活動に関わっていただいている方にぜひコメントを頂きたいと思い、コンセプトブックの原稿を期間限定で公開します。「こういうこともうちょっと書いたら?」「こういう内容はいる/いらないんじゃない?」など気軽にコメントください。よろしくお願いします!
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アーティストの制作×子どもの生活 ―協働の基盤をつくる―
臼井隆志/アーティスト・イン・児童館プログラム・ディレクター
アーティスト・イン・児童館
〈アーティスト・イン・児童館〉とは、子どもの遊び場である児童館をアーティスト(現代美術家)の作品制作のための作業場として活用するプログラムです。
2008年にスタートしたこのプログラムでは、練馬区立東大泉児童館に西尾美也さんを招待し《ことばのかたち工房》(2008-2010)を、北澤潤さんを招待し《児童館の新住民史》(2009)を実施。2010年には中高生対応事業を実施する練馬区立中村児童館に拠点を広げ、Nadegata Instant Party(中崎透さん+山城大督さん+野田智子さん/以下:ナデガタ)を招待した《Let’s Research For Tomorrow》を展開しました。
児童館で遊びたい子どもたちとつくりたいアーティストが出会い、別々の目的をもちながら協働して作品をつくり、活動をふりかえってそれまでの経験を意味付けていく。この一連のプロセスを通じて、子どもとアーティストのほか、児童館の職員やそこに関わるあらゆる大人たち、運営する私たちが新しく学び合う関係性をつくる基盤として、このプログラムを提案しています。
児童館は、学校を終えた子どもが放課後に利用する遊びのための施設です。そこでは、ドッジボールができ、マンガを読むことができ、冬は暖かく、夏は冷たい水を飲むことができます。そこに行けば誰か友だちがいて、新しい友だちをつくることもできます。開館時間中の出入りは自由です。児童館に行く/行かない、卓球をする/しない、料理教室に参加する/しない…これらのことを選択しながら、子どもたちは放課後の生活を送っています。
しかし、子どもたちの生活は彼らの選択だけでは成り立っていません。学校に行かなくてはならない、塾や習い事に行かなくてはならない、と決められていることも多くあります。児童館も決められた選択肢のうちの1つになっていることもあるでしょう。そうして子どもに用意された選択肢のほとんどは、子ども(あるいはその親)の目的を受け入れるためにつくられています。
〈アーティスト・イン・児童館〉を考案する以前に子ども向けワークショップのスタッフや児童館でのボランティア活動をしていた私は、こうした子どもを取り巻く環境に疑問を持っていました。世の中には、私たちのあらゆる目的を受け入れるサービスが用意されているわけではないし、何かを実行するためには他者の目的と折り合いをつける工夫が必要です。子ども同士が遊びやスポーツなどを通じて関係をつくることは大切だけど、子どもと遊びやスポーツとは別の目的を持つ大人が出会い、試行錯誤することも重要でしょう。しかし、多くの子ども向けサービスの中では、そのサービスを提供する大人以外との接触はほとんどありません。
こうした環境への疑問から、〈別の目的を持つ大人〉の1人として、あるアーティストを児童館の子どもたちに引き合わせることにしました。さらに、彼には子どものための作品ではなく自分のための作品をつくってほしいとオーダーしました。このオーダーのねらいは、大人が子どもを受け入れる〈向き合い〉の関係だけでなく、受け入れつつ自分の目的を達成する〈寄り添い〉の関係をつくることです。子どもたちはアーティストの制作行為の中に遊びを見出すかも知れないし、アーティストは子どもたちの遊びの中に制作のヒントや素材を見出すかも知れない。別々の目的をもちながら、1つの場を共有し、モノゴトが生まれていく。そんな風景を見てみたいと、私はこの出会いに希望を込めました。 それが〈アーティスト・イン・児童館〉の始まりです。
〈リサーチ〉〈制作〉〈アーカイブ〉
