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2015/12/30

落ち着きと解像度 ー27 歳最後の投稿

28歳が足音をたてて近づいてくるところで、年末はカウントダウンが二つあるんだよな〜と思いながらキーボードを叩く。大晦日が誕生日で「慌ただしい日に生まれましたね〜」とよく言われるのだけど、そのせいかそそっかしい人間になったものだと思う。

何かまとめたいことがあるわけじゃないけれど、年末なのでぼーっと今年のことを振り返ると、仕事の仕方が大きく変わって、考え方もいろいろ変わった。来年は結婚もするし、引越しもする。年明けには独身最後ってことで一人アメリカ旅行もする。自分のことを大事にしなければ、と思ったのは2年ぐらい前で、正直つらい時期だった。とにかく大学生からそそっかしく生きてきて、その時期のことはまだ片付いていないのだけれど、ようやく落ち着いて考えられるようになってきた。

「落ち着く」ってどういうことかって、つまらなくなったり退屈になったりすることではないと思う。「落ち着く」とは、冷静に慌てずに判断ができるようになることと、偶然性を楽しめるようになることの2つだと思う。落ち着きがなくては冷静さはないし、「こうしなきゃ」みたいなことに縛られていると偶然の美に気付くことができない。例えば、道を歩いてていて珍しい植物や虫を見つけてその名前を呼んで喜べる人はとても落ち着いているなぁと思う。あとお茶が好きな人も。

前にフランク・ゲーリーの展覧会について「高圧力・高解像度」のことを書いたけれど、有限な時間のなかで世界を高解像度で眺め、高圧力で何かを生み出すには、落ち着きが欠かせない。今年は同僚に教わったヨガの太陽礼拝というのを毎朝地道に続けたり、運動をマメにやったりして、フィジカルに落ち着くことをコツコツやってきたつもりだ。そしてそれはまたしつこく続けて行こうと思う。

年をまたいで人が変わるわけではないけれど、落ち着きを纏うことと、そうして解像度が上がってきた視界が捉えるものを、ちょっとづつ圧力をあげて(一見余計な)提案をしていくのが目指すところです。来年もまたよろしくお願いします。

*関連する記事はこれ
執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫
形、中身、神



2015/10/19

予感、仕掛け、気配 ー《パワースポット》展に行った

仕事にしても何にしても、感じていることを言語化していくことで知恵が蓄積されていくので、このブログはあまり考えず思いのままに書いている。

10月17日(土)の朝に思い切り熱を出して、まぁよくあることなのだけど、休まざるを得ず。ぐったりしていたら夜になっていて、そしたら大量に汗をかいていて熱も下がっていた。

翌日の日曜日は千葉までいって、彼女の実家に行って結婚の申し込みをしてきた。死ぬほど緊張した、というかどうしていいかわからなくなって、お父さんのサポートがなくてはぼくは本題を切り出すことができなかった。優しく晴れた日曜日の午前11時に、言いたいことを言えて、思いも寄らず受け入れてもらえたことが嬉しかった。

自分なんかが結婚なんてしていいのだろうかと不安もあるし、自信もないし、かといって迷いがあるかと言ったらないから、ことが進んでいる。この人と一緒に生活したらきっと楽しいだろ!っていう予感に満ちていて、前途多難だけど家族もそれを受け入れてくれる気配がある。何がこの予感と気配を醸し出しているんだろうなと考えたら、人の意志という仕掛けだろうな。



そして10月19日は、一件打ち合わせを済ませたあと、Atsukobarouhというギャラリーでひらのりょうさん、ぬQさん、最後の手段さんというクリエイターたちによる展覧会《パワースポット》を見に行ってきた。

ひらのりょうさんはこのMVの疾走シーンでファンになった。「君に会いに行く」という詞のリフレインと疾走、どんどん変わっていく現実と会えない距離みたいなのがたまんなくてこの歌のスピード感とあいまってしびれた。



展示は、作家のセンスがどばっと込められたタブロー、ミニチュア、ぬいぐるみなどの間に映像が上映されているのだが、中央に置かれたスイッチを押すと、プロジェクションされた映像とブラウン管のテレビに映された映像と音楽が切り替わる。


そしてスイッチがつながっているケーブルを辿ると「作家の間」というバックヤードにつながっていて、そこで作家さんたちがZINEを増刷したり、フリマをしていたり、赤ちゃんが遊んでいたりする。



こうやってここにあるものを作った人達が裏側にいて、そこにぼくらも踏み入れることができて、ここに漂うものたちによって何かが始まる予感や、動き出しそうな気配が、こうして人によって仕掛けられていることを素朴に感じる空間だった。人がものを動かす、という素朴で不思議なパワーのスポットだった。

物事の間に漂う、何かが始まったり動き出したりしそうな気配が漂う空間には何かが仕掛けれれていて、その仕掛けは人の意志とセンスによってできてるんだなと思った。

2015/10/17

読み語りき、書く語りき

先日のブログ「仕事、生活、読書、運動」で書いた「読書について」、その続きで考えていることがある。



まず、「なぜ本を読むのか」という問いに対して、このあいだは「人生の参考書にしたいからだ」と書いたけれど、もう一つの答えがあるような気がしていること。「なぜ本を読むのか」、と聞かれたらぼくはもうひとつ「読んだことを他人に語りたいからだ」と答えるなぁと思う。読書にたいして「語書」もしくは「書語」って言葉はないのかな?書について語ると。

読書というのは感覚的な体験だ。理論書にしても小説にしても、ぞっとしたり楽しくなったりサクサクと納得できたりわからなくなって頭がぐるぐるしたり、露骨な、あるいは静かな高揚をもたらすものだと思う。ぼくは「体験」は言語化することで初めて「経験」になると思っている。体験はその場かぎりだけど、経験は語ることで幾度となく更新される。それでいて読書は何度も体験できる。

「1冊の本を理解したければ10回読むべし。10回読めば、その本の真意がわかる」とも思っている。10回異なる読書体験をして、10回異なる切り口から語れば、真意がわかるどころか、新しい理論もしくは新しい物語に、読み手自身がつくりかえてしまっているだろう。一冊の本に感化されるなら中途半端に鵜呑みにするな、どっぷり入っちまえ。どうせ作者にはなれないのだし、どっぷり入ったところから抜け出したころには作者でも読者でもない別の自分になっているだろうよ。

あと読書について考えているもうひとつは、目的をもって本を読むことの退屈さだ。本を読むときはなんとなく手にとって読み始めたら止まらなくなる、ということが重要だ。ときには無理して読むことで 快に到達することもあるけれど、趣味なんだからそんな無理しなくたっていい。

不思議なことに読書というのは、ある種の目的というか「◯◯についての知識を得よう」もしくは「◯◯を読んだ、という実績をつくろう」と思って読むと至極退屈なものになる。

