に所属していた加藤文俊研究室が実践していたこともそういうことだった。この本よりも以前から『キャンプ論 あたらしいフィールドワーク』というかたちで提案している、旅のかたちがある。
加藤先生のいう「キャンプ」は、東さんのいう「観光客」よりももう一歩踏み込んで、ゼミ生たちがその土地に暮らす人たちへのインタビューをし、ポスターやマップにして返還する、という、観光客とコミュニティの間に贈与関係を成り立たせている。その意味で「責任」は「観光」よりも重い。偶然性の範囲がデザインされているので、出会った人の話が聞けたりして深まりもある。「観光」のほうが自由だが、経験の深度は「キャンプ」のほうが深い。この「キャンプ」をいくつか経験しているおかげで、ぼくが旅行に行った時に、無責任にぶらぶらしつつも、裏路地にいったり人に話しかけたりするのを躊躇しない姿勢ができたんだろう。
もうすぐ30歳になるがまだまだまだまだいろんなことをもっと知りたいし深い経験値のためのあくなき観光をつづけたいと思うので、この2冊について考えたことをなんとなく整理した。
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