〈アーティスト〉とは、モノを作ったり、パフォーマンスをしたりして作品を発表し、言葉を超えたコミュニケーションを持とうとする人たちのことです。美術、音楽、演劇などのジャンルの中で、〈アーティスト・イン・児童館〉では特に、公共空間や日常の行為を素材に活動する現代美術家に焦点をあてています。
児童館という子どもたちの生活圏で、子どもとアーティストが出会ってきたこれまでの活動をふりかえってみると、そのプロセスの中に3つのセクションを見つけることができます。1つはアーティストとプランを考える〈リサーチ〉、2つめは子どもを巻き込みながら実施する〈制作〉、3つめは活動の記録や生まれた作品を公開する〈アーカイブ〉です。それぞれのセクションで子どもの生活とアーティストの創作活動が交差している場面を見い出してきました。
想像力を揺り動かす〈リサーチ〉
/Nadegata Instant Party《 Let’s Research For Tomorrow》
〈リサーチ〉のセクションを重視したのが、練馬区立中村児童館でアーティストユニットNadegata Instant Partyが作品のプランを考えるプロジェクト《Let’s Research For Tomorrow》です。中高生対応事業を実施するこの児童館で、テレビ番組や映画をパロディーにしながら〈出来事〉をつくりだす彼らとともに、児童館から遊びの域を超えてみたいというのが私の動機でした。まずは中高生との関係づくりが重要だと考え、Nadegataのメンバーと共に遊んだり行事を手伝ったり職員や館長と会話をしたりしながら〈リサーチ〉のためのプロジェクトを展開しました。
児童館に出入りする中高生は何かを成し遂げることを目指すのではなく、のんびり過ごすことを目的としていて、小さな喧嘩や恋愛など甘酸っぱい人間模様を繰り広げながら、スポーツや音楽、お喋りに興じています。この状況を面白く読み取ったナデガタは、《全自動児童館》というプロジェクト・プランを考案しました。児童館で日頃行われている遊びやバンドの活動を、演劇家や音楽家とのコラボレーションで[パフォーマンス]に見立て、[入場料5000円]のフェスティバルをつくりだすというアイデアです。
現状から飛躍したこの内容ですが、2011年2月26日にこのプランを発表するイベントでの、メンバーの山城大督さんと児童館に通う18歳の少年とのやりとりに一つの光明を見出しました。
「例えば、ちょっと想像してみて。チケットぴあで「児童館で5000円のフェスがあります」って書いてあったらどう思う?」という山城さんの問い掛けに、半ば無理やりステージに上げられた彼は「いや、絶対誰も来ないでしょ。少なくとも友達は買わない。値下げしろって言われるから。」と答えました。
「そうやな。でもやり方によっては、友達関係のその外側の、東京中、日本中、もっと言えば世界からお客さんが来るかも知れへんやん」
この提案に対して少年が何をイメージしたかはわかりません。インターネットで児童館を会場にしたフェスのチケットが売られている様子を、うっかり想像してしまったのではないでしょうか。ぼくが見た光明とは、このやりとりと〈リサーチ〉のプロセスが生み出した、起こってもいない出来事の〈想像〉です。アーティストが児童館に通いながら様々なイメージをめぐらせ、児童館の中に「ここで見たことない事が起こるかも?」という気配が漂っていきました。あるイメージに輪郭を与え現実をつくる〈制作〉のプロセスへと移行するには、〈想像〉を伝播させる関係性を育む〈リサーチ〉が重要な役割を果たします。
遊びと制作を転換する〈制作〉
/北澤潤《児童館の新住民史》
アーティストが提案するイメージを具体的な形にしていく〈制作〉のセクション。ここでは、アーティストの制作行為と子どもたちの遊びが交わり、当初のイメージからズレが生じ、予想外の展開を見せていきます。