目的なく読み始めたものから想定外のショックを受けることがある。これこそ読書の醍醐味で、期待していた知識や心象とは異なる方向に自分の心が揺り動かされ、ここで書かれている内容ってこれやあれとつながるのかもしれない!と、想像だにしていなかったリンクが頭の中で弾ける。この驚きが気持ちがいい。

さて次はなんの本を読もうかな。

*関連する記事はこれ
仕事、読書、生活、運動
自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて



2015/10/05

仕事、生活、読書、運動


mac book proを新調して初投稿。画面はきれいだし、キーボードは壊れてないし、サクサク動くし、最高だ。んで、ただ新しいパソコンで何かしたかっただけで特に書くこともないのだけど、最近考えていることをメモしておく。



1. 仕事のこと。
3年ぐらいかけて、ひとつのリサーチをまとめたいと思っている。子どもの社会参加と今つくっているようなワークショップとこれまでの児童館の活動と、自分のなかでマッピングしたものを外在化できるようにしたいということ。自分の考えの地図と方位磁石をつくりたいと思っている。



2. 生活のこと。
本八幡あたりに引っ越したいってことで昨日リサーチに行ったら街の雰囲気はなんだか素敵だし、葛飾八幡宮はきれいだし、和多屋っていういい居酒屋見つけちゃうしで最高。ホームセンターが近くにあるらしいので、いい本棚とサイドテーブルを自分でつくりたいと思っている。


3. 読書のこと。
小説を読むのは趣味だけど、仕事のリサーチのために読まなきゃと思う本もたくさんある。はてさてどちらを優先させるべきなのか。そもそもなぜ小説を読むのかを考えてみると、結局は「自分自身の物語」を描く方法を知りたいというエゴイスティックな欲求があるからだと思う。「自分自身の物語」には現実や事実じゃなくて思想や空想も含まれるわけで、あらゆる小説が「自分自身の物語」のリファレンスなのだとしたら、ぼくはどの小説を参考にしているのだろう。そのことを知るのはきっと楽しい。

4. 映画のこと。
フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』がまた名画座で上映される。今度こそいかなくちゃ。




5. ジョギングとプールのこと。
運動をすることで体調が落ち着く。運動をしないと、疲れているのに暴れたいような気分になって落ち着かない。たった20分でよい。走るにしても、泳ぐにしても、一つのキックもしくは腕かきで、体がぐーっと前に進む感覚があって、ストン、グー、ストン、グーというミニマルなリズムの繰り返しが体を躍らせ同時に落ち着かせる。フロイトの「快楽原則」もそういえば「不快は興奮量の増大で、快は興奮量の減少だ」って話だ。


6. 仕事のことその2。
何をやるにしてもやり方が雑になりがちなのはぼくの欠点なのだが、10月から下半期に入ったということで、運営の計画を運営しながらつくっていかなきゃいけなくて、それはみんなで出てきてる情報を整理して共有するということの繰り返しになっていく。情報の整理には時間がかかる。少ない時間でいかに冷静に情報を整理するかってことだから、問われる力量。駄馬でも走るし考えるのだ。









2014/06/10

嘘、ロールプレイ、ムード

子どもと日々接するなかで思うことは、彼らは毎日倒錯した欲望にかられていて、嘘をついたり騙したり虚勢をはったり、人と違う姿でありたいと願うあまり他人に迷惑をかけたおしたりして、暮らしている。かと思ったら足並みを揃えたり、先生の言うことをちゃんと守るお手本のような子もいる。

子どもが事実をでっちあげているところに、何度か出会ったことがある。現実って幻想なんだっけ?とそのたびに思う。そっかぼくたちは世界を都合良く解釈して生きてるんだなとか。

ぼく自身にもそういうしょーもない嘘をついてしまった経験はごまんとある。それによってどんよりしていく気持ちを知っている。誠実に正直に嘘をつかずに生きていることの気持ちよさもよくわかっているつもりだ。だから、そういう嘘をつく子には嘘の持つ悪さを伝えたいと思っているし、そうしないほうが気持ちよく生きていけることをわかってほしいと思っているんだけど、そのことを話そうとすると、「先生」と「生徒」のロールプレイになってしまって、彼は「はい」「はい」といって話を聞いている(振る舞いをちゃんとしている)のだけど、ぼくの言葉は彼の心には響かない。「説教」という日常にありふれてしまった場面の再生でしかなくて、そこで交わされる言葉には情動はない。あるいはぼくが情熱的に語ったとしても、説教されモードにすぐ入ってしまって、彼の心は動かない。というジレンマがある。

「一つの嘘を隠すには、約30の嘘が必要だといわれているんだ」

というのは、『約30の嘘』っていう映画のセリフで、それだけしょうもなく罪を重ねてしまうことになっていくし、その小さな重なりは、自分の体を少しずつ重たくしていくし、なんか嫌な臭いがするようにもなってくる。

そうなってほしくないので、彼には何か別の体験が必要なんだなと思う。虚勢のために生きなくても、自分がおもしろいと思うことに没頭したり、自分がいいと思えるものをいつだって信じられるようになったり、そういうことが。それは大人が彼に経験を与えるっていうことじゃなくて、むしろ誰かとの偶然の出会いや関係性の中で開かれていくものだろうから、そういった出会いが彼にあることを願うばかりだ。

そういえば今日の帰りの池袋の構内で、壁に寄りかかって話す男女を見かけた。よくある光景だけど、多分その二人はまだ付き合ってなくて、でもお互いのことを素敵だなと思っていて、それを伝えあおうとしているラブ始まっちゃいましたムードがとにかく濃くて驚いた。

恋愛は顕著だよな、関係性の中で開かれる新しい自分みたいなのと、そこが未知だけど楽しくなっちゃう感じ。とにかく面白くてグルーヴィーな恋愛にはいつだってムードがあるし、それがなくなったら情動の交換のない、停止したロールプレイがあるだけなんだろう

ウォン・カーウァイの『花様年華』はとにかくそのムードを描いた映画だけど、妙に観たくなってしまった。

2014/04/03

わからない重さ、わかる軽さ

ことの終わりが、いくつも、同時に、目の前に現れた3月から4月。2014年度が始まって3日経つけれど、終わりを整理しきれずにいる。

新しい時間を前に、ほとんど白紙の未来が茫々と広がっていて、こんなにも白紙は人をたじろがせるのかと思うほど白紙。

いや、やるべきことはたくさんあるのだ。石神井、中村橋、光が丘、雑司が谷、水戸、丸亀、前橋、奈良・・・いろいろある。ただ、お金のこととか、人と楽しく働いていくためのやり方を学ぶこととか、そういう見通しが立っていないまま再出発をしてしまっていいのか、悩んでいる。

ここ1、2年の、無自覚な空回りと横暴さと、人への無神経さが、招いてしまったいくつもの終わり。さて、やるべきことをやろう、と身体を動かそうにも、驚く程に元気が出ない。

