「社会にでたら理不尽なことをたくさん経験しなきゃいけないんだと思うと、怖くて足がすくむ・・・」みたいなことを大学生の友人が言っていて、そりゃあそうだよね、と思う。ぼくも何度か理不尽なことを経験したし、よもや信頼していたものが理不尽さに姿をかえることもしばしばあった。
「未知のものやわからないことを前に、どう見通しを立て、行動するか」ということが大事、みたいなのはよく言われることだけど、「未知」とか「わからないこと」ってどことなくロマンチックで魅力的なものだ。たとえばこれを「理不尽さを前に、どう見通しを立て、行動するか」と言い換えたら、とたんに現実味が出てこないだろうか。
「未知のものやわからないことを前に、どう見通しを立て、行動するか」ということが大事、みたいなのはよく言われることだけど、「未知」とか「わからないこと」ってどことなくロマンチックで魅力的なものだ。たとえばこれを「理不尽さを前に、どう見通しを立て、行動するか」と言い換えたら、とたんに現実味が出てこないだろうか。
「理不尽さ」って、責任をなすりつけられることとか、根拠もわからないまま無視されることとか、いろいろだと思う。それってやっぱ超怖いし、嫌なものだ。でも同時に、何か新しいことをしようと思ったら付きまとうものでもある。なくていいものでもあり、ある種の条件でもある。理不尽さ。
どんな姿をとって現れるかも予想できないし、こんな感じかなと思ってたらそれを裏切ってくる。理不尽さは姿が見えないし、理性的だと思っていたものが理不尽さだったりするからさらにやだ。
でも、幾度となくそういうものに出会っていると、なんとなく、あ、またか。と、思えてくるのだろう。そうなれるまでが大変で、だから20代という時代は苦渋の時代なのだと思う。
がんばれ若造、というキャッチコピーがかつてあった。理不尽さを前に、ふんばれ若造、と、自分に向かって言いたい。
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