ある場所の日常に寄り添う[島][村][民]をキーワードに別の日常をつくりだす北澤潤さんのプロジェクト《児童館の新住民史》では、北澤さんとスタッフが自らを[児童館の新住民]と称して、出会った出来事をA5サイズの[手記]にひたすらスケッチと文章を書きこんでいきました。児童館の[住民]である子どもたちや職員の日常の姿や、[新住民]との交流の軌跡を描き出す仕事道具であったこの[手記]ですが、次第に子どもたちが「わたしも書きたい!」と言って彼らからペンと紙を受け取り、[手記]を描き始めます。この子どもたちの意志は、[新住民]とか言うヘンテコな大人と関わりたい、という欲求が変換されて出てきたものでしょう。ペンを奪ったり、紙を奪ったり、書くのを邪魔したりして試行錯誤の結果編み出された関係づくりの方法です。しかし、その方法は図らずして、[住民]から[新住民]へ、つくり手の立場への転換を生み出していました。
もちろん、子どもたちの関わり方はこのような積極的なものだけではありません。「意味分かんない」と言って関わらない子も当然います。子どもたちの反応を期待しても、何も返ってこないこともあります。そもそも、遊びは形ではなく楽しみを味わう時間と経験を生み出すことを目的にしています。一方で美術は、絵画、彫刻だけでなく、映像、言葉などの多様なメディアを用いて作品を残します。完成するまでの時間が苦しいものであっても、形にして生産することを目的にしています。その二つの目的の間にズレがあるのは明らかです。
しかし、その大人が作っているモノやその環境を見てなにか楽しそうなことがありそうだと直感し関わりを求めたとき、アーティストと子どもの双方に試行錯誤が必要になります。アーティストは子どもたちの欲求に寄り添って、予定していた制作の方法を変えていくことが求められ、子どもたちは自分の欲求とアーティストの要求の間で折り合いを付けながらその場を楽しむ方法を編み出すことが求められます。ズレながら形づくられていく北澤さんのプロジェクトでは、遊びの欲求と制作の欲求が寄り添いすすむルートを模索しました。そして、そのルートから生まれた400枚以上の[手記]は展覧会や記録集を通じて、それまでの活動の時間とともに〈アーカイブ〉として児童館の外へと開かれていきました。
過去とのつながりを更新する〈アーカイヴ〉
/西尾美也《ことばのかたち工房》
これまで一緒に活動してきたアーティストは人との関係性を作品の中心に捉えているため、写真や映像による〈アーカイブ〉を発表することが多くなります。活動に関わっていた子どもや地域の人びとに活動の経験を想起させ、「過去とのつながり(アイデンティティ)」を更新するのが〈アーカイブ〉のセクションです。 西尾美也さんのプロジェクト《ことばのかたち工房》の活動記録集を見た当時10歳の少年が、その中に知っている人をみつけ、「あ!これあそこの花屋のお姉さんじゃん!」と驚いているのを見たことがあります。児童館で遊びでつくっていたモノを、知っている人が身につけている。なぜ?と疑問を持ったでしょう。
人間の装いの行為とコミュニケーションを操作する西尾美也さんは、日頃身につけている[仕事着]に隠れていた物語([ことば])が[かたち]になったら…もしかしたらありえたかも知れない世界を、スタッフや子どもたちの想像からつくり出す仕組みを考案しました。 できあがった[ことばのかたち]をインタビューした人びとのもとに届け、それを身につけてもらった写真を撮影します。普段の[仕事着]と[ことばのかたち]を身につけた姿を対比した2枚の写真が作品になります。そして、その写真を公開する〈アーカイブ〉は、作品と子どもたちの間に再会のルートを導き出しました。
数年後、彼が「児童館で古着で何か作ったな、あれはなんだったんだろう?」とふと思い出したとします。その解釈は彼の年齢や心境に応じて変わっていくことでしょう。現代美術はやはり〈分からない〉ものです。だからこそ、私たちの生活の中にある〈分かったつもりになっているもの〉を〈分からないもの〉として見せ、問いを投げかけることができます。このプロジェクトに関わった子どもや大人は、この〈分からないもの〉の思い出を持っています。その思い出は何度も新しく解釈をすることができ、それによって現在をいかようにも意味付けることができます。〈アーカイブ〉は解釈の手がかりを残しつつ明確な意味を示さない、いじわるだけど自由な場所であり、活動に関わった人びとの「過去とのつながり(アイデンティティ)」を更新するキッカケとして存在し続けます。