やってしまったことを悔いていて、このさきのことも不安で、たじろいでいて、お金のことも仕事のことも、これまでの経験を活かしてうまく回していける、という自信もなくて、こんなに失敗をしてしまって自分にはもう何もできないんじゃないか、という絶望というほどカッコよくない、みっともなく、いじけたようなモサモサが、元気が湧いてくるところにドサッと重たく蓋をしている。

ということなのだと思う。ということが、わかるだけで、少し気持ちが整理される。蓋になっているモサモサが、少し軽くなる。

わかる

わからない

わからないということがわかる

わからないということがわからない

わからないということがわからないということがわかる

といういくつかの段階があって、何かがわからないときには、何がわかっていないのかがわかっていないんだなぁ、ということを確かめてから始めるといいのかもしれない。そのことに気づくために、いろんな人と話をして、モサモサを軽くし、ついには消し、元気を取り戻していかなくては。















2014/03/14

終わりを遊ぶ、仕事、その後

ぼくが苦手なことの一つに「片付け」がある。あるアイデアを思いついて、ばーっと出して、とっちらかすのは得意なのだけど、そこから組み立てて綺麗に整理したり、片付けをしてもとの状態に戻したり、っていうのが下手だ。それでいつも人に迷惑をかけてしまう。

仕事というのは整理して他人の目に触れられるようにすることや、片付けをして終わらせていくことなのだと思う。アウトプットというのは物事が整理された状態であるものだし、何をいくつ終わらせ、区切っていったのか、という数えられる目安に対してお金がしはらわれるのだなぁとも。

そんな当たり前のことなのだけど、とにかく苦手なので克服しなければと思っているのか、先週、友達の家に遊びに行って、一緒にがーーっと片付けをし、押入れにうまい具合にスペースをつくり、新しい本棚をつくった。我ながら小洒落た本棚ができたとおもう。



終わらせること、については他にもいろいろ考える。たとえば今年の「放課後アートプラン」ではポストンというキャラクターをつくって子どもたちにいろんなアイデアをポストしてもらったんだけど、その役目を終えたポストンが解体されることになった。子どもたちに壊していいよ、というと、喜々としてボコボコにした。ヱヴァ破の弐号機みたいになって、最後は粉々になっていた。



壊す様子が楽しそうだったし、壊すことの意味合いが大人と全くことなっていて、これはあれだ、死体をハゲタカに捧げる鳥葬と一緒だ。人の肉が鳥に啄ばまれて空に散って行く、と考えるのと同じように、モノが子どもに遊ばれて彼らのエネルギーになっていく、と考えれば納得・・・

納得はいかない。子どもにも、慈しみとか感謝とか寂しさとかそういうものを感じてほしいと思ってしまう。が、同時に、人や物事の終わりを受け入れるときに、何かしらの儀式が必要だし、そこにはある種の「遊び」があるんだなぁという発見もあった。



世の中には子どもの工作から公共施設まで、作ることを目的につくられ、終わり方や片付け方がないままに生み出されたモノがたくさんあるみたいだ。終わりをポジティブに捉え、それが終わり、なくなった後の世界を考えるのは、想像力を必要とする。「リノベーション」も「リユース」も、一度終わりを迎えたものを新しくつかうわけだし。その終わりを面白く迎えることは創造的だ。

これまで、とにかく生み出すこと、つくることに血眼になっていたように思う。20代も後半にさしかかって思うことは、丁寧で面白い「終わり」をつくること、片付けることを仕事として据えて、これからをがんばっていこうということだ。



2013/12/26

大きな文脈、規制、OSの設計

12月23日(月・祝) 

アサヒ・アートスクエアで開催されていた山城大督さんの個展「VIDERE DECK」に行く。「時間」を主題にしていたこの展示、オートマチックでループされる12~13分の時間のなかで、子どもが世界を認識する過程、他者に伝えること、刻まれる時間などが描かれる。エモーショナルな、小さな世界とその肯定感はとてもここちよい。敷かれたカーペット、そしてどこから入ってもいい時間のループ。時間とは、直線的につづいてくものではなく、ひとつの円環であり、放射線状にのびる形象なのだなぁ〜とぼーっと感じ入る。

ただ、正直ぼくはこの展示には既視感をおぼえてしまった。どこかで観た/聞いたような感覚というか。見終わって思ったのは、なんかもっとやばくて狂気を感じるものを期待していた。

あと、なぜ今この時代、この場所で、このアーティストの映像や時間、小さな生活についての展示をやる意味があるのか。その言葉がものたりなく感じた。アサヒ・アートスクエアのディレクターの坂田さん、あるいは運営委員会のみなさんの大きく出たステートメントを読みたかった。(というか、それがなかったので、なんだか業界内の報告会のようで居心地が悪かった。)

今、この時代に、この実践は何を問うているのか…。その大きなコンセプト/思想/文脈を語る勇気が、アーティストを扱う場には必要なんだと改めて感じた。


12月24日(火)

この日は児童館へ。前澤Pと、萌ちゃんと、縣さんと4人で児童館の工作室にいくと、イベント開催のためにいつもの居場所を追われたゲームホリック男子たちがうようよと集まっていた。

「はろー」といつもぼくとカードゲームの対戦をして遊ぶ子に声をかけると、「おう、うっすん」と元気がない。聞けば、明日からカードゲームの持ち込み・使用が禁止されるそうだ。理由は盗難があったから。翌日に緊急子ども会議が開催され、そこでゲーム禁止について審議するという。

「これでまたひとつ規制が増えた…」と嘆く子どもの姿に、ぼくはとても悲しくなってしまった。

「新しい大人が来るたびに「◯◯禁止」規制が増えるし、「あいさつをしなさい」みたいな標語も増える。そういうのがほんとにウザい。空気ワルくなるし。だから最近みんな児童館つまんないって言ってるし、実際人も減ってるよ」

と言うのは小5女子。「うっすんだって、ボール握るの禁止にするじゃん」と言われてはっとした。あれはドッジボールを楽しくするために、それはやめて、と言ったのだが、その真意(ボール握らないほうがドッジボールが楽しくなる)というのはあんま伝わってなかったんだなぁ…。

で、4人でその女子グループの話を聞いていると、児童館への不平や不満がこんこんと湧いて出てくる。まぁ実際どっちもどっちというところもあるんだけど、この状況は全然いいとは言えない。職員さんと子どもたちの和解というか、相互に許し合って、いい児童館を一緒につくろうと約束しないと、この状況は変わらない。



12月25日(水)

この日はアージの理事会+企画コーディネーター会議+忘年会。

理事会では、来年度から着手する人材育成事業の内容についてと、自由な活動と小さなリスクを許容する「寛容性の空間」をつくるためのルールや合意の場の形成をしなければならないということを話した。そのためにプログラムを組んでいく。

