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2015/05/01

なんかよくわからない感じ、戯れの中で見つかるカタチ

タイにいる友だちとスカイプで話し込んだ。1時間くらいで要件だけ済ませることになるかと思ったら、最近の仕事のことを話したり、恋人とどうだ、とか、これからどうやって働くか、とか、そんな話をしてたら0時を回っていた。

その友だちは、なんかよくわからない「感じ」を共有できる貴重な人だ。言葉が意味通りに伝わりあってるわけでもなく、録音して書き起こしたらこれなに言ってるか全然わかんないよな、っていうような、そうやって言葉をまばらに配置して、互いの頭の中で星座を描くみたいに点と点を結んだり解いたりして遊ぶ。遊ぶ中で、あ、これで大丈夫だ、やっぱそうだ、という何かよくわからない「感じ」を確かめていける。


モノゴトを作ろうとするとき、目標を決めて、狙いを定めて、戦略を作っていく仕事の仕方と、なんかよくわかんない「感じ」をふわふわした言葉や身の回りのものを触って確かめながら作っていく仕事の仕方と、大きく2つある気がしてる。

人との付き合い方も、上司や同僚と戦略を作って競合と戦うようなやり方と、仲間とともによくわからない「感じ」をシェアリングしながら生み落していくようなやり方と、分けられる。

もちろん、それはスペクトラムで、仕事となれば極端にどちらかに偏るとしたらそれはそれで問題がある気がする。

「感じ」の共有から生み落とされるものを仕事にするのは容易じゃない。ぼくにはまだまだそれでご飯を食べられるほど美しく生きていない。でも、面白くて興奮することはその「感じ」からしかやっぱり生まれないし、それはなにもないところから突然現れるものじゃなくて、地下水脈が通ったところに湧き上がるんだと思う。それが人との言葉とイメージの戯れの中で、カタチをもち、物語になるのだと思う。そうだと思ってやっていけるかどうか。わからないけど希望はある。