部屋の中で記録集をふと取り出したとき。偶然通りすがりの展覧会に自分が関わった作品が飾られているとき。Googleで自分の名前を検索したら写真がヒットしたとき… 展覧会や記録集、ウェブサイトなどの形態をもって移動可能になった〈アーカイブ〉は、子どもたちと再会し、現在と当時の記憶をつなぐ様々な経路を持っていると言えるでしょう。
X・イン・Y ―組み替え可能な協働の基盤
〈アーティスト・イン・児童館〉は、〈リサーチ〉で場の想像力を揺り動かし、〈制作〉の過程で遊び手とつくり手がゆるやかに立場を入れ替え、〈アーカイブ〉によって多様な人びとと共有し更新できる記憶を生み出します。児童館で居合わせた子どもと大人(アーティスト)の間に新しい関係が開かれ、その周囲にもゆるやかに連鎖していく、人びとの試行錯誤のプロセス、学び合いの関係性を生み出す基盤です。そしてそれは例えば、児童館の代わりに「老人ホーム」、アーティストの代わりに「ヒップホッパー」(=〈ヒップホッパー・イン・老人ホーム〉)というように、組み替えることが可能です。
現在、現代美術の分野では、人々と積極的に関わりながら新しい表現を試みるアーティストたちが続々と現れています。一方で、教育、福祉の分野でもワークショップなどの活動のスタイルを用いた事業が次々に作られています。これらは近代がつくりだした分類・管理の社会への違和感から生まれた代替案であるといえるでしょう。こうした文脈の中で〈アーティスト・イン・児童館〉の活動も生まれ、育まれてきました。
私たちは今、生活を支える仕組み自体を組み立て直していく変革期を迎えています。これから先、ひょんなことから考え方や生活の仕方が違う人達と居合わせ一緒に何かをつくっていくような、他者とのゆるやかな協働の機会に多く遭遇することになるはずです。私はこれまでこの活動を通じて、子どもとアーティストという別々の文化を持った人びとの間に立ち、その交点をつくるために試行錯誤を繰り返してきました。当然その試行錯誤は、アーティストにも子どもにも児童館の職員にも当事者として要求されます。こうしてこれまで出会わなかった人びとと共存の方法を編み出すプロセスは、私にとって重要な充実した時間です。
お互いのものごとのやり方を共有しながら、部分的に目的を共有して協働する。〈アーティスト・イン・児童館〉は、活動の当事者が協働の方法を学びとっていくための基盤であり、分類・管理の社会から脱分類・協働の社会へと組み替えていく1つの方法であると考えています。この活動に限らず、こうした〈組み換えの方法〉を提案する事業が持つ可能性と今後の展開を、本書を通じて共に考えていただければ幸いです。
アーティストの登場によって児童館に多様性が生まれ、それによって普段では見られないような〈物語〉がつくられたという事例は貴重な話でした。
返信削除それで加えて勝手に思ったこととして…
この記述をもっと他人に伝えやすくするために、
サイトスペシフィックな児童館から離れた箇所があればいいな。他の分野、過去の文献からの事例などがあってもいいでしょう。
現場で起こった出来事についての深みは充分あります。それが客観的な視点で、他の事例とどんな違い、共通点があるのかの話があるとなお伝わりやすい…と思いました。
例えば、以下のに関して。
「分類・管理の社会から脱分類・協働の社会へと組み替えていく1つの方法であると考えています。」
「〈リサーチ〉で場の想像力を揺り動かし、〈制作〉の過程で遊び手とつくり手がゆるやかに立場を入れ替え、〈アーカイブ〉によって多様な人びとと共有し更新できる記憶を生み出します。」など。
児童館のように、ある程度、役割と目的が固定された関係性の施設は他にもありますよね。
病院とか。そこでのアーティストの協働や、異なる目的を持った第三者のような存在はどうだったか。
また縦軸として歴史的にアーティストや第三項的な存在はどうだったか。寺子屋はどうだったかとか。
勝手にいろいろ書きましたが、現場で得た有用な見解を、方法を他でも通用可能な道具になるといいなと思った次第です。
でも、あえて文献や歴史を参照していなさそう。もしそうだとしたら理由はありますか?