子どもたちが自由に活動をするための、子どもと親、地域住民、児童館職員などそれぞれが合意していく場。そのうえで、子どもたちが自由に素材を使って創作を楽しめる環境をつくる。これはいわば、合意の場があり、ルールを生成し、素材の開放・企画立案を可能にする"OS"。そこに様々な表現の技法をもちこむ"アプリケーション"の導入。あるいは、立法・行政・司法のミニマルで創造的な形であるともいえる。

企画コーディネーター会議では、おのおのの現場で感じていた「毒」をばーっと吐き出した。児童館(あるいはその背後にある社会)が子どもにかけてしまっている規制のこと。「居場所」とその「排他性」のことなど。

来年の企画もまた、一筋縄ではいかないだろうと思う。








2013/07/22

子どもの文化環境、風穴、空気の入れ替え

自分が考えていることを、ばーーーーっと吐露したくなることがあって、このブログはそういうときのためにあります。考えがまとまらないとき、仕事のやり方に迷っているとき、どばーーーーっと言葉にすると、ふっと突き抜けるときがあったり、なかったり。

まず、いまやってるNPOの仕事で「子どもの放課後の文化環境をつくる」と言っているのだけど、具体的には何をどうやって!?という話。児童館にアーティストを呼んで、そこから作品が生まれるようにする、というのはこれまでやってきた活動だけど、この活動をインストールするだけの、合理的な仕組みがまだない。ぶっちゃけていうと文プロのプロジェクトとその予算と児童館職員のみなさんの良心におんぶにだっこで企画をやらせてもらってただけなのだ。これまでの恩を返すためにも、よりよい児童館運営に貢献したいし、文プロの「NPOを育成する」というミッションに叶うように自立したい、と思ってる。でも、どうやって?というところであがいてあがいて、という今。迷いもあるし、失敗ばっかりで、自分でも大丈夫かなと心配になる、ということは周りにも不安を蔓延させているのかもしれない。

大局を考えると、昨日の参院選の結果を見ても、自民党の改憲案を見ても、国の教育方針が右寄りになって、教育はますます学校偏重になっていきそうな気がする。このあいだドイツに行ったけど、ドイツは学校が昼前で終わるから、放課後の教育環境の充実は必須。いわゆる生涯学習とか社会教育とか言われるような場所や施設がたくさある。もちろん児童館も劇場もその一つ。日本は授業時間がどんどん延びていて、習い事に通う割合も増えている。学校が終わっても「時間割」は続く。塀に囲われて、やることなすこと指定されていく。そうなったら、放課後ののびのびした遊びと異質なものと出会う自由の時間はどこへいくのか。児童館は、塀と塀の間にある、習い事と学校と家の、ごくごくわずかなスキマになりつつある。そのスキマからどこに導けるか。子どもを囲う塀に風穴を開けられんのか。

が、児童館以外にも放課後の行政サービスはたくさんあって、学童保育や授業後の教室や校庭を開放する「放課後子ども教室」、ほかにも区民館や図書館も、「放課後の居場所」だ。この中で、通う義務がなく、なおかつ「子どもの放課後の居場所」に目的が特化しているのは児童館だけだ。図書館は通常の図書貸出業務+子どもの居場所。放課後子ども教室は通常の授業+放課後の居場所、というように「+放課後」というのが施設の基本。そのなかで児童館が何を担えるのか~というのも気になるところ。

でも、これは小学生に限定した話で、児童館の対象年齢は0~18歳なので、「未就学児とその母親(0~5歳)」と、「中高生(13歳~18歳)」という対象もある。というか、今後はこの2極がメインになろうとしている。

普通に考えたら、この幼児と中高生対象の施設って、おかしなことになる。中高生が全力でバスケで大暴れしている横で、ヨチヨチたちが遊んでいるってこと…!?なんてカオス。幼児向け、中高生向け、と時間を区切って運営するならわかるけど、それを同じ職員が企画をつくって運営する、っていうのも大変だ。

オランダも日本と同じように、学校が夕方までガッツリ。でも、中身がぜんぜん違う。誕生月で学年が変わるからたえずクラスの人が入れ替わるし、授業も時間割にしばられないプロジェクトベースなものばかり。ぼくが会った子は今、みんなで演劇をつくるプロジェクトの最中らしい。学校が解放区的にうまく機能している印象。もちろん、オランダの教育システムにも、保護者がたくさん協力しなきゃいけない、とか、学校の先生が忙しすぎて鬱になりがち、とか、いろいろ大変だという噂も聞く。

日本でも三鷹市などが「コミュニティ・スクール」を推奨して、地域住民が学校運営に参加するシステムをつくりだしているみたいだ。NPO法人アフタースクールは、放課後子ども教室のなかで「市民先生」として住民による授業を実現した。大工さんが秘密基地つくったり、生花の先生がめちゃかっこいい花の生け方教えたり。学校が地域コミュニティをつくり、地域コミュニティが学校をつくる。この理念は素晴らしいし、ぜひもっとよい実践をつくりまくってほしい。

しかし、「学校」という枠組みとそのオルタナだけでは、子どもたちのほとばしる欲求は満足されない気がする。図書館でも、放課後子ども教室にしても、大人が子どもに何かを教える/見守るという構造は変わらない。ぼくが子どもの頃に嬉しかったのは、大人として扱ってもらえるふとした瞬間であり、子ども向けに用意されたものでない文化に触れたときだった。例えば、ゴジラ映画の制作の裏側を知ったときで、近所の大学生にエロのことを教えてもらったときで、ミシェル・ゴンドリーのPVに震えたときだった。ぼくを「子ども」として閉じ込める塀に裂け目をつくり、そこから吹き込む風に触れ、その向こうに広がる別の景色を見た時だった。

「子ども向け」のあらゆるサービスは、時に彼らを「子ども」の枠組みに閉じ込める。子どもに向かうのではなく、子どもが向かう先を目指すような、そういう時間をどうやったらつくれんのかねえ。と、このことをうまく言えずに、ここまで来てる。というか、本当に面白いものは、子どもも大人も震えるのだ。 エロとか、ミシェル・ゴンドリーとか。「対象」を定めて、そのカテゴリーの人だけが楽しめばいいのか、いや、そうではないだろう。

とにかく、放課後という草原が、どんどん目的ごとに区画整備され、自由な余白を失っていく。空間的にも、時間的にも、そして空気的にも!!!!子どもが遊ぶ声が騒音になることや、アレルギー、食中毒、まちなかをうろつくナイフを持った若者、切りつけられたとウソをつく子ども、インターネット犯罪、個人情報の漏洩。あらゆるアラーム鳴りまくりの厳重警戒区域になってる。

そんななかに、ボスッと風穴を開けて、空気を入れ替えたいと思う。表裏をひっくり返すように、厳重警戒区域を一瞬だけでも虹色レインボーにしたいと思う。

最近ぼくは貧乏人のくせに子どもがほしいと思っていて、だけどこの空気の中で育てんのはなんかやだ、と思う。ほとばしる命のかたまりが、この空気の中でブスブスしてしまうのは耐え難い。


と、こう書くと「なんかやだ」がモチベーションってことになるんだけど、実際そう。でもそれじゃぁ共感してもらえないし、建設的じゃない。「こうしたらもっとよくなる」という理論の組み立てが必要なことはもちろん、なにより自分の気分が虹色レインボーを求めてなければそうはならないのだ。

あああ、なんかもっと楽しいことしたい!!!!がぼーーーん!!!!

2013/05/18

解除するには「笑い」が必要


中村児童館でボランティア

今日は15時から18時まで、中村児童館でボランティア活動をした。ボランティア活動、っていう言葉自体がかなりへんてこりんっていうか、ほんと好きなように遊んでいただけだった。

今まで、なにかしら別の目的を持ち込んでいた自分にとって、児童館のボランティアという経験は意外としてなかったことに気づいたし、その視点で遊んでみるといろんなことに気がつく。

たとえば、

職員さんはコマやファイヤースティックなどの大道芸の練習を積んでいて、かなり上手い、

とか、

大人が率先してコマ回しとかやってると、子どもが真似したがって、みんながやる。で、最初にやってた大人はすっと抜けて、別の部屋で、別のことで何かを焚きつけて、また次にうつってる

とか、

いつもピーピーうるさい元気すぎる野鳥のようなあの子は、色彩感覚も抜群にいいが、ダンスも上手いし天使のように楽しそうに踊る

誰も大人がいない工作室では、5年生が3年生からカードゲームのカードを巻き上げようとしてる、

とか、

ぼくが隣にいても、気づいてないだろうとグイグイ攻撃する、

とか、

そういうナメた空気が醸成される要因は何かありそうだ、ふーむ

とか。

アージのスタッフとしては、「プログラム」とかいって理屈をこねることよりも、現場の「空気」をよくよく読み込むことを重視すべきだ。当然ながら。

あと、やっぱり快快の企画などで過去に一緒にイベントをやったことがある子とは、少し関係性が違う。共有しているモノが違う、っていうかそりゃそうだ。信頼関係や共通の思い出から、新しいなにかをつくろうよ!という空気が生まれる。そういう意味では、「祭り」はやはり必要だと思う。

Y時のはなしには出演していなかったけど、Nadegata の映画に出てたTくんとはちょっと特殊な、2人だけの遊びがあって、

ぼくがTをつかまえて、両腕をつかみ、片足を胴に巻きつけて「ロック」をする。
「なんだよ!」とTがいうと、ぼくは質問をする。たとえば「今日一番うれしかったことは?」とか。でそれが面白いと「ピンポーン」といってロックを外し、つまらないと「ブブー」といってロックをきつくする。もうこの遊びを続けてかれこれ2年か…w 

会うとかならず「は?だれだよおまえ、さわんなよ」と減らず口を叩いてから、「ロックしてみろよ」と挑発してくる。変なやりとりだよな。



今日の「ロック」の質問。

う:「今一番ほしいものは?」

T:「えー、うんこ」

う:「は?なんでほしいものなんだよ。」

T:「え、友達になげたい」

う:「は?」

T:「友達に投げたいの!」

う:wwww 「ブブー!」

T:「まじかよ」

う:「はい、今一番ほしいものはなんですか」(ロックをキツくする)

T:「えー、ちんこ」

う:wwwwww「は!?ちんこ一個あるだろ!」

T:「え、だってもう一個ほしい」

う:wwwww「ピンポーーーーーン!」

はーうける。理由の一個一個に創造性が見受けられるから、この遊びは彼とやっていて楽しい。

2013/05/14

諦められない面白いこと

今日は、『Y時のはなし』のDVDの編集をお願いしている鈴木佐衣子さんとミーティング。時間はかかっているけれど、少しずつ少しずつ、形になっています。

昨日は、「アートコミュニティの形成 廃棄/モノづくり/コミュニティ」のレクチャーにいってきて、ナカダイの中台澄之さん、FabLabの田中浩也さんの話を聞いてきて、知的興奮にあふれたのち、こどもまつり終了後の三原台児童館の打ち上げにおじゃましてきました。

レクチャーの知的興奮のことはまた後日書くとして、なんで三原台の打ち上げに混ぜてもらったのかというと、お世話になっているカバちゃんと話したかったからで。カバちゃんは、ぼくが初めて東大泉児童館にいったときに担当職員だった方で、あと3年で還暦を迎える超ベテラン職員。その彼に、最近の心境の変化を報告しなきゃ、と思って。

館長から、先日の館長会でのプレゼンには「横文字」が多くて、カッコつけるな、と注意を受けました。それに付け加えてカバちゃんからは、「臼井くんの言葉を、児童館の言葉に翻訳しないと、伝わらないしもったいない」と。ぬあーーーーたしかにカッコつけてたっていうか、なんかもうまとまらない方向性をとりあえずつくろった借り物の言葉になってたかも…!と思って、ぬあああーーーー!と内心思いながら。

それでも、なかなかどうして諦められないことがある。から、いまこの活動をしてる。それはなにかというと、ぼくは子どもの遊びの風景がつまらなくなってしまうことが、たまらなく哀しい。

子どもだけで遊べる場所が少なくなって、大人のサポートが必要だから、公共がその役割を担おうじゃないか!と言って40年ぐらいまえにたくさんつくられたのが児童館。大人が率先して面白い世界に子どもを誘う、まるで異界の門だった児童館に対して、幼心にぼくはそのトキメキを憶えている。

しかしまぁ世間の目は優しくなくて、個人情報、アレルギー、トラブル、匿名のクレームなどなど、楽しいことしようっていう気持ちを萎えさせる波状攻撃は、ソフトに、しかし確実に、チクチクと、職員たちのやる気をそぎ落とし、いろんなことを「できない」構造へと取り囲んでいった。

でも、ぼくは、ナメんなって思われるかもしれないけど、職員と、子どもと、保護者と、地域の住民とが「そういうことやったら面白いかもね」という予感を共有していって、もし何か起きたときは責任を共有しようと相互に承認し合いながら、モクモクと面白い出来事が沸き上がって弾けて散らばっていく様を見たい。どうしてもそれを諦められない。若いねとか言われても!知らんわ!確かに若いけどもう26だからそこまで若くもないわ!

大人が面白いことを諦めて、子どもがその姿をみて、あーあと思いながら、世界の広がりはゲームの中だけで感じられる。全然夢とか希望とかなくね?