ぼくには、文章を書いている臼井くん自身の立ち位置が少しあいまいな気がしました。個人的には、臼井くんがもっと自分の色を、我を出すべきだと思いました。自分の責任で、自分の思想として「コンセプト」を表明すべきだと思いました。
返信削除どういうことかというと、まずこの文章では、「アーティスト・イン・児童館」という場所で、あたかも子供たちとアーティストが自然な化学反応で引き寄せ合い、つながり、作品制作が行われたかのように書かれています(「児童館で遊びたい子どもたちとつくりたいアーティストが出会い」など)。どのようなアーティストが、どのような過程で選ばれたのか。またそもそもなぜアートなのか。その「出会い」の裏側はあまり描かれていません。しかし現実には、自然に子供たちとアーティストが接点をもったのではなく、「何か」がその両者をつなげたわけでしょう。そしてその「何か」こそ臼井くんなのでしょう。だから臼井くんは、「これこれの理由から、他ならぬおれがこの二つをつなげたんだ」という態度になってもいいはずです。
こんな部分にこだわるのには理由があります。ぼくは主語のあいまいな文章や「自動詞」的な文章をあまり信用しません(「AがBをCする」という「行為への意志」が含まれるのが「他動詞」的文章。「AがBになる」という「自然な変化」が「自動詞」的文章)。そこにはあたかも「こうなるのが自然なんだ/理想なんだ/流れなんだ」というような、個人の趣味嗜好を離れた事柄であるかのような、一種の「客観性の外見」があらわれるけど、実はそれは客観性ではなく、ただのあいまいな物言いや責任の所在の不明瞭化だったりするからです。
実際、臼井くんが「おれが子供とアーティストという二つをつなげたんだ」と言えば、必ず誰かが「どうしてそんなことするんだ? そんなことに価値があるのか? おれには価値があるとは思えない」と突っ込んでくるでしょう。そのとき臼井くんは「おれは価値があると思う」と答えるでしょう。相手に対して、「お前が知らない価値があるんだ」と答えなければならないでしょう。いわゆるパターナリズム(上から目線)の問題です。これを背負うと、ひとは最終的には必ず「社会思想」を語らなければならなくなる。そしてそれがいいことだとぼくは思うのです。ぼくは、もっとはっきりとした「臼井くんの社会思想」が聞きたいです。
「現在、現代美術の分野では、人々と積極的に関わりながら新しい表現を試みるアーティストたちが続々と現れています」も「私たちは今、生活を支える仕組み自体を組み立て直していく変革期を迎えています」も、ぼくはずるい物言いだと思います。最初から「おれはひとと関わるアーティストに価値があると思って招いている、なぜなら…」とか、「おれは今こそ生活を支える仕組みを組み立て直すべきだと思う、なぜなら…」と書いてほしい。そこが積み上げられてないから、最後に「分類・管理の社会から脱分類・協働の社会へと組み替えていく」と言われても、臼井くんが後者に価値を認めていることは伝わるし、読者も後者に価値がありそうだと自然に思うだろうけど、どうしてそれに価値があるのか、ぼくにはよくわかりません。説明されてないし、表明されてないと思います。
「コンセプトブック」である以上、活動の「記述」だけでなく「コンセプト」こそ知りたい。その「コンセプト」は、やっぱり個人の強烈な思想でしかありえないんじゃないかと、ぼくは思います。客観性を排して、自分の意志として語ってほしいと思いました。そうじゃないと、誰がその「コンセプト」に責任をもつのかわからない。ぼくは誰を応援すればいいのかわからないし、誰に反論すればいいのかわからない。「アーティスト・イン・児童館」は「主語」たりえないでしょう。それは「日本」や「市民」や「被災者」が主語たりえないのと同じことです。「主語」が限定されないところに対話は機能しません。臼井くんの巨大な署名が載った思想を、ぼくはもっと聞きたいです。
長くなりましたが、細かい内容の問題ではなく、大きな「構え」の部分に関してコメントさせていただきました。