別に夢や希望をもってみんなで頑張ろう!みたいな気持ちはない、っていうか一つの理想や夢をみんなで共有する時代は完全に終わって、それぞれ見てる夢が違う時代になってるので、みんなで頑張るって行っても方向性バラバラで、まとまったとしても一時的じゃんそれは。でも、一時的にでもぐわっと盛り上がる瞬間をやっぱり美しいと思ってしまうし、その盛り上がりが冷めた夢の跡には、次の予兆がどこかでもう始まってるし。

とにかく「面白さ」というのは、予想を超えたことがおきたときに生まれるもので、はっとする驚きの中にこそある。しかしまぁ悪い方に予想を超えると怪我とか事故とかトラブルとかになっちゃうんだけど、「こんな面白いものに出会えると思ってなかった!」という予想を超えていく躍動感が、子どものいる環境にあってほしいものです。

もうもはや「遊びがつまんなくなってなんちゃら」とか言ってる場合じゃなくて、考えるべきは「文化」のこと。それは狭義の映画やら演劇やら音楽やらのことではなくて、人との関わり方や、働き方や、生き方のこと。40年前にできた社会システムは老朽化してるんだから、それにしたがって生きてたらしんどくなるのは必須。でも法律とか制度とかは簡単には塗り変わらない。でも空気は変わっていく。湧き上がる欲動というか、民意というか、人びとのあんなことやこんなことをしたいという気持ちがつくる文化のほうが健全なわけで、法律とか制度はそれを抑止するべきものではない。そのエネルギーによい流れを与えるもんだろう。

児童館というのは、もろもろの制度と、子どもたちの遊びの欲動と、ちょうどその狭間にいる。制度の側に立って子どもを規制するか、子どもの側に立って制度を批判するか、そのどっちでもある。だから面白いし、そのへんてこなポテンシャルを、諦められない。

はーなんか熱くなって書いてしまいました。ちゃんちゃん。







2013/05/06

ゴールデンウィーク、空港へ

5日からりのさんが3ヶ月ヨーロッパへ行く、というのもあって、ゴールデンウィークの後半はりのさんの実家でのんびり過ごしました。ここ3年毎年香川県にワークショップをしに行っていたけど、今年はそれはなし。


3日は代官山のUNITで、やけのはらさんのリリースパーティ―へ。Brandit Brauer Frickのライブ以来だから1年ぶり。あんまりクラブとかにいくわけじゃないんだけど、UNITは一番言ってるハコかも。


やけさんのラップは、「オレはネクストレベル目指すぜ mother fxxker!」的な激しい自己主張ではなくて、出来事をひたすらに描写することで個人の生きることとそれをとりまく環境とが混ぜ合わさった爽快な物語を歌いあげてる感じ。

その一方で、

「普通じゃないものに今でも夢中さ」

とか、

「こんな毎日になんて名前をつけよう?こんな瞬間になんて名前を…」

とか、

名前のないものや、わからないものへの愛に満ちてる。決してメインストリームではないけど、いろんな面白い挑戦をしていて、今後も目が離せないやけのはら氏。

でも、べつに個人の感情を激しく吐露するラップも嫌いじゃなくて、最近観た『サイタマノラッパー2』のラストでは号泣してしまった。


群馬のとある町を舞台に、女子たち5人が高校の頃のラップグループを復活させようとする話なんだけど…

HIP HOPに憧れて、「Say Hoooo!」って言ったり、「◯◯生まれ、ヒップホップ育ち!」って言ったりして、大きなステージに立つ夢を見て…みたいな青春ストーリーなんだけど、20代も後半になり、友達は多額の借金かかえてたり、働いてたソープ店がつぶれたり、お父さんが市長選に落ちたり、ことごとくうまくいかないことつづき。郊外の閉塞感のなかで、途方にくれたなかで、最後に轟く女子たちのラップがたまらない。


そんで昨日は成田空港に見送りに。そこでふと、なんでぼくは一緒にヨーロッパに行かないんだろう?と疑問を覚えてしまった。ぼくはまだ世界のいろんな面白いモノを知らないのに、なぜそれを知ろうとしないんだろう。いい機会なのに。



さすがに3ヶ月も行く必要はぼくにはないけど、別に、何かにとらわれる必要もないのだ。毎日出勤しなきゃいけないわけでもない。書類仕事やミーティングなどいろんな約束事はあるけれど、やる気次第で自分のペースで片付けていける。いろんなことできる可能性があるのに。



さて、5月頑張るか。




2013/03/16

別の夢を見る子どもと出会う







‎3月16日(土)、17日(日) 「小金井アートフルアクション!」のシンポジウムに出演させていただきます。16日は、東京学芸大学でデザイン教育を実践されている正木賢一先生と。17日は、多彩なゲストのシンポジウムに。今年度の《Y時のはなし・イン・児童館》や《放課後メディアラボ》の活動紹介、児童館という場所の可能性について話をする予定です。

お時間があるかた、アートフルアクション!にご興味をお持ちの方、ぜひぜひご来場ください。なお、16日は13:45から山本高之さんと、Art Center Ongoingの小川希さんのトークも!こちらオススメです。

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3月16日(土)session 7 [16:00-16:45]

放課後のユートピア
―児童館というコミュニティ

 臼井隆志(NPO法人アーティスト・イン・児童館理事長)
 ×正木賢一(東京学芸大学准教授/NPO法人アートフル・アクション理事)

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3月17日(日)session 12 [18:15-20:15]

アートが学校にはいるとき
―芸術文化活動と地域社会の今後

[挨拶]稲葉孝彦(小金井市長)
 港大尋(作曲家/ピアニスト)
 臼井隆志(NPO法人アーティスト・イン・児童館理事長)
 鎌田尚子(小金井市立南小学校図工科教諭)
 鉄矢悦朗(東京学芸大学准教授)
 正木賢一(東京学芸大学准教授/NPO法人アートフル・アクション理事)
 森司(東京アートポイント計画ディレクター)
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ということで、今プレゼン内容を考えているところ。明日の1時に小金井、ということは12時には電車に乗らなきゃ。

プレゼン内容を考えるにあたって、これは話したほうがいいかな〜と思っているのは、こういうふうに子どもと何かやりたい、と考えるようになったきっかけのこと。よく聞かれるし、自分でもなんだったけってよく思うから。

以下、回想。

高校2年生の頃に腰痛で走れなくなって(陸上部だった)、そのころまでは大学でも陸上を続けたいと思っていたけれど、腰痛で限界を知って、それまで好きでいつかやりたいと思っていた映画製作の仕事を目指そうと思った。それで、美大に行こうと決意した。

子どものことを考え始めたのは高校3年生のとき。友達と将来なりたい仕事の話をしていたときに

「おれは慶応の法学部にいって弁護士になる」とか
「埼玉大にいって先生になる」とか
「立教の経済にいって銀行で働く」とか

立派な将来を語っていて、すげーオレ具体的にそんな将来像ないわ…って思ってビビったんだけど、そのとき強烈な違和感を抱いた。わかるけど、なんかそれってほんとにお前の言葉なの?って思うような、変な感じ。

なんか大人たちが想定したわかりやすい「未来」とか「社会」とかいう幻想が憑依して、彼らにそういう言葉を語らしめているような、そんな気がしてすごく不安になった。

みんな将来の夢語るときは、ゾンビになっちゃうんだ!おれはこんなふうになりたくない!いやだー!みたいに思って、当時の彼女に友達の批判を言っていた。(今思えばよく聞いてくれたよなあんなきつい話…)。

で、その頃だ。子どものことを考え始めたのは。彼らにそういう幻想が憑依していったのは、一瞬ではなくきっと長い時間をかけて、だ。これは何か幼少の頃に原因があるのかもしれない…。ん?ていうかもしかして、これが「教育」の成果なのか・・・!?と思って、がびーーーーん!!!!!と頭の中で何かが炸裂したような感覚になった。

自分の意志や欲望が、社会のそれにハッキングされて、意志を失った言葉が身体を支配していくような、そういう恐怖を感じた。これは、そうじゃない子ども、つまり、自分の意志を持ち、社会の期待を裏切って、別の夢を見る子どもに出会わなければ、出会いたい、と思ったのが高校3年生の頃だった。(自分自身が17歳とかで、不安定きわまりないにもかかわらず)

子どもたちが何か「共通の夢」を見させられようとする。これが「教育」なるものなのか。もしかしたらそうかもしれない。「別の夢を見る」そのためには何か方法が在るのかもしれない。

そう思っていたときに出会ったのが、アートだった。美大に行こうと思っていたぼくは美大受験のために予備校にかよったのだけど、そこで出会ったヘンテコな人たちはヘンテコで、出会ったことのない変な欲望を持つ人達だった。今でも一緒に仕事をさせてもらっている西尾美也さんは、このとき予備校の先生をしていた。変で面白いな〜と思ったけど、自分がアーティストになる、というのはなんかちょっと違った。で、そんな気持ちで芸大の先端を受験したら落ちた。超落ち込んだしふてくされた。(ちなみに半年後に慶応大学の環境情報学部のAO入試も面接までいって落ちた。)

浪人していた年、ビル・ビオラの個展が森美術館でやっていた。1人で初めて美術館に行った。人間が水に飛び込む姿を逆再生していたり、大量の水を浴びるのをスーパースローで再生したりして、人間の身体を幻想的に描き出す作家で、その作品にずいぶんと見入ってしまった。そこに「別の夢を見る」そのための方法のヒントがある気がした。しかし、それは答えではなかった。

アートって超面白いけど、なんだか「インスタレーション」とか「サイトスペシフィック」とかっていう美術用語がすでにあって、その文脈をズラしたり更新したりするためのもので、具体的に教育に介入してる印象はあんまりなかった。

教育系でワークショップを実践している団体や個人のもとで、ワークショップのお手伝いをいろいろとさせてもらった。目的と方法を完璧に落としこむ、戦略をそこで学んだ。いま思えば、ここで進行表の作り方や、企画の立て方、目的と方法の一致のさせ方など、かなり実践的な事を10代のうちから学ばせてもらっていた。今でもお世話になった方々にはすごくすごく感謝している。

しかし、そうした経験のなかで思ったのは、「子どもってこういうもの」っていう想定をすでにしていないか?ということや、「ワークショップ」というイベント自体が美術館や特定のスペースで開催されていて、保護者が電車や車で子どもを連れてこないと子どもは参加できない。つまり、子どもが自分の意志でワークショップを選択しているとは必ずしも言えない。大人の都合の中で展開していて、ぼくがびっくりするような「別の夢をみる子ども」には出会えないのだ。そういう子がいたとしても、変な奴として変なやつ扱いされている。アートだとか表現だとか、変なことに価値がある場所なのに・・・!

子どもが自分で選択して行ける場所で、なおかつアートというか表現活動が入り込めそうな場所…ということで自分の経験を思い出したり人に相談したりしているうちにいきあたったのが、児童館だった。

このとき、大学1年生。1年浪人してるから、20歳になる年。

あれからもう6年。

「20歳のころからやってる方法なんて、もう通用するわけないじゃん。別の方法に変えるべき時期なんだよ。そういう時期って一気にくるんだよ」

と、今日りのさんに言われた。変化しなければならない。ここで変化できなければ、終わるだろうな本当に。

で、「別の夢を見る子ども」には出会えたのだろうか?

うん、たくさんいるなぁと思う。彼らが描く絵や、書き間違えた言葉や、時折言う大人味たいなこと(を言おうとして変な言い回しになってること)を聞くと、ほっとする。ああ、こういうところにいくつもの別の夢がある。早くから社会が見る夢に憑依させられてる子どももいて、大変そうだなと思うけど、まだ取っ払える。一度取っ払ってから、あえてその夢に乗ってみよう、と思うならいい。

彼らがみている別の夢は、社会が未だ必要だと思っていない、未知なる知性。そこに形が与えられ、社会的な知性になっていく変化の過程をみること、つくりだすことが、アージをやっている喜びだ、というとなんか抽象的だけど、うまく言えないから難しくいうとこういう感じだ。

さっき「アートって…」と批判めいたことを描いたけれど、アーティストも別の夢を見て、そして社会にそれに共感し、協働する人と共に、未知なるものを新しい知性として提示する。だからぼくはアートを尊敬しているし好きだ。

子どもとアーティストの方向性は同じだよね、ってみぃちゃんが昔言っていて、すごくはっとした。はたから聞いたら耳タコな言説かもしれないけれど、質の違う響きだった。

あーなんかこの感じ、うまく伝えられないかなぁ。
明日のトーク、うまくいくかなぁ。



2013/03/11

自分たちの仕事、ムーンライズ・キングダム

今日は午前中から調べ物。確定申告、間に合わせないとやばいやばい。NPOの経理の方法を確認して、明日に備える。

プレスリリースをつくったり、製作中のマガジンにコメントしたり、《放課後メディアラボ》の仕事をこなし、あとはメールを返しまくったり、いろんなこと考えたり。

夜は、制作中のアーティスト・イン・児童館のパンフレットについてのミーティング。新しい事務所に、デザイナー、ライター、編集者がそろう。確認がメインだったけど、ひとつひとつこうやって顔を合わせて確認していく、これはすごく大切。

ちょっと不安なことが2つあって、こういう印刷物を丁寧につくっていくということなのだけど、ここにNPOの理事・会員、そして児童館のスタッフが入っていないことだ。「自分たちの印刷物」をつくるという感じに、今回は持って行けていない。事務局が使えるものを、このコストを掛けて作っている、という感じだ。プロジェクトにするなら、NPOの理事・会員、児童館スタッフが「自分たちの印刷物」になるための、合意形成の過程を踏んでいかなきゃいけないと思う。それはすごくすごく時間のかかる作業なのだ。



ところで昨日見た映画『ムーンライズ・キングダム』がとってもよくて、泣けた。とある島で、問題児の美少女と、問題児のボーイスカウトが駆け落ちをする。内容は子どもたちの自立と戸惑いの物語なのだけど、大人の世界と子どもの世界の境界の描き方が、ギミックが効いてる。

飲みかけのミルクの入ったグラスに、ビールを注いで飲む、とか
ボーイスカウトの隊長も普段は算数の先生をしている、とか
釣り針にコガネムシをつけてつくったアクセサリー、とか
シロツメクサの花束とか

ワンシーンワンシーンの精度がやばいなぁと思う。これだけの美意識を統率してやったチームに、本当にすごい。映画って本当にすごいですね。自分も、業種や形態は違うけれど「クオリティ」を問われるチームの一員だし、そのリーダーを任されているわけなので、産みの苦しみを人一倍味わわねばならぬはずなのだ。ホント最近がんばりどころ。




2012/10/11

時間をつくる、意志

人は「時間が・・・」というときに「時間がない」「時間があれば・・・」というけれど、時間とは人の意志でつくりだすものであって、あらかじめ定められているわけではないということ。

誰かに会いたい、とか、どこどこに行きたい、とか、そういう意志があって、はじめてその場所に行ったり人に会ったりすることができる。これは、他の予定を押しのけてでも時間をつくるっているわけで、時間があるから(暇だから)というわけでは決してない。

ただその選択肢が過剰になりすぎて、どの選択肢も悪くないんだけど選びきれない!という場合もある。そういう時に人は「予定が合わなくて」「時間がなくて」と言う。

しかしそれは、そこに行くことを選ばなかった、という自分の過去の決定のせいなのであって、誰かが決めた予定によって妨げられたわけではない。全部自分で決めているということ。時間は全部自分でつくっているということ。

何故こんなことを書くかというと、最近ぼーっとどこかへ行く事が増えて、何か考え事をしたり書物をしたりすることが随分と減ったから、それは一体なんでだろうと考えた時に、動きたいという意志があり、動くために時間をつくろう、という気持ちがあるからだと気づいたからです。

2012/09/30

約束、あるいは願いごと

子どもたちと、「約束」をすることが多い。

「来週の金曜日、アニメつくるから来てね」

「8月の20日にファッションショーやるから、絶対来て!」

「わかった、金曜日ね。来たらポテチおごって。」

こんな会話を児童館ですることがよくある。

「約束」というのは「願いごと」に似ている。願い事は、それが叶うかどうかはわからない。誰かが叶えてくれるわけでもなければ、自分の願うことがすべて実現するわけではない。豊穣な選択肢の中で、お互いの意志の交わるところに、「約束」と言って想像した未来が形になって現実になる。

こちらはプロジェクトを成功させたい一心で活動をしているけれども、子どもたちの放課後には「習い事」や「家族の用事」や、友だちとの別の約束や、さまざまな選択肢にあふれている。その中から、このプロジェクトに参加することを選ぶ、というのは気持ちの強さと、そこで関わる大人への信頼を要する。

安易な約束は、苦々しい義務を生むだけ。信頼関係と、楽しそうなものへの期待のもとの約束は、心強く、心地良い。いい約束をし続けたいと思う。


2012/04/16

法人、血肉、働き方

気づいたら10日もブログをさぼっていた。新年度に入って働き方が変わり、まだなれない感じである。ゴールデンウィークに香川でワークショップをし、その直後にバンコクに遊びにいくことが決まっていて、4月中にやらなきゃいけないことがたんまりある。

今年度から、高野萌さんに専属スタッフになってもらった。彼女は去年のことばのかたち工房Proからの付き合いで、その後のアー児のプロジェクトももろもろサポートしてくれている。ぼくの働き方(?)はたぶんむちゃくちゃで整理されていないので、多分戸惑っているとおもうのだけど、スイッチが入ったら猛然とすすむタイプなので、その時を待つ。

それはさて置き、自分の生活環境を整えていく方向で、活動をしていかにゃなぁと思う。NPO法人をつくったら、税金関係や保険関係もうまくいきゃそっちで全部できるわけでわざわざ個人でやらなくて良くなる。「法人」とはやはり人造人間なので、逐一メンテナンスしてやらないとすぐに血肉が腐りそうな感じがするのだ。

2011/12/11

ゲームの作り手、プレイヤー

今日の夜はジョギング。8km 36分30秒。最近、走った距離や消費カロリーなどを記録してくれる「NIKE +」というサービスを使っています。iPhoneとセンサーを同期して、距離やペースを測ってくれる。

iPhone「現在1km4分50秒ペース」
おれ「やべっ!ペースあげよう」

みたいな。とか音楽をかけながら、ペースを確認しながら走れるからいい緊張感をもって走れるわけです。一定の走行距離を走るとレベルアップしたり、「12週間後に10kmが楽に走れる様になるトレーニングメニュー」を作ってくれたりして、ある課題をクリアしながら楽しみながら体を鍛えることができる。さらには「365日間で誰が最長距離を走れるか!?」というコンペティションを自分でつくったりもできるわけです。

最近流行している「ゲーミフィケーション」の事例の1つなわけですが、シューズやウェアーなどの商品との連動や、市民マラソン大会との連動など、これがまたうまくできている。NIKE +というゲームの仕組みに、いろんな方法で参入できちゃう。

裏を返せば、これはネットを介した相互監視システムの事例でもある。開かれたゲームの世界が現実を動かしていくし、調整している。本当に「ゲームばっかしてないで!」みたいな説教文句が意味を成さない世界になってきた感じがあります。誰もがゲームのプレイヤーであり、ゲーム自体の作り手にもなれてしまう。これは面白いですね。

2011/11/20

マネジメントを学ぶなら

デザイナーやアーティストになるのではなく、その周辺でのマネジメントを志す人達が増えている気がする。ぼくもそのうちの一人だが、これは「アーティストが面白いことをするのをそばで見ていたい」「ものづくり(ファッション、音楽、アートetc)の現場に関わっていたい」という素朴な動機から始まる場合が多いだろう。ぼくもそうだった。

マネジメントは観客でも単なる現場スタッフではない。自分の頭で企画を考え、相談・交渉し、自分の足で現場を動きまわって、自分の手でアーティストが活動できる場をつくりあげる責任者だ。だから、つくり手の感覚で動いている。

マネジメントを学ぶなら、どんな小さなものでもいいから、コストを掛けて生産してみるのが一番効果があると思う。自分で企画を立て、人に相談し、資金を集め、実施し、記録し、まとめをつくり、発表し、そしてそれを発展させる、という一連の流れ。

なんか最近やることが大きくなりすぎているから、極小のものを丁寧に作る作業をしてみたい。いや、それの積み重ねでしかないはずなのだが。